第九話
初夏の午前。
ヨウ州王フレイホーンは、王城の執務室にいた。黒檀製の執務机につき、起案書を決裁し、あるいは報告書に目を通している。
州王の日課はおおむね決まっている。午前中は執務室で書類相手の政務をこなし、午後には謁見の間に出て、人々からの陳情や請願を聞くのである。フレイホーンは現在、午前の執務の最中であった。
「穀物の価格が上がっているな。やはり昨年の不作が影響しているか」
「そのようです」
答えたのは、州宰のトゥーレである。
「対策はあるか?」
「州庫を開いて穀物を流通させれば、全体の供給量が増え、価格が下がるかと」
「そうだな。そうしてくれ。だがそれでも価格が下がらない場合は、農民だけではない、全体的な減税が必要かも知れぬ。今の我が州の財政状況でどのくらいの減税が可能か、試算しておいてくれ」
「かしこまりました」
その時、執務室の扉を叩く音がして、表に立つ近衛兵が来客のあることを告げた。通せ、とフレイホーンが言うと、扉が開いて、一人の男が姿を現す。
「来たか。待っておったぞ」
「お呼びでしょうか、殿下」
客は片膝をついて一礼した。楽にせよ、との州王の言葉に立ち上がる。長身痩躯、髪は栗色だが前髪の一房だけが染めたように白い。ヨウ州軍の将軍リリエンソールである。
「うむ。おぬしに来てもらったのはな、ガコウ山の盗賊どものことだ」
「ガコウ山の盗賊……まさか!」
はっとなり、身を乗り出しかけたリリエンソールを、フレイホーンは片手を挙げて制した。
「いや、そうではない。盗賊の被害に遭ったという報告はない。おぬしがマリキ地方の盗賊を鎮めてからはな」
三か月ほど前のことになる。ヨウ州東部のマリキ地方で、千人規模の盗賊が現れ、近隣の村が襲われるという事件が起きた。リリエンソールは一軍を率いて盗賊団の本拠地を急襲し、これを壊滅させたのだ。それ以来、ヨウ州に盗賊の被害はない。
余談だが、この戦いにはラエルも傭兵として参加していた。彼は盗賊の頭と一騎打ちを演じ、これを討ち取った。その功績に対する恩賞として贈られたのが、駿馬「白風」である。
「被害はないが……無視もできない状況にあるようだ」
「と、仰いますと?」
「諜者からの報告によると、ガコウ山の勢力は一万を超えたらしい」
「一万……!」
リリエンソールは目を瞠った。一万といえば、すでに一軍に匹敵する規模ではないか。
「これまでガコウ山の盗賊は、少数でもって比較的小さな街や村を襲っていた。それはおそらく、州軍に捕捉されないよう、機動力を重視していたからだろう。だが……」
「一万もの軍勢があれば、より大きな街を攻めることができる……」
「そうだ」
フレイホーンは頷いた。
「そして、仮に州軍が駆けつけたとしても、それを迎え撃つことができるということだ」
「それだけの勢力になるまで、なぜナル州はガコウ山を放置しておいたのでしょう?」
「さあな。ナル州王の考えていることはわからんよ」
むろんこの二人も、ナル州王と灼眼との間に結ばれた密約のことなど知る由もない。
「だが今更それを言っても仕方がない。現に一万もの規模に膨れ上がってしまったのだ、ガコウ山は」
「我が州に攻め寄せて来るでしょうか?」
「それもわからんな。灼眼のみぞ知る、だろう」
常識から考えれば、可能性は少ない。ヨウ州は北にナル州と境を接しているが、ナル州は南北に長く、ガコウ山はその北端にあるのだ。ガコウ山からヨウ州に至るにはナル州か、その西に隣接するコウ州を縦断するしかないが、どんなに馬を飛ばしても一週間はかかる距離だ。まして一万人もの行軍となればその何倍もかかろう。そこまでの「遠征」をして略奪に来るとは考え難かった。
だが、人間は常識や論理だけで動くものではない。まして一万人の盗賊など、戦国期ならいざ知らず、ロウラン国が現在の十七の州に落ち着いてからは類がない。次にどう動くものか、予測は難しかった。
「それにな、リリエンソール。私には別の懸念があるのだよ。灼眼は一万もの手勢を集めて、どうするつもりだろう?」
「それは……」
略奪でしょう、と言いかけて、リリエンソールは言葉を飲み込んだ。別の可能性に思い至ったのである。そのリリエンソールの思考を読み取ったかのように、フレイホーンは頷いてみせる。
「そうだ。灼眼が求めているのは、財貨や食糧ではないのかも知れぬ」
「簒奪を目論んでいると……?」
「簒奪か、自立して王を称するか。いずれにせよ、灼眼とその勢力は危険な存在に思える。ただの盗賊という以上にな」
「何か手を打ちますか、殿下?」
「北部方面を警戒してくれ。現状ではそれしか打つ手があるまい。規模や編制はおぬしに任せる」
「はっ」
短く答えて、リリエンソールは一礼し、執務室を出て行った。その後姿を見送ってから、フレイホーンは窓外に視線を転じた。
執務室の窓からは王城の内庭が見える。内庭は大きな庭園になっており、色とりどりの草花が植えられ、小川や大小の池もある。その中を小路が縫い、小路の先にはいくつかの四阿があって、庭園の風景を鑑賞しながら休めるようになっている。
今、四阿の一つに三人の人影があった。長椅子に腰掛け、優雅に竪琴を弾く女性、それに聞き入る二人の幼子。フレイホーンの妻子である。
愛しい家族の姿を微笑ましげに見つめながら、ヨウ州王の地位にある男は、
(杞憂であってくれればよいが……)
と、胸中に呟くのだった。
雲の切れ間から陽光が差し込むと、兵士たちの鎧が波打つように輝きわたった。
コウ州州都ロウショウ。七月四日のことである。
将兵たちの群れが、ロウショウ北門の外で整列している。その数、一万。州都を囲む城壁の上からそれを眺めたコウ州王オウルは、
「壮観だな」
と、満足げな声を漏らした。
一万の内訳は、騎兵六千、歩兵三千五百、補給・医療要員が五百。中でも目を引くのは、板金製の全身鎧に身を包み、馬にも鎧を着せた騎兵の一団だ。その手には長大な槍を持っている。数は二百騎ほど。全身に陽を浴びて輝く様は、光の塊がそこに現出したかに思われた。
コウ州軍自慢の重装騎兵である。その突進力に比類なしと言われる精鋭だ。
コウ州軍はこれから北方、ガコウ山への征旅につこうとしていた。目的はむろん、そこに巣食う盗賊たちの討伐である。
半月前、コウ州はナル州に要求書を送った。ナル州が州軍をもってガコウ山を討つか、コウ州軍がガコウ山を討つことに対し許可を与えよ、と。そして、半月以内に返答がない場合、コウ州軍がガコウ山を討つことに対し許可が得られたものとみなす、と刻限を設けたのである。
ナル州は、ついに返答を寄越さなかった。
「まったく、臆病風にでも吹かれおったか、ナル州王め」
忌々しげに吐き捨てたコウ州王だったが、すぐに思い直して笑みを浮かべ、
「まあよい。灼眼討伐の手柄はわしがもらうとしよう」
と言った。
角笛の音が高く長く響く。出発の合図である。コウ州軍一万は、整然と列をなして、街道を北へと進んでゆく。
その様子を、討捕大使ロシューも城壁上から見つめていた。コウ州王の隣である。勇壮な出陣の光景に満足げなコウ州王とは違い、その表情はやや厳しい。
「州王殿下、戦力が少ないのではありますまいか」
「何?」
ロシューの言葉に、コウ州王は不快げに眉根を寄せた。
「一万もの兵力を少ないと? たかが盗賊ごとき、一万でも多すぎるくらいであろう」
「ですが、諜者の報告によると、灼眼の勢力は今や一万に達するとか。殿下もご存じのはず」
「知っておる」
コウ州もガコウ山攻めに先立ち、諜者を放って敵情を偵察している。灼眼は自らの勢力を隠そうともしなかったから、その様子を知ることは容易であった。
「だが、それがどうしたと言うのだ。盗賊ごときが何万人集まろうと、所詮は烏合の衆よ。まして同数なら、正規の軍が勝って当然であろう」
「ですが古来より、城攻めには守る側に倍する兵力が要ると言います」
「城攻め?」
コウ州王は鼻を鳴らし、髭を揺らしてせせら笑った。
「盗賊の根城ごときと城とを一緒にするものではないわ」
「灼眼を侮ってはなりませぬ。灼眼は強うござる。個人の勇のみならず、その戦術眼も……」
「では何か? おぬしは我が軍が盗賊どもに劣るとでも言うのか?」
「そ……そうは申しませぬが、しかし……!」
「もうよい!」
なおも語を継ごうとするロシューを遮って、コウ州王は言った。
「敗残の身にはなりなくないものよな。こうも敵を過大評価するとは」
「……」
侮辱である。だが敗残の身であるのは事実なので、ロシューとしては反論できなかった。
「時に討捕大使。志願兵の徴募は順調かね?」
「は? は、はい……おかげをもちまして」
「ならばそろそろ出立するがよかろう。灼眼は我が州に任せて、他の盗賊を討ちに行くがよい」
目障りだから消えろ、と言うわけである。ロシューは自分がコウ州王の機嫌を損ねてしまったことを悟った。こうなってはもうどうしようもない。わかりました、と答えてその場を辞するロシューであった。
翌日、討捕軍は新たな仲間と共にロウショウを離れた。その兵力は五千を数えた。
ガコウ山にいる灼眼がコウ州軍の接近を知ったのは、七月七日のことだった。
灰色の雲が低く垂れこめ、遠雷が響く不穏な空模様の日である。
略奪に出掛けていた一団が遠くから目撃したもので、行軍速度から推し量るに、ガコウ山まであと四日ほどの距離にいるという。
それを聞いた灼眼は恐れるどころかむしろ喜んだ。灼眼は略奪も好んだが戦も好んだ。己の野性を思うがまま開放し、敵を殺戮することに無上の悦びを感じるのだった。
だが、それだけではない。
「いい機会だ」
灼眼は言った。
「この機にコウ州を獲ってやろう」
野望の炎が、灼眼の両眼に大きく燃え上がっていた。
そして灼眼は手下たちに戦の準備を始めさせた。普段は略奪の時も戦いの時も参加を無理強いしない灼眼だが、今回は違った。少しでも戦えると思われる者には全員武器を持たせた。中には女、子供、老人もいる。
総力戦である。ガコウ山をかつてない緊張が包んだ。その緊張は灼眼にも伝わったが、灼眼はむしろその緊張を快く感じているようだった。
「敵は一万とか。勝てますかな」
山の中腹。盗賊たちが慌ただしく動き回るのを眺めつつ訊いたのは、落ちぶれ貴族のゴコウである。
「勝つ」
不安など微塵も感じさせない断固とした口調で、灼眼は答えた。
「俺についてくれば、俺の言う通りにやれば必ず勝つ」
「自信たっぷりですな」
「自信じゃねえ。こいつは確信だ」
稲妻が走り、灼眼の半面を眩く照らし出した。雷鳴が轟く中、吹き荒れる風に身を晒して微動だにしない灼眼の姿は、鬼神の如き威風を備えていた。
灼眼は部下に命じ、かねてから用意してあった紅い布を全員に配った。そしてそれを身に付けるよう指示した。鉢巻きにしてもいいし、腕に巻きつけてもいい。腰帯に結び付けても、顔の下半面を覆ってもいい。とにかく身に付けるよう命じた。
「紅巾軍」
という名が歴史に現れるのはこの時からである。紅巾、つまり紅い布を着けた軍隊という意味だ。
「俺たちはこれから軍を称する。その名が紅巾軍。俺たちの名だ」
灼眼はそう宣言した。
以後、ガコウ山の盗賊たちは自分たちのことを紅巾軍と呼称するようになる。
紅巾軍は準備が整うと、ガコウ山を出立した。山に籠って防戦するという考えは灼眼にはなかった。こちらから打って出て、野戦によって敵軍を撃破するつもりであった。
「ここだ」
灼眼は地図の一点を指し示した。
「ここで敵を待ち受ける」
そうして、七月十日。
コウ州北部に広がる湿地帯で両軍は激突する。「ムフタ湿原の戦い」である。