アスパラガスと犬
Ⅰ 老人と犬
私は犬がアスパラガスの次に嫌いだ。
アスパラガスは匂いと食感がありえない。犬は実のところ私がしでかした人生の失敗についての八つ当たりである。それでも感情的に気に食わないものは仕方が無い。
かといって、犬の散歩中に倒れたであろう老人を見過ごすわけにはいかず、救急車を手配してからかれこれ20分待っていた。
相当な猛暑日。営業帰りであるため時間はあるが、事情を報告した際に、経理の佐藤さんは不愉快そうな反応を示した。
「まあ、人助けなら、仕方ないことですけど」
この人の言葉には常にトゲがある。結局私と合わないだけだとは思うが。
「いやほんと、すみません、この忙しいときに」
開発部のオフィスが引っ越しするとのことで、うちの部署でも仕事が終わり次第会社に集まることになっていた。肉体労働は苦手なので正直ラッキーであるが、口には出せない。
総務の山下さんが汗だくで荷物を運んでいる様子を見られないのは少し残念だが、ダンボールとの格闘による苦痛と、山下さんによる目の保養とを天秤にかけたところで、私は「まあ、別に見れないでもいいか」と結論づけた。
携帯をしまって、取引先で貰った団扇で顔をあおぐ。湿度も高いものであまり効果が無い。首筋を汗が伝う。
部活の中学生だろうか? この暑い中で談笑しながら通り過ぎていく。さすがに疲労困憊の者もいるが、鬼ごっこのように叩きあってちょこまかと走る者もいる。不思議だ。爽やかなのに暑苦しい。
「んんんん」
倒れた老人が唸った。騒がしさで気が付いたのだろうか119番で指示された通りに日陰に休ませている。
「気分は悪くないですか?」
「…………」
へんじがない。苦しくて話せないというより、あからさまな無視のようだった。
その証拠に、老人のそばで荒い息を吐きながら待っている黒毛の柴犬を、皺だらけの手でそっと撫でていた。
私は犬がアスパラガスの次に嫌いだ。アスパラガスは匂いと食感がありえない。
もとより犬に興味は無かった。犬が嫌いになったのは随分と惨めな理由による。結局悪いのは私だ。それはわかっているが。
入社2年目になり、仕事も覚えたころ、よくしてくれる会社の上司に女性を紹介された。愛犬家仲間であるという。私はその女性と交際し、派手ではないが幸せな時間を過ごし、それから最初の冬に婚約をした。
そして、次の春には、婚約は破棄になった。
Ⅱ 彼女と犬
彼女と別れて以来、私はコーギーという犬種には特別な感情が芽生えていた。もちろん、良い感情ではない。
それまで、私にとって犬は犬であった。区別できるのはブルドッグくらいで、それもパグなどと混同してさえいた。
この短い期間で、私は犬についての知識が増えていた。
「これがね、私の家族のモモちゃん」
初めて彼女の部屋に案内されたとき、ペット特有のアンモニア臭とともに私は熱烈な歓迎を受けた。
「わーモモちゃんしっぽ振り過ぎ! びっくりしちゃうから落ち着いてよー!」
モモちゃんは私の足に飛びかかるかの如く前脚を押しつけてきた。
これは懐いているということか? さっきまで一緒にいたために、彼女の匂いが移っているからか? 疑問ではあるが、あまり興味は無かった。
そして……おいモモちゃんでかいんですけど。鼻がみぞおちに当たるんですけど。ヒザによだれ付けるのやめてくれませんかモモちゃん。いやむしろモモさんと呼ばせて下さい。
「コーギーが流行ったころにお母さんが買ってね、知り合いとのお見合いで生まれた仔を貰ったの。かわいいけど、もう結構なおじいちゃんなのよ」
モモさん男性でしたか、そうですか。
「モモちゃんヤキモチやくかなー? とか心配したんだけど、モモちゃんも歓迎してくれてよかったわ」
彼女は可愛らしい女性だった。
彼女は愛犬家らしく、何につけても犬を優先していた。それは最初のうちは苦では無かったが、辟易するまでにそう時間はかからなかった。
「モモちゃんもヤキモチを焼かないのに……あなたは犬にも劣るの? もっと大人になってよ」
それが決定打だった。
私は犬がアスパラガスの次に嫌いだ。アスパラガスは匂いと食感がありえない。
もとより犬に興味は無かった。結局悪いのは私だ。それはわかっているが。
コーギーを連れている人間まで憎らしく見えた。坊主憎けりゃ、である。
彼女との話題を増やすために得た犬種の知識も、私を不快にさせた。
「あの犬種が可愛い」「この犬種は買いにくい」私の周りの愛犬家はそう品評をする。
それはクルマやバイクの話をするかの如く。カタログを眺める目はモノを買うそれである。私は犬を好む人間も、次第に避けるようになっていった。
彼女と別れてから、半年ばかりが経って、モモさんが亡くなったことを知った。
コーギーが流行ったころの生き残りであるから、それは大往生であったことだろう。
Ⅲ 公園と犬
「犬、不衛生ですから」
とは看護師さんの談。はい、そりゃそうですよね。患者しか病院には入れません。犬は面倒見ときますとも。
私は老人の家族を待つことにした。
老人の息子が医者に呼ばれ、結局オフィスの片付けも終わったとのことで、近くにあった、少しだけ涼しくなった公園で座っていた。慣れない人間を警戒してか、黒い柴犬は私とつかず離れずの距離を取って、大人しく座っていた。時折心細げに鳴き声を上げた。
本来柴犬は主人にのみ忠誠心を持ちやすい。番犬に向いているのはそのせいでもある。しかし、この犬は犬嫌いな私に対して吠えて遠ざけようとはしない。表現が難しいが、主人が近くにいないだけではない、何か変わった雰囲気があった。
公園の入り口にある、車の進入を防ぐためのアーチ状のパイプにリードをくくりつけて、辺りに人がいないのをいいことに煙草を吸った。連休前の金曜に、リストラされたかのごとくたたずむ私の姿は、通行人にはどう映っていただろう。
私が待っていたのは、老人の息子である。
お礼がしたいとのことだった。それ自体に興味は無かったが、会社に戻る用事もなくなったので、老人の容態が大丈夫なのかだけ確認するつもりだった。
予想していたよりも随分と待たされた。
何本目かの吸殻を携帯灰皿に収めたところで、携帯にメールが入っているのに気がついた。
「お疲れ様です。引っ越し準備で疲れたので、これから打ち上げで飲みに行きます。そちらも大変だったようですね。一緒にいかがですか? 山下」
ちょっと待て、移動中だったから気がつかなかった。総務の山下さんのほろ酔い姿とかたまらないんですけど。
2時間経っているので今更だろうが、お詫びのメールだけは送っておこう。
……遅い。病院に確認に行きたいが、犬を置いていくわけにもいかず、辺りはもう暗くなり始めていた。どこかで食事をとも思ったが、慣れていない犬を連れ回すのは避けたいし、落ち着いて考えると犬というものは随分と行動の足かせになる。
全く、良いところの無い生き物ではないか。
目が合った。黒い柴犬は小さく鳴いた。
そういえば、こいつが今、大の方をもよおしたらどうするんだろう?
私は飼い主ではないし、片づける義理も無いが、はたからそうは見えない。
「おい、ウンコだけは我慢しろよ」
小声で呟いた。
犬が鳴いた。
犬の耳はいいとはいうが、まさか、私に返事をしたわけではあるまい。そう思って見ていると、公園の外に向かって精一杯に尻尾を振りながら、立て続けに二度、三度と吠えた。
おいおい、ご近所迷惑はやめてくれ。本当に犬は、迷惑だ。
そして犬が向く方に目を向けると、老人の息子がこちらに歩いてきていた。
「ありがとうございました。熱中症ですが、命に別条はありませんでした。」
Ⅳ ガキと犬
老人の息子からは、丁寧に詫びの言葉があった。どうせすることも無いので、別に良いのだが、そう恐縮されるとこちらが悪いことをした気になってくる。
ああ、悪いことをしているのではない、ツイてないのだ。犬を飼っている老人に関わった時点でツイていない。ツイていないついでで、とりあえず話には付き合った。
老人の息子は人当たりがよく、話好きだった。
「犬、お好きなんですか? この子が懐いているようですし」
「それは絶対にありません、そもそも私は犬が苦手なんですよ」
「ああ、そうでしたか。この子は私が不甲斐ないばかりに辛い目に合わせてしまっていたので、もしかすると自分を遠ざけようとする人に、気を使う癖がついているのかもしれませんね……」
息子の話はこうだった。
老人の息子の息子、要するに老人の孫が、犬を欲しがった。
老人の息子の話を聞いた結果から、この子供のことをここではガキと表現しようと思う。
豆柴が欲しいと言ったガキの話を聞いて、息子は知人のつてから子犬を買った。ガキは最初のうちは可愛がったが、散歩などの世話をすぐに面倒がるようになった。その後、この犬が大きくなるにつれ、実は体格の良い普通の柴犬に育って行く様を見て、
「だってこれ豆柴じゃないもん。ぼく豆柴が欲しかったのに」
世話をしなくなったことをたしなめると、こう返すようになった。これではいけないと叱ろうにも、ガキの母は「私は最初から買い与えるのに反対していたんですよ」と、放り投げの状態であった。
見かねた老人が、
「ばあちゃんが死んで寂しいし、じいちゃんが飼うよ」と言ったという。
老人はよく犬の面倒を見ていた。そして、犬も老人に懐いていた。老人はしばしば、亡くなった妻に話しかけるように、犬に語りかけていたという。
ガキとその母は、
「じいちゃんのボケ防止になって良かった」と、それ以上関わっていなかった。
「他人事なものですから落ち着いて聞けてますけれども、辛い話ですね」
「ええ、ちなみに私は分家の子で女房は本家の娘でして、私はあまり立場が良くないのです。子供のためにならなくても女房に強く言えなくて」
それから、封筒に入ったお礼を手渡してきた。
「……いえいえ、困りますよ、こういうのは」
しかし、老人の息子は引かなかった。
「実は、折り入ってお願いがありまして……」
これ以上犬の家庭と関わり合いはご免こうむる。
封筒を押し返しながら問答していると、耳慣れた声がした。
「わあ、これ可愛い! 主任のワンちゃんですか?」
総務の山下さんだった。
Ⅴ 彼女の犬
婚約が白紙になり、上司の顔を潰す形になってしまったが、それで会社の居場所が無くなるような時代ではない。ボーナスが寒くなったが、それは景気のせいと考えた。
彼女と別れてから、半年ばかりが経って、モモさんが亡くなったことを知った。
コーギーが流行ったころの生き残りであるから、それは大往生であったことだろう。
ここまではわざわざ話すまでもないことなのだが、実は嫌な後日談と、ほんの少しの救いがあった。
犬の葬式を上げようと、業者に依頼を出したところ、そこが詐欺であった。
モモちゃんの遺体の処理に10万単位の追加料金を要求し、応じなければほかのものと一緒に焼却して灰は捨てると脅され、彼女はそれに応じてしまったのだ。
そして結局、遺灰は帰ってこなかった。
気の毒に思ったご家族が改めてよく調べ、しっかりした業者に依頼し、遺品の服などを使って葬儀と埋葬を行った。しかし、彼女の傷が癒えることは無かった。
いろいろあったとはいえ、さすがにその話を聞いては、私も彼女に同情した。
生き物を飼うことは、死と向き合うことに繋がると思う。これは大事な経験だ。その価値は私でもわかる。
しかし、この事件を耳にした時期は、私の犬嫌いのベクトルがやや迷走していたため、子供っぽい反抗心が、優しさを押しのけていた。
特に気に食わなかったことは、血統書つきの犬と雑種の扱いの差と、保健所で処分されている野良犬を愛犬家はどう思っているのかということ、それらのいろいろな問題がある一方で、ブリーダーの大会なども行われている。本当に愛犬家という人種は頭がおかしいと考えていた。まして葬式や墓などと。
「葬式や墓は、いらないでしょ……」
そう呟いていたことを、同僚に聞かれ、後に経理の佐藤さんの耳に入り、あとで強烈に睨みつけられたのを覚えている。今にして思えば、この言葉はまずかったと反省している。
ほんの少しの救いとは、彼女の結婚である。結婚式には呼ばれたが、理由をつけて欠席で返送した。
Ⅵ 総務の山下さんと犬
総務の山下さんが、部署の違う私を主任と呼ぶのは、彼女が社内の人間の役職を正確に把握しているに過ぎない。
あまり美人では無いのだが、雰囲気に常に艶がある。正直、胸が大きいので目がいく。他社の客が来たとき以外には絶対に自分のお茶しか淹れないしたたかなところもある。
一昨年くらいだったか。一人だけ山下さんの気まぐれで一度お茶を淹れてあげたおっさんがいた。その直後急に出世して本社の取締役になったというまことしやかな噂がある。
真偽は正直どうでもいいが、嫌われている人に立つ噂ではないだろう。
「わあ、これ可愛い! 主任のワンちゃんですか?」
すると老人の息子が明るい声で、
「いえ、うちの犬です」
おいおっさん、あんた妻子持ちだろ? 山下さんに色目つかうなよ。
「この人のお父様の犬です。お父様というのは今日私が救急車を呼んだおじいちゃんで」
正確に訂正しておいた。
「それはそうと、山下さんは今日って飲み会だったんじゃないんですか?」
「あー、あれ、主任来ないですし、経理の佐藤さんも旦那さんが予定より早く帰ってくるからって、あと皆さんなんか用事できちゃったみたいです。何人かでゴハンだけ食べて解散しちゃいました」
「そうでしたか」
「失礼します、さっきの続きなんですけど、この子を一晩預かって頂けないでしょうか?」
そんな気配はしていたが、絶対にお断りだ。犬を預かるとか。
「アパートなんで無理です」と言うつもりだったが、
「主任のとこ、ペットOKですし、明日休みですから丁度いいですよね?」
笑顔が可愛いことは良いことなんだが、ここでそれは出さないでくれ。
しかし、この人社員の賃貸情報も熟知してるとか……総務に逆らうのはやめよう。
「そうなんですか?」
おっさんも元気にならんでいい。
「いや、さっき病院で時間がかかったのは、父が入院する間に、この子を処分してしまおうと、女房と息子から詰め寄られてまして」
「え? なんでですか? こんなかわいいのに。ねー?」
山下さんはすでに犬を撫で始めている。犬は驚いたのか、尻尾を丸めて腰のあたりがぷるぷると震えていた。
ご家族の言い分はこうである。
「老人が犬の散歩で出歩くことが危険である。今回のようなことがあると、大げさではなく命に関わる。犬はいない方が良い」
なるほど、一理ある。
「よく考えているご家族じゃないですか。その話ももっともなんで、処分で良くないですか?」
と言おうとしたところ、これも山下さんに遮られた。
「そんなことないでしょう」
「しかし、家族の方が大事だと言われてしまっては……」
「この子も家族です!!」
山下さんが声を荒げるのを、私は初めて見た。
Ⅶ アスパラガスと犬
「ご飯だけ作って帰りますから、ちょっとでもワンちゃんに慣れてて下さい」
結局、山下さんに押し込まれる形で、部屋にいるのは私、犬、総務の山下さん、経理の佐藤さんだった。
「佐藤さん」
「なに?」
「なんでここにいるんですか?」
「山下が可愛い犬見せてくれるって言うから。犬好きだし。すぐ山下と帰るけど」
一晩とはいえ犬を押しつけられることになった私へのお詫びだといって、山下さんは夕飯を作ってくれることになった。正直待ってばかりでろくに食事をとっていなかった。
「あんたのためじゃないでしょ、犬のためよ、犬。……ふーん、この子女の子だね、美人さんじゃん」
この犬も腹をすかせてるんだろうが、おっさんの話だとドッグフードのカリカリしたやつを食わないという。どんだけ贅沢もんなのか。
「おじいちゃんが飼ってて、一緒に食事してたんなら、似たゴハンだと食べるんじゃない?」
こいつはさっきから人の考えを見透かすようなことばかり言う。語尾にトゲもある。私は目に見えて不機嫌になる。
「いいじゃない、山下様のお姿を拝めるんだし、お茶で取締役よ? ご飯なんて言ったらあんたも重役街道じゃない」
「はいはい、犬のおこぼれでも有難いですよ」
「主任、すみませんね、私のとこペットだめですし、佐藤さんも今住んでるとこ犬だめみたいなんで」
「だから旦那に待ってもらって犬分を補充しにきたのよ。それがあんたんとことはね」
佐藤さんは佐藤さんで不機嫌そうだった。そこに、黒い柴犬が歩み寄った。
「あーでも犬かわいいなー、かぁーうぃーなぁー、大人しいなー、あーもーふかふかだなー」
不機嫌は一瞬でどこかに行ったようだった。
「時間無いんで、商店街のお肉焼きました。アスパラと一緒に召しあがって下さい。ワンちゃんの分は薄味にしときましたよ」
米はレンジのやつだが茶碗によそえば普通のうまそうなご飯だった。
「あ、ありがとう」
それにしても、何故私が苦手にしてるアスパラガスがこのタイミングで出てくる?
佐藤さんから「残したらわかってんだろうな」的な視線も来る。
意を決して口に放り込んだ。
……あれ? うまい……
基本的に塩コショウで、ごく少量砂糖と酢、あとは料理酒を使ったと言っていた。
「所詮食わず嫌いってことよね」
と佐藤さんが意地悪げに言った。犬もそうだって言いたいのか。
それには少々腹は立ったが、まあ我慢できる位に山下さんに出されたメシはうまかった。
「味噌汁はすみません、インスタントです。お湯は淹れました。よくかき混ぜて下さい」
「いえもうほんと、十分です、ありがとうございます」
「ワンちゃんのほうはどうかなー?」
そういえば、飼い主以外からのエサを食べない犬の話も聞いたことがある。
気になってみてみると、もう半分程度ガツガツと平らげていた。
「この犬社長になったりしてね」
頬を緩めっぱなしで佐藤さんは犬の食事を覗きこんでいた。
Ⅷ 経理の佐藤さんと犬
結局、食べ終わった後「片付けもしますから」と、やる気を見せる山下さんの厚意に甘え、ベランダで食後の一服をしていると、佐藤さんがやってきた。
「おっじゃましゃーす」
「おい、煙草やめたんじゃないの?」
「やめたわよ?」
と言いながら吸い始めた。
「また始めただけ」
「なんだそれ」
「子供産むとなったら、またやめるわよ」
また少しトゲを感じた。
昼間の猛暑が嘘のように涼しい風に、二人分の煙が漂った。
「……ごめんね」
「ん? 今日来たことか?」
「ちがうよ、モモちゃんのときのこと。あたしが悪かったなーって」
ベランダに腕を載せる仕草は、彼女が旧姓であったころから変わりはなかった。
「いや、いいよ、こっちがガキだっただけだから。むしろほじくり返さないでくれ。恥ずかしい」
「今ね、幸せなの」
「そりゃ何よりだ。そういや旦那さんボランティアだっけ? わざわざ有給取って行ったっていう……」
「うん、今日帰ってきて、このあと合流すんの。疲れてるだろうけど私からすごく甘えてやるんだ」
「のろけかよ」
「うちの人もね、犬、苦手なの」
それは初耳だった。てっきり犬仲間と結婚したのだと思っていた。
「あたしがあんたを大事にしてたら、もっと早く今みたいに幸せになれたのかもしれないのにね……あたし、感謝してるのよ? あんたは家族を作ろうと、家族になろうとしてくれてたのにね、あたしは周りが見えてなかった……っ」
詰まる言葉。泣いたのかと不安になって見てみると、予想に反して噴き出すのをこらえていた。
「ごめ……可笑しくなっちゃって……っ……もうちょっとだけのろけていい?」
彼女の話によると、モモさんを失い、さらに酷い騙され方をしたせいで塞ぎこんでいたのを、ひっぱたいたのが今の旦那さんだそうである。
「結婚式で説明したんだけどなー、あんた来なかったからなー」
「行けるかよ」
「べつにいいのに」
彼女は「亡くなったご家族のためにも、元気に生きないと」と諭されたらしい。
「でね、彼ったらね、『余所の犬とか知らん。そもそも犬は好かん。だけど、犬を家族として受け入れて、愛情を注げる人達は、そうでない人より情が深いと思う。そういう人が俺は大好きだ。俺は犬好きな人が好きなんだー!』ってね」
「……そりゃお前……ドストライクじゃん……」
「んー、でも彼自身は犬苦手なのよねー、ほんと、困ったわ」
「そこは贅沢な悩みだなあ」
「今行ってるボランティアはね、震災で取り残されたペットを家族に戻す取り組みなんだって。もうほんっとドライなの。『ノラを保健所で処分することは必要。嫌だったらノラが減るように出来る範囲で出来ることをする。地震で取り残されたペットはただの動物だ。でも飼い主にとっては家族だ』だってさー」
ああ、そりゃ正論ですわ。私はこの人の前でそんなに自分をはっきり出すことはできなかった。上司の手前、好きになろうとした。犬が好きとなったら合わせようとして、無理が出た。彼女を見ていなかった。自分を見せてもいなかった。
佐藤さんには、旦那さんのような強い人が必要なんだろうな。お幸せに。
「まあさ、あたしはほら、当然幸せなわけですがね。……山下はいい物件だよー、あんたがまさかアスパラガスで餌付けされてるとこ見ることになるなんてびっくりですよ。生きてるうちに見れるとは思わんかったー」
「餌付けなのかあれ?」
「餌付けでしょそりゃ。あんた犬っぽいからね、気に入られてると思うんだけどなー」
部屋に戻ると大体片づけられていた。お隣のご厚意でペット用のトイレなどを借りられたのはラッキーだった。女子二人が帰ったあと、何度か犬に起こされたが、覚悟していたよりは辛くなかった。
Ⅸ 家族と犬
結局、犬を引き取りに老人ら家族がやってきたのは、日曜の夜のことだった。
私はとうとう犬に慣れることができず、連休は見事に潰された。
老人は何度も礼を言っていた。
問題の母子も一緒に菓子折りを持ってきていたので、ためになる話の一つもしてやろうと思ったが、おっさんの気持ちが直感でわかった。この母子は話が通じるタイプじゃない。
それでもおっさんが頑張って説得したのだろう。犬を捨てようという雰囲気ではなかった。
「あの」
家族の帰りがけに、何か言わないと、と思って呼びとめた。
なかなかうまく言葉が出てこない。
「大人しくて、いい犬ですね」
「……は?」
母親は面倒くさそうだった。私はあまり気の強い方ではないので、一瞬たじろぐ。
しかし、何のためかはわからないが、ここで話しておかないと後悔すると思った。
「柴犬は、基本的に飼い主にのみ忠実ですが、外交的な性格の子もいます。そういうタイプだから私にも慣れたのかな? と思ったんですが、どうもそうでないような気がするんです。寄っては来ますが、何か楽しそうでもない。こちらに気を遣うような歩み寄りなんです」
「はあ」
見ると、犬は老人を通り過ぎて、こともあろうにガキの足元にすり寄っていた。
「ご覧の通りです。命あるものを飼うことの責任とか、うるさい話をするつもりはありません。ただ、その犬はお子さんを主人と認めて懐いています。ですから、一度家族になったのであれば、捨てるなんて言わないで仲良く暮らしてあげて下さい。柴犬が本当の主人と定めるのは、だいたい一人なんです」
母子は明らかに聞き流し、おっさんは深々と頭を下げ、老人は握手を求めてきた。
別れ際に老人は、はっきりした声で、
「タロウの面倒を見てくれて、ありがとう」
タロウちゃん、名前はともかく、貴女はご家族から愛されていますよ。
菓子折をもって部屋に戻ると、連休中ずっと、買い物のついでだの、コインランドリーのついでだの、事あるごとにタロウちゃんの様子を見に来ていた山下さんが、帰る準備をしていた。
「んじゃ、通い妻疑惑をもたれる前に帰りますね」
「ほんと助かりました、ありがとうございます」
「主任、ほんとは犬好きなんじゃないですか?」
「いいえ、嫌いです」
「残念、主任の犬っぽいところから、隠れ犬フリークと踏んでたんですが、まさか犬がほんとに嫌いだとは」
山下さんは大げさにため息をついた。
「嫌いなものは、嫌いなんです」
言い終わるか終わらないかのうちに、ずいっと目の前にアスパラガスが差し出された。
「ほら、連休中に克服した、アスパラガス、食べてみて下さい。犬はダメでも、これは美味しかったでしょう。ほら、目をつぶって一気にがりっと」
別にメロドラマ的な展開はなく、唇にアスパラガスが押し付けられている。
「なんでですか?」
「貴重な連休が、大嫌いな犬の世話で追われてしまったわけじゃないですか。うちの会社は成果主義です。連休中の成果を作っておきましょうよ、ほら」
笑顔でぐりぐりと押し付けてくる。いくら山下さんでも多少イラっとくるが、休みの間に冷静に犬の面倒を見ていられたのも、ちょくちょく山下さんに手伝って貰ったからにほかならない。
私は覚悟を決めて一口、
がりっと
……………………
「うわ不味い不味い不味い!臭い臭い!なにこれありえないし!」
「はいはい出しちゃだめですよー、はい、さっき焼いた肉あげますから、これでごまかしてください」
素直にあーんする。
「………うん、一緒なら、うまいかも」
「さっきの主任のお話、良かったですよ、多少苦手でも、家族と一緒に犬を飼ってみると、意外と幸せかもしれません」
そう言って、総務の山下さんは帰っていった。別にロマンスは始まらなかったが、なぜか良い連休だと思えた。
私は犬がアスパラガスの次に嫌いだ。
アスパラガスは肉と一緒ならなんとかいける。むしろ美味しい。
犬も、誰かと一緒なら、もしかすると大丈夫なのかもしれない。
Ⅹ 総務の山下さんの犬
それもいいかも………………いやいやいや、冗談です。ごめんなさい。
(おしまい)