第9話 父の呪縛
「秋江…お前……」
「なによ!!貴方のせいでしょ!?」
深夜の一軒家に、女の怒号が響く。
女…いや、母は、顔を真っ赤に染め、父に向かって叫んでいた。
「あんたが優しくしてくれたら!!別の男に抱かれたりしないわよ!!」
英人は、部屋で眠りについていたが、ただならぬ母の声で目が覚めていて、子供部屋の戸を少し開けて、父と母の口論を傍観していた。
「……英人は…俺の…子じゃないのか…」
父はそう呟くと、口元を押さえ、静かに震えた。骨ばった頬を涙が伝っているのが見える。
「…こんな…ことって……」
「研究だなんだって、家の事も全部私に放任して!!だから英人の事も気が付かないのよ!!」
「……だからって…なんで…」
父は母の自己中心的な理論に対し、ただ涙を流して悲しみに震えている。
「大体にしてあんたはね!!人付き合いも悪いし、暗いし、自己主張も曖昧だし!!」
「学歴が良いから今まで我慢してきたのよ!?」
「…秋江………」
興奮した母には、もはや父の小さな声など届かなかった。
「あんたみたいなのはね!!本来なら一生、女なんかと縁がない人種なのよ!!」
「……秋江…」
「むしろ私は!!」
「あんたに感謝してほしいくらいだわ!!」
その一言で、父の表情は変化した。
恐らく、母もその一瞬を察知し、後悔したことであろう。
父の顔には、先程まで支配していた悲しみの痕跡は微塵も無く、ただ、無があった。
一切の感情を失った表情。無表情。
父の口は、重金属製の扉のような、重く、鈍い動きで開いた。
「……出ていってくれ…」
「え?」
先程まで逆上して紅潮していた母の顔は、父の放つ異様な恐怖によって青くなり、声も腰の抜けたような声に変化していた。
「…お前は…もう…僕の…秋江じゃない…」
「だから、早く、出ていってくれ」
「あんた…何…急に……」
「早くしてくれ…僕には、」
「能無しと話している時間はない」
「だから、早く出ていってくれ」
父は、一切の精気を失ったその声で、母に凄まじい一撃を叩きこんだ。
別に叫んだわけでも、怒鳴りつけた訳でもない。ただ父は、母に父の思考を、ありのままを告げた。
明け方。母は家を出ていった。
幼かった英人には、会話の意味の半数も理解できていなかったがそれでも、荷物をまとめ、去る母の背中を見た時、二度と会うことは無いだろうと幼心で悟った。
父は、それからというもの、異常なまでの英才教育を施し、ありとあらゆる知識を学ばせた。
父は、一度たりとも誉めてはくれなかった。いくらテストで良い点を取ろうとも、数学コンクールで優勝しようとも。
父は誉めてくれなかった。
父の感情を、あの日以来、見たことはなかった。
父が死んだ時、自分は空っぽになった。
父も、母も自分の元からいなくなってしまった。
それでも、ひたすらに勉強した。
何故か、やらなくてはいけない。そう思った。
だがそれは、自分の意思ではなかったのだと今になって思う。
怖かった。
父に誉めてもらえなかったのが。
父に、
「能無し」だと思われるのが。
父の言葉は呪いと化し、確実に心と思考を恐怖へと縛りつけていた。
殺意は、ハリボテだ。
僕は殺したいんじゃない。
僕は自分の力を、知識を、
誉めてもらいたいんだ。
「………………………………」
水底から自らの浮力で浮かび上がるように、エートは深い眠りから意識を覚ました。
「………あぁ…」
エートは、ゆっくりと体を起こす。
「エート様……」
ベッドの横でナターシャは濡れた布を持って立っていた。
「…ナターシャ…さん…」
エートは、自分の額が濡れているのに気付き、ナターシャが自分を介抱してくれていた事に、感謝した。
「…大丈夫でございますか…?」
「…あ…はい」
大丈夫ではない。精神的に最悪だ。
が、ナターシャに余計な不安をかけるわけにはいかない。
「ご主人様をお呼びしてまいります」
ナターシャは布を置くと、部屋を出ていった。
嫌な事を思いだした。エートはベッドの上で項垂れた。
「やぁ、エート君。起きたかい?」
イスプが部屋へと入ってくる。
「いやぁ、驚いたよ。実験終わりかと思ったら突然倒れたから」
「……………」
イスプの声は、どことなく暗かった。
「…その…なんていうか…君を此処に運んだ時なんだが………」
「………はい?」
「いや……聞き間違いだと思うんだけど……」
イスプは少し躊躇う素振りを見せたが、やがて喋った。
「エート君、倒れてから…一言だけ言ってたんだよ……」
「『寂しい』ってさ……」
イスプもナターシャも、勿論エートも、それ以上、何も話さなかった。