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第十話

 ムフタ湿原は、コウ州北部に広がる湿地帯で、ガコウ山からは南西の方角にある。

 水分を多量に含んだ土の表面を苔が覆い、緑の絨毯を敷き詰めたような光景が見渡す限りに広がっている。その中に大小の湖沼が点在し、鏡のような水面は曇天を映して灰色に染まっていた。樹木はなく、丈低い草が所々に(くさむら)を作っている。

 ムフタ湿原はまた、霧が出やすいことでも知られている。今も薄い(もや)がゆっくりと地を這うように東から西へと流れていた。

 が、視界を遮るほどのものではない。靄を透かして、黒々とした影がひしめいているのが見える。目を凝らせば、それが人馬の群れであると見て取れた。

「それにしても、ろくでもない場所を戦場に選びおったわ、灼眼(しゃくがん)め」

 馬上、そう呟いたのはコウ州軍の将軍バラッティである。今回のガコウ山討伐にあたり、主将に任じられていた。

 湿地帯は泥土であるため足場が柔らかく、ただ立っているだけでも脛の半ばまで土中に沈んでしまう。動こうとすれば泥濘(ぬかるみ)に足を取られて機敏に動けない。馬も同様で、自重と背中に乗っている騎兵の重みで膝下まで泥に埋まり、いかにも歩き難そうだ。鞭をくれて駆けさせても、平地を走るような速度は出ないのではないか。

 当初、コウ州軍はこの湿地帯を迂回してガコウ山へ向かう予定だった。だがガコウ山の軍勢がにわかに南下してこの湿原に陣を敷いたため、それを迎え撃つべく、ここに布陣せざるを得なくなったのである。

 伝令が来た。偵察隊からの報告だった。敵の数は五千から六千。うち騎兵は三千ほど、とのことであった。

「ふむ……情報より少ないな。灼眼の軍勢は一万ではなかったか?」

「根拠地の守りに残しているのでありましょう」

 副将のトーレスがそう推測を述べた。バラッティは不審げに眉根を寄せる。

「一万の軍勢を分散させたと? それでは我が軍に各個撃破されるだけではないか。そんな兵法の基礎も知らん連中なのか、奴らは?」

「閣下、間違えてはなりませぬ」

 トーレスが言う。

「我々が戦おうとしている相手は、軍隊ではありませぬ。盗賊の群れなのです」

「さよう、さよう」

 もう一人の副将、バルドーがトーレスに賛同した。

「盗賊ごときに軍略の何たるかなどわかりはしませぬ。所詮は烏合の衆ということでござる」

「……ふむ。それもそうか」

 方針は定まった。敵がこちらより少数であるなら、数の力でもって押し潰すだけだ。

「作戦に変更はない。重装騎兵を先頭に全軍突撃! 盗賊どもを蹴り散らせ!」

 角笛の音が各所で響き渡った。出撃の合図である。陣形を整え、一万のコウ州軍は前進を開始した。その歩みが疾走に変わるまで、さほどの時間はかからなかった。


 一万の軍勢が押し寄せてくる。

 響き渡る角笛の音。馬蹄の轟き。次第に高く大きくなる喊声(かんせい)。薄い靄の向こうで、人馬の群れが急速に大きさを増してゆく。

 迫り来る一万の軍勢、その存在そのものが圧力となって暴風のように吹き付けてきた。(すく)み上がる者がいた。思わず一歩後退(あとじさ)る者がいた。茫然として武器を取り落す者も、その逆にしがみつくように武器をかき抱く者もいた。

 無理もない。ほとんどの者が、これだけの軍勢を前にしたことは初めてであったろうし、戦い自体初めてという者も少なくなかったのである。

 そんな中、馬上、微動だにしない男がいた。燃えるような赤髪を風になびかせ、血の色をした瞳で敵軍を睨み据えている。

 灼眼である。

「恐れるな」

 腹に響く声で、灼眼は言った。

「恐れは死に繋がる。死にたくなければ恐れずに戦え!」

 灼眼の言葉は苛烈であった。だが、苛烈なだけに(かえ)って、部下たちの身に染みた。

 灼眼はこうも言った。

「これは、俺たちの存亡を賭けた戦いだ」

 この言葉は効いた。ここで負ければ、ガコウ山は陥ちる。そうなれば、ここにいる人々は行き場を失うのだ。やるしかない、戦うしかないのだと皆が覚悟を決めた。決めざるを得なかった。

「来るぞ」

 灼眼は不敵な笑みを浮かべ、舌なめずりをした。

 いよいよコウ州軍は迫ってくる。馬蹄の響きは地面を震わせ、喊声は耳を圧するほどになった。

 が、遅い。

 コウ州軍の突進の速度が目に見えて落ちていた。泥濘に足を取られているのである。最初こそ勢いよく駆け出したコウ州軍であったが、湿地の柔らかな泥土がその勢いを妨げた。足が沈む。滑る。絡みつく。それでも必死に前進を続けるコウ州軍だったが、その速度はもはや疾走とは呼べなかった。先頭を走る重装騎兵など、馬も人も重い金属鎧をつけているだけに、より深く泥土に足を取られ、今や歩くのと変わらぬ速度になっていた。

 これが灼眼の狙いであった。騎兵の数で劣る灼眼は、騎兵の機動力を削ぐことで、その不利を帳消しにしたのである。特に重装騎兵は、その突進力が脅威となる。だが反面、突進さえ封じてしまえば、鈍重な亀も同じだ。

 今こそ好機、と灼眼は見た。

(シャア)ッ!」

 と咆えて馬腹を蹴り、泥を跳ね上げて前進した。喊声を上げて、紅巾(こうきん)軍の兵士たちがそれに続く。すでに相手は指呼の距離だ。瞬く間に両軍は衝突した。

 この時灼眼が使用した武器は「(げき)」という。「東方の大国」シャイールから伝来したもので、槍のような長柄武器であるが、先端の刃の両側に左右対称の刃がついており、「斬る」「突く」「叩く」「薙ぐ」「払う」といった複数の用途を併せ持つ。

 その戟を頭上で旋回させると、灼眼は重装騎兵がひしめく中へと躍り込んだ。柄で殴りつけて一人を馬上から叩き落とすと、返す刃を別の重装騎兵の首筋に撃ち込んだ。兜を被った頭部が血の尾を引いて宙を飛ぶ。一拍遅れて落馬する胴体には目もくれずに前へ。繰り出された長槍を柄で跳ね上げると、がら空きになった脇下を凄まじい勢いで突く。絶叫が上がり、長槍を掴んだままの右腕が肩からちぎれて吹き飛んだ。

 先頭で奮闘する灼眼に、部下たちも続いた。手にした武器をかざしてコウ州軍に襲いかかる。刃の打ち交わす音、馬の(いなな)き、怒号と悲鳴とが湿原に響き渡った。

 数の上で優位なはずのコウ州軍は、その利を活かすことができないでいた。自陣から紅巾軍の陣まで、ぬかるむ悪路を強引に突破してきたため、隊列は乱れ、縦に長く伸びきって、まだ戦場に到着していない者も数多くいた。歩兵に至っては完全に騎兵と遠く切り離され、今も泥濘と悪戦苦闘している。

「こういう時に数を減らす!」

 灼眼の戟がうなりを生じた。振り下ろされた刃に顔面を割り砕かれ、重装騎兵がもんどりうって落馬する。間髪入れず石突を繰り出すと、背後に回っていた重装騎兵が喉を突かれてのけ反った。体勢が崩れたところを、紅巾軍の兵士が槍で串刺しにする。

 前へ、前へ。灼眼とその部下たちは前進した。その勢いは凄まじい。灼眼の豪勇もだが、部下たちも鬼気迫る戦いを見せていた。灼眼の猛気が乗り移ったかのように、立ち塞がる敵を突き刺し、斬り捨て、馬蹄で踏みにじる。泥にまみれ、返り血を浴び、味方の死体を踏み越えてなお斬りかかる壮絶さだ。その勢いを前に、動きの鈍った重装騎兵など敵ではなかった。たちまちのうちに粉砕され、突破されてしまった。

 討ち漏らした重装騎兵は歩兵に任せ、灼眼と三千の騎兵はさらに突出する。敵の騎兵と激突した。今度の騎兵は金属鎧こそ着ているが、馬には鎧を着けていない。重装騎兵に比べればまだしも機敏に動けそうだった。

「立て直せ! 迎撃せよ!」

 コウ州軍は紅巾軍の猛攻を受けつつ、乱れた隊列を立て直そうとした。凸型の紅巾軍に対し、コウ州軍は凹型へ。数を活かして紅巾軍を半包囲しようとした。だが。

「敵襲!」

 コウ州軍の右翼と左翼が突如、乱れ立った。左右から敵が襲いかかってきたのである。

 伏兵であった。湿地帯の泥の中に兵が伏せていたのだ。それが一斉に立ち上がり、槍先を揃えてコウ州軍の両側面を()いた。

「ふ、伏兵だと……!?」

 狼狽した声を発したのは、コウ州軍主将バラッティである。彼は後方、本陣にいた。現場の指揮は二人の副将が執っている。

 程なく伝令が走ってきて、戦況を知らせた。伏兵の出現により我が軍混乱せり、と。

「伏兵の規模は!?」

「はっ。右に二千、左に二千。合わせて四千ほどかと!」

「四千……!」

 当初の偵察では、灼眼の兵力は五千から六千と見ていた。これに伏兵四千を合わせると、ほぼ一万になる。灼眼は根拠地に兵を温存してなどいなかった。全兵力をこの戦場に投入してきていたのである。

 バラッティは悪寒を覚えたが、すぐにそれを振り払った。いくら兵数で互角になったとはいえ、所詮相手は盗賊、烏合の衆だ。正規の軍隊である自分たちが負けることなど、ありえぬことではないか。

「そうだ。負けるはずがない。負けるはずがないのだ……!」

 一抹の不安を抑えつつ、そう自分に言い聞かせるバラッティであった。

 戦いはまだ、続いている。


 灼眼の猛威は留まるところを知らなかった。

 右に薙ぎ、左に突く。上に跳ね上げ、旋回させて振り下ろす。戟がうなりを上げる度、敵兵の血飛沫が宙に舞った。灼眼はまるで人の形をした暴風であった。暴虐に荒れ狂い、触れるものすべてを吹き飛ばす。

 この時、ある異変に敵味方の幾人が気づいたであろうか。普段は血の色をした灼眼の瞳が、金色の輝きを放っていたことを。だけでなく、瞳孔が狭まり、細い縦の筋となって、それはまるで爬虫類の眼のようであった。

 竜眼、と呼ばれている。それを持つ者は絶大な強さを発揮すると言われるが、その伝の通り、灼眼は常人離れした豪勇をもって敵兵をなぎ倒していった。

 三千の騎兵も、よく灼眼についていった。もともと騎兵には元傭兵や元冒険者など、戦いに慣れた者を選りすぐってある。正規軍が相手でも、そう容易に遅れはとらない。むろん無傷ではない。コウ州軍の騎兵に斬り伏せられる者も数多くいた。それでも騎兵は前進する。前進して、コウ州軍の騎兵隊の中央を食い破らんとしていた。

 一方、伏兵として現れた紅巾軍の歩兵各二千は、コウ州軍騎兵の右翼、左翼とそれぞれ交戦していた。率いるのは落ちぶれ貴族のゴコウと、もう一人、リュウキという男である。どちらも灼眼に(くだ)る前は大規模な盗賊団の頭を務めていた男で、部下を御する術を心得ている。加えて、戦術に対する理解もあった。

「馬を狙え! 敵を落馬させるのだ!」

 ゴコウとリュウキの指示が飛ぶ。

 彼らの部下たちは徹底して馬を狙った。殺さずともよい。馬が驚いて体勢を崩し、騎手を振り落とせばいいのである。落馬したコウ州兵は重い金属鎧だ。泥土の中に倒れれば容易には立ち上がれない。そこを槍で刺すのである。

 この策は効いた。各所で馬が悲痛な嘶きを上げ、跳ね上がり、横転し、騎手を放り出した。そこへ複数の紅巾兵が群がり、泥の中でもがくコウ州兵に槍を突き立てた。血と絶鳴を吐いてコウ州兵は息絶える。こうしてコウ州軍騎兵の両翼は数を減らしていった。

 前方と両側面から攻めたてられて、コウ州軍騎兵は乱れに乱れた。陣形などもはやないに等しい。無秩序な群れとなって、各個に討ち取られてゆく。豪勇を振るう者もあったが、所詮それは個人の勇であって、戦局を(くつがえ)すには至らなかった。

「おのれェ!」

 コウ州軍騎兵の中で、単騎、奮戦している者がいる。副将のバルドーである。巧みな手綱さばきで紅巾兵の槍を(かわ)すと、馬上から槍を繰り出し、敵の喉を貫き通した。倒れ込む味方の死体を踏み越えて別の紅巾兵が迫る。二人だ。バルドーは馬を(さお)立たせ、槍を振るった。紅巾兵の一人は馬の前脚に蹴り飛ばされ、もう一人は槍の柄で側頭部を強打され吹き飛んだ。頭蓋が割れ、血と脳漿(のうしょう)が飛び散って不気味な虹を描く。

 そうして紅巾兵を槍先にかけること十数人。無秩序な味方の流れに巻き込まれたバルドーは、いつしか中央に出た。そこでは両軍の騎兵同士が激しく斬り結んでいる。バルドーは槍をしごき、獲物を求めて視線を走らせた。

 そして、目が合った。鋭い光を放つ、金色の瞳。こちらを睨み据えている。

 ──こいつだ。

 吹きつける圧倒的な殺気で、バルドーは直感した。こいつだ。こいつが敵の首領、こいつが灼眼。

 灼眼もこちらを獲物と決めたか、馬を飛ばしてくる。バルドーは身構えた。

 灼眼の戟が振り上げられ、振り下ろされる。それをバルドーは槍の柄で受けた。凄まじい衝撃。両腕に(しび)れが走る。それでも槍を取り落さなかったのは奇跡と言えるだろう。

 そのまま灼眼はじりじりと押してくる。両腕の筋肉が悲鳴を上げた。恐るべき膂力(りょりょく)であった。

 違う、とバルドーは戦慄した。技倆(ぎりょう)がではない。存在そのものがだ。自分と灼眼とでは、技倆の差ではない、もっと根源的な何かが決定的に違う。

 その時になって初めて、バルドーは気づいた。灼眼の眼の異様さに。金色の虹彩、縦筋の瞳孔。爬虫類めいたその眼。

「竜眼……!」

 バルドーは喘いだ。背筋を冷たい汗が伝う。竜眼は初めて見るが、その伝説は知っていた。竜眼の持ち主、それは──。

「き、貴様、貴様は……!」

 灼眼が戟を引いた。と同時に石突が跳ね上がり、バルドーの槍を下から打つ。槍は持ち主の手を離れ、宙を飛んで泥濘の中に消えた。

 バルドーは腰の剣を抜こうとした。だが次の瞬間、恐ろしい速度で戟が突き込まれてきた。刃が首を断ち、バルドーの頭部は鮮血と共に吹き飛んだ。首を失った胴体はぐらりと揺れ、泥土の中に落ちてゆく。

「バルドー将軍戦死!」

 この報に主将バラッティは蒼白になった。主将であるはずの男であったが、

「こんなはずはない。こんなはずでは……!」

 そう繰り返すばかりで、具体的な指示を出せないでいた。予想外の展開に頭が追い付かず、どうしてよいかわからなかったのである。

 ちなみにこの時になってようやく三千の歩兵が戦場に到着したが、遅きに失した。紅巾軍の騎兵はコウ州軍の騎兵隊の中央を食い破り、今まさに突破したところだったのである。紅巾軍騎兵は勢いそのままにコウ州軍歩兵と激突し、一撃で粉砕してしまった。

 もはや敵本陣との間に障害はない。灼眼は部下たちに残敵の掃討を命じ、単騎、敵本陣を目指した。

 灼眼の馬は速い。汗馬であった。泥濘などものともしない疾走ぶりで、みるみる敵本陣との距離を詰めてゆく。

 ひたと前方を見据える灼眼。その視線はバラッティを捉えた。

「貴様が主将かッ!」

「ふ、防げっ!」

 バラッティが悲鳴交じりの声で命じる。本陣付の騎兵が十二騎、剣を抜いて灼眼の前に立ちはだかった。

 灼眼の戟がうなる。一閃で二人の首が飛んだ。続いて雷光のような突き。三人目の胸甲を割り、胸を貫いた。それを抜きざま、石突で四人目の顔面を砕く。五人目と六人目が斬りかかってきた。二つの刃を柄で弾くと、真横に薙ぐ。腹部を斬られてのけ反る五人目。体勢を崩し、六人目を巻き込んで落馬する。六人目は立ち上がったところを馬蹄に蹴られ、踏みにじられた。

 瞬く間に六人を(たお)した灼眼に、残る六人は束の間たじろいだ様子を見せたが、互いに頷き合うと散開し、灼眼を包囲した。

「ほう」

 灼眼は楽しげに上唇を舐めた。

 じりじりと包囲の輪が縮まる。灼眼は笑みを浮かべてその様子を見ている。前に三人、後ろに三人。やがて剣の間合いに入った。追い詰めた、と誰もが思った。

 六方向から同時に剣が突き込まれる。灼眼は戟を旋回させて前の三本を払ったが、後ろの三本は防げなかった。否、防がなかったのだ。なぜなら次の瞬間、信じられぬことが起こったのである。

 灼眼は鎧を着ていない。背後から迫った三本の刃は灼眼の背中を易々と貫く、はずだった。だがそうはならなかった。甲高い音と共に、三本の刃は弾かれたのである。

 服の中に鎧を仕込んでいたのか、と後ろの三人は思った。そうではなかった。剣に裂かれた服の切れ目から覗いたのは、浅黒い皮膚であった。

(あめ)えよ」

 灼眼は言った。竜眼がぎらりと光る。

「並みの剣じゃ、俺は傷つかねえ」

 狼狽する騎兵に向かって、灼眼は戟を振るう。一閃、二閃、三閃。それだけで、六人の首は胴から離れた。残った胴体が次々と崩れ落ちる。流れ出る血が泥土を赤黒く染めた。

 ひっ、と喉を鳴らしたのはバラッティだ。

「ば、化け物……!」

 そう呻いて後退る。

「化け物、か。そうかも知れねえな」

 バラッティに向かって馬を進めながら、灼眼は笑った。返り血に濡れた、凄絶な笑みであった。

「だが、その化け物が天下を獲ろうっていうんだ。面白いと思わねえか?」

 そこで忍耐の限界が来た。バラッティは逃げ出した。主将の威厳も武人としての誇りもかなぐり捨てて遁走する。だが泥濘に足を取られ、馬の歩みは遅い。バラッティは狂ったように馬に鞭打った。

 灼眼は舌打ちした。興醒めといった表情である。

「腰抜けめ」

 と言うと、無造作に戟を投げた。

 戟は空を裂いて飛び、逃げるバラッティの背中に深々と突き立った。びくん、と身体が跳ねて馬から落ちる。刃は根元まで埋まり、胸から穂先が飛び出ていた。即死であった。

「バラッティ将軍、戦死!」

 その報が伝わると、コウ州軍の戦意は(くじ)けた。副将バルドーはすでに亡く、主将バラッティもたった今死んだ。ただ一人残った将軍トーレスは、

「ここまでか」

 と呟くと、部下に命じて角笛を吹かせた。低く断続的な音に、高く長い音が続く。撤退の合図である。それに呼応して、戦場の各所で角笛が鳴った。

 コウ州軍は敗走を始めた。騎兵は馬の向きを変え、歩兵は身を翻して逃げ出す。トーレスも形だけの攻撃をして敵兵を下がらせると、素早く馬頭を巡らせた。

 トーレスの胸中では、後悔の念が渦巻いていた。敵を甘く見すぎた。たかが盗賊、所詮は烏合の衆と侮った。その結果がこれだ。今やコウ州軍はその隊列をずたずたに寸断され、小集団ごとに孤立し、各個に殲滅(せんめつ)されつつある。果たしてこの中で、どれだけの人数が逃げ切ることができるだろうか。

 歯噛みしつつ、しかしトーレスは諦めていなかった。今は落ち延び、湿原を出たところで残存兵をまとめ、州都に援軍を請うて灼眼と再戦するつもりであった。

「次は負けない。次こそは……!」

 乱刃をかいくぐって駆けてゆく。

 と、突然馬が跳ねた。紅巾軍歩兵の槍に首を貫かれたのだ。苦しげな嘶きを上げて馬が横転する。トーレスは泥土に投げ出された。そこへ紅巾兵が殺到する。三人だ。手にした槍を突き立てる。二本は硬い金属鎧に弾かれたが、一本が脇腹を貫いた。激痛が走る。さらに突き刺そうと紅巾兵は槍を振り上げた。

 瞬間、剣光が跳ねあがった。紅巾兵の一人が絶叫する。槍を持った手が宙を飛んだ。両手首を切断された紅巾兵は転倒し、泥の中で悶絶する。残る二人がたじろいだ。その間に、トーレスはゆらりと立ち上がる。右手には剣、左手は脇腹を押さえている。その指の間から鮮血が溢れていた。

 慌てて突きこまれる二本の槍。そのうちの一本をトーレスは身を引いて躱し、一本を剣で弾いた。そして踏み込む。袈裟懸(けさが)けに斬り下げた。首筋を断たれ、紅巾兵は血を噴出させてのけ反った。

「……!」

 激痛に耐えつつ、トーレスは視線を巡らせた。トーレスを取り囲む紅巾兵は増えていた。前に三人、後ろに四人。それぞれ槍を手に、突き込む機会を(うかが)っている。

「盗賊どもめ」

 血泡と共に、トーレスは吐き捨てた。

「俺はコウ州軍副将トーレスだ! そう簡単にやられはせんぞ!」

 叫ぶや、正面の三人に斬り込んだ。斬撃が左右に閃き、血と叫喚が噴き上がる。瞬く間に二人を斬り伏せたトーレスは、三人目を睨み据えた。紅巾兵は怯みつつ槍を突き出した。トーレスは躱した。だが次の瞬間、四本の槍がトーレスの背中に突き刺さった。背後の四人が繰り出した槍である。それでもなお剣を振るって正面の紅巾兵を斬り殺したのは、恐るべき鬼迫と言えるだろう。

 だが、それが限界だった。剣を振りきった姿勢のまま、どう、とトーレスは倒れ込んだ。背中に四本の槍を突き立てたまま、自らの血溜まりの中でトーレスは絶息した。

 こうして最後の将軍も死んだ。コウ州軍は撤退を指揮する者もなく、無秩序な群れとなって逃げ散ってゆく。ひたすらに、敵のいない方角へと。このうち、生きて州都に辿り着いたのは二千にも満たなかったと言われている。

 この戦いで、コウ州軍は六千の戦死者を出した。残る四千のうち、二千は逃げ、二千は降伏した。降伏した者の命を、灼眼はいったんは助けた。そして自分への忠誠を求め、誓った者は紅巾軍に組み入れた。誓わなかった者は殺した。このあたり、容赦のない男である。

 紅巾軍は戦死者千五百。決して少ない数ではないが、寄せ集めの集団としては上出来であったろう。灼眼も、

「初陣としてはこんなものか」

 と満足げであった。

 紅巾軍は湿地帯を出て、さらに南下した。

 目指すはコウ州州都ロウショウである。


「コウ州軍敗れる」

 その報がコウ州王オウルのもとに届いたのは、三日後、七月十三日のことである。

 敗報を受けたオウルは驚愕すると同時に激怒した。一万もの軍勢を与えたのに、むざむざ負けて帰ってくるとは何事か。しかも相手は軍隊ではなく、卑しい盗賊どもではないか。

「打ち首だ!」

 オウルは玉座で声を荒げた。

「敗戦の罪は重い! 責任者を、将軍どもを打ち首にせよ!」

 とはいっても、将軍三名はすでにことごとく敗死してしまっている。そのことを伝令から聞かされたオウルは、

「ならば部隊長全員を打ち首にせよ!」

 と叫んだ。

 州宰が慌てて主君を制止する。

「閣下、そんなことをしては兵の士気に関わります。どうかお怒りをお(しず)め下さい。それよりも今は、盗賊どもをどうするかです」

 聞けばガコウ山の軍勢はさらに南下し、州都を目指しているようだという。これをいかにして防ぐかを考えることこそ、今は肝要ではないか。

「軍を出すしかなかろう」

 怒り冷めやらぬといった口調で、オウルは言った。

「規模はいかように?」

「一万」

「一万!?」

 州宰は目を剥き、主君の言葉を疑った。つい今しがた、一万の軍勢をもって当たり、負けたという報を受けたばかりではないか。

「馬鹿者! たかが盗賊相手に、これ以上の軍勢を出せるものか!」

「し、しかし、閣下……」

此度(こたび)の敗戦も何かの間違いなのだ。そう、油断だ。指揮官が油断しおったのだ! でなければ、我が軍が同数で負けるはずがない!」

 オウルは意地になっていた。彼にとって、卑しい盗賊を相手に、それよりも多い戦力で当たるなど、あってはならぬことであった。同数で勝って当たり前、否、たとえ少数であっても勝つのが当然と思っていた。

 その心理を、州宰は読み取っていた。この州王とは長い付き合いである。このままでは、前言を撤回して五千や三千などと言い出しかねない。そう思った州宰は、やむなく一万で妥協することにした。

「兵数は一万だ。よいな」

「御意。して、主将は誰に?」

「任せる。しかしくれぐれもまともな指揮官を選べよ」

「はっ」

 州宰は一礼した。

 かくして州宰の人選によって主将及び副将が決まり、将軍たちの指揮の下、軍備が整えられていった。


 一方その頃、紅巾軍は南下を続けていた。

 緒戦の勝利で士気は上がり、意気揚々といった様子である。

「お頭は(すげ)えな。本当にコウ州を獲っちまうかも知れねえぞ」

「馬鹿、かも知れねえじゃねえ、獲るんだ。そうすりゃ、お頭は王だ」

「王か。凄えなあ。でも、それで終わりじゃねえんだろ?」

「ああ。お頭は天下を獲るつもりだからな。ゆくゆくは皇帝になって、俺たちを王にしてくれるかもな」

「そりゃあいい。王になったら、どれだけ贅沢できるんだろうなあ」

「それこそ思うままだ。酒も料理も、女もだぞ」

「女か! そいつぁいい。ガコウ山は何しろ男臭くていけねえ」

 部下たちがそんなふうに話し合う中、先頭を行く灼眼は遥か遠くを見ていた。瞳は竜眼ではなく、元の血の色に戻っている。

 視線の先は地平線、まだ州都ロウショウは見えない。右手に青く霞んで見える山嶺(さんれい)は、コウ州の西からティルクへと連なるカラディ山脈であろう。

「ロウショウまでは五、六日といったところですか」

 灼眼の左斜め後ろに馬を進める男が言った。ずば抜けた長身。ゴコウである。

「州都は堅固な城壁に守られています。こいつを攻めるのは、ちと厄介ですな」

「策はある」

 視線を遠くに向けたまま、灼眼は言った。

「まあ、見ていろ」

 その口許には不敵な笑みが浮かんでいた。

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