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科学者ですね

 世界の色が忘れていた色を取り戻した。


 棗はそんな気がしていた。


「ん?」


 棗がポケットからPDAを取り出すと『降矢と拓斗を発見した』とメールが入った。


「英次、梨華。降矢教授を発見したって」


「そう」


 梨華が「ようやくか」と呟く。


「こっちは片付いた。絵里、動けるか?」


「はい…」


 元気なく絵里が返事をすると梨華がぽん、と絵里の頭に手を置いた。


人形(ドール)に心を奪われちゃだめよ」


「え?」


 梨華の言葉に絵里が首をかしげる。


「あの子は人工的に作られた意識なの。あの子は生まれてなかった」


「そういうこと」


 英次が苦笑する。


「七年前に誰かが意識だけをあの空間で作り上げ、そして本人は…」


 英次が棗に視線を送ると、棗が「何でもお見通しか」と観念したような、安心したような顔をした。


「あれは私の作った『仮想精霊(ルーチン)』の一種で…つい最近になるまで存在すら忘れていたのよ」


「あなたの妹さんを媒介にしたのよね?」


「身辺調査依頼からそこまで見抜けるとは思っていたけど『仮想精霊(ルーチン)』の処理までしていただけるとは思わなかったわ」


「金額に見合った報酬を人は用意するものよ。あの金額は少なくとも、人が一人危険に晒されるに見合った報酬だった。私たちはそれを考慮した上で、英次、降矢、私で作戦を遂行する予定だったの」


 それで…更紗、友樹、自分は隔離されたような処置を取られていたのか…。


 異様な前線からの離別命令に不満を感じていたが、確かにそれなら理解できる。絵里はようやく梨華の真意を知った。


「棗の妹は医療センターの六階集中治療室にいるな?姓名が変わっていたから探すのに時間がかかった」


 英次がPDAのディスプレイを棗に向けると、先ほどの少女と同じ少女の顔が表示される。喉から管を通されて、人工呼吸器を取り付けられている。


「目が覚めたら、自分が自分でなくなっていて、世界の様子も変わっていた、なんて可愛そうだって思ったの」


 棗がぽつり、と語った。


「意識不明状態になって眠っていたとしても、髪の毛は伸びるし身体の成長もするから」


 梨華が「気持ちはわからなくもない」と付け加える。


「精神を一部外に持っていって、精神的活動のみを実行させて肉体に戻すとそれは経験に変わる。その理屈で精神を引き剥がしたのね?」


「ええ」


 棗が素直に認める。一人の姉の妹への愛情が到底到達できない理屈を可能にしたのだとしたら、そこまではいい話だった。


「私も忘れていたのよ。ネットワーク上に残留する意識が『独立』して活動する可能性を」


「その残留した意思が、いくつもの『拡散する自分の意思を統合』して強固な『自我』を持ったんだろうな」


「その自我が『肉体を欲した』ってことで、事件が発生したのね?」


 英次と梨華の見解に棗が頷く。


魔力(マギウス)の強い肉体を持った対象に対する嫉妬。痩せ衰えた自らの肉体と少なからず繋がってる。あの子の精神が少しずつ、違う方向に偏差してしまった。物に触れる喜び、陽に当たる高揚、そして…美しくなりたいと願う渇望…」


 そんなはずじゃなかった。


 そう思っていた。私はあの子に自由な世界を与えたかっただけなのに…。


「暴走した、って形になるのかしら」


「かもしれないわ」


 梨華に棗が同意する。


「棗さんをずっと見てたんですよ、あの子」


 絵里が悲しそうに微笑む。


「ありがとう、だけど私は…辛い」


 胸に手を当てて絵里が涙を流す。残留した少女の意識が絵里に涙を流させている。絵里は自分でそう思うと、少しの間だけ、彼女に身体を明け渡した。


「本当はお姉ちゃんと話がしたかったの。みんなと一緒にいるお姉ちゃんと…」


「絵里?じゃないわね」


 梨華が察して絵里を見下ろすが手を出さない。もう既に絵里を支配下におけるほどの精神力は残っていないはずだ…。消失までの秒読み、優しい絵里が彼女のために自らを犠牲にしている。


「私はたぶん、もう戻れないから…」


 それだけ言い残して、絵里が玉の汗をぽた、ぽたと流し始める。


 一つの肉体に二つの精神を繋ぎとめる作業は精密で、とてもではないが今の絵里に出来るような作業ではなかった。『魔導に対する取り組み』がまったく異なる。絵里は自分の魔力を『増幅処理(アンプ)』してぶっ放す方法しか知らない。精神をどうこうする理論など知らないのだ。


「英次?」


「やってもらうよ」


 英次が「別料金が欲しいもんだ」と呟くとPDAで降矢に連絡を入れる。




「友樹くん?」


 降矢に呼ばれて友樹が頷く。たくさんの医師と研究員が安らかに眠っている少女の周囲に集まり、側に二人は立っていた。


 つい先ほどまで二人は少女の『深層意識(ディープエリア)』に『潜入(ダイブ)』していた。


「たぶん…この子は自分で眠っていたんだろうね」


 降矢が呟くと、友樹はため息を吐いた。


「病巣切除できるんだっけ?」


 友樹が降矢に尋ねると、降矢はゆっくりと頷いた。


「拓斗くん」


「はい」


 研究者の群れの中から拓斗が顔を覗かせる。


「これから『深層意識化に割り込んで展開する魔術術式(プログラムコード)の分解』を実行します」


「わかりました。教授は『執刀(オペ)』に集中してください」


 拓斗が注射針を少女の腕に刺すと、心電図が少し変化してまたすぐに元に戻った。


「よろしくな」


 友樹が少女の顔をそっと撫でる。彼女が元に戻りたいと本気で願っているなら…降矢に任せておけばうまくいく。




 三日後。


 降矢の研究室に全員が顔を向かい合わせた。


「生徒会長は厳罰に処せられることになったわ」


 梨華が口を開くと、全員が沈痛な表情で俯く。


「一連の騒動の発端は彼女の施術した魔法(マジック)であると判明。私たちがそれを処理したということになったけど」


 梨華が英次の顔を見ると英次が頷く。


「厳罰って言っても魔法(マジック)を使ったことに対してじゃない。制御仕切れなかった精神体に対しての保護監督責任を問われただけだ。それに彼女の研究は偶発性によって発動したし、棗生徒会長がわざとやったことではない」


「と、言うことで」


 梨華が降矢を見ると、降矢が頷いた。


「僕が彼女の研究を監視する方向で司法取引が成立する手はずになってる。まぁ魔術(プログラム)魔法(マジック)に関しての法的整備が…」


「難しい話はいらねぇっすよ」


 友樹が法律だとかの単語が出た瞬間に降矢を止める。


「降矢さんの研究の手伝いとか、大学でその成果で実績を上げれば棗さんは無罪ってことですか?」


 更紗が嬉しそうに目を輝かせているのを見て、絵里もにこりと微笑む。


「まぁ、そんなところだろう。学園(アカデミー)の内部で起こったことを内部で解決したっていう一種の『治外法権』的な処置が…」


「お役所みたいなのやめてくれよ」


 友樹がまたもや降矢を止める。降矢はそれでも嫌そうな顔一つしない。


「棗さんの妹の容態だが…」


 英次が梨華に視線を送ると、梨華が首を横に振る。


「言い辛いでしょうから私が」


 降矢が息を「ふぅ」と吐いた。しばらくの間を空け、


「先日死亡が確認されました。長期に渡る精神的負荷をかけられた彼女は肉体と精神の乖離状況が著しく、術式による治療が間に合いませんでした」


「かわいそう」


 絵里が小さな声で呟いた。短い時間だけでも彼女と身体を共有していた絵里は少なからずとも精神が同調していた。


「死亡した身体は棗さんの家族に明け渡されまして、まぁ普通に『犯罪者』ではないまま綺麗に終わりましたよ」


「履歴の上では既に動けない状態だったから、そうなったのね」


 犯罪者の烙印を押されなかっただけでも救いだろう、と梨華が呟く。


「…ん?」


 友樹が首をかしげる。友樹が『やはり最初に気付いたか』と降矢が苦笑した。


「気付きましたか?」


「英次さん、梨華姐、降矢さんの意地の悪さに?」


 友樹がくすくすと笑うと「意地が悪いかしらね?」と梨華が英次に呟く。


「どういうこと?」


 更紗が首をかしげると、絵里が「あー」と口を開いた。


「えっと、妹さんの『身体』を埋葬したんですね?」


「ああ」


 更紗も納得したように呟く。


「ええ、そうです。『精神』は別の『受容体』へ収容しました。あと数ヶ月後に実用運転が始まる『素体』へ『格納』する予定です」


「どこに?」


「生まれた場所に帰ったわ」


 絵里に梨華が答えて、あの時計の世界が記憶に蘇る。


「あそこに入るための『接続鍵(アクセスキー)』がないから、絵里にまた境界面を弾いてもらうことになると思うから、覚悟しておいてね」


「あ、はーい」


 絵里が返事をすると、梨華は「いい子ね」と微笑む。


「賛否は両論、いつもそうだが今回の実績と評価を受けて棗生徒会長は学園の緊急時統括指揮権を俺と梨華にも保有できるようにしてくれた」


「わお、学園(アカデミー)の指揮権って言うと、一国の軍指令と同等の権限っすよね?」


 友樹が「すげぇな」と呟く。


「私はそんなの要らないんだけど、まぁあって困るものでもないと思うの」


 梨華らしい理論的な考えに英次も同調する。


「そういうこと。ちなみに大学部は降矢が指揮権を持ってるんだよな?」


「ええ」


 降矢がにこりと微笑む。一度も行使したことのない権限で、それ故に降矢の指揮権の保有は知られていないが、それだけ学園(アカデミー)内部や近隣が安定しているということだろう。


「指揮官三人の部隊(チーム)って周囲から見たらすごいことなんでしょうね」


 更紗がきょろきょろと英次、梨華、降矢を見ている。


「すごいって言うより、面倒よね。行動一つ一つが監視されていると思ってもいいの」


「まぁ、素行は悪いのはもうみんな知ってるからな。生徒会内部でもけっこうもめたらしい」


 英次がうんざりしたような顔をする。恐らく会議に出席させられてだいぶ叩かれたのだろう。梨華は「隊長さんに任せる」とそそくさと逃げ出したらしいとは噂で聞いていた。


 更紗は梨華が『隊長は指導(プラクティス)を回避する』のを根に持って英次に全部押し付けたのだろうと予想していた。


「棗自身が自分の身辺調査を依頼したのは…今回の事件の延長線上だったと解釈していいんですよね」


 降矢が英次を見ると、英次が頷いた。


「別件で捜査を依頼したってことか、そもそも確定的な証拠を棗も掴んでいなかったからな…。妹に繋がった瞬間、それの捜査を俺たちがすることも棗はわかってたはずだ」


「そうね、だからこそ身辺調査を依頼して妹さんに繋げて、精神体の確保を優先したかったのよね」


 梨華が英次に同調して呟く。


「教室で殺された男は?」


 絵里が友樹に尋ねる。


「あれは恋人にやられたらしい。元、だけどな」


「そうなの?」


 梨華が目を細め、更紗が頷いた。


「地雷みたいなもので、元彼女さんが仕掛けた魔術(プログラム)だったんです。元彼氏…被害者が良からぬことをしようとすると発動する…」


「興味深いわね」


 梨華が呟くと、更紗が首を横に振る。


「二年ほど前に元彼女さんは元彼氏さんに交際を求められてまして…魔術(プログラム)での暗殺を主務としている部隊(チーム)に所属している元彼氏にこれ以上人を狙わないように約束するならば…という条件で交際を認めた」


 更紗が事件の内容を口にしていく。


 そこまではいい話だった。誰もがそう思えた。実際、死ぬまで彼氏は人を殺さなかったのだろう。


「交際が終わったのが三ヶ月前。元彼女が事故に巻き込まれた」


 友樹がPDAで全員に資料を配布する。


「この事故ね」


 全員が渋い顔をしてそれを見つめる。学園(アカデミー)魔導精製機(マギプラント)の暴走事故だ。三ヶ月前に発生した高等部生徒のちょっとした悪戯で暴走したそれは、四人の部隊(チーム)により鎮圧したが、四人とも『過剰魔力症』により死亡した。


「元彼氏は高等部で生き残った生徒…まぁ暴走させた張本人たちを探していたけど…そいつらは現場で最初に死んでるわけだ。やるべき事も、守るものも無くなったから、約束も関係なくなっちまったのかもな」


 友樹が何処か過去の自分を思い出しているように遠い目をする。


「そこで暗殺依頼が所属していた元部隊(チーム)からあった。絵里ちゃんの暗殺」


 更紗が絵里を見ると、絵里が「えー」とつまらなさそうに呟く。自分が狙われていると知ってその程度の反応で済む絵里の精神を少し疑う更紗だったが、梨華も絵里もどちらかと言えば『狙われ慣れている』し『反撃する能力』も十分にあった。だからこその反応だろう。


「暗殺を決行しようとした瞬間、残留した術式(コード)が発動したのね」


 梨華の推測に友樹と更紗が頷く。


「ぎりぎりでしたよ?発動するための魔力(マギウス)がほとんど残っていなかった。元彼女さんの強く思う、自分の好きな人がこれ以上罪に汚れないように…と願う心が強かったんでしょう。検死した遺体には別人の魔力(マギウス)が残っていたのでわかりましたが」


 検死した本人の言うことだから間違いがないのだろうが…。


「ある一種の病気のようなもんを感じるのは俺だけか?綺麗にまとめちゃいるが、元彼女が始めて使った人を殺すための魔術(プログラム)は元彼氏に発動した内容を知ってるだろ」


 英次の言うとおり…。あれだけ残虐な愛情を目の当たりにした梨華は言葉を失った。


「外傷はあちこちにありました。体の内部に…残忍ではありましたが」


 降矢がにこりと微笑む。


「人を殺し続けた人間に対して、自らの罪を自覚させ、償いをするという点ではあれはありなのかもしれませんよ」


「なら…私たちも、ああなってもいいんですね?」


 絵里が首をかしげる。恐怖を知らない子供のように…。


「私たちは既に何十人と人を殺していますから、ね?」


 絵里がにこにこと微笑んで、梨華が苦笑する。


「いいじゃない、私なんて数えるのも面倒よ?ニュースの放送枠を全部使っても私が殺した人物の名前を四分の一も言えない」


「おー怖い怖い」


 友樹が苦笑して呟く。


学園(アカデミー)って、綺麗で尊大でとても素晴らしい場所ですけど、軍なんですよね」


 更紗が呟くと英次が頷いた。


「何百、何千、何万という数の敵を消して来た人間の巣窟だからな。真っ白な校舎やレンガ造りの建物には、べったりと俺たちの屠って来た人間の血が塗り付けられ、漆喰のように固まっているのかもしれないぜ」


 梨華がぱんぱん、と手を叩く。


「それでいいのよ。歴史の最先端を歩く私たちはそうして行くしかないの。忘れないで、それでも前に進むにはそれしかない」


「梨華さんらしいです」


「ですね」


 絵里に更紗が苦笑する。彼女こそ、そうして来た張本人だ。


「今回の事件で私たちの部隊(チーム)は報告を放棄したけれど、上からは評価が『最優秀』を頂いたわ。成功報酬は『装備階級のAを解禁』よ」


「装備のA階級って言うと、広域殲滅を要する特殊兵装を許可申請なしで使用できる、だったな」


 友樹が頭に叩き込んである『世界交戦規定』を口にすると、梨華が頷いた。


「絵里の天使装甲状態(エンジェリックアーマーモード)射撃強襲(テイクシューターバイストーム)はSに認定されたから、使用不可能ね?」


「えー」


 絵里が唇を尖らせて反抗すると、梨華が困ったような顔をしたので英次が苦笑した。


「両肩部の短距離電磁式自動射撃銃(ショートレールセントリーガン)が凶悪過ぎるんだ。通常弾頭に絵里は三パーセントの魔力を封入して射撃する威力は…」


「トマホークミサイル四発分の火力ですね」


 更紗が英次にデータを教えると、英次が「そうだった」と呟く。


「両肩部に封入した魔力が二十パーセントにもなると、さすがに火力規定違反だろ?」


「制御しきれないんですよねー。両手からだとそこそこ抑えられるんですけど」


 絵里が「うーん」と悩み始める。


「制御の仮想精霊(ルーチン)を作ったりしたら?」


「面倒ですよ、自分がもう一人いるみたいでダメなんです」


 梨華に絵里が首を横に振る。


 英次、梨華は完全に管理している魔力(マギウス)を使用しているが、絵里は自分の魔力(マギウス)を正確に制御しているわけではない。さらに問題として、膨大な魔力(マギウス)を保有している絵里は物体に魔力(マギウス)を一度移してから使用しないと後戻りできない惨事を引き起こしかねないために銃を使用していた。


「前代未聞なんだよな。普通は制御できる分だけの魔力(マギウス)を保有するはずなのに、その許容量を遥かに超えた魔力(マギウス)を充填してるんだからよ」


 友樹が失笑すると、絵里が「こまったねー」と人事のように呟く。


「まぁ今後色々話し合いましょう。更紗、次の試験がんばってね?」


「はい」


 更紗が前線管制(ウォッチ)の試験が目前に迫っていた。梨華が激励すると更紗が不安そうな表情をしている。


「梨華だって試験なかったか?」


 英次が自分には何もない様な顔をしている梨華に尋ねると、梨華はしばらくしてから思い出したかのように、ポンと手を叩いた。


「あら?私は…あぁ…一般市民権取得の…」


 酷い名称だとは思ったが、梨華は今、人権が半分もない。魔法犯罪者(コンヴィクト)に人権はないが、英次が工面して人権を回復させてくれていた。


「面倒なのよね」


「がんばって…ください…」


 絵里が応援するものなのかどうかと考えながら口にした言葉に降矢が苦笑する。


「運転免許を取るような試験ですからね。普通のことを普通に聞かれて、普通に答えるだけです」


 降矢が「例えば」と悩む。


「道に落し物がありました、近くに人が居ない場合はどうしますか?」


「えっと、警察に届けます」


 絵里が降矢に答える。


「ですね、その程度の問題です」


「届けるか?普通」


 友樹がげんなりとすると、梨華が苦笑した。


「人をバカにして怒らせる方法をしっかりと教えてくれるすごい試験よ」


「そりゃいい試験だな」


 梨華の物言いに英次が苦笑する。


「じゃあ、午後の授業があるので解散しましょう」


 更紗に促されて、絵里が友樹の手を取る。


「友樹くん、午後はばっくれやろーになるんで、連れて行きますね」


「…マジデ?」


「はいお願いしますね」


 絵里に友樹が片言で嫌そうな顔をすると、降矢が絵里ににこりと微笑んで連れ出しを許可する。


「大変ね」


「だな」


 梨華と英次は窓枠に足をかけて飛び退っていく。


「逃げられました…」


 更紗が小さく舌打ちする様を見て「こえーひとだな」と友樹は心の中で呟く。


「それじゃあみなさん、また」


「しつれいしまーす」


「失礼します」


 更紗と絵里が頭を下げ、友樹を引きずりながら研究室から出て行く。


「ふぅ…」


 降矢は自分のデスクに座る。


「失礼します」


 拓斗が入って来て頭を下げると、降矢は「いらっしゃい」と彼を迎えた。


「教授、なぜあなたは研究を実験に移さないんですか?」


「…と言うと?」


 降矢の流し目に拓斗がうろたえる。


「恵まれた子供(エレメンツ)に関して、教授は傍観しているように思えます」


 梨華のことを言っているのだろう。


 なるほど、いい素材が近くに居るのに実験をしないのはおかしいと言いたいのか。


「僕は人が不幸になるような実験はしたくないんですよ」


「それはおかしい。そうであっても科学は何らかの犠牲を払って進歩をして来た。必要な犠牲は目を瞑るべきだ」


「科学者ですね」


「あなたも科学者だ。あなたの理論を立証したほかの人物は貴方を素晴らしい人だと評価しているが、あなた自身は一切手を加えていない。まるで損害を恐れているように見える」


「君が言いたい事は…私は考えるだけで自らの血を流していないと?」


「…」


 拓斗は俯いて、悩み、そして頷いた。


「そうです。あなたはどこかの国と同じだ。金は出すが自ら行動はしない慈善事業をしている国と変わらない。あなたは理論を打ち立てて、実験で発生するリスクを全て回避しようとしている。それが科学者として正しいかどうかは僕にはわからない」


「わからないけれど、僕をまるで悪人のように意見する」


「…そういうつもりはありません。ただ素材がいて実験しないのはおかしいと…」


 結局、言っている事は同じか、と拓斗も言葉を詰まらせた。


「世界は今、梨華さんを必要としている。無謀な実験で彼女を失うことの損失は計り知れない。だから傍観する」


 降矢の言葉に拓斗は視線をきょろきょろと動かしていた。彼の物事を整理するときの癖だ。


「どういうことですか?」


「そういうことです」


 降矢がノートパソコンを小脇に抱える。


「講義の時間です、行きましょう」


「はい」


 拓斗が両肩を落として降矢の後ろに続く。


「梨華を必要とする世界とは何ですか?」


 エレベーターに乗って、拓斗が不意に尋ねてくる。


学園(アカデミー)に彼女がいる。それが一番大きい」


「冷戦の核と同じ、ですか?」


「古い話を持ち出してきますね。まぁ、同じでしょう。学園(アカデミー)に留まらず、日本は彼女がいるから今や攻撃を受けない。その危険性もない」


「英次は?」


「英次くんは彼女の精神を最も安定させているんですよ」


「絵里は?」


「…気付きましたか?」


「ええ」


 一階についてドアが開くと、降矢が「いい着眼点です」と呟く。


「女の子は男の子で変わりますから。また逆もある」


「教授らしくないですよ、それ」


 拓斗が詰まらなさそうな顔をして降矢が頷く。


「世界の命運は彼らにある」


「大きく出たな…」


 拓斗が舌打ちするのも無理は無い。世界、だのそういうのを拓斗は非現実的だと嘲笑するタイプの人間だ。


「今回の事件において、私たちは完全にサポートに回った。わかりますね?」


「はい、あの頭の回転は…自分たちでは無理だった。行動も彼らのほうが早いし、被害の計算も速かった。人的被害に関して…彼らは天才的とも言える計算をしていた」


 完全に後手に回っていた。相手にしても、英次や梨華にしても、自分たちが保有するべき主導権は全て奪われていた。


「そういうことです。彼女たちは世界に必要とされている」


「あくまで、梨華を中心として、英次、絵里がいると?」


「梨華さんはああ見えて優しいですからね。英次くんは隊長として存在していることで絵里さんに居場所を、梨華さんに安定を与えていると見て構わない。その結果がこれから発生する事象全てに影響を与えていくはずです」


「恵まれた子供(エレメンツ)たちは…『不安定』だったと?」


「不安定ですよ。物質は全て安定した状態を求めるのですが、強力すぎる存在は自分の存在に対して『対等な反存在』を求める。梨華さんの反存在は今まで確認されていなかったし、英次くんの反存在も確認されていなかった。まぁ、見つかっていなかっただけで、互いがそうであるとは限りませんが」


「引き合う二つの因子(ファクター)の間に絵里という因子(ファクター)が割り込んだ」


「あれは触媒かと…影響を与えることがなく、ただそこに存在しているだけ」


「なるほど。そして無音の投擲槍(サイレンスジャベリン)は器であると?」


「はい」


 降矢が満足そうに頷く。


「世界で必要のないものはありませんが、大きな影響を与えるものは確かに存在します。それがあの子達です。せめて間違った方向に向かわないように私たち年配者が気を配るべきなのでしょう」


「まるで自分が世界になにも影響を与えていないような言い方をしますね」


 降矢は科学者としてかなりの権力を保有している人物だ。その言い方はまるで…無関係な人物であるような言い方だった。


「考え過ぎですよ。それに歴史が善悪を最終的に決めるのだとしたら、今ではない。結局は後の人たちが私たちの行為の善悪を決定することになる。だから私は今の最善を実行する。拓斗くん、いいですね?今の最善を尽くすことです」


 念を押されて拓斗は頷くと降矢はよく出来ました、と頷くと右手を上げた。拓斗は驚いて降矢が手を上げた方向を見ると、友樹が五階の校舎の屋上からこちらを見ていた。


「教授、もし…強硬な手段に出ようとしていたらどうしました?」


 拓斗が恐る恐る尋ねると、降矢は首を横に振った。


「私は卑怯者ですから、あえて言いません。あなたの言う卑怯者ですから…ね?」


 にっこりと微笑まれて、友樹が姿を消した。


 消されていた。


 拓斗はそう思うと完璧主義と謡われている降矢のそれに感嘆する。


「僕から離れても構いません、失望したと罵ってくれてもいい。邪魔をしない限り私たちは貴方を疎んだりはしない」


「いえ、むしろ尊敬しますよ」


 本音だった。


 なぜ?というものはない。ただ、着いて行こうと思った。


「教授の視線の先には未来があると思います」


「そういう世迷いごとを嫌うはずですが?」


 降矢は思わず驚いてしまったことに苦笑する。拓斗にはその苦笑が自分の心変わりのような発言に対してだと認識する。


「現実味のあるものか、幻想的であるかの違いです」


「幻想、ですか?人は理想を持って生きる。それがより現実か空想かの違いだ、と」


「はい」


 拓斗が頷くと、降矢は「なるほど」と呟く。


 そうか、現実的か。

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