使節団
キリスト暦2015年3月23日
日本国 東京都 小笠原諸島 小笠原村 父島
『日本列島は異世界に転移いたしました』
そんな馬鹿なことを、首相が記者会見で発表したのが二日前。当初、日本中の多くの国民と同様に、この島の住民たちも、首相のそれを冗談や耄碌の類だと解釈しようとしていたのだが、それは直ぐに成立しなくなった。
何と言っても、父島は周囲を海に囲まれた島だ。その為、海を見渡せば水平線を見ることが出来る。その水平線が変わっているのだ。地球は丸いので、水平線と言っても少し丸みを帯びている線になるのだが、どうにもそれがおかしな具合になっている。依然として幾分かは曲線を描いてはいるものの、明らかに平らになっているのだ。
それに、漁に度にとれる魚。
それが二日前から急激に変化していた。
勿論、今まで通りの魚も網にはかかりはする。しかしそれとは別に、今まで一度も見たことが無い奇妙な魚が網にかかるようになり、その量を急速に増やしていたのだ。
漁師の中には、巨大な恐竜の様な生き物が海の中を泳いでいるのを見たと主張する者もあらわれた。最初、島民たちはそれをクジラか何かの見間違えだと思っていた。しかしながら日に日に証言は増え、異常な漁獲状況と合わせて次第に住民たちを不気味がらせていた。
そして何より、東の方に見える謎の陸地。
それは、ついこの間までそこには存在しなかったはずの陸地だ。それが突如出現した日、それが二日前だ。何人かの漁師が興味半分でそちらに寄ってみた。するとそこに住んでいたのは、石造りの住居に住まう、見慣れない風俗を着た白人系と思われる人々。
言葉が通じないかとも思って、恐る恐る話しかけてみると、意外と話が通じたらしい。ただし、その漁師が相手の話し方に違和感を抱き、口の動きをよくよく観察してみると、話している内容と口の開き方が違っていたらしい。
どういう理由なのかは不明だが、一種の翻訳コンニャク的なもののようだった。そんなふうなことをその漁師が周囲に話した結果、その内容はすぐさま全島に行き渡っていた。
ちなみに、原住民によると、その島はダフィアナス島と言い、マルアム王国に属しているらしい。そちらについても話題の新島と言うこともあって、あっと言う間に全島に―そして無論、東京の中央政府にも―伝わった。
こういった理由から、ほとんどの日本国民が、異世界変異を半信半疑で日常生活を送る一方で、小笠原諸島ではほとんどの住民が首相の発表を事実だと確信していた。
そしてこの日、そんな小笠原諸島に奇妙な一団が訪れた。
彼らは帆船に乗って来訪した。帆船、それは今では、観光や航海練習以外の目的では滅多に使われることのない種類の船だ。
そんな前時代的な船が突如父島の二見漁港に現れ、見慣れない格好をした人々を船倉から吐き出した。彼らは濃い顔立ちをしていて、髪は金髪。肌は色白だった。
それを見た島の住民は、彼らが東のダフィアナス島から来ていることが分かった。それ以外に考えられない。なるほど、こちらの漁師もまた好奇心からダフィアナス島に向かった。であれば、彼方は彼方でこちらのことを突如出現した奇妙な陸地だと思うに違いない。
そう結論付けた彼らは、取り敢えず来訪者たちを歓迎することにした。
キリスト暦2015年3月23日
日本国 東京都 小笠原諸島 小笠原村 父島
国土交通省 小笠原総合事務所
彼は頭を抱えていた。
出来ることならば、このまま家に帰って昼酒してしまいたい。そんな誘惑にかられる。無論、小笠原総合事務所の所長としては、そんなことできる筈もないのだが。
小笠原諸島東部に出現したダフィアナス島(向こうの住民からすれば、出現したのはむしろ小笠原諸島の方ではあるのだが)。
つい三十分前、その島から一隻の船がやって来て、使節団と名乗る一段をその船体から吐き出した。それが全ての問題の始まりだった。
来訪者たちによると、ダフィアナス島はマルアム王国の版図に属しており(これはダフィアナス島を冒険した漁師たちも言っていたことだ)、自分たちはその王国政府から派遣された正式な外交団だということだ。
その知らせは当初村役場に届けられたのだが、外国からの使節を受け入れるのは村役場の仕事ではないということで(彼にとって憎たらしことに、この主張は完全に正しい)、この件は国の機関である小笠原総合事務所に廻された。
尤も、小笠原総合事務所にしたところで基本的には国交省に属しており、そんなことは本業ではなかったのだが……。
「どうしろと。外国からの使節とか……」
しかも、国交のない国からの使節団。彼らが本物の使節団なのか。それともそう僭称しているだけなのか。判断の仕様が無い。そんなものを丸投げされても、というのが彼の偽らざる本音だ。
本来なら、日本列島が異世界へと転移して、周辺環境が激変。小笠原諸島のすぐ目と鼻の先に未知の国家が出現している以上は、外務省はその国家との外交関係樹立の為に使節団を派遣しておくべきだった。
少なくとも、外交使節だけでも送っていれば、彼らが持ってきている“国王の印章付きの文書“とやらが本物かどうかだけでも区別できた。
それになにより、彼方からの来訪者にも備えて(何と言ってもすぐ隣に未知の陸地が出現したのだから、何らかのリアクションが発生することは事前に予測できた)、この小笠原諸島にもっと高位で権限を持った役人が派遣されてしかるべきだった(というか、彼はそう本省に要請していた)。
だが、今回の転移事件で中央官庁は混乱しており、何らの回答も、行動もよこさないままに時間だけが過ぎて、今に至っている訳だ。
「無理だろ……。こんなの」
まあ、そうは言ったとことで、彼もまた官僚機構の一員ではある。従って、役所が突発的な事態に弱いということも、その理由も分かってはいるのであるが。
「宴会でも開けばいいのか? 取り敢えず、検疫だけして」
実際、彼は部下たちにそう指示した。若干投げやりな感じで
だが、その指示から15分と経たないうちに、部下から悲鳴のような報告が舞い込んだ。
「所長! 無理です! 来訪者たちが検疫を悪魔の儀式のようにとらえていて! 全く協力しようとしません!」
へえ。それは大変だね。
それで? どうしろと言うんだい?
そんな報告を俺にして。
そんなヤケクソな思考が頭に浮かぶ。だが、それは脳味噌の片隅に押しやって、現実的に考えることにする。
普通に考えれば、そんな奴らは追い返せばいいだけだ。法的に見て、彼らは完全に不法入国者である。
だが、ここは異世界である。世界が違う以上は、異なるルールが存在しているはずだ。
それに、現地住民の感情を考慮しないという訳にはいかない。常識的に考えて、国家からの使節団(少なくとも本人達はそう主張している)を無理に追い返したりしたら、最悪の場合、戦争行為ととられかねない。いくらなんでも、それはマズイ。
本省に問い合わせるか?
一瞬、そんな思考がこみ上げてくる。
だけど、無駄だろうなあ。
対応を協議するから少し待てとか言われて、そのまま放置されるに違いない。
まあでも、駄目元でやってみるか。
彼は、重たい手つきで直通電話の受話器を取り上げる。
☆☆☆ ☆☆☆
結論から言うと、電話は無駄には成らなかった。
そのわずか10分後には、本省の事務次官から彼に直接電話が入り、通常の検疫手順は省略することに厚生省が同意したことと、使節団を丁重にもてなすようにとの外務省からの有難いお達しを彼に伝えた。
歓迎を受けたその使節団は、父島と母島の各所を巡り、漁船に帆が無いことや、道路が舗装されていること。道路を走る自動車や自転車。それに、電灯やウォシュレットなどの電化製品にも一々大げさに騒いで、その度に所長の胃が痛くなったりしたのだが。
それはまた別の話。
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