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5 苛立ちと怒りと失望と懇願と

 さてそれからしばらく、何があったのか私は知らない。

 私にばれたところで、あの兄貴がどうこうするとは思えない。

 まあハコザキ君は多少動揺したとは思うが、…兄貴と付き合ってるくらいだ。感化はされているだろう。

 気が付くと、兄貴の回りの人間は、兄貴のペースに流されているのだ。良くも悪くも。

 近くに居ながら流されなかったのは、私くらいではないか、と自負してしまうくらいだ。

 うちの親にしたところで、逆の意味で彼には振り回されていた訳だ。

 ああいう人間には始めからある程度距離を置いた方がいい、ということを、どうして気づけないのかな、と思ったりもしたのだが、彼等は自分と血がつながっている以上、自分の理解できない人間ではないだろう、と思っていたのだろう。いや、思いたかったに違いない。

 無論全く理解できない訳ではないだろう。いくら何だって、人間だ。野生の動物ではない。

 ただ、それ以上ではないのだ。

 いくら血がつながっていたところで、結局は他人だ。それを割り切らないと、やっていけない人間というのは確かに居るのだ。家族だからこそ、特にそうなのだ。

 私が彼に関して、それを割り切ったのは、もう結構小さい頃だったような気がする。兄貴が中学かそこらの頃だ。

 その頃から彼はあまり学校には行かない奴だった。私はその反対で、皆勤賞ものの優等生という奴をやっていたので、彼の行動には首を傾げると同時に、どうしてそんなことができるのか不思議だった。

 私にとって、学校とは「行くもの」であって、それ以外の何ものでもなかった。

 大人が仕事に行くのが義務であるように、子供は学校に行くのが義務だ、と信じていた。

 いや、信じているとかそういう意識も無かったかもしれない。学校というところが自分にとって面白いとか面白くない、とかいうのは関係なく、「行くもの」だ、と考えていた。仕事だったのだ。

 なのに兄貴は、と言えば、何故か私が学校に行く時にまだ寝床に居ることもあったし、帰ってもまだ居ることもあった。

 かと言って、今で言う登校拒否生徒、という訳でもなければ、ぐれている訳でもなかった。

 さすがに当時の私は苛立った。彼が中三の時には、私ももう小学校六年だったので、ある程度以上の頭は回るようになっていた。小生意気な口もきけた訳だ。

 だから彼に聞いてみた。いや、詰問した、と言ってもいい。


 何で兄貴、学校に行かないのよ!?


 すると彼は答えた。


 じゃあ何でお前学校に行くの?


 そう問い返されるとは思っていなかった。


 俺はそれがよく判らないのよ。


 彼は真面目な顔でそう言った。


 確かに俺を行かせるのは親の義務だけどさ、俺が行くのは義務じゃあないんだぜ。


 屁理屈だ、と言ってしまえばそれで終わりだ。


 だから親父やお袋が俺に行け行けって言うのは正しいよな。それがあのひと達の義務なんだから。だけどお前が言うのは俺は良く判らないぜ。お前学校別に好きでも何でもないだろ? 何でそれでも行く訳? 友達が多い訳でも会いたい訳でもないだろ。


 …こういう所が嫌なのだ。何でそういうことは判ってしまうのか。

 それでも私もそれで引き下がるのは非常に嫌だったから。


 だったら兄貴はここで何やってるのよ?


 すると彼はこう答えた。


 俺は俺を押さえてるんだよ。


 意味が判らなかった。


 俺の中には、何か得体の知れない化け物の様なものがあってさ。それを何とかしないことには、ああいう俺の理解しにくい俺を理解しにくい場所には出て行けないんだよ。


 意味が判らない、と私は言った。

 判らないでいいよ、と兄貴は言った。奇妙に優しい声で、言った。


 思えば、そのあたりで、彼はその「化け物」を何とかする方法が、音楽にある、と掴み掛けていたのかもしれない。

 彼がギターを手にしたのが正確にいつなのか、なんてのは私も知らない。

 彼は学校に行かないだけであって、家の外にはよくふらふら出ていた。

 何処に行っていたのかは知らない。後で聞くと、隣町の楽器屋とか、音楽好きの先輩のところとか、言われてみれば、という場所だったりするのだが、当時の私にそんなこと判る訳もない。

 そして無論「化け物」がどういう意味なのかも、判らなかったのだ。

 今だったら、想像はつく。

 無論それが「どういうもの」なのか、身体で判る訳ではないから、想像に過ぎないのだが。

 ただ、ギターを手にしてから、音を、作り出すようになってから、彼の表情が変わっていったのは確かだ。

 彼はその「化け物」のことを、出て行く直前、こんな風に言っていた。


 時々、そいつは不意に現れて、俺を揺さぶるんだ。頭を、気持ちを、身体を。俺の頭と言わず身体と言わず、全部がそれで埋め尽くされて、俺を食い尽くそうとして、食い尽くして、出て行こうとするんだ。嵐だよ。台風だよ。本当にいきなり、来るんだ。「それ」が来るのを、俺は止められない。来てしまったら、俺は俺の身体を上手くコントロールできない。だから俺は曲を作るんだ。俺の中で巣くうそいつを、形にして、出してやらないと、俺は俺の身体を開放することができない。


 それはもう、どちらかというとビョーキの部類ではないか、と中三の私は思った。少なくとも、私にはそういう嵐は無い。想像もできなかった。

 その頃彼はもう、自分でずいぶんたくさんの曲を作っていたはずだ。

 どんな曲だったかは忘れた。まとまったものではない。曲の切れっ端とでも言うようなものだ。

 そんな切り刻まれたようなものが、六畳の部屋に散らばったカセットやら、書き慣れ無そうな譜面とか、書き散らした歌詞もどきのメモとか、そんなものに形を為していた。


 押し寄せるんだ。


 彼はそう言った。


 一つ鍵になるようなものが浮かぶと、もうそこからずるずるずるずると、その続きになるようなものが見えてくる。いいか美咲「見える」んだ。俺には見えてしまうんだ。聞こえてしまうんだ。そんな形の無いモノが、音の無いモノが。そこに無いモノが。そこに無いモノが、俺に形を作れ、って言ってくる。形にしろ、って命令する。言葉も無しに命令する。身体に、頭に、知識に、全部に命令するんだ。俺はそれに逆らえない。だから音を出す。言葉を引っぱり出す。そこに俺が見えるものを、聞こえるものを、そのまま形にして引っぱり出すんだ。お前はどうやって作ってるんだ、と俺に時々聞いたけれど、俺は別に作ってる訳じゃない。俺はただ聞こえてくるだけなんだ。受け取ってるだけなのかもしれない。本当は俺はただ受け取って、判りやすい記号に変換しているだけなのかもしれない。だけど確かに俺の中には、その音が見えて聞こえて、それは確かに在るんだ。それだけは間違い無いんだ。


 三年間で「化け物」は「降りてきた音」に変わったけれど、やっぱり私には理解できなかった。

 私にとって音は聞こえてくるものでしかない。ましてや、聞こえもしない音が降ってくるなんていう事態は全く想像ができない。

 そしてきっと、これからも理解はできないだろう。

 ただ、彼が「そういう人間」だということは、理解したのだ。理解しなくては、ならなかったのだ。私が彼とこの先もきょうだいである以上、彼が私には理解できない類の人間である、ということを。

 私と彼は、確かに似ている点もある。だけど、この点だけは、絶望的に異なっているのだ。

 彼にしてみれば、私は「そういうもの」と言ってくれるだけ、「そんなはずはない」と主張する両親よりはましなのだそうだ。

 だって仕方が無い。

 そう考えないことには、私は私をも疑わなくてはならなくなる。私の中にも彼のような要素が、因子があるのかもしれない、と思うと気が重くなる。私は私だ。誰から生まれようが、誰と血がつながっていようが私だ。

 彼と顔を合わせるたび、私は自分自身にそれをいちいち確認しなくてはならない。疲れる。疲れた。

 だから兄貴が、卒業してすぐに家を飛び出した時、私はほっとしたものだった。

 一体どうして、という疑問の前に、まず安堵したのだ。


 ああこれで静かな日々に戻れる。


 だが静かな日々など、いったいいつのことだったのか、高校に入ったばかりの私は既に忘れていた。


 それから二年間、私は一人っ子状態だった。

 少なくとも私の中では。その状態を満喫していたと言ってもいい。

 彼が居なくなった家は広かった。というより広々としていた。

 彼の消えた六畳の部屋を占領しようとは思わなかったが、残していったものを勝手に使うのはためらわなかった。

 それが違うことに気付かされたのは、進路を決める時だった。

 私は自分が四年制の大学に行くものと、行けるものと思っていたのだ。成績は充分以上だったし、担任も周囲もそれが当然だと思っていた。


 ところが、だ。


 何を馬鹿なことを、という顔を両親はした。四年制に行かせる程の余裕は無い、という意味の言葉を告げた。

 それがどういう意味なのか、私はしばらく理解できなかった。

 兄貴にそれだけの学校に行かせてあげるだけの余裕、という奴はあったはずだ。彼がこの家を見捨てたなら、それなら今度は私が。

 口には出さなかったけれど、たぶんそんな気持ちが私の中にはあった。

 兄貴は戻ってこない、と思っていた。だったらいつかはこの家は私が。


 短大なら行けばいいわ。その方が高卒より就職に有利じゃないの? 

 そうだな別にお前にどうこうしろと言わないから、自由にやってみろ。


 ちょっと待て。

 私はその時どう答えたろう?

 ただ判っていたのは、彼等は私に何の期待もしていなかったということだ。

 どれだけ成績が良かろうが、何の問題も起こさない子でいようが、それは別に彼等にとって大した問題ではなかった、ということだったのだ。

 …私の性格を知っていて、その上で、私に自由に、好きに生きてみろと言ったのかもしれない。

 人に動かされるのは嫌いだ。それは常々言ってきた。言わなかったとしても、態度に出る。外面はいいけど、内心という奴が。

 それはいい。それは。だけど。

 そして彼等は言った。


 お兄ちゃんが帰ってきたらねえ。

 ノリアキの奴、何をやってるんだ全く。


 忘れてはいないのだ。いつか帰ってくる、と思っていたのだ。

 私がとうの昔に見切ってしまったことを、いつまでもいつまでも思っている。

 いつかはこの故郷に帰ってきて、彼等の思う「真っ当な」生活をすると、できると信じている。

 どうしてそんなことを信じられるのか判らなかった。

 彼はそんなことできやしない。できないことが判っているから、背水の陣、それしかない所に行ったのではないか。

 どうしてそれが判らないのだろう。彼は私と違う。あなた達と違う。違うんだ。

 私はそれをもう口にはしなかった。言っても無駄だ、と思っていた。彼等は親だから、それを願うのだ。きょうだいだから私はそれを見切ってしまっているのだ。


 その時、彼等に対して何かが自分の中で切れる音を聞いた。


 ああそうだ。

 別に格別に努力をしていた訳ではない。優等生でいることも、何の問題も起こさないことも、私の性には合っていたのだから、努力してきた訳ではない。

 だけどそれをいいことに、冒険の一つもしなくなっていた自分が居た。できなくなっていた自分が居た。

 してしまえば。

 そしてまずいことが起きたら、家に迷惑がかかると。

 ただでさえ兄貴のことで頭が痛いだろう両親にそれ以上の厄介ごとを抱えさせたくはないと。

 そんな理由をつけて、自分で自分の手足に枷をつけてきた。

 自分の四畳半の部屋で、机に向かって、私は唇を噛んだ。

 だけど振り下ろした拳は、机の上で寸止めにした。


 気付かれるな。

 悔しいなどと、考えているということを。

 気付かれるな。

 彼等には気を許すな。

 私は彼ほどに彼等には思われてはいないのだから。


 声を殺して、泣いた。どうしようもなく、涙が机の上でぽたぽたと落ちた。

 止められなかった。

 彼等に気を許すな、と自分に命令するその一方で、どうして自分ではないのか、と叫ぶ自分が居た。


 何で私じゃないの。何で兄貴なの。

 いつだって。いつだって。いつだって。


 本当は、壁に全身を打ち付けたい程の、悔しさがあった。

 手も、打ち付けてしまえば、その痛みで、少しは救われると思った。だけどそれをしなかった。できなかった。

 まだ私の中で、それはうずいている。

 痛めつけてくれ、とわめいている。

 凶暴な衝動。兄貴の言う「化け物」とは違うけれど、私の中にもある、どうしようもない、衝動。


 その後の三年、私はこの家で居候の様な気持ちで居た。

 出て行く日を待った。無論自分で四年制へ行くと言う手もあっただろう。

 短大に行く程度の余裕はあったのだから、後の二年を自力で稼ぐ、という手も。

 ただ私にはその気持ちは無かった。そもそも大学に進学して、勉強したいものというものも無かった。

 そこは「行くもの」だった。行って、そしてそこで何をしたいのか見つけるところだ、と思っていた。

 でも違った。だからもう、行く意味は見つけられなかった。

 私は短大に進学した。やっぱりしたいことは見つけられなかった。

 だが就職活動だけは真面目にやった。そうすれば、この家を出て行く口実がつけられた。口実は必要だった。それが私なのだ。

 兄貴には口実も何も無い。彼はそうしたいから、そうしたのだ。彼の意志は、彼の行動そのものだった。

 私には「そうしたい」ものは彼の様には無い。

 「居たくない」から出るだけで、「出たい」訳ではないのだ。

 ただそれは口にはしない。

 口にするとそんな考えは良くない、と友達は言ってきた。

 教師も言ってきた。


 お前ってそんな無気力な考え方してたっけ。


 当時のつきあっていたひとも言った。


 そんなこと言われても、困る。

 何でそれではいけないのか、誰もその答えを持っていないくせに、そんな消極的な発想は良くない、という。

 そんなこと言われても困る。

 私はそんな風にしか考えられないのだ。

 もしそれがいけないと言うならば、私にそれほどに思わせる程の何かをくれ、というものだ。

 見せつけてくれ、というものだ。

 私の心を、それほどに鷲掴みにして、揺り動かして、離さない程の。


 それができないくせに、私に言うんじゃない。


 兄貴に関して、一つだけ感心することがあるとすれば、彼が私に何の強制もしないことだろう。

 考え方とか、態度とか、そんなことについて、何も気にしないことだ。

 私の考えが前向きであろうが無かろうが、どうでもいいと思っているのだろう。

 それでいい。

 それがいい。


 誰も、私のそんな部分まで、入り込まないで欲しい。

 本当にこちらを向かせたくて、強引に、引きずり込むような勢いと覚悟が無い限り、そんなことをしないで欲しい。

 中途半端な同情やら善意やら好意やら良識やら心配やらは鬱陶しい。

 そんなものを中途半端にくれるくらいだったら、無視していて欲しい。

 私が欲しいのは。


 そこでいつも思考停止する。


 それを口にするな、と自分の中の何かが叫ぶ。口にしてしまったらおしまいだ、と。

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