10 立ち直るまで一ヶ月。
一ヶ月くらい、自分が何をやっていたのか、具体的な記憶がない。
無論それと判らないような生活はしている。毎朝きちんと起きて、身なりを整え、会社へ行き、仕事をして帰ってくる。そして帰ってきても、そこに人の気配は無い。
元に戻っただけだ。そう自分に言い聞かせる。
ずっとそうしてきたじゃないか。
キッチンで、のろのろと食事を作る。時には食べてくる。時には出来合いを買ってきてレンジで温めるだけ。それでも食事を抜くことはないし、無理する夜更かしもせずにベッドに入る。もう季節も季節だから、寒いということはないのだけど。
寒いはずはないのだけど。
そんなことをぐだぐだと考えながらも、身体はそれとは無関係に動いている。会社で電話を取れば、普段よりオクターブ声が高くなるし、作り笑顔だってできる。年下のOLちゃんとお弁当を食べる時には、世間話や前日のTVの内容で笑い合うこともできる。
その一方で、それを無言で冷静に見ている私が居た。
どうして私は動いているんだろう。
ものを食べているんだろう。
話しているんだろう。
仕事ができるんだろう。
―――笑っているんだろう。
一ヶ月くらい、そんな状態が続いた。自分が何を話したのか、何をしていたのか、具体的に思い出せ、と言われても、うまくいかないくらいに。
いや、その時でも、問われれば答えられるのだ。
ただ今こうやって自分自身に語って自分にとって、それはまるで、自分ではない誰かのしていることか、遠い何処かの世界のようなことに感じていたのだ。
身体と気持ちが、ずれていた。
それがようやく合ったのは、ゴールデンウイークが終わる頃だった。
実家方面にも今回は行かなかった。サラダが時々遊びに来たが、何かいつも首をひねっていたような気がする。
「ねえミサキさん、もう初夏なのよ」
初夏。
サラダに言われてようやく気付いたのだが、部屋の中が荒れていた。初夏、という言葉に、窓の外を見たら、外の木々が思いっきり緑のもしゃもしゃになっていた。あれ、といきなり焦点があったような気がした。
「いい加減模様替えしたほうが良くない?」
彼女は夏仕様に現在変更中なのだ、と言う。そして手にしていたコンビニの袋には、新発売らしいゼリーが数種類入っていた。
焦点が合った頭と目で自分の部屋を見渡したら、確かにひどかった。TVにもコンポにもほこりが積もっていた。カーテンは冬仕様の厚手のものだったし、いつまで私は毛布を何枚も出しているんだろう。
ゴミはちゃんと捨ててはいたようだが、キッチンのシンクのすみにはぬるぬるとしたものがついたり、ステンレスが曇ったりしている。
何でこれで平気でいたのか、よく判らない。
「…確かにひどいわ」
「でしょ? 何度も言ったのに、ミサキさんずっと生返事で」
「そ… うだった?」
「そーよ」
サラダは大きくうなづいた。
「…掃除… しなくちゃ。うん。今からしよう」
「うん。じゃあ今日は終わったら、夕ご飯ごちそうしてね」
「え?」
「一ヶ月もミサキさんのごはん食べてないのよー。あたし」
「…ああ… でもあんた、彼氏は?」
「だーかーらー、言わなかった? 一番最近のは、先週別れたって」
「…忘れてた」
「まーったくもぉ。えーと、冷蔵庫もひどいから、買い物行くよね?」
慌てて開けてみると、確かにひどかった。
「一緒に行こうよ。あたしリクエストしていい?」
無論そこで断れる訳が無かった。
*
「細いのがいいな」
とサラダはパスタ売場で言った。
「太いのは嫌い?」
「嫌いじゃあないわよ。だけど今日食べたいのはスープスパ系だから…」
そう言いながら、7分ゆでの1.6mmのスパゲティを彼女は手にした。
「トマトにするべきか、クリーム系にすべきか」
独り言を言いながら、そのまま彼女は生鮮売場へ行く。ミックスのシーフードを手にすると、ざらざらと振りながら私のバスケットに放り込んだ。
「トマトにしよう。ホールトマト缶も買ってね」
私は黙って肩をすくめた。そう言えばエキストラバージンのオリーブ油も切れていた。記憶には無いのだが、使うことはしていたらしい。ただ切れたからと言って、補充はしなかったようだ。オリーブ油が無ければ、サラダ油で代用、なんてことをしてたのかもしれない。
「次はこっちー」
言いながら彼女は手を振った。周囲の視線が彼女に向く。公衆の面前だって言うのに。
*
戻ってから、スパゲティをゆでて、ついでに温サラダも作る。それは彼女がやる、と言ったから、私はその間にパスタのソースを作る。
久しぶりに片付いた室内に、トマトの香りが漂ってくる。ソースが煮えることことという音が心地よい。どうしてこういう時間を忘れていたのだろう?
チン、という音がして、かぼちゃとブロッコリとにんじんがまとめて加熱されたことを告げる。そこに市販のドレッシングをかけるだけなのだが、結構これはこれでいける。好みで塩コショーもかける。
六畳の部屋のテーブルを綺麗に拭き直して(これが結構悲惨なことになっていた)、ランチョンマットなども敷いてみる。一枚の布だけで、ずいぶんテーブルの雰囲気は変わる。
「あ、でもそれうちの?」
「ううん、あたしの。こないだ仕入れたんだよ」
へへ、と彼女は笑う。
「あ」
そう言えば、と私はその時ようやく思い出した。
「サラダあんた、あのカフェに、ポストカード置いてなかった?」
「ポストカード?」
ああ、と大きくうなづいた。
「言ったかなあ?」
「言ってない言ってない。前に行った時に、あんたの絵じゃないか、と思って」
何処だったか、私は一度片付けた室内をばたばたと捜し回る。
「あった」
オレンジのカードと林檎のカードを取り出す。
「あんたでしょ」
「そぉだよ。なーんだ、ミサキさんだったんだ、買ってってくれたの。イケガキさんが、さっそく売れたよ、と言ってくれたから、誰かなあ、と思ってたの」
「イケガキさん?」
「あそこの店長」
「って、赤いエプロンのひと?」
「あそこはみんな赤いエプロンだよ」
「低い声のひと」
「ああじゃあそれはイケガキさんだ」
「でもまだ若いじゃない」
「カフェってさー、結構若い人が思いきって出すことあるんだよぉ? 大阪とかさー、知ってる?」
知るわけない。私は黙って首を横に振る。
「まあでもイケガキさんは確か三十くらいじゃないかなー。もともとは家具屋で営業やってた、って言ってたけど」
「へーえ… 営業…」
それはすごい。
「もともとデザインとかも好きだったけど、自分で作るのはいまいちだったから、好きだったインテリアのほうへ行ったんだって。で、営業で色々な店とか行ってるうちに、自分でもだんだん店を作りたくなったんだって」
「へーえ。でもああいうのって、ずいぶん資金とか掛かるんじゃない?」
「どぉだろ。そこまで突っ込んで聞いたことないしー」
けど彼女が喋ったことだけでも充分突っ込んでいると思う。
「のんびりした明るい空間で、美味しい料理と気楽な飲み物と、あとは自分が学生の時には回りにはあんまり無かった、ちょっとした作品を簡単に取り扱えるよーなとこにしたかったんだって」
「じゃあ地方の人だったんだ」
「そーだね。あたし等と同じ」
そう。地方になればなるほど、そういう場は無い。必要とされていないのだ。
「いくら描いても、場所が無いから、それがいーのかどーなのかも判らないしさあ。こっちってそういう点いいよね。その代わり、悪けりゃ悪いって露骨だけどさー」
そりゃそうだ、と私は言いながら、アルデンテにゆで上がったスパゲティを、ソースの入った鍋に移す。このほうが、ソースがよく染み込むのだと、朝の番組で見たことがあった。
「いただきまーす」
くるくる、と対面の彼女はフォークにパスタを巻き付ける。くるくるくる。ああ、あんまり上手くない。だけどそれが微笑ましい。
「うんやっぱりミサキさん料理上手いよ。どっかで習った?」
「ううん、自己流。うちじゃあね、あんまり料理させてもらえなかったから、こっちで覚えたよーなものだよ」
「嘘だあ」
「嘘だあはないでしょ」
「だったらやっぱり才能じゃないの? あたしは絶対このカンって奴が無いもん」
「でもこれはあんた作ったじゃない」
「レンジのタイミングを覚えていただけだもん。頼ってるよー。でもミサキさんだったら、レンジ無しでもちゃんとやるじゃない」
「そりゃあねえ、美味しく食べないと食べ物に悪いし」
「うん。あたしもそう思いたいけど。でもちょっとした塩加減とかは絶対才能だよ」
「そ、そう?」
そうあけすけに誉められると。少し照れる。
「ねー、何かさあ、あたしとミサキさんでカフェとかできるんじゃない?」
「へ?」
何をいきなり言うのだ。
「あたしが接客と、インテリアと雑貨担当でー」
「ちょっと待ってよ、あたしだってインテリアは口出したいわよ」
「でも料理にも色々工夫は要るんだよお。カフェは日々が戦争だ、ってイケガキさんも言ってたし」
日々が戦争。言われてつい、「恋愛が戦争」と言ってた彼女のことがよぎる。どうしているだろう。元気でやっているだろうか。
「そーいえば、最近おにーさんのバンド、順調?」
「や、ヴォーカルが抜けたから、何かそれからライヴやっていないんじゃない?」
…そう言えば、彼女もだが、兄貴のバンドの方はどうなったのだろう。
*
「あー駄目駄目駄目」
ひらひらひらひら、とオズさんは手を顔の前で数回振った。
「って言うか、現在アタック中なんだよ」
「あ、じゃあ、一応次の目星はついてるんだ」
電話で私はオズさんを呼び出した。彼のバイト先に近いコーヒーショップを私は指定した。
私は仕事が退けてから、彼はこれからバイトだった。腹ごしらえも兼ねて、と彼はてりやきチキンのホットサンドに食らいついていた。かなり美味しそうだ。
「まーね。奴が今バイトしている呑み屋に来た客でさ、デザイン系の専門学校に入ったばかりの子でさ」
「男? 女? 今度は」
彼はちら、とサンドごしに私を見た。
「男。そーだねえ、ハコザキよりもっと華奢なタイプかなあ。そりゃのよりちゃんと違って男だから何だけど」
「ふうん。じゃあまた兄貴の奴、その子にもイカレてるんだ」「美咲ちゃん~」
ふう、と彼はため息をついた。
「だってそうでしょ?」
「そうなんだよなあ。まあ奴にあれこれ言ったって始まらないんだけど」
「それで、そのアタックは成功しそうかしら?」
「まあ俺としては、ヴォーカルが早く入ってくれるにこしたことはないし、できればそのヴォーカルに、長居して欲しいなあ、と思っているんだけど」
「ま、それはあたし達が何言ってもねえ」
…やっぱり私もてりやきチキンサンドが欲しくなってきた。この人の食べっぶりは何でこうも美味しそうなんだろう。
この店は客席が一つ一つ近くて、私にはいまいち居心地が悪い。先日サラダが変な話をしたから、ついつい、あちこちのカフェだのコーヒーショップの内装だの、客の様子だの、メニューだのを気にするようになってしまった。
私だったら、もう少し席は離したい。いや、ごちゃごちゃしたのが好きな人もいるだろうけど…
隣の話し声や煙草の煙が会話や食事を台無しにするような距離しか開いていないような場所は嫌だ。適度に開いていて欲しい。
テーブルも無闇に小さいのは嫌だ。周囲がうるさすぎて、よっぽどぐっと身を乗り出さなくては話が聞こえない、というのも困る。向かい合った相手とは近く、だけど料理はちゃんと乗るような。
だとしたらどんなテーブルがいいんだろう…
「美咲ちゃん? 俺もうバイトあるんだけど」
「あ、ごめんなさい」
てりやきチキンサンドは、テイクアウトすることにした。
「今度兄貴に何か作ってく、って言っておいてくれない?」
「判った」
彼はじゃあね、と言ってバイト先へと向かった。私はてりやきチキンサンドと、翌朝食べようとクランベリーとブルーベーリーのスコーンをテイクアウトする。
歩きながら、スコーンも作ろうと思えば作れるのかもしれないとふと考えた。そうしたら、つい足が本屋へと向いた。
綺麗な写真がふんだんに使われている料理の本のコーナーで、私はパン作りの本をつい買ってしまった。他にも色々本はあった。気が付かなかったが、カフェの料理の本も結構あるのだ。まあそれは今度試してみよう、と私は思い、その時はそれだけ買って、部屋へと向かった。
*
「あたしさー、この番組嫌い」
と不意にサラダは言った。平日だったが、時間が合ったので、彼女はうちに来ていた。正直、その回数が最近増えつつあった。
そんな時には、無意味にTVをつけている。格別見たいといしう番組があるという訳ではないから、BGMのようなものである。
「嫌い?」
それは、今まで事業やら店やらに失敗した人々が、TVの力を借りて、立て直そうという企画番組だった。
「ああこれ。結構うちの会社のひとも見てるけど」
「何かさあ、嫌なかんじ」
それは私も感じていた。無論そんなものだったら、BGMにする必要は無い。チャンネルを変える。
「確かに貧乏から脱出しよう、って人が、本気になるために、というのは判るけれど、何かそれだけ? って感じちゃうんだよね。じゃあ、それ以外の、もっと気楽に、貧乏でもいいから、って生きてる人は生きてちゃいけないのか、って気がしちゃうんだもの」
なるほど、と私は彼女にお茶をつぎながら思った。
「だけどああいう番組に出るひとの場合は、それでも一応そうしようって決めたひと達なんだからさ」
「それはそうだけど。だけどあたしは、自分が楽しいと思えることにしか真剣にはなれないよ。だからそれ以外には、そうそう大きなエネルギー使えないし、そのせいで貧乏しても仕方ないって思うもん」
「たぶんさあ、貧乏の度合いが違うんだよ。それこそ毎日のおかずにも困るとかさ、家族を養っていかなくちゃいけないとか」
「そりゃあそうだけどさ」
彼女はまだ何か言いたそうだった。そういうことじゃなくて、とぶつぶつとつぶやいている。
だが確かに私もその番組は好きではない。どのあたりが嫌か、と言えば、サラダの言い分に近いのだが、彼女のように、「楽しいこと」が強烈でないとしても、だ。
無論「どうしてもしなくてはならないこと」があったなら、それに立ち向かう方法を、熱意を、根性を必要とするのだろうが、どうしてその時に、誰かが通ってきた方法を取らせようとするのだろう。
確かに時間が無い時には有効な手段かもしれない。教えるひとは、それしか知らないのかもしれないし、それが最良の手段と思っているかもしれない。
だがそれは、そこまでその人がたどってきたやり方というものを、全く否定するということではなかろうか。
その方法で上手くやってきた人は自信を持ってその方法を勧めるのかもしれないし、受ける相手は、藁にもすがる思いなのかもしれないが、それでも、だ。
そのあたりが、納得いかないのだ。
私は自分が自分であることが時々無性に嫌になり、悩んだり嫌になったり、時には全部投げ捨ててしまいたくなることがあるのだが、そういう自分に関しては、実はあんまり嫌いではない。
そんな試行錯誤と、迷ったり悩んだりした時に逃げ場として手を出したものも、全く役に立たない訳ではないからだ。
無論それは、私が一応腰掛けだろうが何だろうが、「OL」という位置で不安定な安定を手にしているという前提の上だ。
言っておくが、OLというのは決して安定した地位ではない。結婚をほのめかせば、相変わらずそれは「近いうちの退社」につながるのである。ボス的存在の彼女程になってしまえば別だが、私にはその意欲は無い。
意欲が無くても、ある程度は居られる。それがこの不安定さの代わりに手に入れられる地位なのだ。男にはない、女の、奇妙な特権だ。男でこの位置を手に入れようと思えば、間違いなくフリーターだろう。
男も女も、こんな曖昧な位置をキープしようと思うと、必ず周囲から横やりが入るらしい。ふう。
「どしたの?」
「んー? どうして楽しく暮らしてくだけじゃ駄目なのかな、って」
こうやって、高価でなくても、美味しい食事をして、友達と一緒に、お気に入りの空間で、ゆったりと過ごす。私にとっては、それが一番の時間。サラダは何やら、それ以上に何かを「作る」ことが好きらしいが、私の場合はそれで充分だ。それ以上のことは要らない。それを得るためにに必死になるのも嫌だ。何でそれではいけないんだろう?
「ダメじゃないでしょ。やり方次第」
「やり方?」
「っーか、考え方次第」
もう一杯お茶ちょうだい、とサラダはカップを突き出す。
「考え方の根っこが違うんだもの。あのひと達は、そういう根性とか何とやらが好きで、そーゆーので疲れることが好きなんだよ。そうゆうのを快感だって思うんだよね。だから人にもそれをやって欲しいんだよね。その方法で上手く行くと、それで安心するんだよ。まあそれは、あたし等も変わらないんだけどさあ」
「ふうん?」
「あのひと達はあたし達のような楽しむポイントはわかんないと思うもん。それにああゆー人達が、雑貨ショップに居るのも変じゃん」
「それは」
私は吹き出した。TVに出ていたのは結構ごついおじさん達だったのだ。
「あたし達はまだ若くて、女の子で、ふわふわしたものが好きなものが似合うって特権があるんだよ。特権はせいぜい利用させてもらわなくちゃ」
なるほど、と私は思う。
「なるほど、あの立て直しのおじさんには無い特権があたし達にはあるって訳ね」
「そういう社会だからねー」
しゃらっ、と彼女は言う。
「レッテルを貼って安心してるんだよ。だからこのひとは自分の知ってるこうゆうタイプ、って貼れないひとが出てくると、追い出したくなるんだよ。まーね、そりゃあ、仕事には好みと適性ってのがあるからさー、それが合って楽しんでできれば一番いいよね。それだったら、それが戦場だって構わないと思うもん。あんたの兄貴も、そうなんじゃない?」
「兄貴はね。うん、奴は、バンドが仕事にできたら、きっとそれに全部かけるよ。っーか、今だって全部かけてるけどね」
それは確かだ。そしてうらやましい部分だ。
彼はもしどれだけバイト先でその長い金髪を悪趣味だ時代遅れだ、と思われようが、バンドが忙しくて休みを入れようが、そのせいで何日間か、便所そうじの当番が回ってこようが、何の意にも介さないのである。他のフリーター達にとっては、嫌なことで回避したいことだろうが、兄貴には他の仕事と何の比重も変わらないのだ。
正確に言えば、彼は、ギターと音楽以外のものは、全部同じなのだ。
それをうらやましい、と思う反面、…のよりさんの言ったことが少し思い出された。
可哀相な、ひと。




