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15 辞める同僚のひと、出ていく予感のめぐみ君

「また、よね?」


 夕方、サラダは私が居てめぐみ君が居ない時間を見計らったかの様にやってきて、そう言った。


「いいけどさあ」

「…何を言いたいのよ」


 私は含みのあるその言い方に、少しばかり嫌気を覚えた。


「別にいいんだけどさあ。だけど同じこと繰り返されるのは嫌だよ?」

「同じこと?」

「だって、まえにやっぱり元ヴォーカリストのひと、泊めてたことあったじゃない。ミサキさんが好きならそれはそれでいいと思ったけどさ、だけど出てったじゃない」


 そしてこういう時のサラダは、絶対に上がろうとしないのだ。タイル張りの床に立って、向こう側を見渡しては、それ以上立ち入ろうとはしないのだ。


「…そんなこと…」

「判ってる? ミサキさんいつも、おにーさんの後始末しているようなものじゃないの」

「違う…」

「あたしから見たら、そう見えるんだってば!」


 私は黙って首を横に振った。違う。違うのだ。ただ、あんな風に、私を頼ってくれるものがあると、私は、その手をどうしても取りたくなるのだ。

 求められていることに、どうしようもなく弱い。弱いのだ。


「じゃあ今の…名前忘れたけど、あのひとは、ずっとここに居るの? そうじゃないでしょ?」

「それはそうだけど」

「それはそーよね。理由なんかあたし知らないけれど、逃げてきたヴォーカル君は、立ち直ったら出てくでしょ。出ていかなくちゃならないわよ。だってミサキさんじゃなくてもいいんでしょ」

「でもあたしが兄貴の妹だから」

「じゃあミサキさんじゃなくたっていい訳じゃない。おにーさんの妹、なら」


 ぐっ、と私は詰まる。瞬間、自分の声が必要であって、自分でなくてもいいんだ、と言う意味のことを言っためぐみ君の言葉が重なる。


「そういうのって、何か違うよ。それじゃあ、いつまで経っても、ミサキさんはおにーさんの捨てた子を拾って、それにまた捨てられるんじゃない。それじゃあ、良くないよ」

「だけどあたしのことよ」


 私は言い返した。


「どうしてそれを、サラダがどうこう言う必要があるの?」

「好きだもの」


 さらり、と彼女は言った。


「あたしはミサキさん好きだもの。だからそういう風に、ミサキさんが結局傷つくの見たくないんだもの。それは理由にならない?」

「好き?」

「一緒にいて、楽しいもの。気持ちいいもん。そういうの、好きって言わない? そういうのが好き、だったらあたしの今の一番の『好き』はミサキさんだよ。だからミサキさんが近い先に、落ち込むの判ってて、続けてるのなんて、見たくないよ。それっておかしい?」


 は、と私は頭の中がまっ白になるのを感じた。そういう言葉が、彼女から出てくるとは思わなかったのだ。どう答えたものなのか、上手く頭の中で、言葉が出てこなかった。答えるべきなのかどうかも、判らなかった。

 しばらく、二人とも玄関先で黙ったままだった。


「…帰るねあたし。別にミサキさんが、それでいいなら、いーんだよ。でも」


 でも。サラダは扉を閉めた。

 彼女の足音が遠ざかり、隣の部屋の扉を開けるのを確認したら、ずる、と足の力が抜けた。

 えーと。

 私は言われたことの意味を何度か自分の中で整頓する。でも整頓、という程整頓するものもない。サラダが言っていたのは、一つのことだけなのだ。

 私のことが好きだから、私が傷つくのを見たくない。

 それは判る。判るのだが。私にどう反応しろ、というのだろう。

 くたくた、とそのまま玄関に座り込む。冷静になれ、と自分に命令する。サラダが言っているのは、別にややこしいことではないのだ。友達だから、心配しているのだ。それ以上のことじゃない。ないはずだ。

 だけど彼女は私がのよりさんとしばらくそういう仲だったことを知っている。そういう私であることを知っていた上で、あんなことを言うのだろうか。

 どうしよう、と思った。

 そして、しばらく頭の中がまっ白になった。ぼうっとしたまま、Pタイルのマス目を数えていた。数えているのだが、それが幾つなのか、どうしてもまとまらない。

 12を十五回ほど数えた時に、ぴんぽん、とチャイムが鳴った。私ははっとして立ち上がる。のぞき穴から見ると、めぐみ君が立っていた。彼には合い鍵を渡していない。所在なげに立っている彼をそのままにはしておけない。私は鍵を開けた。


「ただいま、帰りました」


 ほうっ、と私は自分の表情が緩むのを感じる。彼はここからバイトに通っていた。ずいぶんとその仕事ぶりは熱心で、私から見ても感心するくらいだった。

 何か目的がある時、皆仕事の内容になど全く関係なく熱心になる。彼にも何か目的があるのだろう。それはサラダが言うように、いつか私のこの部屋を出ていくことであることは、まず間違いはない。いつまでもここに居ることはできない、と彼もきっと言うのだ。

 そして私は置いて行かれる。それは判っている。判っているというのに。

 疲れて帰ってきたのに、それでも笑顔を見せようとするこの子に、食事を作ってやったり、一緒にお茶を呑んだり、時には抱きしめたり抱きしめられたりすることから、離れられない。向こうがそれを必要としていることが判るから、余計に、私はそれを利用してしまうのだ。自分の中の、ぽっかりと空いた部分を、それで埋めようとしてしまうのだ。

 少なくとも、彼が目の前で必要としているのは、私なのだ。私しか、いないのだ。他の誰でもない。私が兄貴と似た部分があろうが無かろうが、とにかく、私なのだ。私が彼に必要とされているのだ。その目で。その手で。

 そこに関係は必要無いのかもしれない。たぶん必要は無い。少なくとも私は必要としていない。抱きしめたり抱きしめられたりすることは欲しいが、それ以上である必要は無い。ただ、それ以上で無いと、何となく落ち着かないから、そうしている時もあるが、…それだけだ。


 無くて済むなら、SEXなんて要らない。



 ある朝、会社へ行ったら、いきなり仕事がてんやわんやになった。何事か、と思ったら、いつの間にか、社員の行き先ホワイトボードから一人消えていた。あの割と自分の好きなように仕事をしていたひとだ。

 何でいきなり、と皆唖然としていた。ただ、上司とボス的OLさんには既に伝えてあったようで、彼等は憮然とした顔をしていたが、驚いた様子は無かった。

 だが私達には寝耳に水だった。仕事の直接のしわ寄せは来なかったが、彼女がサポートとしていた仕事の一部が、「手が空いたらやっておいて」と私に少しばかり回ってきた。

 一体何で、と私は№2のOLさんに聞いてみた。ボスの彼女に直接聞いても、何かしらはぐらかされそうな気がしたのだ。


「詳しい事情は知らないけれど」


と言いつつ彼女は結構詳しく教えてくれた。


「何でも、うちの仕事の後に、他のことやっていて、そっちのほうでいい感じになってきたから、そっちに集中するんだって」

「他のこと?」

「いつも定時で帰ってたでしょ? あれって、デザイン会社のほうにあの後行ってたんだって。彼女パソコン使えたじゃない。あれで、そっち関係の仕事探したんだって」

「げ」


 私は目を丸くした。仕事の後にまた仕事!


「よっぽどその仕事、好きなんですねえ」

「私とあのひとは入ったのがそう変わらなかったんだけど、さすがに聞いてびっくりしたわ。だって、もう五年も前から二足のわらじだったって言うのよ。まあよく休むなあ、とは思ってたけど、別に有休の範囲だったから、それはそれだろうと思ってたのにね」


 はあ。そうなると呆れるより感心してしまう。自分のやっていることを隠しておいて、周囲の目も何のその。それで自分のしたいことのほうにするりと移れるとは。


「…まああの性格だからできたんでしょうね」

「性格?」

「私なんか、何だかんだ言って、周りの口とか気にしてしまうし。別にここで定年まで勤めていられる訳でもないのにねえ」

「え、ずっと勤めてるんじゃ」

「いくら何でも、私だっていずれは結婚したいわよ」


 彼女はにっこりと笑った。別にしたくない訳ではないのだ。


「ただ何かいまいちチャンスが無いからしないだけで、もしかしたらいきなりお見合いとかしてしまうかもしれないし。そしたらうちの会社なんて、子供ができたらやめ、だから先なんて見えてるじゃない」

「まあそれはそうですが」

「だから彼女みたいのも一つの手なのよね。男のひと達と違って、ここじゃ頭打ちなのは目に見えてるんだから…」

「でも…さんは」


 私はボス的OLさんの名を出す。すると手をひらひらと振られた。


「ああ、彼女は別別。あのひとはちゃんと昇級試験受けたい、とか上司に言ってるのよね。それにダンナの同期とかが結構出世コースだし」

「…うーん」

「でもいいのよね。わたしは別に出世したい訳でもないし。まあ腰掛けだから」


 どう答えていいものか、私は困った。

 困って結局何も言えなかった。



 昼休み、ロッカー室に行ったら、その当の彼女が荷物を引き取りにやってきていた。


「あ、突然でごめんねー」


 あまり話したことがないから、扉を開けたら唐突に言われた言葉にびっくりした。


「い、いえ…」


 普段ブラウスにスカート、でやってきていた人が、髪をざっと結んでジーンズで荷物を段ボールにまとめていた。ひょい、と上げた顔は、知っている顔より化粧気が無かった。…このひとこんなにひょうきんな声だったんだろうか?


「前々から正スタッフにならないかって言われてたんだけどさー、なかなかふんぎり付かなかったんだよねえ」

「そういうものですか?」


 私は彼女の隣の隣のロッカーを使っていたので、必然的に彼女に近づいていくことになる。


「そうそう。だってまあ、一応少しだけど昇給とかしてたじゃないですか。あっちの仕事のほうが楽しいけど、さすがに小さいとこだから、ちょっと不安だったしねー」

「はあ」


 私はただうなづくしかない。


「だけどさー、面白くないことやって疲れてる程、あたしも若くはないしさー」

「え」

「だってそうじゃん。毎日毎日打ち込みとかしててもさあ、向こうの仕事してても肩はこるし目は疲れるし。同じ疲れるんだったら、あっちで疲れるほうがあたしは気分いいじゃん。それに向こうの連中のほうが気が合うし…ってあ、ごめん」

「いえ…」

「ここのひと達が悪いって訳じゃないよ。むしろいい人ばかりなんだけどさ、ただ、どうしても、判らないんだよね」

「判らない?」

「あたしの知ってるもの、とみんなの知ってるもの、って何か違う世界のもののようでさ。話合わせられる程器用じゃないし。かと言ってあたしの知ってる範囲のことって口にしても、みんな退くじゃん」

「ってどういうことですか?」

「だから例えば、澁澤達彦がどうとか、寺山修司がどうとか」

「え」

「…って反応するじゃない。アングラ演劇がどうとか、新宿のライヴハウスは、とか学生運動の時代性は、とか色々あたしの中には話せる人と話したいことがあるんだけど、どう転んだって、そんな話すると退かれるのは判ってるし」


 …確かに。


「で、逆にあたしはあたしで、バーゲンがどうとか昨日のTV番組はとか判らないんだよね。普段見ていないし、行くような服屋も決まってる訳だし」

「TV、見てないんですか?」

「だって見なければ見なくて済むし。同じ時間使うだったら、目を取られてるTVよりは、音楽流してたりFM聞いてたりするほうがいいし。あ、加納さん音楽何か好き?」

「…兄貴が、バンドやってるんですけど」


 私はこの会社の中で、初めてそのことを口にした。


「へー? 何だ。もっと早く聞けばよかった」


 いやでも、それ以前に聞かれたら、私はまず言っていないだろう。


「何処のライヴハウスとかでやってるの?」

「えーと」


 私は知ってる限りのライヴハウスを口にした。うなづく彼女の目はいっそう大きくなる。


「何だ。あたし行ったことあるよ」

「ええっ」


 よくすれ違わなかったものだ、と私は一瞬血が引くのを覚えた。


「ふうん。話してみなくちゃ判らないこともあるんだよねえ」


 全くだ。


「ま、何か印刷屋が必要になったら一度電話してよ。そのお兄さんにも」

「印刷屋?」

「デザイン会社ったって、元々は印刷屋だよ」


 あはは、と彼女は笑った。


「バンドが、印刷屋に何を…」

「あれ。だって色々やってるよ、皆。フライヤーだってCDジャケだって、デザインがいいもののほうがいいに決まってる」


 そう言えば、めぐみ君はデザイン学校に通ってたはずだ。確か最近のRINGERの配布カセットのデザインは彼がしていたのだ。


「…そうですね」

「それにしても、ホント、話さなくちゃ判らないよねえ」

「でもそちらも、怖かったし」

「怖かったあ?」


 あはは、と彼女は再び笑った。普段表情が少ない人だと思っていたのに。

 それだけ、この空間は居心地が悪かったのだろう。

 けど、私にとって果たして居心地がいいのか、と言うと。それも実はもう判らなくなってきていた。



「顔色良くないよ、美咲さん」


 ある朝、めぐみ君がそう言った。そう? と私は答えた。実際あまり調子が良くない。生理のせいか、とも思ったが、それともいまいち違う。

 大丈夫よ、と彼には言ってはおく。何となく、めぐみ君には心配させたくはない、と思った。もっとも彼も、今のところは自分のことで手一杯だろうから、私が平気だ、と言えばそう思ってしまうだろうが。


「ホントに大丈夫。ちょっと日とお天気が悪いだけ」

「…ならいいけど」

「それより、バイトのほうどう?」

「うん、こないだキッチンからフロアに変わったんだ。そっちの方が時給がいいし」


 へえ、と彼の手にカフェオレを渡しながら私は感心した。めぐみ君はレストランだか飲み屋だか判らないが、とにかく飲食関係にバイトしている。

 煩わしいことが嫌で、彼はいくら勧められてもキッチンの方に居たのだ、ということを兄貴から聞いたことがある。

 可愛い顔をしているから、フロアに出た方がいい、とそこのマスターは思ったのだろう。私だってそう思う。だけど夜、バンドでステージに出るような生活だから、普段は地味に働いていたかったのだと言う。その気持ちも分からなくもない。


「どういう心境の変化?」


 私は紅茶を入れる。牛乳をたっぷりと入れる。コーヒーもいいが、立ちくらみや目眩が頻繁なことから、刺激物は少し控えていた。


「んー… 何となく。ちょっと忙しくしていたかったし」


 彼は答えをにごした。おそらく彼の言うことも本当なのだろう。考える間が無いほど身体を忙しく動かすというのは、結構有効だ。


「それに少し、ちゃんとお金貯めないとね」


 今度は私が黙った。おそらくそっちが本音だろう。彼はここから出ていくために、その資金を急いで貯めようとしているのだ。

 東京で一つ部屋を借りるには、ある程度の資金が必要だ。どうがんばっても、普通の部屋代の四~五ヶ月分は軽く必要になってくる。安い部屋、と言ったところで、私の故郷とは違う。

 彼がなるべく長く店で働く理由には、そこで出る食事のこともあるらしい。忙しい仕事でも倒れない食事が、それでもそこで働いていれば、出る。食費を削ろう、としている彼の意気込みが感じられる。

 私のところで食べていることも、住んでいることも、彼は口にはしないが、心苦しく思っているらしいことは、判る。私にしてみれば、彼が毎日居ることは、正直、嬉しいのだが…

 私がそう口にしたとしても、きっと彼はそう受け取らないだろう。のよりさん以上に、彼は自分のことで手一杯だ。私の気持ちまで、考えてる余裕は無いだろうし、その必要も無い、と思う。

 …正直、あれから彼と何度か寝てたりもする。何でそうするのか、私にも彼にもよく判っていない部分がある。のよりさんの時とは違い、彼は自分から手を伸ばそうとしてはいない。

 かと言って、私が積極的に彼を好きだ、という訳でもない。ただずるずると、何となく、寒いから寂しいから、で手を伸ばすと、何となくお互いにその気分が判ってしまうのだ。そしてそのままなし崩しだ。

 …睡眠不足? もあるのだろうか。だとしたら、この立ちくらみや目眩は。

 とりあえず薬局にでも行って、ピタミン剤でも買っておこう、と思った。そんな安直な方法を取るのはあまり好きではないのだが、普段起こるものではないだけに、少しばかり困っているのだ。


「あんまりがんばりすぎて、身体壊さないようにね」

「それは美咲さんの方も」


 私達は、黙った。点けっぱなしのTVが天気予報に変わった。明日は、雨だ。

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