9 冬をやり過ごしたからお別れなのよね
「ああ…」
扉を開けたサラダは、Pタイルの上の靴を見てそう言った。
「じゃあブランチ食べに行こうって言うのはまた今度ね」
え、と私は目を瞬かせた。
「何言ってんの。一緒に行こうよ。あんたすごい久しぶりだったじゃない。一体何処行ってたの」
「ちょっと実家によばれてたから… それに、いつものお友達と違うでしょ、ミサキさん」
両肩をひょい、と持ち上げ、くん、と鼻をすするような動作をする。
「何、化粧臭いとかいうの?」
「そうゆうんじゃなくてさ」
サラダは目を細めた。
「ミサキさんあたしが彼氏と居る時とか、誘わないじゃん。そぉゆう感じ」
ぎく。
「だからさ、ブランチはそのひとと行ってきなよ。あたしも忙しいしさ」
「サラダ?」
またね、と言って彼女は笑って手を振った。
どうしたの、と六畳の方から声が飛んだ。昼に近い朝。時計がもう少しで十一時を指す。今の今まで、私達は夢の中だった。春先は眠い。だから私達も眠い。ぬくぬくと、互いの体温の中でまどろんでいる。
「起きたの」
「声が聞こえたから」
三月が終わる。のよりさんはまだこの部屋に居た。
ケンショーのところを飛び出してから、もうどのくらい経ったのだろう? 彼女はずっとそれから私のこの部屋に居着いていた。
ここからバイト先に通い、知り合いの所へ出かけ、時には実家に電話をしていた。
「ちょっと帰りにくくなっちゃった」
それはそうだろう、と私は思う。いくら何でも、男のところに転がり込んでいたのだ。私は幾らでも居ていいよ、と言った。リップサーヴィスではない。
彼女は朝強くない。返事はしたけれど、まだベッドの中だ。枕を抱いて丸まってしまっている。
「そろそろ起きよう… コーヒーでも呑みに行こうよ」
「んー…」
半目開きになる。その頬に指を触れさせる。くすぐったそうにその目が閉じる。
「ねえ起きてよ。こないだ、新しいカフェ見つけたんだよ。あたし一人で行けって言うの?」
黙って彼女はゆっくりと身体を起こし始める。乱れた髪が肩に落ちる。スリップの紐が片方落ちている。
「かふぇ~」
のよりさんは結構カフェという奴が好きだ。
「そうだよ。何かね、一つ一つのテーブルにつけてある椅子が違う種類なの」
「へーえ…」
髪をかき上げて、彼女はスリップの紐を直した。ふわり、と持ち上がったふとんの中から、彼女の匂いが立ち上る。その中には私の匂いも混じっているのだろう。持ち主には判らない、その匂い。その時ようやく私は、サラダが何に気付いたのか悟った。女臭い、という奴だ。
「そーだね… 行こうか」
「そうそう。そういえば、桜が昨日あたりはつぼみだったけれど、今日は咲くんじゃないかなあ」
「桜かあ」
でもそれは去年は気付かなかったことだ。
去年は、そんなこと気付く余裕が無かった。仕事のことやら、自分一人の暮らしが手一杯だとか、兄貴のバンドのこととか、…あれ、よく考えてみたら、それは今も同じだ。
なのに、今年は花を見るだけの目の余裕がある。何だろう。
考えてみれば、ここしばらく、あの夜明けの寒さを感じていない。ゆっくり眠ることができるから、体調も悪くない。
ベッドの中の兄貴の元恋人は、何故か私を時々抱きしめる。それ以上のこともする。どういうつもりなのか、よく判らない。確か彼女は兄貴に抱かれる側ではなかったのだろうか。
いや、それより何より不思議なのは、自分が、それに対してさほどの違和感も持っていないことだ。
確かに兄貴がハコザキ君とつきあっていた、という時も、一度飲み込んでしまえば、大した問題ではない、と思ってはいたが…自分のこととなってもそうなのか、と、自分自身に驚いていた。
そして、その関係を、何処か喜んでいる自分を。
まさか、今まで付き合った「彼氏」達と、長く続かなかったのは、そのせいだったのだろうか。違う、と答えたいのだが、何処かで否定できない自分が居る。
だって、彼女と過ごしているこの時間は心地よい。ぼんやりと、穏やかな時間が、毎日毎日流れている。
帰った時に彼女が居る、とは限らないが、居る時には夕食が用意されていたし、逆に、彼女が何処かへ行って戻っていない時には、私が用意している。サラダとの週末の食事、が毎日になったかのようだった。誰か食べてくれる人が居る、ということは料理の腕を上達させるらしい。美味しいと言ってもらえば尚更だ。
そしてまた、二人揃ったところで、何をするという訳ではない。だらだらとテレビを見たり、その日にあったことを止めどなく話す。その程度だ。
だけどそれが、ひどく心地よかったのも確かだ。
仮のものだろう、とは思っていたのだけど。
*
そのカフェは、ご近所、というにはやや遠い所にあった。だが春の道を散歩がてらに行くにはいい距離だった。
「もうつくしも伸びすぎてるなあ」
私はつぶやく。
「つくし?」
「とかたんぽぽとか。結構東京もあるもんなのね」
「東京ったって広いしね。うちの方だって、ちょっと駅前とか離れると、いきなり田舎になったりするわよ」
「へえ…」
丸々とした葉っぱが可愛い草や、小さな青い花が一気に咲いていたり。これも新鮮な発見だった。気持ちが明るいと、見える景色も違ってくる。光がまぶしいが、そのまぶしさが、心地よい。
「春なんだねえ」
そうねえ、と彼女はつぶやいた。ざっ、とその髪を風が揺らした。
「そろそろ帰らなくちゃ」
私は足を止めた。
「美咲ちゃん?」
「帰るの?」
「いつまでも、ずっとこのままじゃいけないのよね」
つ、と彼女は空を見上げた。
「オズ君から昨日聞いたけれど、今度はなかなかヴォーカルが決まらないみたいなんだって」
「…それで、戻るの?」
「まさか」
即答だった。彼女は笑った。
「もう、歌わない。誰かのためには」
「もったいない…」
「だって、もともと歌は私にとってそんなに大事なものではなかったんだもの。ケンショーと一緒に居た時間は、それはそれで楽しかったけど…」
でもそれは私じゃあないのよ、と彼女は付け加えた。
*
ペンキのはげかけた赤いホーローの椅子の上に、花を無造作に生けたブリキのバケツが置かれていた。
目の前のテーブルもそんな感じで。目の前には黄金色に輝くフレンチトーストとライ麦パンのサンド。結構大きめのテーブルの、真ん中に置いて、二人でどちらもつつく。
窓辺の花に、つい視線が飛ぶ。彼女の視線がそっちに飛んでいるから。
「気に入った?」
私は問いかけた。
「うん、結構ね。いいね、こういう場所も」
座っている椅子も、はげかけたペンキの。
「何か、昔、連れて行ってもらった遊園地のさ、外のテーブルみたいじゃない?」
言われてみれば、そうだ。そうだね、と私はうなづいた。
フォークでフレンチトーストを切って口に入れる。ふんわり、バターのこくと、後でふりかけたようなグラニュー糖のざらりとした感触が心地よい。
まだ昼には時間があるせいだろうか。客も多くは無い。「CUTPLATE」という名のそのカフェでは、壁を飾るカードを総入れ替えしているところだった。飾られるそれらは、一枚幾ら、で売られてもいる。一週間くらいで入れ替えになる様で、それを目当てにやってくる女の子も居るらしい。
私もカードは結構好きだった。壁を飾るには手軽で、それでいて配置によっては効果的な。結果、トイレの扉がかなりの割合で侵略されている。
新しく貼られたカードに私は視線を飛ばす。目がいいので、そう遠くない壁に貼られたカードなら、楽勝だ。
「あ」
その中の幾つかに、私は目を留めた。どうしたの、とのよりさんは訊ねた。
「ちょっと」
立ち上がる。つられるように私はそのカードの方へと近づいて行った。
一枚のカードの上に、オレンジ色があふれていた。
正確に言えば、オレンジ色と、それに近い色が、微妙に無数にそのカードの上にはあふれていたのだ。私はそれに見覚えがあった。
思わずそのカードを、止めている洗濯ばさみから外した。赤い大きなエプロンの、背の高い男が、お帰りの時にどうぞ、と言った。
「これ、書いた人は」
「…ああ、ここは持ち込みで色んな人のカードを展示販売してますから」
…ああ。そういうシステムになっているのか。わかりました、と私は手にしたカードと、同じ作者らしいカードをもう一枚壁から外した。白い壁、白いロープ、白木の洗濯ばさみの中で、そのカードはひときわ鮮やかだった。さっきがオレンジなら、今度はりんごだ。
「どうしたの? ああ、何か面白いね」
「そう思う?」
「うん。何か、わーっとしたものを感じる」
「わっーとしたもの?」
「上手い、という訳ではないんだけど、色使いとか、線とかね、習ったものじゃない、何か外へ外へと広がろうとする感じがあるの」
言われてみれは、そうかもしれない。
「あたしは――― 何か、暖かそうだと思ったから」
「美咲ちゃん、寒がりだものね」
どき。
彼女は無造作にそう言うと、ライ麦サンドを口にする。野菜も肉もしっかりはさんだホット・サンドだから、彼女は両手で持って、しっかりとそれにかぶりつく。トマトから汁が滴り落ちる。ぽとん。
「そんなこと、あたし言ったっけ」
「言ったことはないわ。だけど、判るじゃない」
かぶりつく。ぽとん。
「それとも、そんなこと、言われたことが無かった?」
「…無かった…」
ああ止めて。こらえていた感情が、一気にあふれる。普段こらえてこらえてこらえているから、暖められて、弱くなった部分は、ちょっとした衝撃で壊れやすい。
「だけど、駄目よ」
「何で?」
私は思わず問い返していた。
「何で、駄目なの?」
どうして、私じゃ駄目なの?
「兄貴じゃない、から?」
「そういうことじゃないわ」
ごくん、と彼女はサンドの最後の一口を飲み下す。フォームドのミルクをたっぷり入れたコーヒーを、口にする。
「それを言うなら、あなただって、あたしでなくたっていいのよ。だからそれは言うものじゃないの。ねえ美咲ちゃん、とりあえずお互い、冬をやり過ごしたのよ」
眉を寄せた。そういうもの、なんだろうか。
そういうもの、なのかもしれない。
「あたしはあなたのおかげで助かった。あなたがどうかは判らないけれど」
「あたしだって」
「うん。それならあたしも嬉しい。だけど」
そこで彼女は言葉を止めた。
「感謝してるのよ」
「そんな言葉、要らない」
「でも本当よ」
「でも、要らない」
欲しいのは。
「それ以上の言葉は、もっと好きになったひとに、取っておいたほうがいいわよ。錯覚しているの。あなたはまだ」
「錯覚?」
だけど恋愛というものは基本的に錯覚ではないだろうか。
「それにあたしも、欲張りなの。あたしでなくても誰でも良かったひとと、ずるずる続かせるというのは、…幾らそれが心地よくても、あたしにも、プライドがあったみたい」
プライド、というのだろうか。ではあたしにはプライドが無いのだろうか。
プライドも無くしてしまう程、何かに飢えていたと言うのだろうか。
それは、嫌だ。
そう思った時、こうつぶやいていた。
「…そうだね」
顔が自動的に、表情を作る。私は外面という奴がいいのだ。
「このままじゃ、お互い前には行けないね。うん」
こういうことを、言いたいのではないのに。
フォークを動かす。フレンチトーストを一口ほおばる。無理矢理飲み込む。放っておけば、出てしまいそうな言葉と共に。
レジに向かうと、さっきの赤いエプロンの男が立っていた。決して広くは無いが、小さくもないカフェなのに、彼以外には、あと一人、髪を上げて、細い眉毛の女の子一人しか見かけない。関節の太い指で、男はお釣りと一緒に、ポイントカードを渡した。
「点数貯めると、ポストカードおまけしますよ」
低い声が、そう穏やかに告げた。ありがとう、と私は笑った。笑おうとした。
*
彼女が出て行った後の部屋は、妙にがらんとしていた。
それまでが楽しかっただけに、この静けさが、たまらなく感じる。思い立って、隣のサラダのチャイムを鳴らすが、出てくる気配はない。天気も良かったから出かけているのか。
肩が、どっさりと重くなったような気がした。