第3話 イスプ邸
「エート様」
屋敷に仕えるただ一人のメイド、ナターシャが"エート"に声をかける。
「はい?」
「御夕飯ができました」
「あ、はい。ありがとうございます」
エートは本を置き、部屋から出ると食卓へと向かう。
「エート君。どうかね?理解できたかね?」
食卓には既に座っている男は、この館の主。
イスプ・シュルスタイン。この街の下級貴族である。
「……はい、社会基盤については理解できました……」
「此処に来てからまだ7日だと言うのに、凄いなぁ」
そう、此処に来たのは7日前。この世界に移転したあの日だった。
「やぁ、君がエートだね」
ヨハンに連れてこられたのは屋敷……と言っても少々ボロかったが。まぁ、屋敷だった。
屋敷の主は、イスプ・シュルスタインという地方の下級貴族の男で、周りからは変人と呼ばれているとヨハンから聞いた。
「神父から話は聞いてるよ。まぁ、入ってくれ」
「ん?君。君はいいのかい?」
ヨハンは分かりやすいつくり笑顔をする。
「だ…大丈夫です。ハイ」
「そうかい。神父に宜しく頼むよ」
「アッハイ」
ヨハンはどうにもこの男、イスプが苦手なようだった。
「さて……」
「神父から概要は聞いているが……」
屋敷の中は外見とは違い、非常に手の行き届いた居心地のいい場所だった。
「君の名前はヤマウチ・エートだね?」
「……はい……」
「うん。なるほど。」
「私はイスプ・シュルスタイン……ってもう聞いてるかな?」
「……はい……」
「まぁ、立ち話もなんだ、応接間に案内しよう」
いつから居たのか、メイドらしき女が隣に立つ。
「案内してやってくれ、私は資料を取りに行く」
「了解いたしました、ご主人様」
落ち着いた雰囲気のメイドの女は、伸ばせば長いであろう茶髪をポニーテールにまとめていて、胸もそこそこ大きく、整った美しい顔をしていた。
「エート様。こちらです」
ただ、英人の目をひときわ引いたのは彼女の美しさよりも、特殊な耳だった。
上が尖った、奇形的とも思える耳。
その耳を持つメイドは、英人を応接間へと案内する。
「あの……」
「はい、何でございましょう?」
「……失礼でなければ…その……」
「はい…?」
「…その…耳は……?」
「あぁ、私はエルフなのですよ」
「え…えるふ?」
「ご存じ無いですか?」
メイドは非常に驚いた様子で英人を見ていた。
「まぁ、彼なら知らなくても不思議でないね」
革の表紙の厚い本を持って応接間に入ってきたのはイスプだった。
「さぁ、座って」
「ぁ……失礼…します…」
「そうだ、ナターシャ。部屋の準備を頼む」
「了解いたしました」
ナターシャと呼ばれた先程のメイドは、応接間から出ていった。
イスプは本を机の上に載せると本のページを捲りはじめた。
「うむ……無いな……」
「……何がですか?」
「これは、この国の戸籍一覧表なんだ。……三年前のだけど」
戸籍。と言うことは、この国では国民を戸籍管理するぐらいの技術と社会制度はあるということだろう。
「うん、君の名前は無いね」
「やはり、君の仮説は事実の可能性が高いね」
「……はぁ…」
「…………………」
英人がイスプを見ると、英人の顔を食い入る様に見つめていた。
「…な…なんでしょうか…?」
「いや、異世界でも人間と言うものは形態にあまり差異が無いものだなとね」
「……」
「ところで、君の髪と目。両方黒だが、それはあちらの世界の人類共通だったりするのかね?」
「いえ……人種によります…」
「ふむ」
イスプはノートを机の上に取り出すと、机の上にあった羽ペンで何かを書きだした。
「……エート君」
「…はい……?」
「君は言語が我々と同じようだが、文字は読めるかね?」
「文字?」
「このノートの字を読んでみてくれたまえ」
そこには、見たことのない直線と曲線の羅列が並んでいた。
「…………読めません」
「うん…なるほど」
「つまり、君のいた世界の言語と我々の言語は、発音や文法における違いは無く、その代わり文字のみが別のものだと……」
「面白いな……」
「イスプさんは…その…研究者…なんですか?」
「ははは。いや、趣味でね。こういう探求心が揺さぶられる様な研究をしていると、なんだか楽しくなってくるんだ」
「…ただまぁ…端から見れば、ただの変人なんだけどね」
「……何故です?」
「ん?何故かって?そりゃあ、周りの連中には、そんなこと重要じゃないからさ。私は新しい物を求めて研究をしているが、彼らは違う。今のこの普遍性しか求めていないのさ。仕事をし、うまい食事を食い、酒を飲み、女を抱き……」
「……私は結局、社会に置いていかれたから逃げ場を求めてるだけなのかもね」
「……」
社会から外れた異端者。
イスプと英人は経緯も思想も何もかも違ってこそいたが、二人とも孤独な者同士という点では、とても近いものがあった。
「あぁ…空気を重くしてしまって悪かったね」
「…いえ…」
「そうだ、エート君、君に提案があるんだ」
「……なんでしょう…?」
「君が此処にいる間、何かしら身分がないと不便だろう?」
「そこでだ。君の戸籍を新たに登録しようと思う」
「……そんなこと出来るんですか?」
「私だって一応、貴族家の男だ。……下級だけどね。」
「多少汚い真似をすれば戸籍くらい何てことないさ」
「そんな…悪いですよ……」
「何、気にすることは無いよ。他の連中はもっと凄いのがいるんー」
「お部屋の準備が整いました」
ノックと共に聞こえてきたのは先程のメイド。ナターシャの声だった。
イスプは扉を開けると、英人の方を向いた。
「………エート君。君の部屋に案内しよう」
英人に当てられた部屋は、イスプが書庫のひとつとして利用していた小部屋だった。
「どうぞ」
メイドのナターシャがドアを開ける。
「……凄い…」
部屋の中は結構広く、大量の本が入った棚が壁にところ狭しと並んでいて、装飾の施されたベッドやガス灯、机まで用意されていた。
「どうだろう?お気に召したかな?」
「いいんですか……?」
「うん?あぁ、気にしないでくれたまえ」
「とにかく、君に必要な情報は此処の本に大抵書いてあると思うよ」
「でも……僕には文字は……」
イスプは顎を撫でると、少々自慢気に微笑をたたえた。
「考えてみたんだ。我々の言語と君の言語のこと。発音や文法が同じならば、違いというのはただ単に文字の形だけではないか…とね」
「なるほど…確かに……」
……という事で、まずは文字の解読からはじめた。
イスプの用意してくれた部屋にはたくさんの物があり、何やら文字の一覧表の様なものもあり、それを使わせてもらった。英人の、もの覚えたり理解する力は幼い頃からの英才教育の影響もあり、人よりもズバ抜けてよい方だった。その為、日本語と同じく基本50音で構成されている言語を覚えるのは2日で充分だった。
文字を読んだり、書いたりできるようになると、イスプがある物を持ってきた。
「エート君。これを読めるかい?」
「……こ…せき…しょうめい…とどけ…?」
「あぁ、そうだ。戸籍証明届」
「君の事をありのまま書いても、信じて貰えるとは思えないから私の方で曖昧に事を終わらせるよ」
「………申し訳ありません…」
「いいのさ。私こそ君のような面白い人間に会えて幸運だよ」
「…こちらこそ…親切な方に合えて…よかったです…」
「ははは。うれしいね」
そんなこんなで、山内英人は、戸籍上"ヤマウチ・エート"となった。
それから"エート"は、部屋の本を片っ端から読み漁った。
エートは本から様々な事を学んだ。人間以外の他の種族、獣人やエルフ。この国、『ダウィスパニア』の政治、歴史。この世界に存在している『魔法』、『魔物』……
そして
『魔王』の事。