第十三話
緩やかな起伏を描く地面の上を、初夏の風が吹き渡ってゆく。
爽やかな風だ。海を渡ってきた西風で、強い日差しに照りつけられた大地に涼気を運んでくる。この風のおかげで、コウ州の人々は暑熱の季節、猛暑に喘がずに済んでいるといっていい。
甲冑を着込んだ男たちにも、その風は等しく吹きつける。だが、彼らにはその心地よさに身を委ねている余裕はなかった。これから戦が始まるのだ。
七月十七日、コウ州中南部ノニア平原。
コウ州軍はそのほぼ中央に布陣していた。その数一万。騎兵四千、歩兵六千という陣容である。その他に、兵糧を運ぶ輜重隊や医療従事者(軍医、看護兵、治癒術師など)の隊がつく。これらは総勢二百人というところであった。
そこから一ゼル(約三百メートル)ほど北に行ったところに、人馬の群れがひしめいている。斥侯の報告によると、数はざっと一万。全員が武装しており、揃って紅い布を身に付けているという。紅い旗が幾本か、風にはためいているのがここからでも見て取れた。
「紅い布……紅巾か」
そう呟いたのは、コウ州軍の主将を務めるバクラムという男である。堂々たる偉丈夫で、肩幅が広く、筋骨逞しい。眼光鋭く、剛い髭を生やし、いかにも猛将といった風采である。
「紅巾軍、と名乗っているそうだぜ」
副将の一人が言った。ぞんざいな口調なのはバクラムの弟だからだ。名をジルグという。容貌は兄に似ているが、髭は生やしていない。体格も兄より一回り小さかった。
バクラムは鼻を鳴らした。
「軍だと? 僭称しおるわ、盗賊ごときが。軍ではなく賊と称するべきだな。紅巾賊と」
「紅巾賊か。そいつはいい。報告書にはそう書くとしよう。むろん、戦勝報告書にな」
「当たり前だ。盗賊なんぞに我らが負けるか。盗賊が何万集まろうと所詮は盗賊。正規軍たる我らに抗すべくもないわ」
そう言って、バクラムは嘲笑する形に口を歪めた。ところへ、
「奴らを侮ってはなりませぬぞ」
と、主将を諌めた者がいた。もう一人の副将で、名をタシロという。中肉で長身、角ばった顔立ちで、真っ直ぐな眼差しは実直そうな印象を与える。
タシロは語を継いだ。
「先だっては討捕軍が、また先日はバラッティ将軍麾下の我が軍が奴らのために敗れているのです。ゆめゆめ油断のなきようにと、州宰閣下も仰られていたではありませぬか」
「わかっておる」
不機嫌そうにバクラムは応じた。
「だがなタシロ、バラッティの奴は戦場を誤ったのだ。泥の中で騎馬戦をやるなど、馬の足に枷をはめるようなものだ。敵に付け込まれもするだろうよ」
「それは、そうかも知れませぬが、しかし……」
「わかっておるというに。伏兵を使うというのだろう。だから今、斥侯を放って調べさせておるではないか」
折しも、その斥侯たちが次々と戻ってきて報告した。曰く、自軍と敵との間に伏兵の気配はなし。
「聞いたか、タシロよ」
バクラムは喜色をあらわした。
「見ろ、そもそもここは見渡す限りの平原で、兵を伏せる場所などないのだ。今度戦場を誤ったのは奴らのほうだ」
「堂々と正面から戦っても勝てる気でいるらしい。不遜な思い上がりには罰をくれてやらんとな」
ジルグが勇んで、手持ちの槍をしごく。
斥侯の報告は続いた。敵は横帯に並んでいるように見えるが、騎兵と歩兵が混在し、隊列もばらばらで、陣形を組んでいるようには見えないという。
「下賤な盗賊の哀しさよな」
と、バクラム。
「兵法など知らんのだ。なるほど前の戦では伏兵を使ったが、それも馬鹿の一つ覚えだったというわけだ」
対するコウ州軍は、楔形に陣形を敷いている。騎兵が前、歩兵が後という配置だ。騎兵が敵中央部に突撃し、突破する。そして素早く敵の背面に展開し、後から続く歩兵と前後から挟撃する作戦である。
で、とバクラムは斥侯に問うた。
「盗賊の頭は……灼眼と言ったか、そやつはどこにいる? 味方の後ろに隠れて震えているのではあるまいな」
斥侯は答える。
「敵陣の先頭に、赤い髪の男がおります。おそらくそれが灼眼でしょう」
「ふむ、先陣に立つだけの度胸はあるか。どれ……」
バクラムら将軍たちは前方に目を凝らした。すると、なるほど遠目にも鮮やかな赤髪が風になびいているのが見える。その髪の持ち主は盗賊たちの中央、一歩手前に馬を立てていた。遠くて顔形までは見えないが、体格はそれほど大柄ではないようだ。その人物の両側には、大きな紅い旗をかついだ歩兵が立っている。
「ふん、大仰な。しかしその度胸がいつまで続くかな。試みにひと当てしてみるか……ハギス!」
バクラムに大声で呼ばれて、一人の武将が馬を進めてきた。バクラムが率いる中軍で部隊長を務める男である。細面で、吊り上った細い眼は狐を思わせる。
「お呼びでしょうか、主将閣下」
「うむ。貴様の部隊をもって敵に当たれ。灼眼とやらがどこまでやるのか量りたい」
「量る……ですか?」
「そうだ。手応えを感じるだけでいい。一戦して戻ってこい。無理はするな」
「御意。ですが……よろしいのですか?」
「何がだ?」
バクラムが片眉を上げる。ハギスはにやりと笑った。
「灼眼の首、私が獲ってしまうかも知れませぬが?」
一拍置いて、バクラムは笑った。豪快な笑いであった。このような物言いを、バクラムは好むのである。
「そうなったらそれでいい。功績の一番は貴様にくれてやる。行け!」
「はっ!」
一礼して、ハギスは下がった。
程なくして、ハギスは隊を率いて自陣から出撃した。数は五百。すべて騎兵である。手には槍、腰には剣。馬腹を蹴って平原を疾走する。合計二千の蹄が地を蹴る音が轟いた。
目指すは赤髪の男のいる敵中央部だ。土煙を巻き上げながら一ゼル(約三百メートル)の距離を駆け抜け、敵陣に肉迫する。
対する紅巾軍では、歩兵が弓に矢をつがえていた。弦を引き絞り、赤髪の男の合図で射放す。弦音が連鎖し、千本を超える矢がうなりを生じて飛んだ。矢を受けた兵がもんどりうって落馬する。あるいは、馬が悲痛な嘶きを上げて横転する。だが、命中率が悪い。突進から落伍したのは、全体の一割にも満たなかった。
第二射が放たれるより早く、ハギス隊は紅巾軍の中央部に猛然と突撃し──激突した。白兵戦が始まる。剣と槍、剣と剣、剣と盾とが激しく衝突し、騒然たる音響が喊声とともに響き渡った。
「貴様が灼眼かあッ!」
ハギスが赤髪の男に向かって槍を繰り出した。赤髪の男は馬上で身を捻ってそれを躱しざま、剣をはね上げてハギスの槍を弾く。たたらを踏んだハギスはすぐに体勢を立て直すと、
「その首、もらい受ける!」
と叫んで、再び赤髪の男に突きかかっていった。
「もしも俺が灼眼だったら……」
と、戦況を眺めつつ、バクラムが口を開いた。
「右翼と左翼の兵を前進させ、敵の側面を衝かせる。そうすれば正面と左右とで敵を半包囲できるからな。それが理にかなった用兵だが、さて、灼眼はどう動くか……」
むろんそうなった場合、黙って味方を見殺しにするつもりはない。増援を派してハギス隊の窮地を救うつもりだった。
だが、紅巾軍はバクラムの言葉通りには動かなかった。
まず、中央部がハギス隊の猛攻を支えかねたように後退した。すると、右翼と左翼もそれにつられるように後退を始めたのだ。
総勢一万の軍勢が、わずか五百の兵の突撃に押されている。そんな奇妙な状況が現出していた。追いすがるハギス隊。さらに下がる紅巾軍。追撃と後退が繰り返されるうち、彼らは一ゼル(約三百メートル)の距離を移動した。コウ州軍本陣と紅巾軍との間は、二ゼル(約六百メートル)ほどに開いたわけである。
頃合いとみて、バクラムは部下に引き鐘を打たせた。撤退の合図である。それを聞いたハギス隊の騎兵たちは攻撃の手を止めると、次々と馬首を巡らし自陣へと帰ってきた。紅巾軍の追撃はなかった。
「申し訳ありません。灼眼の首、討ち漏らしました」
バクラムの前に出て、ハギスはそう言って頭を下げた。彼は赤髪の男と一騎打ちを演じ、三十合以上渡り合ったが、ついにその首を獲ることができなかったのだ。
「大魚を逸したか。まあよい。で、どうだ、奴らに当たってみて、その感触は? 手応えはあったか?」
「灼眼個人に関して言えば、そこそこやると見ました。ですが組織として見れば、弱腰、その一言に尽きると思います」
「弱腰、か」
「はい。我々は五百、奴らは一万。五百の兵に押されてずるずると下がるようでは、戦意に乏しいと思わざるを得ませぬ」
そうか、と頷いて、バクラムは会心の笑みを髭の下に浮かべた。
「ハギスの言は、ことごとく俺の考えと一致する。思うに奴らは、臆病風に吹かれたのだ。正規の軍隊を相手取ることの愚かさに、今更ながら気づいたと見えるわ」
するとジルグが言った。
「降伏勧告でもするかい、兄者?」
「馬鹿を言え。奴らは悪行に悪行を重ねた悪党だ。降伏させて捕縛しても、打首になるのが落ちだろうよ。ここで殺されようと同じことだ」
「なるほど、確かにそうだ」
「それよりも配置につけ。戦を始めるぞ」
「お待ちください!」
と、声を上げたのはタシロである。
「何だ、タシロ」
「兵法に言います。半ば戦い、半ば退くは計あり、と。奴らには何か詭計があるのではありますまいか。ここは慎重に……」
バクラムはじとりとした目でタシロを見た。
「タシロよ、何か根拠があってそのような事を言っておるのか?」
「根拠は……ありませぬが……」
「ならば黙っておれ。慎重論も時にはよいが、あまり度を越すと味方の戦意を削ぐことになるぞ。貴様はちと杞憂が過ぎる」
「し、しかし……」
「計など無い!」
喝とした声でバクラムは断言した。
「俺がそう判断した。主将は俺で、貴様は副将だ。副将は主将の判断に従うものではないのか?」
「それは……」
そこまで言われては、タシロとしても引き下がるしかない。一礼してバクラムから離れ、決められた配置につく。
鐘が鳴った。むろん主将バクラムの命令によるものだ。先刻の引き鐘とは異なる律動で打ち鳴らされる。全軍出撃の合図であった。兵たちが緩やかに前進を始める。
バクラムが腹に響く声で叫んだ。
「全軍突撃!」
そして、鐘が一際高く打ち鳴らされる。
瞬間、前進は疾走に変わった。地を蹴立て、喊声を上げて一万の軍勢が突撃を開始する。
だが、彼らは知らなかった。
戦場を大きく迂回し、ノニア平原の西端を急速に南下する二百騎ほどの集団がいたことを……。
「すまなかった」
向かいに腰を下ろしたラエルに、セレンは頭を下げた。
二人の間には炎が燃えている。セレンが魔術で起こした炎だ。揺らめく炎が、暗い洞窟にいる二人の姿を橙色に照らしていた。
セレンはごつごつした地面に腰を下ろし、毛布と防寒用の毛皮を重ねて肩から羽織り、首から下を覆っていた。その下には下着を身に付けているだけだ。ラエルも同じ格好。脱いだ衣服は、洞窟の壁から壁へと差し渡された縄に吊るされている。時折水滴が滴るのは濡れているからだ。乾くまで、まだしばらくの時間がかかるだろう。
「足を引っ張ってしまったな」
そう言って、セレンは自分の左足首に触れた。鈍い痛みが疼くそこは腫れ上がっていた。骨までにはいっていない、捻挫であろうと思われた。
「起こってしまったことは仕方がない」
ラエルが言った。
「足を引っ張った、という点を否定してはくれないのだな」
「事実だからな」
「容赦のない男だ」
セレンは苦笑した。
事の起こりは半刻(約一時間)ほど前。
ラエルとセレンは、切り立った断崖の中腹に設けられた桟道を進んでいた。木製の板を連ねて造られた道で、崖から棚のように張り出している。幅は人が二人、かろうじて並べる程度。断崖の向かい側はまた断崖で、その間を強風が吹き荒ぶ度、木組みがぎしぎしと嫌な音を立てた。
古い桟道であったし、長く風雨に晒されて傷んでもいたのであろう。おそらくは半ば腐っていたのであろう板の一枚を、セレンが踏み抜いてしまったのだ。
転落しかけたセレンの手をラエルは咄嗟に掴んだが、災難はそれで終わらなかった。次の瞬間、ラエルの足下の板も音を立てて裂け、割れたのである。二人は揃って宙に投げ出され、崖下へと落ちていった。
断崖の下は川だった。二人は落下の勢いそのままに水面に叩きつけられ、水中へと没した。おかげで地面への激突死は免れたが、代わりに溺死の危機に直面した。水流は速く激しく、時折渦を巻いて二人の身体を翻弄する。それでも何とか二人とも水面に顔を出し、呼吸を回復すると、断崖の水面近くに開いたこの洞窟に泳ぎ着いたのである。
「洞窟というより隧道だな、これは」
ラエルの言葉に、セレンはそうだな、と相槌を打った。二人の視線が洞窟の入口に向く。
洞窟の外は川だが、その向こうの断崖に、もう一つ洞窟が口を開けている。その二つの洞窟の間に、橋が架かっていた形跡があるのだ。橋自体はとうに落ちて流されてしまったのだろう、跡形もないが、橋の根元と思しき木組みが両方の洞窟の入口に残っていたのである。
ということは、これが天然の洞窟を利用して造ったものか一から掘ったものかはわからないが、かつては人が通っていた道、ということになる。
「これが隧道なら、途中で行き止まりってことはないだろう。どこかに通じているはずだ。元の道に戻れない以上、進むしかないな」
そう言って、ラエルはセレンに視線を戻す。
「歩けそうか?」
「すぐには無理だな。だが痛みはだいぶ引いてきた。おぬしのくれた呪符が効いている」
呪符とは、呪術を封じた札のことで、対象に貼り付け、合言葉を唱えると効果が発動する。ラエルが渡したのは治癒術を封じた呪符で、今はセレンの左足首に貼られている。一回きりの使い捨てで、効果も限定的──重傷や重病は治せない──、治癒するまでに時間もかかるが、何もないよりは遥かにましであろう。
「まあ、まだ服も乾いていないしな」
ラエルはその場にごろんと横になった。
「しばらく休憩だ。せいぜい身体を休めておこうぜ」
しばしの静寂。
外の急流の轟くような水音と、魔術の炎がぱちぱち爆ぜる音が洞内に響く。
そうして、四半刻(約三十分)ほどが過ぎたろうか。
ふと、セレンが沈黙を破った。
「一つ……訊いてもいいか?」