21 事故の知らせ
「あれ主任、今日出張じゃなかったんですか?」
後輩OLちゃんが、お昼頃会社に出てきた上司に向かって言う。彼は今日確か、長野だか山梨だかに出張のはずだったのに。私は内心がっかりする。せっかく今日は少し風通しが良くなると思ったんだけど。
「や、出張だったんだけどな。中央本線が何か事故起こしたらしくて、ダイヤが滅茶苦茶になってるらしいんだ」
「事故お?」
後輩OLちゃんは、首をかしげるが早いが、さくさくとPCをネットにつないで、ニュース速報を画面に映し出した。
「…車両が線路につっこんできて… あ、これですね」
「それって結構ひどいものじゃないの?」
「ひどそうですよ~ ほら見てくださいよ先輩、数人亡くなったひとも居るみたいですよ」
「そりゃあなあ、横から突っ込まれりゃ、その衝撃だけでもとんでもないものだからなあ」
上司はそう言いながら煙草に火をつけた。
「おかげで特急も全部今運休中。こういう時、東海道とかだったらなあ。まだ在来線が事故っても、新幹線とか、私鉄とかいろいろあるんだが」
そういうものなのか、と私はその時はそれ以上の興味も無く、またすぐに仕事に戻った。
昼過ぎに、ぴろぴろ、と着メロがいきなり鳴った。
私は慌てて受信する。仕事中だった。普段は仕事中にケイタイは鳴らさない。更衣室のロッカーの中へ入れておく。だけど今日は電話を待っていたのだ。
サラダが、三日の予定で実家に行っている。突然どうしたの、と訊ねたら、何となく、と答えた。
そう答える時は、だいたい何か結構深刻なことを考えていることが多い。彼女はそうだ。
一年も同居していれば、さすがにそういうことも判ってくる。
そう。一年が経っていた。私は相変わらずあの会社に勤めている。そしてあの№2のOLさんが結婚するから、と辞めていった。
結構これは不意打ちというか、早業というか。あの「向こうの仕事に専念したい」という彼女とはまた別の意味で、唐突だった。
何処に浮いた噂があるんだ、という人だったのだ。
あの温厚な笑みの下では、結局何を考えていたのか、私にはさっぱり判らない。きっといい家庭を作ることだろう。何を考えていたかは判らないが、彼女が居たおかげで、職場がスムーズに動いていたということは確かにあるのだ。
何処かの本で、OLの位置関係を身体にたとえたものがあったけれど、あのばりばりに働く最年長のボスが「頭」とすれば、彼女は「心臓」だった訳だ。何だかんだで、私達は、ボスの彼女には陰で首をひねっていたことがあったのだが、彼女に関しては、素直にはいはいと言うことを聞いた。それは彼女の性格もあったろうし、スタンスもあっただろう。
そして新しい子が二名増えていた。…結局今私は、№2の位置に居る訳だが…正直、重い。
確かに未来にできるカフェの図を思い描けば、毎日の仕事もそう苦にはならない。
残業に関しても、「ここまでの残業はお金になるがここからはサービスだ」とか考えてそれまで以上にきっちり時間で終えるとこは終わらせて、上司に嫌な顔されようが、そんなことは大したことではない。
だけど、どうもそのボス的OLさんが、配置換えするという噂があったのだ。女性で配置換えはそうそうあるものではない。つまりそれは、彼女がただの事務職から、管理職へとステップアップしようとしている、ということらしい。そして会社側も「優秀な」彼女をとうとう認めたということだ。
それはそれでいい。めでたいことだ。
だが私からしてみると、彼女が居たおかげで何となくやらずに済んでいたことが自分にのしかかってくるおそれがある。それは正直、避けたい。
逃げだというなら言えばいい。しかしそんなことは、会社では絶対口にはしないようにしていた。まだもう少し、ずるずると居座り続けなくてはならないのだ。固定の収入は、無くすのは惜しい。
この一年で、私とサラダはずいぶんがんばったと思う。
予定の金額を越えて、200万弱、今私達の共同の通帳には入っている。ただし私はボーナスを必要経費以外全部そこにつぎ込んでいる。これを使えばすっからかん、という感じだ。
このぶんだと、あと一年みっちり働けば、資金はできる。そう私達はふんでいたのだ。
だからもう一年、保ってくれ、とボスOLさんには思わずにはいられない。利己的だとは思うのだが、正直な気持ちだ。
けれどそんな私の憂鬱は、サラダには伝わってしまうらしい。彼女は何も言わないが、バイトしているカフェからケーキを持ってきてくれたり、休みの日など、カードのモデルになって、などおどけて言うものだ。
そして突然の帰省である。
一体何があったのだろう。理由はそれ以上、結局は聞かなかったのだが、駅に着いたら電話してよ、と私は言っておいた。
しかし予定の時間より、何か妙に早い。だってまだ、午後三時にもなっていない。彼女のことだから、私がまだ仕事中だということは知っているだろう。そんな時間に、「着いたから」と言ってかけてくるような奴ではないし、もし着いたなら、ある程度時間をつぶしているはずだ。
なのに。
「もしもし」
小声で答える。上司の目がどうも気になる。ちろり、と一瞬だけ見て、すぐに書類のほうに視線は戻ったが、ぬるり、とした感触が一瞬背中に広がった。
『もしもし、加納美咲さんですか?』
そうですが、と答えてから、私は聞いたことのない声に、一瞬とまどった。落ち着いた、アルトの声だった。
「そうですが…」
言いながら、私は給湯室へとそっと向かった。まあそっと、と言ったところで、たかが知れている。
「どなたですか?」
『菜野がいつもお世話になっております』
「は」
『菜野の叔母で、宇田川まりえと申します』
まりえさん、とサラダが呼んでいた―――彼女の味方だった、おばさん?
「あ… 初めまして」
つい頭も下げてしまう。目の前にそのひとが居る訳でもないのに。
「…あの、それで、何の…」
『えー… 加納さん、今あの子と一緒に暮らしてるんですよね』
「はい。そうですが…」
どうも歯切れが悪い。
『お仕事が終わってからで無論かまわないのですが、あの子の着替えとか、持ってきていただけませんか?』
「え?」
言っていることの意味が、すぐには分からなかった。
『下着とか… Tシャツとか』
「ちょ、ちょっと、何が何なんですか?」
何か、ひどく嫌な予感がした。
「まりえさん、今すみません、あなた、どちらに居られるんですか?」
名前で呼んでしまったことにも私は気づいていなかった。それはそうだろう。私は彼女のことはこの一年間、サラダからよく聞いていた。だから私の頭の中では、彼女はあくまで「まりえさん」だった。宇田川さん、とかそういう堅い名前ではなかったのだ。
『―――市の、市民病院です』
ぐらり、と私は一瞬、目の前が薄暗くなるような気がした。息が、詰まる。
―――市は、東京からそう遠くはないが、まだ一応山梨の部類だ。何で、そんなところに。
『加納さん?』
「な… にが、あったんですか? サラダ、けがでもしたんですか? 事故? それとも病気?」
立て続けに私は彼女に問いかけていた。
『加納さん、ニュースまだ見てない?』
ニュース?
「まさか」
少しの間が、空く。その時私は、彼女の受話器の向こう側では、騒がしい病院の廊下の様子に気づいた。確か、死亡したひとも出た、と後輩OLちゃんが言ってた…
『…あ、心配しないでも大丈夫。命に別状はないのよ。ただ、足をやられて』
「足を」
ばん、と思わずタイルの壁に背中をもたれさせる。
『しばらく動かせそうにないのよ。だからこっちでしばらく入院するってことで』
私はすぐにはまりえさんのその言葉に答えられなかった。ひどい傷を負ったのか、それとも折れたのか、ひびくらいだったら、そんな、しばらく入院ということもあるまい。いや、折ったとしても、東京の、こっちにすぐに移ってくることもできるはず… だけど…
頭の中で、悪い想像ばかりがぐるぐるぐるぐる周り出す。くらくらくらくら。頭の芯が、揺らぎ出す。
『加納さん? ミサキさん!?』
名前を呼ばれて、私ははっとする。声の感じは違うけれど、発音が、サラダと彼女は良く似ていた。
「…だ、大丈夫です。…しばらく、動かせないほどの、ケガなんですか?」
『まだよく判らないのよ』
「判らないって」
『もしかしたら、脊髄のほうにも』
ぞく。私は携帯を握りしめる。彼女の言葉の意味が、私にも想像できた。彼女もまた、それを口にしたくないのだろう。
「…わ、…かりました。できるだけ、早く、そちらに向かいます。あの、住所を教えてください。…それと、今中央本線のダイヤが乱れてるってことですけど…」
そうなのよ、と彼女は言った。
『だからそのあたりも見計らって来てほしいの。…でも無理はしないでね。あなたに無理をさせたことを知ったら、わたしが菜野にしかられてしまうから』
シンク横に置いてある、来客接待用の依頼書を一枚破くと、私は胸ポケットに入れておいたボールペンで、彼女の言う場所を書き取る。全然知らない住所だ。全然知らない地名だ。サラダにまるで似合わないじゃない。
ありがとうございました、と言って私は電話を切った。
時計を見る。まだ二時半だ。何でまだ二時半なんだろう。定時は一応五時だ。忙しい用事は無い。無いはずだ。正直、あったとしても、すべて放り投げて行きたいぐらいだ。
私はそれでも、なるべく平静を装って、自分の席に戻った。冷静になれ、と自分に言い聞かせる。あとどれだけ仕事が残っている? ちゃんと定時で終わらせることができる? 願わくば、何もこの後に入ってこないことを!
ボスOLさんのところに行き、急だけど明日休む、という意味のことを言った。彼女はさりげなく理由を私に聞いてきたので、私は正直に言った。
「同居している友達が事故に遭って… 入院したんです。少し遠いので、仕事終わってから、そっちに荷物とか持っていかなくてはならないので…」
すると彼女は目を大きく見開いた。
「…それだったら、今からでも行ってらっしゃいよ!」
「いいんですか?」
「いいも悪いも」
だとしたら。時計を見る。三時ぐらいだ。上司は席に居ない。
「仕事、急ぎのものは無いでしょう?」
「ええ、まあ今のところは」
じゃあ大丈夫よ、とボスOLさんは言った。
それではすみませんお願いします、と私は頭を下げた。おそらくは「お三時」で何処かでコーヒーでも呑んでいるのではないかと思われる。頭を下げたのは、その上司に伝えておいてくれ、という意味もあった。
慌ててロッカー室に飛び込み、すぐさま着替え、会社を飛び出したのは、その会話から五分足らずだった。
そのまま部屋に戻り、荷物をまとめ、まりえさんの言った病院へ向かうべく、駅へと向かった。
*
病院に着いた時には、既にとっぶりと周囲は暗くなっていた。
いやそれだけでない。その地自体が暗かった。住宅地から少し離れた場所にあるせいか、県境を越えているからか、それは判らなかったが、とにかく外は暗かった。星がぴかぴかと瞬いていた。実家のあるところでも、こんな風に星は見えなかった。
受付でサラダが入れられている部屋の番号を聞き、私は鈍い光の廊下を荷物を抱えて歩き出した。
病院の持つこの雰囲気は嫌いだ。エレベーターの文字盤が、ひどく古いもののようで、灰色の上に点滅するオレンジ色が、背中をぞくぞくとさせる。何が怖い、というのではない。ただ怖いのだ。何がこの先に待ち受けているか判らないせいかもしれない。
病室棟は何やらまだざわついていた。どうやら同類項か多いらしい。荷物を持ち、慣れない足取りでうろうろしている人があちこちで見られる。事故は一体どのくらいの規模だったのだろう。ニュースをちゃんと見てくれば良かった、とあらためて思う。
ダイヤは乱れに乱れていたが、それでも一応列車は動いていた。時刻表を気にしなければ、とにかく待っていれば乗れそうだったので、やってきた列車に乗って行った。
窓の外の風景は、どんどん暗くなっていく。普段そう見ることの無い景色だから、いつもだったら結構見入っていることが多いのに、今日はそれどころではなかった。
言われた部屋の番号をやっと見つけて、そこが個室であることを確認して、ノックした。どうぞ、とアルトの声がした。




