第六話
皇暦三二六年現在、ロウラン国の都はロン州のセイランという都市に置かれている。
皇都セイラン。大陸を東西に貫く大交易路「大陸幹道」の要衝で、北のアバディーヤ山脈を水源とする「悠久の大河」サーズを東に臨み、この河を通じて海へも開けている。陸上交通と水上交通の要地として人や物資が集まり、古くから栄えていた。
総人口は百二十万余。これは当時の大陸の中でも空前の規模であり、これに比肩しうる都市は「東方の大国」シャイールの王都カイフォンと西方のルオ帝国の帝都ニケアがあるのみであった。
そのセイランの北寄りにある小高い丘の上に、皇城はあった。皇城は大きく二つに分けられる。一つは皇宮、すなわち皇帝及び皇妃、一部の皇族たちの住居で、後宮もここに含まれる。もう一つは朝堂院といい、朝廷が執務を行う建物である。朝堂院は地上三階、地下二階という扁平な建物であるが、その規模は幅二ゼル(約六百メートル)、奥行き一ゼル(約三百メートル)という巨大なものであり、その中で、朝廷を構成する八省(国務省、文部省、民部省、軍務省、法務省、財務省、宮内省、工部省)の官吏たちが働いているのである。
朝堂院三階にある執務室で、軍務尚書ケブラーは一通の書状に目を通していた。執務机を挟んで向かい側には、書状を持ってきた官吏がそのまま控えている。
やがて肥満した身体を軽く揺すると、ケブラーは書状を机に投げ出した。
「ロシューめ、負けおったか」
「そのようで」
書状は討捕大使ロシューからのものであった。先日の灼眼との戦いの顛末を報告してきたのだ。本当は皇帝宛の書状なのだが、皇帝が玉座にも執務室にもいないため、官吏がここへ持ち込んだのである。
「たかが盗賊相手に情けないことだ。老いて将才も衰えたか」
「そうかも知れませぬな。して、処分はいかように?」
「ふん、敗戦の罪、いかような処分も甘んじて受けると殊勝なことを書いておるが……」
ケブラーは頬杖をつき、反対の手の人差し指で机を軽く叩く。思案に耽る様子は、しかし長くは続かなかった。
「減給六か月。それでよかろう」
官吏は意外そうな表情をした。
「減給で済ませるのですか? 免官にはなさらないので?」
「免官したら後任を探すのが面倒だ。それにな、恩情をかけてやればクソ真面目な奴のこと、感激してますます励むだろう。しばらくはこき使ってやれるというものだ」
ケブラーは笑んだ。毒々しい笑いだった。
「なるほど……して、もう一方の件は?」
「もう一方の件? ……ああ」
ケブラーは机上の書状に目を戻した。
ロシューは書状で、敗戦の罪を詫びると共に、灼眼の勢力が危険の域にあることを警告してきたのである。
「何か手を打たれますか?」
「討捕軍を差し向けた。それ以上のことは必要なかろう」
この発言はかなり図々しい。ロシューは独自の判断で灼眼の討伐に向かったのであって、軍務尚書に命じられ、差し向けられたわけではないのだ。それを官吏は知っていたが、あえて指摘はしない。そんなことをして上官の機嫌を損ね、不評を買うのは彼の望むところではなかった。口に出したのは別のことだ。
「討捕軍は負けてしまいましたが」
「負けたまま黙ってはいまい。それに討捕軍が駄目でも近隣の州にも軍隊はいる。何とかするだろうよ。いち盗賊ごときを相手に朝廷が動いて事を大きくする必要はない。それよりもだ……」
ケブラーは執務机の引出しから一枚の紙片を取り出し、官吏に向かって差し出した。官吏は怪訝な表情でそれを受け取る。
それは名簿のようであった。十人ほどの名前が書き連ねてある。
「武挙は七月であったな」
「はい、さようですが……」
武挙とは正式には武科挙といい、武官の登用試験のことである。ちなみに文官の登用試験は文科挙、文挙ともいう。文科挙は国務省が行うが、武科挙を行うのは軍務省である。
「その者たちを上位で合格させよ。特にリヨウと申す者、その者は首席合格だ。よいな」
ははあ、なるほど、と官吏は事情を察した。つまり軍務尚書は賄賂を受け取ったのである。だがそれを非難はしない。不興を買うのが怖かったからではない。同じことを彼もやっているからだ。官吏は無言で一礼して承諾の意を表すと、紙片を懐にしまい込んだ。
こうして話題は移り、灼眼のことは忘れ去られてしまった。むろん、皇帝の耳にも入らない。皇帝は今日も後宮に籠り、皇妃や寵姫たちと遊興に耽っている……。
ガコウ山の戦いから逃げ延びた討捕軍は、負傷者の手当を済ませると、南へと向かった。
目指す先はナル州州都ヨウエンである。
馬の背に揺られながら、討捕大使ロシューは思う。
なぜナル州軍は動かないのか。
ガコウ山はナル州の領地だ。そこに二千人以上の盗賊が集まっているというのに、なぜ州王は兵を出さないのだろう。脅威に感じていないのだろうか。
だがナル州にも灼眼の略奪の被害に遭った民がいるはずだ。領民が害されているというのに、州王は何もしないつもりなのか。
州軍の規模は州によって差があるが、おおよそ三万から四万だ。対して灼眼の勢力は二千から三千というところだろう。十倍の敵を相手にしては、いくら灼眼個人が強いといっても対抗できるものではないはずだ。
ロシューはナル州王に灼眼の勢力の危険性を説き、州軍を出動させるよう願い出るつもりだった。そこに討捕軍も加わり、灼眼に対し雪辱戦を挑むのだ。
だが六月三日、州都ヨウエンの王城でナル州王と謁見したロシューは、州王の返答に愕然とすることになる。
「軍は出さぬ」
ナル州王はそう言ったのである。
謁見の間。階の上の玉座にナル州王が座り、州宰が脇に控えている。ロシューは階の前で片膝をついていた。
予想外の返答に驚き、ロシューは言葉を失った。まさか拒絶されるとは思わなかったのである。
ロシューには奇妙に人の好いところがあった。自分が真面目で善良であるために、相手もそうであると信じてしまうのだ。むろん誰もがそうでないことはわかっている。だが相手は州王だ。正義と慈悲の心をもって州を治めるべき立場の人である。盗賊を討つことは正義であり、話を聞けば州王は正義の心に従って討伐のための軍を出してくれる──そう思っていた。
「な……なぜでございますか」
ようやく声を絞り出して、ロシューは訊いた。
「なぜといって、我が州の民に被害が出ておらぬでな」
「そ、そんな……」
馬鹿な、という言葉を慌てて飲み込む。
「事実だ」
そうだな、と向けられて、州宰が頷く。
「民が害されていない以上、軍を出す理由もないだろう」
「で、ですが、ナル州で被害はなくとも、他の州では被害が出ているはず。ノイ州やコウ州では……」
「それはノイ州やコウ州の問題だ。それらの州が軍を出すのは勝手だが、我が州が動く理由にはならぬ」
「灼眼は危険です。放っておけばいずれ必ずこの州にも害を及ぼしましょう」
「それはおぬしに心配されることではないな」
「し、しかし……!」
なおも食い下がろうとするロシューを、ナル州王は手を挙げて制した。
「何と言われようと答は変わらぬ。軍は出さぬ。これは決定事項だ」
俯き、歯噛みするロシュー。その姿を、ナル州王は冷ややかに見下ろしている。
「で、では、せめて」
顔を上げて、ロシューは言った。
「この街で志願兵を募ることをお許し下さい」
「志願兵だと?」
「今の討捕軍では、灼眼を斃すことはできませぬ。戦力の増強が急務でござれば、この街で灼眼討伐の志願兵を募りたく……」
「ならぬ!」
突如、ナル州王が声を上げた。ロシューも驚くほどの激しい口調だった。
「志願兵など! そんなことをすれば灼眼が……い、いや」
「……?」
訝しむロシューから表情を隠すように袖を上げ、ナル州王は二、三度咳払いをした。
「と、とにかく許可できぬ。敗残者に用はないゆえ、早々に立ち去るがよい」
そう言うと、ナル州王は玉座から立ち上がった。そしてロシューの返事も待たず、謁見の間を出て行く。州宰もロシューを一瞥して州王に続いた。
その後ろ姿をなす術なく見送って、ロシューは悄然と退出していった。
一方、ナル州王である。
謁見の間を出て自分の執務室に入ると、大きく息を吐き、疲れたように深々と椅子に腰掛けた。少し遅れて州宰が入ってくる。
──危なかった。
ナル州王は胸中に呟いた。激して、危うくぼろを出すところだった。咄嗟に誤魔化したが、討捕大使は不審に思わなかったろうか。
「あれでよろしかったのですか?」
州宰に問われて、ナル州王は不機嫌そうに眉をしかめた。
「いいも悪いもない。灼眼に抵抗しようという姿勢を見せるわけにはいかんのだ」
「我が軍は三万。戦えば勝ち目はあると思いますが」
「負けたらどうするのだ」
ナル州王の瞳には怯えの色があった。ロシューの前では冷淡な態度を装っていたが、あるいはこちらがナル州王の本性なのかも知れぬ。
「攻めて行って負けたら、灼眼は怒ってヨウエンまで攻め寄せてくるぞ。そうなれば民どころか、予の身も危ういではないか」
「ですが、租税が重いと不満を漏らす民も多いと聞きます」
「我らは安全を買っているのだ。民衆が応分の負担をするのは当然ではないか」
これがナル州の実情だった。
つまり、ナル州王は灼眼と密約を結んでいだのである。灼眼がナル州で略奪を働かない代わりに、ナル州は灼眼に多額の金銭を支払う。その財源を捻出するために、租税を重くした、というわけだ。
だから、灼眼に対して抵抗の意思を見せてはならない。軍を出さないのはもちろんのこと、灼眼討伐のための志願兵を募るなど、認めるわけにはいかないのである。
「それにしても討捕軍め、どうせ戦うなら勝ってくれればよかったものを、負けるとは。不甲斐ないことだ」
自分の臆病を棚に上げて、ナル州王は侮蔑を声に込めるのだった。
翌日、討捕軍はヨウエンを離れた。
ロシューは諦めていない。ナル州が駄目なら他の州に行くまでだ。必ずやどこかの州軍を動かして、灼眼を討伐してみせる。
決意も新たに、馬を進めるロシューだった。
ヨウ州軍の主将リリエンソールは、州都シンヨウの貴族街の隅に邸宅を構えている。
リリエンソール自身は庶民の出だが、将軍位に就いた時、貴族街に建つこの邸宅を与えられたのである。二階建てで、部屋数は十二。庭があり、そこはちょっとした庭園になっている。貴族街に建つ邸宅群の中では小さく質素なほうだが、住む者にとっては十分以上に広い。なにしろ住人は独り身のリリエンソールとその妹のミラルダ、そして使用人夫婦の計四人だけなのだ。広い邸宅を持て余しているというのが正直なところだった。
二階の自室で、ミラルダは窓際に座り、物思いに耽っている。庭の木々が風に葉を揺らすのを、何とはなしに見つめていた。
そこへリリエンソールが通りかかった。部屋の扉が開け放してあったので、中の様子が見えたのだ。
「どうした、ミラルダ?」
「うん……」
気のない返事。どこか上の空な様子。少し考えて、リリエンソールは訊いた。
「ラエルのことを考えているのか?」
「うん……え、えっ!?」
思わず口をついて出た言葉に驚いて、ミラルダは飛び上がった。慌てて振り向く。兄は悪戯っぽい笑みを浮かべていた。
「ち、ちが……そんなんじゃないわ!」
頬が熱い。赤面しているかもしれないと思い、顔を窓のほうへ背ける。
「か、彼はその……心配なだけよ。治癒術師として」
「ほう?」
「また大きな怪我とかしてないかとか……あの人、進んで危険に飛び込む性質だから」
「そうだな。あいつにはそういうところがあった」
リリエンソールはミラルダの後ろに立ち、その肩に片手を置いた。
「だが、危機をはねのける強さも持っている。大丈夫だ、元気でいるさ」
「うん……」
ミラルダは兄の手に自分の手を重ねて頷いた。
窓外では、暮色が濃くなりつつあった。