第一話
皇暦三二六年五月十日。この日、夜空を彗星が疾った。六十年ぶりに観測された大きな彗星で、ロウラン国のみならず、大陸のどの国からも見ることができたという。
ロウラン国。大陸中原を支配する大国である。東は東域諸国、西はティルク国、西北はフランサーズ国と国境を接する。国内は十七の州で成っており、皇帝直轄領であるロン州の他、ダナ州、ノイ州、コウ州、ヨウ州、オン州、ナル州、メル州、ジル州、ナミ州、ルド州、ライ州、ユラ州、タグ州、リヴ州、カイ州、エン州の十六州をそれぞれの州王が治めている。現在の皇帝はハルシ二世。在位五年になるが、その治世は翳り、世は乱れ始めていた。そんな中、この彗星の出現は吉兆というよりも凶兆のように、巷の人々には思われたのである……。
「吉兆だ! 吉兆だ!」
露台の手摺から身を乗り出して、男は彗星を指差して叫んだ。瞳は爛々と輝き、喜色満面の笑みを浮かべている。
黄色の衣を纏い、同じ色の冠を被っている。そのどちらにも、金糸で豪奢な刺繍がなされていた。特に衣の胸から腹の部分にかけて、見事な竜が大きく描かれている。
竜の刺繍、それはこの国で唯一、皇帝にしか許されない意匠である。つまりこの男が皇帝ハルシ二世なのであった。
在位五年。今年で四十七歳になる。即位当初は聡明さで知られ、公正な政を行って人民の支持を得たが、いつしか酒色に耽るようになり、国政を顧みなくなって久しい。今も後宮の大広間で、皇妃と大勢の寵姫たちと共に美食を楽しんでいたところだ。
「見よ、見よ。見事な彗星ではないか。あのまばゆい輝き、朕の未来を予兆しておるようだ。のう、皇妃よ、イシュラよ」
振り返って皇妃の名を呼ぶ。
「まあ、陛下。そんなにおはしゃぎになって、露台から落ちないで下さいまし」
皇妃イシュラの年齢は伝わっていない。皇帝の皇太子時代からの妻であるから同年代とみてよいであろうが、年齢を感じさせない美貌は妖艶さすら感じさせる。長い黒髪を腰まで垂らし、しなやかな肢体を薄桃色の衣で包んでいる。袖や裾には銀糸の刺繍がしてあった。
「朕は子供ではないぞ、イシュラ。そなたはいつも朕を子供扱いする」
皇帝が口を尖らせると、その唇に皇妃はそっと指を当てた。
「はいはい、わかりました。わかりましたから、お席にお戻り下さいな。料理が冷めてしまいますよ」
「うむ……」
「ほら、彗星はお席からも見えますよ」
「わかった。そなたが言うなら戻ろう」
皇帝は露台から離れ、席に戻った。皇帝の座する上座には大きな卓が置かれており、その上に豪勢な料理が所狭しと並べられている。
甘辛の餡をかけた蒸し海老、挽肉と香味野菜を混ぜて炒めた白米、半生で焼いた牛肉のステーキ、脂ののった魚の刺身、馬肉の串焼き、岩塩で味付けした若鶏のから揚げ、フカヒレと春雨のスープ、旬の野菜を胡椒と油で和えたサラダ、色とりどりの果物、そして十七種類の酒。それらを皇帝は口いっぱいに頬張り、満足そうに噛んで飲み下す。
と、皇帝が箸を置いて手を拍った。
「そうだ、お前たち、舞うがよい」
皇帝は寵姫のうち、特に踊りが得意な二人を差し招いて命じた。
「あの縁起の良い彗星を背景に舞うのだ。さぞ雅な舞になろうぞ」
「かしこまりました」
二人は露台の前に進み出て一礼すると、ゆるやかに舞い始める。別の寵姫が琴を鳴らした。その音に合わせ、二人の寵姫は右に揺れ、左に跳び、その場で回転する。衣の袖や裾がひるがえる様は蝶のはばたきに似て、見る者の心に春の穏やかな陽光が差し込むようだった。
「おお、典雅なり、典雅なり」
上機嫌で皇帝は手を叩いた。皇妃や他の寵姫たちも拍手する。
「我が世の春とはこのことだ。朕の前途は明るいぞ、のうイシュラよ」
皇帝はこのような栄華が永く続くと信じていた。皇帝とその側に侍る一部の者たちだけが、心から信じていたのである。
とうに放棄されたはずの辺境の砦に、灯火が灯っている。一週間ほど前、三百人ほどの人々がここを訪れ、以来住み着いていた。
盗賊であった。彼らはこの廃砦を根城にして、近隣の街や村を襲うようになった。その砦で今、喊声と金属の打ちかわす音が響いている。盗賊の根城を軍隊が急襲したのだ。
討捕軍。盗賊の捕縛、あるいは討伐を任務とする軍隊である。大使(将軍)ロシューが皇帝に直訴して許可を得、志願者を募って組織された集団である。数は三千騎。騎、というのは全員が騎馬兵だからだ。だが今は作戦の性質上、皆徒歩になっている。狭い砦の中を騎馬で駆け回るわけにはいかないだろう。
討捕軍は砦近くの森林に身を隠し、夜半になるのを待って行動を起こした。盗賊たちは寝静まっていなかったので夜襲にはならなかったが、数の差がある上、盗賊たちはまったく統制が取れていない。個々に武器を取って応戦するものの、次々と討ち取られ、砦は制圧されていった。
「この……昏主の犬が!」
盗賊の頭が叫び、打ちかかってくる。昏主、とは皇帝を侮辱する言葉だ。
強烈な斬撃を、ロシューは弾き返した。すでに初老の域に入っている武人だが、その剣の冴えにまだ衰えはない。
「確かに今の皇帝陛下は名君ではないかも知れん。だが……」
ロシューは剣を構えながら静かに言った。
「盗賊のおぬしに陛下を謗る資格はない」
「うるせえ!」
力任せの一撃。ロシューが身体を開いてそれを躱すと、盗賊の頭は勢い余ってつんのめり、たたらを踏む。
「投降しろ。おぬしの技倆では私に勝てぬ」
「うるせえって言ってるんだよ!」
「……わからん奴め!」
一閃。ロシューの剣が疾り、盗賊の頭の首筋を切断した。信じられない、という表情を貼り付かせたままの頭部が血の尾を引いて床に転がる。胴体は首がなくなったことを今更に思い出したかのように、一泊遅れて仰向けに倒れた。
「大使」
血を払って剣を鞘に収めたロシューに、背後から声が掛かる。部下の兵士である。
「首尾はどうだ」
「制圧は完了です。思ったより抵抗が激しかったですね。投降者は五十人もいません」
「そうか……こちらの損害は?」
「負傷者が若干名。死者はいません」
「わかった。投降者は州都まで連行する。負傷者の手当が済み次第、引き上げるぞ」
「はっ」
「大使、星が」
踵を返しかけたロシューに、別の兵士が声を掛けた。窓の外を指差している。
「ん?」
ロシューが窓際に立って頭上を仰ぐと、雲一つない満天の星空を背景に、彗星が長い尾を引いて流れているのが見えた。
「おう……」
ロシューの口から感嘆の声が漏れる。
「見事な彗星だ。我々の勝利を祝ってくれている……というのはいささか都合の良すぎる解釈かな」
そう呟いて苦笑する。
「彗星は吉兆か凶兆、どちらかだと言うが……さて、どちらの象徴かな。凶兆でなければよいのだが、果たして……」
ユラ州州都スイレン。その王城であるユラ・カスレの執務室に、州王はいた。
ユラ州王リセイ。五十一歳。皇帝ハルシ二世の従兄弟にあたる。すらりとした長身に白い官服を纏い、薄青の衣をその上に羽織っている。武官というよりは文官を思わせる顔立ちで、覇気や自信より穏やかさが勝る。隣州との領地争いや盗賊の跳梁など問題はいくつかあるが、まずまず大過なくユラ州を治めている初老の王であった。
そのリセイがそろそろ執務を終えようとしていた時、彼を訪ねてきた者がいた。長男のユーリスである。今年で二十二歳になる。
「父上、少しよろしいでしょうか」
「うむ、ちょうど今日はここまでにしようと思っていたところだ」
「そうですか。時に父上、彗星はご覧になりましたか?」
「ああ、美しい彗星であるな。で、あれか。お前はあれを占ったのか」
リセイが訪ねると、ユーリスは頷いた。だがどこか複雑そうな表情である。
「どうした? 良くなかったのか」
「わからないのです」
ユーリスは首を左右に振った。
「マナの流れが安定しません。そのため、あの彗星が吉兆なのか凶兆なのか、判断がつかないのです」
「ふうむ、マナの流れがな……」
「あるいは、あの彗星が天の竜脈を乱し、それに呼応して地の竜脈も乱れているのかも知れませぬ」
「つまり……どういうことなのだ?」
「未来が揺れ動くということです、父上」
ユーリスが真剣な口調で言う。
「この国に混乱が起きるのかも知れませぬ。あのマナの乱れにはそういう雰囲気がありました」
「混乱……ふむ……」
リセイは席を立ち、背後の窓を押し開いた。窓外に顔を出し、頭上を見遣る。
彗星は未だ、まばゆい輝きを放っていた。
「彗星が吉兆か凶兆かだと? くだらん!」
豪快に吐き捨てたのは、燃えるように赤い髪をした男である。同色の眉毛の下で輝く両眼は血のように紅い。
ナル州の北端に位置するガコウ山。そこを根城にする盗賊の頭である。その眼をして「灼眼」という渾名で呼ばれている。本名は伝わっていない。
灼眼らがいるのはガコウ山の中腹に空いた洞窟、その中を進んだ先にある巨大な空洞である。岩壁のあちこちに燭台を打ちつけ、灯火を灯して明るくしている。洞窟は空洞の奥にも続いており、略奪してきた食糧や金品の置き場として使われていた。
盗賊たちは空洞の剥き出しの岩の上に思い思いに腰を下ろし、酒を飲んだり談笑したりしていた。そのうちの一人が用を足しに洞窟を出て行った際、夜空に疾る彗星を見て、戻って吉兆か凶兆かの話になったのである。
「運は自力で掴むもんだ。他から与えられるもんじゃねえ。まして星なんぞに」
灼眼はそう言うと、杯をあおった。喉を焼くほど強い酒だ。それを傍らの壺から杯に並々と注ぐと、再び熱い液体を喉に流し込む。
「で、でもよう灼眼のお頭、彗星ってのは昔から……」
「くだらんと言っている!」
灼眼は手首を翻した。杯が宙を飛び、慌てて避けた盗賊の背後で岩壁に当たって砕け散る。
「星に頼るな。俺を頼れ。そうすりゃもっと贅沢をさせてやる。酒も女もな」
おお、と盗賊たちがどよめく。
「お、女も? 本当ですかい灼眼のお頭!」
「おうよ。俺はもっともっと先へ行く。それについてくりゃ、金も食い物も、酒も女も思いのままだ。だから俺について来い!」
おおっ、と歓声が上がる。拳を突き上げる者、杯を掲げる者、その場で飛び跳ねる者もいた。
「そうだ……俺はちんけな盗賊頭じゃ終わらねえ。俺はもっと……」
壺に直接口をつけ、酒をあおる。その口許には凄まじいほど不敵な笑みが浮かんでいた。
この夜現れた彗星が吉兆か凶兆か、様々な人々が思いをめぐらす中、そのことにまったく関心のない者もいる。ラエルもその一人だった。
ヨウ州州都シンヨウ。その王城ヨウ・カスレの裏手に広大な練兵場がある。そこにラエルはいた。彼の他に人はいない。王城警備の兵以外は、皆寝静まっているだろう。特にヨウ州軍総勢四万のうち、一万の兵は明日西方へ向け出陣する。今夜はしっかりと休んで気力と体力とを充実させておく必要があるのだった。
ラエルも傭兵として明日の出撃に参加するのだが、彼の場合、寝る前の鍛錬が日課になっている。それでこうして、真夜中の練兵場に足を運んだというわけだ。
二十二歳になったラエルは、中肉中背、引き締まった体躯をしていた。ややくせのある髪は黒色、瞳は薄茶色。まず美男子と言ってよい顔立ちだが、表情には鋭さがありすぎる。
鎧の類は身に付けていない。抜身の剣を一本持っただけの軽装である。その剣を右手一本で正眼に構え、一度目を閉じた。
開眼と同時、一歩踏み出す。剣が鋭く動いた。右に薙ぎ、真下に振り下ろす。左上に跳ね上げ、また下へ。今度は右上に斬り上げ、袈裟懸けに斬り下げる。その場で素早く回転するとその勢いのまま横一文字。剣舞のようだが、そうではない。ラエルの眼は見えない敵を見ていた。敵を仮想し、それを斬っているのだ。彼の精神は戦場にあった。
「精が出るな」
その声で、ラエルの精神は現実に引き戻された。声の主は見なくてもわかった。ヨウ州軍を率いる武将、リリエンソールだ。
長身痩躯、髪は栗色だが前髪の一房だけが染めたように白い。眉目は彫りが深く、灰色の瞳が硬質な光を放っている。
「あんたか」
「鍛錬は結構なことだが、明日は早朝に出陣だ。程々にしておけ」
「日課なんでな。怠るとその分弱くなりそうで怖い」
言って、無人の空間に鋭い突きを繰り出す。星明りの下、汗の滴が散った。
「強くなりたいか」
「なりたいな」
断言する。
「しかし、見るに今でも十分に強いと思うが」
リリエンソールが言うと、ラエルは頭を振った。
「いや、まだだ。まだ足りない」
「貪欲だな」
「貪欲でも何でもいい。強くなれるのならな」
そう、強くならねばならない。十三年前のあの日から、それだけを考えて生きてきたのだ。
たった一つのことを成すために。
──復讐のために。