蛇足 「黄門様のオヒゲと、『チャンスですぞ!』」
さてこの稿は、ついったーにて「チャプター4について突っ込んだ意見が聞きたい」と某氏がおっしゃっていたのを拝見して追加で書いたものになります。Aんのーんさん、ありがとうございます。
既に放送を終了しちゃいましたが、かつては時代劇の金字塔としてあり続けた作品に「水戸黄門」があります。「水戸黄門」といえば、実在の人物である徳川光圀を主人公に据え、助さん格さんの二人を脇に据えて諸国漫遊をするというドラマで、幕末頃に成立した「水戸黄門諸国漫遊記」という講談群がその原型となっています。
さて、このご長寿シリーズですが、石坂浩二さんが黄門様をやるとなったときに、大きなイメージチェンジがありました。黄門様からオヒゲが消えたのです。
が、視聴者から支持が得られなかったのか、石坂さんが降板して里見浩太郎さんにキャストが変更になった際、黄門様のオヒゲは復活しました。
この「水戸黄門オヒゲ騒動」、これ、チャプター4で述べたあれこれの答えの一つとなります。
まず、知っておいていただきたいのは、徳川光圀が生きたこの時代に、武士は髭を生やしたり蓄えたりはしませんでした。証拠もあります。光圀の肖像画にも髭はありません。また、光圀死後に起こった赤穂事件(吉良邸討ち入り)において顔を怪我した上杉家家臣の山吉新八郎は、わざわざ「顔の傷を隠すために髭を生やしてもいいですか?」と上司に伺いを立て、上司から受理されているくらいです。つまり、もうこの時代には、上司に許可を得ないと髭を生やすことが出来なかったくらい、髭を生やすという行為はタブーだったということです。
つまり、時代考証的には、オヒゲを生やさない、石坂浩二さんの水戸黄門が正しい姿なのです。
ではなぜ、水戸黄門は髭を生やした姿としてイメージされているのでしょうか。
もちろん、これまでの水戸黄門シリーズで作られてきたイメージもあります。が、それ以上に、明治期以降の日本の髭受容史と密接な関係にあります。
その前史として、18世紀の西洋における髭ブームがあります。主にイギリスをはじめとしたヨーロッパでの流行だったのですが、幕末期、日本にやってくる外国人の多く(アメリカ人を除く)は髭を蓄えた姿でした。
明治に入り、西洋列強に近づこうとした日本は、服飾に関しても外国の風習を取り入れました。いわゆる欧化主義です。この際に、髭を蓄える習慣も取り入れられたのですね。ただし、この習慣は当初は政府の高官たちやいわゆる維新志士たちのみに限られた動きでした。が、明治天皇が髭を蓄えるようになったり、はたまた一般庶民の中にも髭を蓄える者も出始めます。ただ、髭は剃るものである、という江戸時代以降の価値観は到底消えるものではなく、一方で日本社会に残ります。かくして、現在の企業の中でも、髭を生やすのをよしとしない空気を持っているところもあるわけですね。しかし一方で、髭といえば「高貴」「金持ち」「インテリ」「勤め人とは違う空気」という記号を纏いながら現代まで来ています。
要はですね、現代の視聴者たちは、現代の「高貴」「金持ち」「インテリ」「勤め人とは違う空気」という、現代の価値観でもって水戸黄門のオヒゲを見ていたのです。だからこそ、オヒゲが消えた水戸黄門のことをなんとなく認めることが出来なかった、ということなのです。
わたしが学生の頃、『水戸黄門』に関するある都市伝説がありました。
「劇中、水戸黄門が「チャンスですぞ!」と声を上げるシーンがある」
その時は、へえ、そんなこともあるのか、と変な気持ちになったものです。
後になって、この都市伝説はデマだったらしい、ということを知ったのですが、この都市伝説も、ある意味でチャプター4の話に関係しています。
この都市伝説が生まれた背景には、「黄門様が外来語を使うのってタブーだよね」という共通認識があります。え、どういうこと? という方は、少し思考実験してみましょう。「もし、水戸黄門様が外来語を使ってもOKな存在だとしたら」? はい、この都市伝説、面白いことなんて何にもありませんね。
ここでいう水戸黄門というのは、ドラマ『水戸黄門』に登場する、限りなくフィクショナルな人物です。フィクショナルである以上、原理的には外来語だろうがオンドゥル語だろうがエスペランサ語だろうが何を語らせてもいいはずです。しかし、その水戸黄門は、「外来語をはじめとする江戸時代以降に出来たとされる言葉を喋ってはいけない」と強いられています。
では、それを水戸黄門に強いるのは誰か?
それは、あなたなのです。
いえ、あなただけではありません。『水戸黄門』を視聴している皆様、と言い換えてもいいですし、日本文化を分かち合う人々全員とも言い換えてもいいかもしれません。はたまた、『水戸黄門』を少しでも知っている人々、とも言い換えられましょう。
実はこれ、現代思想の言葉で「大文字の他者」という概念です。
たとえばですが、
「最近では、エンターテイメント作品がウケると言われている」
という文章があります。これを能動態に直しますと、
「○○は、最近、エンターテイメント作品がウケると言っている」
となります。
ここでいう○○というのが、いわゆる「大文字の他者」です。
この○○に埋まるものというのは特定の個人ではありません。言うなれば、この社会にいる皆の共通認識のようなもの、それが「大文字の他者」です。
実は、歴史小説・時代小説における時代考証を決めるもの、それこそが「大文字の他者」なのです。
しかし、ここで問題になるのは、「大文字の他者」には形がなく、常にその形が変わるものだということです。昨日までは是とされるものが非とされることもありますし、その逆だってあり得る話です。つまり、歴史・時代小説を書く際には常に「大文字の他者」と対話を重ねて、これはいいのか、それとも悪いのかを判断しながら時代考証をしていかなくてはならないということです。
そして、ネオ時代小説の書き手というのは、「大文字の他者」よりも少し早めに新しい方向を模索しているフロンティア精神あふれる人々、という言い方も出来るのです。




