Re:Memory
哲司の反応は、やはり思った通りだった.
「バンドをやめるだぁ!?」
家の近くにあるファミレスで、俺は哲司と一緒にブレンドコーヒー(お替り自由)を飲んでいたわけだが。
「そんな大声出すなって」
予想通り、とはいえ、俺は眉をひそめた。近くのテーブルにいたカップルが驚いてこっちを見、俺と目が合うと慌てて視線を逸らせた。
「マジかよ、修? 今までそんな素振り、全然見せなかったじゃんか?」
「大学とバイトで忙しくなるんだよ。バンドまで手が回らねぇんだ」
「あっちゃ〜」
ぺしっ。
額を手の平で叩き、哲司が身を反る。こいつが困った時に見せるリアクションだ。
「おまえがいなくなっちまったら、せっかく徹夜して作った曲が無駄に……」
「哲司だったらどんな風にでもアレンジできるだろ?」
「あさって、スタジオで合わせてみようと思ったのによぉ」
「わりぃね」
と言って、俺は残り少ないコーヒーを一気に飲み干した。
「いきなしだもんなぁ。てかよ、もちっと前に相談とかするもんだろ?」
本気で困惑顔な哲司に乾いた笑顔を向けて、
「あ、すみません。お替りお願いします」
ちょうど近くを通りかかったウェイトレスさんを呼び止めた。
サックスを始めたのは、まだ俺が十一の頃だった。父親が物置にしまいっ放しだったサックスのハードケースを見つけた俺は、好奇心だけでいじり始めた。
それがアルトサックスだとも知らなかった。
俺が興味を抱いた事に喜んだのだろう、父親はいつになくうれしそうに吹き方を教えてくれた。
『サックスを吹こうなんて、これも血筋だねぇ』
物置から見つけ、ほこりのかぶったハードケースを持って行った時の、父親の言葉。
『まだ父さんが学生だった時な、一人暮らしするにも金がなかったんだけど、よく吉祥寺駅前で吹いて小銭集めてたんだぞ』
聞いてない事まで子供に話すというのが親であって。
『そこで、母さんと出会ったんだ。俺が吹いてる時に母さんが偶然聞いてな、いつもやってるんですか?って話しかけて来て。あの時の俺は若かったなぁ。あなたが聞いてくれるのでしたら毎日やりますよ?なんて言って……』
この後しばらく馴れ初めが続くのだけれど、あえて省略するとしよう。
しかし母親は冷めたもので。
『サックス吹いてる父さんだから結婚したのに、まさかサラリーマンになるなんて……失敗したわ』
結局、楽器ができても得なんて何もない。
父親が今でも契約会社に頭を下げているのと同様に。
哲司に引退宣言を出した翌日。
「修くん!」
大学の帰り道。
駅で声をかけて来たのは、父親の、高校からの友人である川島さんだった。
「いやあ、暑い暑い!」
川島さんに誘われるまま、俺は喫茶店に入った。テーブルに先に着いた川島さんは、ネクタイを緩めると手で顔を仰いだ。
やって来たウェイトレスにオーダーを尋ねられれば、川島さんの早い口がすぐに動く。
「アイスコーヒーをお願いします。こんな日はこれが一番なんだよね。修くんは? 俺のオゴリだから何でも頼みなよ」
「じゃあ……同じもので」
「アイスコーヒー二つね。よろしくぅ」
いつでも川島さんはテンションが高い。
父親が吉祥寺でサックスを吹いていた時、一緒にウッドベースを弾いていたのが川島さんだ。父親の一番の親友であり、そして両親の結婚までを知っている――そのせいかどうかは知らないが、時折、家族を連れてウチに遊びに来る。
「あの、会社は平気なんですか?」
現在、PM2:30。
立派な社会人である川島さんが、こんな所でゆっくりしていて大丈夫なのだろうか?
「全然平気っ。今日は契約会社とのちょっとした打ち合わせだけだから。修くんは講義終わって直帰でしょ? 大学はどう? バイトもやってるんだっけ?」
一体、どの質問から答えればいいのだろう? とりあえず、最後の質問だけに答える事にする。
「今日は四時からです」
「大学にバイトかぁ。その上バンドもやってるんだからすごいよ。若いからできる所業だ」
この人が黙っているところを、今だかつて見た事がない。父親いわく、プロポーズしようと決意した日以外、まったく黙った事がないらしい。
哲司の性格が父親譲り100%ではなくて良かったと思う。
「若いからやりたい事いっぱいあって」
まだ哲司から聞いてはいないらしい。昨日の今日だから仕方ないか。
バンドをやめたと、やはり言った方が良かったのだろうか? つい話を合わせてしまったのだけれども。
「修君、どんどん篤史に似て来たねぇ。『若い時に好きな事やらないと損だから』ってよく言ってたよ」
その結果が今の姿か。平日は朝早くから出勤、帰宅は夜の12時近く。休日はずっと家でゴロ寝。体を起こすのは、三度のメシ時、風呂に入る時、そして掃除機をかける母親に「邪魔」と言われる時ぐらい。
「けれど最近の若い人にとって現代社会は生きづらいんじゃない? 俺ら社会人だけじゃなく若い人まで働かせてる。若い人はもっと自分勝手に生きてもいいんじゃないかな、本来」
「そうしたいですけど――何せ、時間も金もありませんから」
と俺、苦笑。
「これ、まるっきり篤史からの受け売りなんだけどね」
え?――
「『世の中にはもうすでにレールがしっかり整備されてあって、子供たちは親にその上に置かれてる。だから今の子供たちの多くは他人と違う事ができない。完全なオリジナルになる事なんか不可能なんだ』――あ、今の話、難しかった?」
「……何となく、わかります」
いきなり何を話すのかと思いきや――けれど、我知らずぎこちない返事をしていた。川島さんはそれを察したらしく、豪快な笑い声を上げた。
「俺もよくわかんないんだけどね。篤史に直接聞いてみるといいよ」
「そうですね」
にこやかに応えたものの、そんな気にはならない。
「――修くん。篤史がどうしてサックスをやめたか知ってる?」
川島さんは相変わらずの笑顔で速やかに別の話題へ移行した。
「はい? いや、知りませんけど」
どうしていきなり川島さんがそんな話題を始めたのか――『父さん』つながりによる転換?
しかし、いつも川島さんが突拍子もない話題転換を繰り返す人物だと思い出せば、自ずと、いちいち考えるだけ無駄だと無意識の内に思える。
「篤史と俺が出会ったのは高校でだっていう話はした事あるよね」
たしかに聞き覚えはあった。川島一家がウチに遊びに来た時の恒例『青春時代の懐かし話』で、何度か耳にした事があるのだろう。
「その時、もうすでに篤史はサックスを始めてて、俺は軽音楽部でベースを弾いてた。何を思ってか、篤史は俺に『一緒に音楽やんない?』って来たわけだ。初対面だってのに突然声をかけて来た――しかも、『一緒に音楽やんない?』だよ――そんな篤史に、もちろん最初はノリ気じゃなかった。音楽的嗜好も違ったしさ」
「じゃあ、どうしてやり始めたんですか?」
自然と俺の口から疑問が出る。
「一回だけ曲を合わせてみたんだよ。そしたら、すごい楽しかったのを今でも憶えてる。サックスとベース――組み合わせ的には極めてシンプル、それだけに曲的な拡がりに欠けると思ったんだけど、やっぱり篤史が上手かったんだろうね、とっても濃い曲を弾いてた。何て言うかな、こう――初めて、ジャンルとは無縁の音楽に触れた、みたいな」
話していくにつれて、川島さんの笑顔が懐かしみを帯びて来た。
「はぁ……」
父親から何度も話を聞いている事だが――尋常でないほどにのめり込んでいたサックス。
どうして父親はそのサックスをやめたのか――そこまでは、父親の口からは聞いた事がない。
「大学入って、それでもまだ篤史と音楽をやり続けてた。けどね、ある日篤史が言っ…」
そこで中途半端に川島さんの言葉が途切れた。何て事はない、オーダーしたアイスコーヒーが届いただけ。
「ありがとね」
ウェイトレスに愛想のいい挨拶をすると、川島さんはすぐにガムシロップとクリームを入れてストローで掻き混ぜる。よっぽど喉が渇いていたらしく、ストローに一回口を付けただけで半分以上のコーヒーが吸い込まれた。
「っはあ! あー喉がスッキリした」
見るだけで爽快感が如実に表れている川島さんの笑顔。俺も倣って、自分のグラスにガムシロップとクリームを入れて混ぜる。
「そう! 話を続けるけどさ」
もう一口、コーヒーを飲んでから(すでに残りは少なくなった)川島さんはすぐに話題を戻した。
「……はい」
そんなスピーディなハイテンションに相槌を打ってみる。
「大学入ってしばらくしたらさ、いきなり俺に言って来たんだよ――『俺、サックスやめるわ』って」
心臓が止まるかと思った――あまりの驚きに。
つい昨日の俺とダブる、父親の若い姿。そのセリフ。
「何でだと思う?」
と、尋ねられても……ぱっと出た答えは音楽に対する将来性だったが――珍しく凛とした声音で、しかしすぐに否定される。
「修くんが生まれる事になったからなんだ」
…………?……?……?……?………………!?
今、俺はどんな顔をしてるんだろう?
つまり、親父がサックスをやめた理由は……
「大学二年――あれは、冬前だったかな――の時に佳織さんと付き合い始めて、それから一年ぐらいだったから……うん、三年生の冬だね。いきなり言われたんだ」
川島さんはいたって陽気な笑顔で言う。
「『一生懸命働いて養って行きたいから、サックスは一時やめる』。その時にはすでに両親への挨拶も終えてて、ちゃんと籍入れる用意とかもしてて。篤史って、ほら、一つの目標ができると一人でやりきっちゃうんだよね。それがすごいと思う。残念な事は、サックスをやめる期間を『一時』って言ってたのが、いつのまにか『ずっと』になってるって事」
アイスコーヒーの礼を言って川島さんと別れた後、俺は何となく足の向かった公園のベンチに座った。すでに夕陽は落ちていて、空にわずかにその色が染みているくらいだ。手元では、携帯電話が俺にもてあそばれている。
俺の頭の中ではさっきから川島さんとの会話がずっと反芻されていた。
父親は母親から妊娠の事を聞いて、突然の決意を迫られた。
川島さんの話だと、彼はすぐに答えを出したらしい。それほど悩む事なく。
川島さんいわく――決めてたんだろうね。
予感――みたいなものがあった? その予感って? 妊娠の告白? 自分がサックスをやめる事?
父親はすぐに決断した。サックスではなく、俺を選んだ。
今の父親の姿は過去の決断の、延長線上の、言ってみれば一つの点だ。他にも選択の余地はあったんだと思うけれど……何だろう。それでも何か、胸の中に充満していた濃霧のようなものが、徐々に薄らいでいる。
……もしかしたら、川島さんは哲司から話を聞いていたのかもしれない。さすがに駅で会った事まで計算されていたとは思えないけど。
もてあそんでいた携帯電話を右手で開いた。
『結婚式の二次会で篤史に聞いたんだ』
リダイヤルメモリを覗く。すぐに目的の番号が出て来た。
『サックスやめて後悔はないのかよ?って』
電話をかける。回線接続を行う機械音が、ブツブツと耳元で鳴る。
『そしたらさ、俺の子供がサックス始めてくれたらって考えたら、そっちの方が嬉しいよ、ってさ』
呼出音に切り替わると、意外とすぐに相手は電話を取った。
「哲司? 俺だけどさ――サックス、続けてみようかと思って」