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14 めぐみ君、第三の逃亡者となる

 また冬を越えた。

 相変わらず寒い日はあったし、そのたびに目覚めの早い朝だってあった。だけど前の年よりはましだ、と私は思っていた。

 白くペンキで塗られた同じ形の立方体ボックス家具の中には、カラフルだけど鮮やかすぎない背表紙の料理の本が並んでいる。

 サラダの見る夢が、それでもじわじわと私の中に染み込んでいるのは確かだ。夢は見たい。それが実現するかどうかは判らなくても、夢見ることはいいことだ。少なくとも、その時の私の気持ちは暖かくなる。

 無論、実現させるために動かなくては、夢はただの夢想に過ぎない。まだ夢想の段階だ。それが「まだ」という段階で言えるのか、永遠に夢想のままなのか、それすらも判らない。ただ、夢想に終わるにしても、知識や技術を取り込んでおくことは悪くないはずだ。


 月曜の朝。昨日はサラダと丸一日、遊んだ。土曜の夜にごはんを食べて、泊まっていって、日曜の朝にコーヒーを呑んで。お昼には買い物に出た。

 彼女のこの日のお目当ては、家具だった。無論買う訳ではない。物色だ。新しいけれど、シンプルでリーズナブルな価格の家具を売っているチェーン店や、あちこちのリサイクルショップやセンターをはしごした。

 リサイクルショップでは、小さなものを買い込んだりもしている。例えばダストボックスになりそうなブリキ缶。たとえばセットだっただろうガラスびん。

 暖かくなりかけたばかりの街を意味があるんだかないんだか判らない話をとりとめもなくしながら、二人して歩いた。疲れたら目についたカフェで休んで、持っていたポラロイドカメラでのシャッターを押す。適当にとった写真というのは、結構後で見て、味があったりするものだ。

 いつの間にかどっさりと増えてしまった荷物を手に、夜はまた一緒に作った。サラダもここのところ、割と自分で料理するようになったらしく、覚えたばかり、というパスタの新作を作ってくれた。


「あたしさあ」


 かぼちゃクリームのパスタを口にしながら、彼女は切り出した。


「やっぱりこういう日が好きだなあ」


 しみじみと言うか。


「お天気はいいし、何か暖かくなってきたし」

「花もそろそろ咲くよね」

「今年はお花見に行こうよ。お弁当持ってさあ。花の写真も撮ろうね」

「でも公園とかだと花見客がうるさいよ」

「そしたらそういうとこじゃなくて、もっと地味なとこでさ。ねえ、美味しい食事と、友達と、だらだらとした時間。それが一番いいよね」

「そーだね」

「だから食後のコーヒーは入れてね」


 はいはい、と私は笑った。

 春先と言えば、会社は年度末で忙しい。本当に忙しかった。

 定時なんて夢のまた夢、遅くなってしまって、スーパーは閉まってる、なんてことが多かったので、いきおい私も、主義を曲げてコンビニ弁当に頼るような日々が多かった。おかげで背中がだるい。

 身体の疲労は気持ちも沈ませる。ついつい物事を嫌な方嫌な方へと持っていきやすい。帰ると食事をして風呂に入ったらもう寝るだけの生活。電話の一つもしていなかったのに気付いたのは、サラダから携帯電話にメールが入ってたからだ。

 週末ひま? という短いメールだったが、私はすぐに返した。暇は作るから。

 仕事は根性で、休みにもつれ込まないようにした。

 そんな週末だったのだ。

 そしてまた月曜。ブルー・マンデーと昔から言われているが、どうして仕事なんか行かなくちゃならないのかなあ、と起きた時のけだるさの中、私は漫然と考えていた。

 それでも朝の短い時間の中、放り込んでおいた洗濯物を干そうとして、ベランダに出た。


 と。


 うちのベランダからは、公園が見える。季節の花の移りかわりも、そこから気付くくらいだ。

 大きな桜の木の下にベンチがある。夏だと葉に隠れて見えないのだが、まだ花をつけるかつけないか、という季節の今は、枝のすきまからよく見える。

 そのベンチに、誰かが座っていた。何となく、見覚えのある色の服。ちょん、と座って、両手で缶を持っているように見える。小柄な。


 めぐみ君!


 何で、と私は思った。だってそうだ。確か、昨日、珍しく酔っぱらった兄貴から、夜中いきなり電話が来たのだ。サラダも帰った後で、退屈半分、心地よい疲れの中、ぼうっとしていた時だったので、何なんだこいつ、と思いながら聞いていたものだ。

 そしたらその内容ときたら。


 おい美咲聞けよ聞いてくれよ、あのPHONOからお誘いが来たんだぜ。


 ふぉの? とその単語を聞いた時、それがあの大手レコード会社の名前とは結びつかなかった。何を言ってるんだ、と黙ってハイテンションの兄貴の言葉をしばらく聞き流していた。


 お前ちゃんと聞いてるのかよ。


 はいはい聞いてます。だから? と私は問い返した。


『だから、メジャーデビューなんだよ』


 は。

 その時やっと、単語の意味を理解したのだ。そりゃまあ、兄貴が、あの兄貴がこうもハイになる訳である。それがゴールとは言わないが、とにかく彼にとって、「まず」乗り越えなくてはならない一つの壁であったことは確かだろう。

 流通とかの面で、今はインディーズとメジャーの差は少なくなってきている、とは言ったところで、やっぱりバックがあると無いでは全然違う。

 それはおめでとう、とあらためて私は言った。多少複雑な気持ちではあったが、おめでとうというのは正直な気持ちだ。これだけ私や親やら代々のヴォーカリストやら周囲をかき回しているのだから、それが成果として形になってもらわないと気が済まない。

 それじゃまたな、と言って兄貴は電話を切った。ふう、と私は息を一つつきながら肩をすくめた。それがため息なのか、深呼吸なのかは私にもよく判らなかった。

 …そんな翌日なのに。何であの子は。


 私は仕事に出る服に、サンダル一つ引っかけて、公園へと走った。ストッキングにサンダル、は夏じゃないんだから少し寒い。カッカッ、と音が朝の通りに響く。

 公園の入り口に差し掛かった時、彼が立ち上がったのが見えた。急がなくては。

 私の姿を認めためぐみ君は、その場に棒立ちになった。


「美咲さん…」

「やっぱりめぐみちゃん? なのよね? どうしたの? こんな時間に」


 白々しい程の言葉が私の口から漏れる。こんな時間に、そんな顔して居る、ってことは。二度あることは三度ある、なんて言葉、ここで使いたくはなかったのだけど。


「どうしたの、って… 美咲さん、今から会社でしょ? 急がなくていいの?」


 ああ全く。この子は一体何を言ってるのだろう。こんな時に私の心配などしなくてもいいのに。

 私はふと彼の姿をざっと見渡して、顔を歪めた。これはまずい。

 何がまずいと言ったって。服をだらしなく着ていることではない。フローダウン、という奴だ。何でそれに気付かないのか。


「こっち、いらっしゃい!」


 私は思わず彼の手を強く引っ張っていた。だらんと力の抜けためぐみ君の手は、思った以上に柔らかかった。そのまま私は彼を自分の部屋まで引きずって行った。

 自分の階まで、音を立てて上がって行ったら、隣の扉が開いた。サラダと一瞬目が合う。思わず私は逸らした。

 何で逸らさなくてはならないのか、判らなかった。だけど、何となく、そうしてしまった。扉が閉まる気配がした。


「美咲さん」


 部屋に入れたはいいが、立ちつくしているだけの彼に、私は慌ててクローゼットを開けて、バスタオルと大きめのTシャツを渡した。


「…どうしたのいったい」

「いいから」


 全くもう。この子は自分の状態というのを、本当に理解していない。あれであのまま、通勤通学の人達が通りだしたらどうするつもりだったのだろう。よりによって、今彼が履いているのは、ベージュのチノパンなのだ。


「いいから。とにかく、シャワー浴びて」


 彼は言われるがままに、バスルームへと入って行く。


「使い方、判る? …ああ、シャワー出せばいいだけだからね。そうしてあるから、適当に、使って」


 それでもまだどうしていいのか戸惑っているような彼に、私は洗濯機横のバスケットを指さし、とどめの一言を投げた。


「脱いだらそこに入れておくのよっ!」


 ああ全く。突っ張り棒で作ったカーテンを閉めて、私はキッチンの椅子に座り込む。時計を見ると、そろそろいつもだったら通勤する時間だった。

 …だが。

 何でよりによって、月曜日なんだろう。少し迷って、私は会社に電話を入れた。今の時間で誰か居るだろうか、と少し考えるが、会社が大好きなひと、というのは、だいたい誰かしら一人は居るものだ。

 案の定、あのボス的OL様が居た。

 何と理由をつけようかな、と思いながら、疲れた声でおはようございます、ととりあえす言う。すると向こうの方から、あらひどい声風邪でも引いたの? と聞いてきた。その理由を使わせてもらおう。


「…ええそうなんです、すみません今日一日休ませて下さい…」


 普段病気で休むなんてことは無いから、たまの嘘は有効だ。そうなの最近忙しかったものねお大事に、という向こう側の声を聞いて、受話器を置く。そして一度着た通勤用の服を脱いだ。

 どうしたものか、と思いながら、とりあえずキッチンに立つ。あの様子では、まだ朝ご飯は食べてなさそうだ。

 空腹の時に、人間はロクなことを考えない。ごはんは大切だ。とにかくコーヒーを入れる。オーブントースターに、チーズを乗せたパンを置く。卵を割って、塩コショーを入れてよくかき混ぜておく。ブロッコリを小房に分けておく。

 そして彼が出てくるのを、コーヒーを呑みながら、新聞を見ながら待った。…ろくな番組が無い。

 彼の服は、洗濯機にまるごと放り込んだ。

 やがて出てきた彼は、私が部屋着にもしている長いTシャツが何故かぴったりだった。


「乾燥機、もう少しで仕上がるから、もう少しそのままで居てよね」


 バスタオルを頭にかけて、ほっこりとした顔で彼はキッチンの私のほうへやって来る。そっち、と私は六畳の方を指した。彼は素直にそちらへ行き、ちょこんと座る。

 オーブントースターのタイマーをセットし、スクランブルエッグを手早く作る。ブロッコリもレンジに入れる。そしてその間に、マグカップにミルクを半分入れたコーヒーを入れ、彼の前に置いた。


「…仕事は?」


 私の恰好を見て、彼は問いかけた。


「あたしは今日は、いきなり風邪をひいたのよ」


 ああそうだ。こんな一枚だけでは風邪を引かせてしまう。私はベッドから毛布をはぎとると、彼をすっぽりとくるんだ。ふっと自分の匂いがそこには一瞬漂ったが、まあ仕方がない。

 大きな毛布にくるまれた彼は、いつも以上に小柄に見える。この身体を、兄貴はいつも抱きしめていたのだろうか。私が知っている誰よりも、めぐみ君は大事にされていたような気がする。ステージの上でも、ステージでない所でも。

 そう言えば一度、見たことがある。ライヴハウスの廊下で、今日の出来は良かった、という意味りことを言いながら、ぐい、と彼を引き寄せてた兄貴の姿。その力の入り具合が、何だか妙に、うらやましく思えた。兄貴の腕が、ではなく、誰かの腕が、あんな風にぎゅっ、と捕まえてくれることに、何となく。


「ほら食べて。食べるの」


 勝手に湧いてくる考えをうち消すように、私は用意した朝食を次々に彼の前に並べた。

 何となく首を傾げていた彼は、食欲など無かったのかもしれない。だが、一度手をつけたら、次から次へと彼は手をつけて行った。彼自身、それに驚いているようだった。

 私はTVを点けて、音は小さくして、その画面と彼の間に視線を往復させる。朝の番組というのは何でまあ、何処も似たりよったりなんだろう。滅多に見ることがないのに、いつも同じ感想になってしまう。


「服… もう乾いたかな…」


 食事を終えた彼は、ぼそっとつぶやいた。私はそれには答えずに、こう問い返す。


「逃げてきたの?」


 彼ははっとして私を見た。


「そうなのね?」

「逃げてきたって、僕は、あ…」

「…ああ、別に、ケンショーが嫌なことしてどうの、って言う気はないわよ。こう言っていいのかな? 『またか』」

「美咲さん」


 泣きそうな顔。そんな顔していること、彼は知っているのだろうか。


「長く続いてほしい、ってあたしも思ったんだけど、やっぱりだめだったんだ」


 私はTVのスイッチを切った。


「美咲さんは… そうなる、って思ってたの?」


 私は黙ってうなづいた。


「それでも、のよりちゃんよりは続くと思ってたし、今度は、メジャーに行くまで続くと思ったのよ」

「メジャーに行く、って話、出たんだ」


 ああ、と私は声を上げた。ややわざとらしい。そんなこと、昨夜のうちから知っていた。なのに出たのは、こんな作り言葉で。


「とうとう、やったんだ… あの馬鹿…でも、どうして、なのに?」


 私は首をかしげ、少し眉を寄せる。すると彼は、ほんの微かに首を傾げ、やっぱり微かに、笑った。


「僕はメジャーで、通用しないから」


 そんな顔で、あっさりと。私は首を横に振った。


「でもあたしはめぐみちゃんの声も歌も、好きよ? 今までの歴代のヴォーカルの中では、一番よかったと思うわよ?」

「それでも」


 彼は首を横に振った。


「うまく、説明できないんだけど、僕は、駄目なんだ」

「駄目って」

「駄目なんだ!」


 だん、と彼はテーブルの上で、こぶしを握りしめ、叩きつけた。


「僕は、ケンショーが思うように、歌えないよ」

「それはそうよ。めぐみちゃんは、あいつじゃないもの」

「だけど、僕は、僕の言葉なんか、持ってない。ケンショーのように、伝えたいことなんて、ない。歌でなんて、絶対にない。そんなうた、誰が聞きたい? 少なくとも、僕は聞きたくはないよ。僕は僕が聞きたくもないような歌、人に聞かせるなんてやだ。そんなのは、何か違う。何か違うよ!」


 彼は一息に吐き出した。そして、自分の剣幕に驚いたのか、慌てて、こう付け足した。


「…あ… ごめんなさい」


 何でそこで、謝るのだろう。胸が痛くなる。私はふと、こうつぶやいていた。


「…何で、あの馬鹿は、こうやって、いい子をどんどんつぶしてくんだろうね」

「つぶしてなんか」


 反射的に彼は首を横に振っていた。


「少なくとも、傷つけてるじゃない」


 そうだ。それも、自分が全く意識が無いうちに。なのに、傷ついた本人は、こう言うのだ。


「違うんだ。僕が勝手に傷ついてるだけで」

「それでも、あいつに会わなかったら、あいつが手を出さなかったら、そんなことはなかったでしょ?」

「それは…」


 次の言葉を言わせない。私はまくし立てた。


「あいつは、いつだってそうよ。自分が好きでやっているのはいいわ。だけどそれで、傷ついてく人がいるっての、絶対知らないのよ」

「美咲さん?」


 彼は眉を寄せた。一体どうしたの、と言いたそうな目で。


「…美咲さんは、ケンショーが、嫌いなの?」


 そしてあまり聞かれたくない問いが、来る。


「嫌いか好きか、と言われても、困るわね。どんな馬鹿でも、嫌になっても、とにかく、兄貴なんだから」


 これは半分嘘だ。そして半分本当だ。

 私は、彼がもの凄く嫌いで、そして同じくらい、もの凄く、好きなのだ。そう考える自分が、許せないくらいに。無論それは、男としてどうの、ではない。私はあいにく、そういう壁を自分から壊すような体質ではないし、そもそも彼に関して、そういう目で見たことはない。

 ただ。


「あたしはね、めぐみちゃん、あいつに関しては、ひどく自分が屈折していると思うわよ」


 本当そうだ。屈折している。冗談じゃない程。兄貴の行動が、時々ひどく許せなくなるくせに、同時にひどくうらやましい。どうしてあんな風に、やっていけるのだろう。彼が男だからだろうか? 私もこの女という重たい体でなければ良かったのだろうか? いや違う。

 譲れないものを一つ、どうしようもない程に持っている彼が、ねたましい程、うらやましいのだ。

 なまじ彼と同じ血を持っているだけに、彼と同じ部分があることを度々見つけてしまう。

 そのたびに、その部分をどうにもできない自分の下手な常識屋な部分が、計算高い所が嫌になる。

 彼のように、彼の持つ音楽のように、そんなものが一つあれば、どんなことがあっても、嵐が来ようが、そこで足を踏みしめて、風が行き過ぎるのを待つことができる。時には風に逆らっていくこともできるだろう。なのにそれが無い私は、足元をいつも気にしながら、ふらふらと行き場が無い。

 だから、彼のことが、ひどくうらやましい。

 足をふんばって、前へ前へとだけ進もうとする彼が、まぶしすぎる。だから、いつも彼が選ぶのが、自分である訳がないのに、自分で無いことに、どうして、と感じてしまうのだ。どうして私じゃないの。


「でも、ケンショーは、あなたに申し訳ないと思ってるよ」


 めぐみ君は言う。


「そりゃあ思ってるでしょうよ。でも、思ってるからって、あいつは何をするというの? 思ったから、いわゆるまっとうな生活を、奴がすると思う? 髪を切って、色も黒にして、ううん茶髪だっていいわよ。とにかく、毎日あのくらいの歳の連中がするように、定職について、仕事にはげむ、なんて生活。あいつにできる訳がないじゃない」


 首を横に振りながら、私は一気に吐き出した。


「それは、僕だって…」

「めぐみちゃんは、違うわよ。あなたはもともと、そういう人だったじゃない。ケンショーに会うまでは、ちゃんと毎日学校へ行ってたでしょ? そういうのじゃないのよ。兄貴は、生まれつき、そういう男なのよ。ああいう男は、そんな『まっとうな』生活をさせたら、絶対おかしくなるわ」


 それは私が一番良く知っているのだ。


「でもバイトは真面目で」

「それは、バンドがある上での、仕事でしょ? ねえめぐみちゃん、普通のひと、っていうのは、そういうの は、無いのよ」

「あ」

「そこまで賭けられるものがある、絶対捨てることができない、身体も心も支配されてる、何を捨てても、犠牲にしても仕方ない、どうしようもないものがあるひとなんて、ほんの少しなのよ?」


 ぴぴぴ、と乾燥機が、終わりを告げる音を鳴らした。だけど私たちは、どちらもそれに気付いた素振りを見せなかった。


「…だから、あの馬鹿は、時々、そうでないひとまで、自分の同類と間違ってしまうのよ」

「僕が?」

「めぐみちゃんは、そういうひとじゃない。皆知ってる。知らなかったのは、あの馬鹿くらいなものよ」

「…知ってた?」

「誰だって気付くわよ。ノリアキ兄は、ああいう奴だから、ひとを好きになったらそれも本気で、見境がなくて、だけど、だから、皆それに巻き込まれるのよ。それが本気だから。冗談じゃなく、本気だから」

「のよりさんも?」

「会った? 彼女に」


 うん、と彼はうなづいた。


「そうよ。彼女も。彼女も、とてもあいつのことが好きだと言った。けど、どうしようもない、って言った。繰り返しなのに、あの馬鹿は、それがどうしてなのか、どうしても判らないのよ」

「…じゃあ美咲さんは?」


 不意を付かれて、私は思わず問い返していた。


「え?」

「そんなケンショーを、ずっと、見てきたんでしょ? どうして? いくら兄貴だって、いつか、愛想つかしたり、放っておきたく、ならない?」

「…めぐみちゃん」

「ケンショーは言ってたよ。自分はそれでも長男だから、期待されちゃって、部屋なんかも、頼みもしないのに、妹より大きくて、とか、妹に、結局、自分ができないことを押しつけてしまったみたいだ、って」

「あの馬鹿が、そんなこと言った?」

「時々」

「そうね言うかもしれないわ。だってあいつは、実際そうだったもの。どんなにあたしが真面目にがんばったところで、何のもめごとも起こさないで、いい子で勉強もできて、ちゃんとしたとこに就職できたとこで、うちの連中は、あたしにいつか頼ろう、なんて絶対思わないわ。それがいいか悪いかはおいておいて、あいつに頼るか、そうでなきゃ、自分たちで何とかするか、なのよ。老後の心配とかもね」


 どうして、そんなことまで、私は彼に、言ってしまったのだろう? なのに、口は止まらなかった。


「あたしは、いつも期待なんかされなかったから。自由にさせてくれたわよ。自活の道を見つけてさっさと独立しろ、ってうちだから」

「美咲さん」


 心配そうな、声。なのに私の口は止まらない。そして笑いまでも、洩れてしまう。


「いい気味、と思ったわよ。その時にはね。だってそうじゃない」

「…」


 困った顔をして、めぐみ君は私を見ている。…こんな顔をさせるつもりは、なかったのに。ああ困った。泣きそうだ。必死でこらえる。何かこれ以上言ったら、あふれてしまいそうだ。

 ふと、彼は椅子から腰を浮かした。手に、暖かいものが触れる。ふっと顔を上げる。触れたものを、掴んで、精一杯、平気な声で、私はこう問いかけた。


「どうしたの?」


 喉の奧をしっかりと閉めて、私は彼をまっすぐ見た。


「…暖かい」

「お茶が温かかったからね。寒いの?」


 寒いのは、私だ。問いかけた私が、彼の手の温かさに、崩れ落ちそうになっている。

 私は彼の手を握ったまま、その前に立った。

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