17 めぐみ君出ていく。自傷に行きかかる。
「お帰りなさい」
と扉を開けた彼に、私は言った。あれから会社に行って、だけど定時で帰ってきた。買い物をして、食事を作って。
待っていたという訳ではない。ない、と思う。
「ただいま帰りました。ごめんなさい。連絡しなくて。心配した?」
「まあね」
私は苦笑した。
「休んだの?」
「まさか。でも定時で切り上げたのはホントよ」
「ごめんなさい」
めぐみ君は軽くうなだれた。彼は私が結構いつも残業していることを知っている。別に残業が好きだとは思っていないだろうが、定時で帰るのが厄介な場所だ、ということは判っているのかもしれない。
「…まあいいわ。それより、せっかくあたしも早いのだから、ごはん、つきあってちょうだいよ」
私は立ち上がり、温めるだけにしていた料理に手を出す。コーヒーメーカーをセットする。
「美咲さん」
「ごはん食べてきた? じゃあ、お茶だけでもいいのよ。コーヒー入れるから」
「美咲さん!」
引き止めるような声。私はゆっくりと振り向いた。でも今は、それ以上言わせたくはない。
「いーい? とにかく、食事なのよ」
私はそう言うと、何度かレンジを鳴らした。
彼はテーブルの脇に立って、私の様子を眺めている。背を向けていても、それは判る。
私は自分の側に、ご飯とおかずと、何品か並べて、彼の前にカフェオレを置いた。彼は黙ってしばらくそれをすすっていた。
今日は和食だ。ひじきの煮物に、魚の西京焼き。みそ汁はやっぱり赤だしに限る。
赤だしの香りとカフェオレの香りが混じると、奇妙なことは奇妙だ。
「…出てくって言うんでしょ?」
不意に私は言ってみた。彼ははっと顔を上げた。
不意打ちくらい食らわせたっていいじゃないか。私の手には相変わらず箸が握られたままだったし、手には茶碗もあった。
だけど彼はうん、と即座に返していた。
「そんな気はしていたけど」
「そう?」
「そう。帰ってきた時、そう思った」
「何で?」
「何でだろ? 声が」
「声が?」
「声が、弾んでいたからかな」
彼は首を傾げた。
「めぐみちゃんは、すごく声に出るから」
「出る?」
「あなたを拾った時、何かもう、何をしゃべっていても、どうなってもいい、って感じだったわよ」
「…そう… だったの?」
やっぱり気付いていなかったか。
「そう」
だから私はあえて断定した。
食事を終えた私は茶碗や皿をまとめた。そしてキッチンでミルクティを入れて、また彼のもとに戻る。ミルクは入れない。そういう気分ではないのだ。
「でも、もういいんでしょ? 何がどうあったのか、知らないけれど」
私は目を伏せた。あまり真っ直ぐ彼の顔を見られない。めぐみ君はつぶやいた。
「あなたのこと、好きだったよ」
「ありがと」
「本当。そして感謝してる。あなたが居たから、僕は休むことができたよ。何も考えずに、とにかく、動くことができた。…暖かくて、気持ちよかった」
どうして。
「…気持ちよかったなら、ずっと居れば、いいのに」
どうして、それでは駄目なのだろう。
「でもそれは駄目なんだ」
彼はカフェオレのカップを置いた。聞きたくない言葉が近づいて来るのを私は感じた。
「それじゃあ、駄目なんだ」
彼は繰り返す。顔を上げた私の視界に入ったのは、それまでとは違う視線だった。
「学校に、ちゃんと行き直すよ。…思い出したんだ」
思い出した? ああそうか。彼はもともとデザインをやりたくて上京してきたんだ。兄貴のせいで、遠回りしてしまったけれど、軌道を戻そうとするんだ。
彼はバッグを引き寄せると、中から一枚のCDジャケットをとりだした。テーブルの上に乗せ、私の前に押し出した。綺麗な、写真を加工したデザインだ。
「…これ、あなたが持ってて欲しいんだ。前に僕が作るつもりだったもの。もう用は無いだろうけど、僕は」
彼は言葉を探しているようだった。私もその言葉を待った。待つしか無かった。
「ケンショーのように、ああいう風に、自分の中から、わき出てくる様なものは、僕には無いし、それは歌じゃなかったし… でも、僕は、そこにこうやって『はじめからそこにあるもの』を、並び替えて、別の形に置き換えることはできる… かもしれないから」
はっ、とする。そこにあるもので。
そういう方法で。人の作ったものを利用して、置き換えて、並び替えて、その並び替えという作業そのもので、自分を表現する、ということもあったのか。
私はそのCDジャケットを手に取る。
「めぐみちゃんが、作ったの?」
「うん。これが僕の、今の精一杯」
彼は微かに笑った。
「…別にCDジャケの専門になる訳じゃあないけれど… どんなものをするつもりだか、判らないけど、こういうのが、好きだってことは思い出したんだ。誰に言われるでもなく、好きだったってこと。だから」
「もういいわ」
ひらひら、と私は手を振った。…聞きたくない、と思った。だけど顔は、あえて笑顔を作ろうとする。顔がこわばっているかもしれない。のよりさんの時よりずっと。
あのひとの時は、私がそれでも甘えることができた。だけど彼の場合は。
「だったら、そうよね。あなたもうここに居ることはないわ」
「美咲さん」
「あたしは、守ってやれる子が好きなのよ。あなたもう、そうじゃあないわ」
そう言って、にっ、と口元を上げた。大げさなまでに。
「兄貴に、渡してもいいの?」
「どちらでも。美咲さんの思うように」
その言葉で、既に彼が、兄貴のことが過去になりつつあるのに気付いた。彼は知っているのだ。兄貴はこれを見ても別段自分を追わないだろうということを。既に他人なのだ、と。
「考えておくわ。いつ出てくの? 行き先は?」
「とりあえずは、友人のアハネって奴のとこに転がり込んで…でも長くはいない。すぐに部屋見つけますよ。学費稼がなくちゃ。どこの単位の分からか忘れたけど、まずその欠けてる部分を探して…」
ああ、現実的な問題まで考えてるんだ。
考えに沈み込みそうな彼の前に、私はとん、とグラスを置いた。冷蔵庫から、イタリアのワインを取り出す。
サラダが来た時に時々出すのだ。そうだねあんたの言った通りだ。この子はこうやって、私の手の中から飛び立って行ってしまう。
それがいいことだ、と判っていても。
私は軽く酔ったふりをして、彼にこう言った。
「せっかくだから、おねーさんにキスの一つでもちょうだいな」
「そうですね」
彼はふっと笑った。
「僕は、美咲さん、好きだったよ」
「そういう言葉は、安売りしちゃだめよ」
でも知ってる。この子はそういう言葉を安売りはしない。
そして好きだとしても。それでもその「好き」は、あくまで、それだけなのだ。
*
その日のうちに彼は出て行った。
また一人だ。
壁にもたれて、ぼんやりと向こう側の壁を眺める。そこにはちょうど、何も眺めるものが無い。白い壁が広がるだけだった。ずっと眺めていると、頭の中まで、その白い壁紙のざらざらしたものに埋め尽くされて行くような気がした。ざらざらが、やがてどんよりと溶けて、身体中に溶けだして行く。それが重くて、動けない。
ばん、と動いた拍子に、腕の裏側が壁にぶつかった。
「…」
そのまま私は、何度か壁に腕を打ち付けていた。何か考えていたという訳ではない。何も考えていなかった。ただそうすると、何となく、落ち着くような気がした。
誰かが悪ければ、少しは楽なのに。
無論兄貴に責任を転嫁することはできる。
だけど結局それは、兄貴とめぐみ君の問題だったり、兄貴がそういう人間だということを知って付き合っていためぐみ君自身の問題だったり、…つまりは一人一人の問題に収束してしまうのだ。兄貴は誰であっても「自分の声」である相手に惚れてしまうし、めぐみ君は軌道修正し、私は。
私は。誰でも良かった。私を抱きしめてくれる手であれば。だから、抱きしめ返してくれることを期待して彼等を拾った。抱きしめた。
けれどそんな風にして抱きしめた相手は、必ず。
ばん。
ばんばんばん。
何度か、私は壁に腕を打ち付けた。何度も、何度も打ち付けた。喉の奧から、何かが突き上げてくる。熱い、何かがこらえられない声を伴って、突き上げてきた。
「…!」
私は床に転がっていた。ばんばん、とそのまま手を、腕を床に叩きつけながら、声にならない声で叫んでいた。泣いていた。
何で。何で何で何で。
何が間違っているというのだろう。何かが間違っているとは思う。だけど私にはそれが何処なのか判らない。判らないのだ。
どうすれば、私を抱きしめてくれる相手と、ずっと居られるんだろう。男でも女でも、そんなこと、問わない。どうでもいい。ぎゅっと強く、ただ私を。誰でもない私をぎゅっと強く抱きしめてくれる、誰かが、どうして。
知らず、私は自分自身を抱き込んでいた。転がったまま、胸が苦しくなるほどに、ぎゅっと自分自身を抱きしめていた。ぜいぜい、と喉が鳴る。声にならない声が洩れる。助けて。誰か助けて。
このままでは、上手く息もできない。
そう思った時だった。
ぴんぽんぴんぽん、と勢いよくチャイムが鳴った。
何だろう、と私はその時ぼんやりと思った。それが何なのか、すぐには思い出せなかった。
それでもぴんぽんぴんぽん、とチャイムは繰り返し繰り返し鳴る。ああチャイムだ、と気付くのには、それがあと十回くらい鳴るのが必要だった。
私はぼうっと天井を眺めながら、その音の意味をしばらく考えていた。ぴんぽんぴんぽん。
…誰かが扉の前に居る。
のっそりと腕で身体を支えて、起きあがり、引かれるように扉に近づき、Pタイルの上に裸足で立つ。のぞき穴ものぞかすに、私は扉を開けてしまった。
「…居たっ! ミサキさん無事!?」
その声が、その顔が、その姿がサラダだ、と認識するのに、十秒くらい掛かった。
「…壁がどんどん殴られてるような音がするし、何かそのうち他のとこからも変な音するし、何かもしかして、ミサキさんのとこに強盗でも入ってるんじゃないかって思ってそのあのこの」
言葉の端がしどろもどろだ。よほど焦っていたのだろうか。足のサンダルがちぐはぐだ。
「…上がって…」
私は思わずそうつぶやいていた。手を差し出す。その手を見見て、彼女ははっとする。どうしたのよこれ、とサラダは私の目の前にそれを差し出す。
「真っ赤じゃないの。熱いじゃないの!」
何を怒っているのだろう?
「ミサキさんが、叩いてたの?」
どうしてそんな、泣きそうな顔をしてるのだろう?
「答えて。どうしたの一体」
どうしたの一体と言っても。彼女は後ろ手に扉を閉め、鍵を掛けると、勝手知ったる私の部屋に、部屋の主の手を取ったまま、奧へ奧へと入って行った。きょろきょろと辺りを見渡し、ああそうか、という顔をした。
「…彼、出てったのね?」
彼。誰のことだったっけ。私はふと考える。ああそうだ。彼だ。めぐみ君は出てった。確かにそれは事実だ。私は黙ってうなづく。
「だからってどうしてあなたが、自分を傷つけるのよお!」
ぎゅ、と赤く染まった手を、彼女はそっと両手でくるむ。やめて、と私はその手を思わず払っていた。中途半端な、同情なら要らないと思った。
だけど彼女は払われた手をもう一度掴んだ。
ぐっ、とその手を強く掴んだ。逃げるなよ、とばかりに掴んだ。
体温が、伝わってくる。熱を持った手より、それは熱い。
「そんな、好きだったの?」
彼女は問いかける。そういう訳じゃない。彼が、特別好きだった訳じゃない。それはサラダもよく知っているはずなのに。
だけど彼女はそれ以上言わなかった。言う代わりに、その手を強く引き寄せ、私を強く抱きしめた。何て力だろう。膨らんだ胸が、ぐい、と私の胸に押しつけられる。何って圧迫感。何って、苦しい。
そして、何って、心地よい。
殺されてしまうんじゃないか、と思う程の、強い力で、彼女は私を抱きしめている。
「…もうやめてよ」
耳元で、声が聞こえる。その言葉に、声に、心臓が跳ねた。張り付いた胸がじっとりと汗ばんできそうだ。
「どうして誰かのことで、あなたが傷つかなくちゃならないのよ… どうして自分の身体を傷つけなくちゃならないのよ… そうせずにいられないのは」
わかるけど。
そういう言葉が、隠されている。私ははっとした。
頭の焦点が合う。
動けない程の、息もつけないくらいの強い力に、うっとりとしながら、私の頭は急激に回転を始めていた。
「…教えてよ」
唇が、そう動いていた。
「あんたのことを、教えてよ」
「ミサキさん?」
「あたしのことを好きだというなら、あんたのことをもっと教えてよ。どうしてあんたはあたしが好きだというの?」
どうしても、理屈を求めてしまう。
「それとも、あたしにもそれは言えないって言うの? しつこいのは嫌いだって」
「別にそういう訳じゃないよ」
腕の力が、少しだけ緩む。私はぐい、と彼女の両肩を押さえ、真正面に向き合った。
「ただ、聞いても仕方がないと思っただけ」
「だったらどうしてちゃんとこっちを向かないのよ」
少しだけ彼女は嫌そうな顔をする。だけど視線は合わせてきた。
「言えば、ミサキさんはあたしを信じる?」
「信じるってうなづけば、それでいいの?」
「いいわよ」
彼女は言い切った。
「だったら言うわよ。でも何を聞きたいの?」
「何で地元のことを話さないの?」




