どうなっても知りませんよ!
大学部の校舎に入って、降矢の授業を聞くことになったのはまだ良かった。
ここは日本ですか?
絵里は素直にそう思った。
意味不明の単語ばかりが出現してはPDAに表示されるその意味と詳細を確認しつつ、講義が進められていく。梨華や英次はどちらかと言うと天才だから、すぐにその内容を理解しているのだろうし、更紗は秀才で勉強家だ。じっと講義を聴いてメモを取りつつ仕切りに頷いている。
「わかる?」
「あー?」
既に知恵熱が出始めているのか、友樹は頭をふらふらとさせながら絵里を見る。
「聞かなくてもわかるね、それじゃあ」
絵里が苦笑すると友樹は「ほっとけ」と机に突っ伏す。
何百人も入れるようなコンサート会場のような教室に立ち聞きをしている学生もいるし、どこかの偉い人や教授のような年配者もいる。自分たちは最前列で講義を聞くことが出来るように配慮されているし、ゼミ生たちは名札のある席に着席して講義を聞いていた。人気のある教授とは聞いていたが、大学のシステムをよく知らなかった絵里にしてみれば新鮮だった。マイクに巨大なプロジェクタで説明する授業は中等部ではまずお目にかかれない。
「魔力における力学のモーメント…」
次の話に入ったとき、絵里の中で何かのスイッチが入った。狙撃に関して必要な話が含まれているのだ。絵里が食い入るように講義に集中し始めたのを梨華が横目で確認すると苦笑する。
「思惑通りか?」
「そんなところかしら」
小さな声で英次に言われて梨華が頷く。更紗、絵里の目付きが変わったのは言うまでもない。友樹は相変わらずだが…。降矢に指示した講義の内容は『応用可能な思考』を持たせる講義、というものだ。降矢はその提案を受け入れたが、実はこれはかなり難しい提案だったし、降矢がその提案の内容を理解しているからこそ、二人が興味を持って聞き入ってくれているのもある。思惑は半分で成功した、と言っても過言ではない。
空間全体に自分の魔力を展開する更紗の前線管制と情報管理の魔法や魔術はモーメントに大きく依存するし、絵里の狙撃はまさにそのものだ。加えて銃弾に魔力を充填して放つのだから、魔力モーメントは絵里が興味を持つに十分すぎる素材だった。
「で、俺はなんでここにいるんだ?」
英次が頬杖をつくと梨華が「私だけ退屈な思いをするなんて癪じゃない」と言うと、英次は「そんなこったろうと思った」と机の上に額をぶつけるとそのまま動かなくなる。
知っていることを聞く、というのは事実、拷問に近いものがある。それでも英次はぴくり、と身体を起こす。寝ようと思ったがそうにもいかないらしい。
「立ってる学生からか…?すげぇ殺気だぜ」
寝ようものなら「寝るくらいならその席を開けろ」と無言の圧力を背中に感じる。
「言ったでしょ?癪だって」
これは梨華の策略だった。隊長権限で指導を逃れた上に自分だけ楽な思いをしている英次に梨華が反撃しているのだ。ねちっこく…。
「いい性格してるぜ」
「よく言われる」
梨華が微笑むと「そりゃだろうな」と英次がふん、と詰まらなさそうにたて肘を突いて講義を聴くことにする。
「物理学で言うところの力のモーメントと魔力によるモーメントの相違点について…」
降矢がレーザーポインターで指す先を見て英次と梨華が顔を見合わせる。誰もが気付いたことだろが、さして気にしていないこと。梨華は机の上に拳を乗せると、手を動かした。英次は梨華の手の動きを視界の隅で捕らえる。
「気付いた?」
「ああ」
英次が頷くと梨華がポケットからコンパクトミラーを取り出して開く。
「女の子みたいなアイテムも持ってるんだな」
「あら?じゃあ私を何だと思ってたのかしら」
「こりゃ失礼」
英次に言われて梨華は少し哀しそうな顔をすると、背後をじっと覗き込みゆっくりとミラーを動かす。
「左後方よね」
「ああ」
梨華は鏡の蓋をぱたん、と閉じると同時に立ち上がる。瞬間的に誰の動きも止まった。正確には時間を引き延ばした疎の中にいるだけで、時間を止めたわけではない。英次と梨華以外は他の人間には視認出来ない存在に置き換わったというだけで、超人的な動体反射を持つ人間ならば彼らの姿を視認することが出来るだろうし、その上でなおかつ、神がかり的な反射神経を持っていれば反応も出来ただろう。時間的虚数空間を作り出した梨華に同調することが出来るのは梨華が任意に選出した時間軸にいる存在のみ。この場合、英次だけが同じ時間で行動出来る。
友樹は急に英次と梨華の姿が消えた瞬間を目撃して目を丸くする。時間を引き延ばす魔術を使える者は数少なく、それは魔法のレベルに到達する。
自分は講義を受けているふりをしていたはずだった。あの暗がりの中で対象に消音器をつけた銃で狙撃、混乱に乗じて逃げれば作戦は完璧だったはずだ。
座っていた場所が急に変わった。
だから嫌だったのだ、学園という魔導師の巣窟で作戦を実行するには必ず弊害が起こる。その弊害が致命的になると進言したが上は了承しなかった。最悪だ。
最初はどういうことか理解することが出来なかった。
暗い教室だったはずで、自分は確かに後ろの方で対象を狙っていた。それがどういうことだ。明るい部屋で眩しい光を当てられているではないか。自分がどこに居るかもわからないほどの光だ。
先ほどと同じように座っているが、背もたれの向こう側で両手首を組合させられ、ビニールバンドで手首を固定され、両足は椅子の足にそれぞれビニールバンドで固定されている。荷物や結線に使うビニールバンドは何処でも手に入るし、拘束具としても使用できることは少し頭を回転させれば考え付くものだろう。実行するにはそれなりの経験が必要だろうが…。
「さて、と」
女の声が聞こえた。鋭くも凛とした響く声。完成された女のような声に思わず身震いする。姿は見えなくてもこの女は美しいだろうと想像した。躊躇い無く、迷い無く、気高き女。
「誰を狙っていたか教えてくれないかしら?」
単刀直入に聞いてくる。誘導尋問や他の手段など必要ないと思っているのか…。
「月並みだけど、協力的でも非協力的でもお前の命は残り少ない」
男の声が聞こえた。どこか面倒そうでいい加減そうな声だ。が、それとは別の意思を感じる声。怒りが混じっているのか…。
自分が狙っていた対象の仲間か。
納得すると、自分の状況が理解出来た。
「喋らないのね?」
喋る必要もない。誰を狙ったかなど、こいつは知っているのだ。だったら余計なことを言う必要はない。
「じゃあ依頼人についても話をするつもりなんてないってお決まりのパターンかしら?」
当たり前だ。そもそも魔導師同士は名乗ったら殺し合うではないか…。
さくり。
光の中から突き出された細い腕、女特有の小さな手に握られた殺意を示す銀光煌く切っ先がすっと自分の胸に吸い込まれた。
痛みがないのは心臓に突き刺さったからだろう。後は女が軽く捻るか引き抜けば簡単に自分は死ぬだろう。
「安心して。あなたは死ねないから」
身体の中に流れて来る『異質』に気付いた。女の持っている魔力が止血と心臓のリズムを正確に戻していた。つまり…刺さっているだけで死には至らない。そして痛みも消されている。
残酷なやり方だ。
「まぁいっか」
女が少し飽きたように呟く。
「誰に言われたのよ」
苛々しているのか、そう演技しているのかわからない。だが自分は喋るつもりはなかった。
「んー」
さくり、と左肩にナイフが刺さった。
「お話しましょう?」
さくり、さくり。
右肩と左の大腿部にナイフが刺さる。どこも本来ならば激痛が走る場所で、急所から少し外されている。死ぬには長い時間が必要な場所だった。こちらが人を殺すことに長けていることを知って、あえてその場所を選んでいるとすれば、なるほど魔導師というよりも『同業者』かもしれない、と考えるだろう。
じわり、と心の中で何かが擡げた。
落ち着け、冷静になれ。それは考えてはいけない。
じっと自分に言い聞かせてみる。それは覚悟していたはずだった。
「あなたの血は炎のように…」
とん、と額を叩かれると頭が何かの衝撃を受けた。あれほど眩しかった光が半分消えると同時に右頬にぬるり、と何かが流れた。
「見えないし、感じないからわからないかもしれないけど、あなた今ひどいのよ?」
見えない右目に…何かが映った。
「うああああああああああああああっ」
声を張り上げた。男が座っている。何もない空間に座っていた。体中に何本ものナイフを刺されて、右目が爆発している。その目のあった場所は空洞になっていてまるで血涙を流しているようだった。
「不思議よね。知覚していないと人は恐怖を感じない。視えていないと恐怖を感じない。でも見えていないものにも恐怖を感じる。ね?不思議でしょ」
声を張り上げた。有り得ない姿だった。どんな人間がここまで人に出来るだろうか?常識の範疇というものを超えている。幾人もの人間を手にかけてきたが、ここまでするような『同業者』はいなかった。
「やめ…」
自分が始めて声を発すると、左目に何かが映った。ナイフの切っ先。
「ちがーう。私はそれを聞きたいわけじゃない。あなたの依頼人はだぁれ?」
「ぅ…あ」
言えない。
「どーせ死ぬし、いいじゃん、言っちゃえ」
左目に映る眩しすぎる光が瞬間的に消えると、小さな少女が姿を現した。
「なんでお前が…」
思わず口にしてしまう。
「ころしたはずななのに?」
舌足らずな少女の声。金髪の可愛らしい少女。
「違う、俺はお前を殺すつもりはなかったんだ」
暗殺対象の娘を巻き込むつもりは無かった。撃ち放った弾丸が同時に少女の心臓を貫いただけの話。
「どんっ」
少女がにたりと笑うと、左胸から血飛沫が上がった。大量ではないにしろ、そこは致命傷。少女が仰向けに倒れると、口の端から血を流してこちらに手を伸ばした。
「ねぇ?誰に頼まれたの?」
倒れた少女の口から尋ねられる。
「あああああああああああああああああっ」
頭を抱えようにも、拘束されていて動けない。目を閉じようにもまるで悪魔に魅入られたかのように眼を閉じることが出来なかった。
左目に倒れ伏した少女、右目に自分の残酷な姿。
正常でいられるわけがなかった。いや、むしろ異常でいられた自分に正常な感覚が沸き起こってくる。痛みのない異常なこの状況。痛みが戻ってくる。
がちがちと奥歯が噛み合わず震えた音を上げた。それが心の悲鳴だと気付いた時には全てが遅かった。
「おやすみ(good night)」
少女が言うと身体の末端から炎のような痛みが湧き上がった。痛みというよりそれは衝撃だった。
「―――――っ!」
どれだけの声を上げたのか、それが声だったのかわからないほどの…絶叫。
梨華と英次は引き伸ばされた時間の中で顔を見合わせた。
「この人の時間、止まってるわよね?」
「ああ」
梨華に英次が同意すると、梨華はその青年の腕を掴むが動かない。引き伸ばされた時間の中で、時間軸の違う生命体を動かそうとするとき、その鼓動を停止していた生命は動作させることが出来なくなる。時間軸を相違させる魔術の条件だった。有機生命体はその条件下、つまり『生きていなければ』ならない。
「先手を打たれた?」
「誰に」
英次の言うことも最もだった。外傷が全く無い死体に梨華と英次は言葉を失う。
「記憶の逆操作できるか?」
「死んでからどれくらい立ってるのかわからない。記憶の意味消失が全体に及んでいるかも」
「やってみようか」
英次がすっと青年の頭に手を置くと、梨華が英次の背中に右手を当てる。
崩壊の始まっている神経ネットワークに接続する魔術は英次の意識を強制的に対象に送り込み、対象の記憶を英次の記憶として再生させる。過去の記憶は英次の実体験として記憶されるため、意識の混濁が発生してしまい、英次が自分の精神ネットワークである記憶に『帰還』出来なくなる可能性がある。そこで梨華が危険を判断した場合は『強制介入』と『精神ネットワークの遮断』を実行することで英次の精神ネットワークを保全する。
また、崩壊を続けるネットワークの連鎖反応を受けて英次の精神ネットワークまで波及することも考えられるため、最悪の場合は梨華が英次の記憶を『復元』するためにその準備をする。
「いけるか?」
「いつでも?」
英次が「頼むぜ」と言うと眼を閉じる。
「アップリンク…」
梨華が英次の魔力が青年に流れ込んでいくのを感じてそれを後追いする。青年の全身に英次の魔力が充填されると、梨華の頭の隅に青年の記憶が流れる。
まるで映写機が動いているように、青年の少年期、青年期の記憶が断片的に、時間列を無視して流れ出す。かなりの数の記憶が既に意味消失していて記憶の空白期間が長い。あったはずの記憶が真っ白に置き換えられている部分が次第に増え始め、脳内ネットワークの記憶変列が崩壊を始めていることが伺えた。
「英次?そろそろ危険…!」
「うっ」
英次が青年から手を離す。梨華は歯を食いしばって記憶の本流から精神を保護するネットワークを英次と自分に張り巡らせる。
「大丈夫か?」
「何が?」
「気分さ」
「最低」
英次に尋ねられて、梨華は動悸のする自分の心臓を右手で握り締めるように拳を作って胸に当てた。
「記憶に殺されるかと思ったわ」
最後に死ぬ瞬間の記憶は鮮烈で、痛みが精神的『刷り込み』から発生しそうになった。
「こいつは…記憶に殺されたんだな」
英次が死因を理解する。
「司法解剖したら、外傷はないのに切り傷がありそうね。それくらい強烈なものよ」
「だろうな…。相手は魔導師だな。精神的な術式を使ってるはずだ」
梨華と英次は先ほどまで自分の座っていた席に座ると、梨華は時間粗密の魔術を解除すると友樹がこちらを見ていた。
友樹が目を擦ると、梨華が苦笑した。友樹は超人的な動体視力を持つ人間だ。瞬間的に梨華と英次が消えたように見えたのだろう。
「梨華姐、魔術使った?」
後ろから小さな声で聞かれて梨華は「どうかしら?」と答える。英次は降矢がこちらを見ているのに気付いて、ボールペンの芯を出したりしまったりして、その感覚にリズムをつけて結果を報告している。
モールス信号と同じ感覚で、梨華たちは音声や振動だけで意思の疎通をすることを目的とした暗号を用いている。その音に気付くものはいたとしても、同じ部隊でなければ、まずそれを理解する事は難しい。先ほど降矢のレーザーポインターのオンオフも同じ信号を発していて、梨華と英次がそれをキャッチしたに過ぎない。
降矢が『挙動不審な観客がいる』と二人に送信し、梨華は机の上で手を握ったり開いたりして『ご退場願う』と返事をしたのだ。
「気になるな…」
友樹が食いつくと梨華は苦笑する。
「はげるわよ?」
「なんすか、その迷信」
友樹は呆れると机に突っ伏す。梨華は友樹にも興味のある題材を選んで降矢に講義させているつもりだったので、少し的が外れてしまったことに驚く。
「面白い講義じゃないの?」
「降矢さんとの個人授業で聞いた内容だから俺にはちょっと、退屈なんすよ」
「友樹は降矢といる時間長いし、話もいろいろしてるだろうしな」
英次が「そりゃ退屈だろうよ」と呟く。
降矢の研究室に戻ると、更紗と絵里が先ほどの講義の復習をしているのか、二人で何かを話している。そこに友樹も入り込んで三人がわいわいと話をしているのを横目で見て、英次と梨華は本棚に寄り掛かっていた。
「降矢がすぐに対応して青年を問題になる前に処理してくれるのよね?」
梨華が腕を組んで英次に尋ねると、英次が頷いた。
「その手はずじゃないのか?学園の『執行部』だって、問題になる前に協力的ではないにしろ行動してくれるはずだ」
「それが問題だと思うのよね」
「こっちだって『執行部』に協力的とは言えない対応をしてるからな…。いろいろな意味で持ちつ持たれつって奴さ」
英次がため息を吐いて笑ってみせる。
「そうね…。高圧的な情報開示要求には少し頭が来るから、何も知らせなかったのが悪いのかもね」
「お互いそう思ってるさ。向こうは学園が上にいるからどうしても引けないってことだろう?」
「意地っ張りね」
「お互いな」
英次が伸びをする。
「大学部の講義ってのは九十分だったって忘れてて、すっかり身体が固まっちまったな」
「そうね、運動でもしてきたら?」
「そうするわ」
英次がそう言うと部屋から出て行く。
「英次さんは何処にいったんですか?」
友樹が目ざとく英次の背中を見つけて梨華に尋ねてくる。
「散歩じゃないかしら?」
「運動って言ってましたよね」
「あら、じゃあ運動じゃない?」
友樹に梨華が言うと「胡散臭いな」と梨華に疑いの目を向ける。
「何処に行くの?」
友樹が部屋を出て行こうとすると、梨華が尋ねる。
「トイレ」
「後になさいな」
「…そうしたほうがいいのか…な」
鋭い視線に友樹がたじろぐ。更紗と絵里が首をかしげると、梨華が苦笑して見せる。友樹は先ほどまで座っていたソファに腰をかけると、更紗が眼を閉じた。
「英次さんの魔力が消えました」
「運動だから…ね?」
梨華に言われて三人は英次が『作戦行動』を始めたことを察する。完全に存在を消す、隠密行動が出来るのは降矢、梨華、そして英次だけだ。要するに自分たちは今、動いてはいけない。友樹たちはそれを察すると先ほどの講義内容のお浚いを始める。
「いい子達ね」
梨華も部屋の外に出て後ろ手にドアを閉める。
深呼吸して自分の身体の状態を仮死状態に近付けていく。集中して行わないと自分が本当に死んでしまう。耳に雑音が混ざり、キーンと遠くから聞こえてくるような何かが響く。視界が徐々に狭くなって、軽い眩暈と吐き気が湧き上がってくる。身体の代謝が極端に落ちて、手足の先から冷たくなっていく感覚が全身に及び、脈拍が徐々に遅く、ゆっくりになり…心音が止まった。
「英次?」
『お?』
英次の精神に直接、自分の精神を接続すると英次が少し驚いたような声を響かせる。相互精神干渉による通信は魔導師の間では珍しくない。が、それは双方の同意の上で行われる。強制的に回線を開く(オーバーライドオープンチャンネル)は互いに危険性を伴うために基本的には行われない手法だが、梨華は英次の魔力要領と処理能力を信用している。
「聞き分けのいい子たちは部屋でお留守番してくれるから、私も参加するわよ?その運動」
『散歩だよ。散歩』
「どっちでもいいの。で、あの場にいた棗さんの反応がないんだけど、今見えてる?」
『気付いてたか』
英次がため息を洩らす。
「私たちの中で狙われるとしたら、私か絵里ちゃんよ。でも、絵里ちゃんは感受性の高い子だから狙われた瞬間に気付くでしょ」
『感受性が…?おいおい、絵里は天然だと思うぞ?』
英次の言うことも最もだ。彼女は確かに天然の気があるが、事において殺気には敏感な反応を示す。
「絵里ちゃんが今回のことに気付いてないって可能性だって…ある?」
『わからん。ただ今回は絵里が気付く前に『暗殺者が暗殺』される本末転倒で俺たちにとっては嬉しいような嬉しくないような結果になっただけだ』
「どちらでもいいってはっきり言ったら?」
『気分がよくない。俺たちの目の前で他の奴が気付かないうちに作業したんだ。それも魔術で、な』
「強敵、ね」
『喜ぶなよ』
顔は見えていないはずなのに、相手はこちらが笑んでいることに釘を刺す。
「あなたもね」
『お互い様、だな』
英次が強気に笑んでいる気がした。
「それはそうと、今何処?」
英次は聞かれて、自分の姿が滑稽で仕方が無かった。
「何処か、と言えばとても返事に困るんだがね」
『そう…』
残念そうな声に英次は自分でもうんざりした。絶対に口にしないが自分が梨華を信頼しているように、自分も梨華に信頼されていることくらいはわかる。少なくともこの関係は悪いものではない。
今、英次は時計のたくさん飾られた部屋にいた。飾られた、というより無造作に放り投げられたアナログ時計がいくつも転がっていた。大小、装飾も様々な時計はこち、こち、と正確に秒数を刻んでいるものもいれば、急かされているかのように早く動くもの、中には壊れて動かないものもいた。
異質な空間。
薄暗く空なのか天井なのか、頭上は闇に覆われている。そうかと思えばしっかりと英次の目には周囲がぼんやりとだが見えている、薄暮。
「くそ」
悪態を吐いて一歩足を踏み出すと、がらがらと時計が音を立てて崩れるが足場はそれほど悪くは無い。足の踏み場を探すように歩くと、足の下はフローリングのような木が張ってあった。
『逆操作するけど平気?』
「一応…俺を引っ張れそうか?」
『さぁ…相手があなたを簡単に離してくれると思わないけど』
「ああ…執着心の強そうなお嬢さんがいるぜ」
英次の視線の先には煌びやかな白い衣装を来た十歳前後の少女が時計の山の上に座ってこちらを見ていた。山、と言えども百三十前後。少女が座ったまま、英次の目線の高さにいるだけの高さ。
『気をつけて』
「大丈夫、こいつは平気そうだ」
何と無く、そう思った。
絵里と同じくらいの容姿をした紅い瞳、金髪の少女はどこか昔の物語に出てくるような可愛らしい人形のような少女だった。危害を加えるどころか他人を疑うことすら知らなさそうな…、そんな危うい印象すら受ける。
「お嬢さん、申し訳ないけど出口を教えてくれるかな?」
英次が尋ねると少女は無表情のまま小首を傾げた。
「きゅる?」
英次は瞬間的に脳内に強制介入防御を実行する。相手の言語が『魔導言語』でこちらが通常の言語では話が通じない。日本語、英語など異文化の魔導師は共通言語として『魔導言語』を使用するのだが、これがまた厄介で『魔導言語』は両者共にそれを扱う技量がないと相手の『言語野』と『記憶中枢』を破壊する。
「なんていったの?」
少女がもう一度尋ねてくる。
「俺は出口を聞きたいんだ」
英次が言うと少女はにこりと微笑んだ。
「私も教えて欲しいな」
「なるほど、迷子さんか」
「お兄さんもだよね?」
言われて「まったくだ」と英次は首を左右に振る。
「とりあえず…探すかな」
「私も一緒に行く」
とん、と三メートルほどの距離を予備動作なしの人っ飛び、ブランコから飛び降りるように跳躍すると英次の前に立った。
「喜んでエスコートしますよ」
英次が手を差し出すと、少女はにこりと微笑んで英次の手を掴んだ。
「梨華、『追尾』と『脱出』を手伝ってくれ」
『了解、と言いたいところだけどそうも行かないみたい。少し時間をくれる?』
向こうの状況が全く掴めないのがもどかしい。こういうとき、常に冷静な梨華の声は状況を判断する材料に全くならないのが玉に瑕だ。
「こちとら『お嬢様』を連れてるんでね。長い時間は待てないぜ?」
『あら、話し相手がいるって素敵よね』
こりゃ、待たされるな…。
英次はそう思うと少女を見下ろすと、少女は「どうしたの?」と首をかしげる。
「姫様を迎えに来る荷馬車が渋滞にはまってるんですよ」
英次がそう言うと少女はいっそう首をかしげる。
全方位通信を受信して梨華は瞬間的に方位と距離を把握する。
単方向通信は一方的に自分の意識をと特定の人物に送信する方式、双方向は梨華、英次が使用していた相互意識の干渉を発生させて相互意識を共有するやり方。
「強引な連絡ね」
棗から学園内部全員の魔導師に送られた強力で最も精神負荷のかからない通信がついさっき送信された。それはむしろ『放送』に近い。
緊急事態に学園全体の魔導師たちが『戦闘待機(第二戦闘配備)』に入る。初等部の生徒たちと中等部の生徒たちが避難し、高等部と大学部の生徒、学生たちがそれを援護、索敵を開始する学生も右往左往している。
高等部生徒会長の棗と言えば大学部自治会の会長の妹だかになるはずだ。義妹だか兄妹の契りを結んだのだか…梨華にとって今一、興味の持てない話だったので詳しくは知らないが、この慌しさを見る限り放置するわけにも行かないのだろう。
「名指し、されちゃってましたね」
絵里が戦闘モードで部屋から出て来る。きらきらと輝く銀粉が絵里の周囲に展開していて、制服であるブレザーの色が真っ赤に変色している。そして背中には翼が…。
「そうね」
梨華は相変わらずの華美な絵里の姿を見てため息を吐く。絵里は戦闘状態になると無意識でその衣装に変わってしまうらしい。
「私にそれ以上近付かないでね?」
「え?あー」
絵里は自分の周囲の銀粉を見て頬を紅くする。一般人や魔力を含有していないものならば触れても気にする事はない。ただ少し甘い香がして幸せな気分になれるだけだが魔導師や魔力を含有する魔導装具、それに追随する効果の発生した事象が接触すると分解されて霧散する特殊なフィールドになっている。
「まだその攻撃特化のフィールドは修正できないの?」
「出来たらいいんですけどね…ぇ」
「いいんですけどねぇ…じゃないわよ。あなたそのなんだっけ?」
絵里はない胸を張って強気に笑む。
「天使装甲状態、です!」
「その…強化状態は危険なのよ」
口にするのも恥ずかしいネーミングセンスに梨華は頭痛を覚えて遠い目をすると、絵里が「かわいいのに」と唇を尖らせる。
そもそもこの発想は梨華のしたもので、マスターと梨華が設計した絵里の仮想イメージを具現化して装甲を作る、という魔導装具で実現したものだ。
が、絵里は恥ずかしげもなく装飾華美な衣装を着て飛び回っていた。
「射撃強襲モードも設定したんですよ!」
「強襲?」
梨華が首をかしげると、絵里は右手を天井に突き上げる。
「衣装変化!」
ブレザーの色が絵里のデザインしたのか、赤を基調とした青のブレザーに変わり、銀色の装飾兜が頭に乗っかる。左右両肩からキャノンのようなライフルが出現し、右手、左手にいつも使用している大型狙撃銃が握られ、脚部にグリーブのようなブーツが装着され、可変式のブースターがぼんっと一度展開される。両腕には鉄鋼鎧が肘まで伸びて、末端の手足が保護されている。相変わらず背中の翼は無意味に動いている。
「…どうですか?」
上目遣いで聞かれても…。
梨華はその完全に何かの影響を受けただろう衣装に言葉も出ない。
「射撃制御はしっかり出来てるの?」
「はい。私の精神と接続して動く『精神感応射撃許可機構』を…」
「まぁあなたの趣味にいちいち何かを言うつもりはないけれど、制御する魔術が多くなればなるほど反動も多くなるから気を付けてね」
「言われるまでもありませんよ!」
絵里が根拠の無い自身でまた無い胸を張る。
「棗さんを探しましょう」
ふわり、と絵里が地面から数センチ足を離して浮く。両手に握っていた銃を腰の後ろでクロスさせて待機させると、左右の手甲から光学収束兵器が展開される。遠近両用の戦闘を想定しているらしいが…過剰としか言いようが無い。視覚的な意味で相手を萎縮させる目的ならば十分だろう。
「友樹と更紗は?」
「窓から飛び出していきました。降矢さんと合流する予定だそうですが…」
「降矢の位置を知ってるの?」
梨華が絵里に尋ねると絵里は首をかしげて苦笑する。
英次、梨華が『隠密状態』にして敵性を探ろうとしているのは降矢が『敵性を認定』したという報告を受けたからだ。降矢が敵にばれないように尾行しているならばこちらからは絶対に見つける事は出来ない。いくら前線管制と情報管理の更紗が『探知』を張っても英次が『能動自己位置表示』をしない限り見つからない。
「目視で探すつもりかしら…」
「無理ですよ。私がここにいますから」
「そうよね」
魔術や魔法ではなく、何らかの特別な能力を使って絵里は世界中の様子を目視することが出来る。遮蔽物の向こうや、隠された中身、人間の身体の中や不可視の光も察知する絵里を『千里眼』と英次が名付けている。梨華は英次とは違い『女神の瞳』と呼んでいるが、同じ能力を示す。
「…あなた、その姿で作戦したことあるわよね?」
見るのは初めてだが、作戦報告書を何度か目を通すと、共同した部隊が『天使』の暗号を良く表記していることを思い出した。
「ありますよ?」
「納得したわ。あなたのことね『天使銃撃者』って」
「はい」
梨華が流し目で絵里を見ると照れ隠しのように笑う。
「後で物損報告書二十四枚書いてもらうわ」
「ぇー」
絵里が不満そうな顔をする。
「お宅の『天使』がやんちゃして味方の装備にも影響が出たって何度も言われてるのよ。私は『天使を狩った記憶がない』って突っぱねてきたけど、あなたが犯人なら話は簡単ね」
「簡単じゃないですよ。いいわけ考えるのも大変なんですから」
絵里が両肩を落とすが「自業自得よ」と梨華が苦笑する。梨華からして見れば調査報告までしなくて済んで良かった、というのが本音だ。
「お話してて、いいんですか?」
絵里が話を変えようとすると、梨華は「そうね」と窓の外を見る。
「棗のせいで敵も逃げちゃっただろうし、絵里ちゃんにはやってもらうことが出来たわ」
梨華が右手を中空に向けると光の線を廊下に描いた。
踊るように腕を振り、全身を動かして通路全体に光の線を置いていく。横に文字列を三行、梨華の魔力を置いた文字が金色に輝いている。
「召喚文字ですね」
絵里がギリシャ文字の崩れたような字体に目を細める。
「正しくは臨海境界面を融和させるものよ」
言われても理解出来ずに絵里は首をかしげる。
「説明は面倒だから後。まぁ魔術ではなくて魔法の部類になるって覚えておいて」
「梨華さんにしか使えない…?」
「…そう、ね」
言われて梨華が言葉に詰まらせる。
「わ、えっと、どうすればいいですか?」
特別、とか特殊、という言葉を梨華が極端に嫌うことを思い出して絵里は慌てて取り繕う。一般人にはわからないこと、特別でありたいと思うことなのに、彼女はそうでありながら特別を嫌に嫌う。それが梨華という人物だった。
「ぶっ放していいわよ。全力で」
「えっと…宇宙管理局に怒られますよ?」
「いいわよ。見えないから」
梨華が頷くと、絵里は嫌そうな顔をする。前に絵里が全力で空に『ぶっ放した』全力の砲撃は地球から飛び出して人工衛星を二個吹き飛ばした。水平軸に撃ったつもりの絵里だったが、地球は丸いのよね、と梨華が白々しく言った記憶が新しい。
「どうなっても…知りませんよ!」
絵里が空中で両手を組み合わせて掌を文字列に向ける。背中の翼がぴん、と伸びて空中に身体を固定すると、膨大な魔力が掌に集中する。
時間は疎と密を交互に繰り返すことによって進むとされ、その密の部分で生命は活動している。疎は虚数として実態を持たないため認識されないが魔導師はそれを認識してエネルギーの認識を固定する。要するに魔力は時間進行エネルギーを操ることによって発動するというこじつけの理論が立証されていた。
虚数と虚数が交わると…実数に置き換わる。その公式を魔術と呼び、公式の外にあるが実際に現象を引き起こし、不可逆な事象をも引き起こしてしまうものを魔法と呼ぶ。
「全力でね」
梨華が念を押すと、文字列が絵里の魔力に反応して光を増す。
世界と世界の境界は実態を持たず、視認することも出来ない。それを梨華は魔法によって強制的に具現化させ、強固なその壁を絵里の射撃によって破壊させる…予定だった。
昼と夜が何度か逆転するように、外が明るくなったり暗くなったりを繰り返す。絵里の髪の毛がふわり、と浮き、服が風も無いのにはためく。圧倒的魔力の奔流を受けて抵抗力の無いものはその『圧力』に押し潰されるか、どこかに弾き飛ばされてしまうだろう。
「あーもう!物損報告書と読書感想文なんてなくなっちゃえばいいのに!」
「…?」
意味不明な叫び声と同時に光の螺旋が文字に衝突する。二重螺旋にも似たそれが光速で放たれ、空気がイオン分子化して独特な匂いを発して後から稲妻のような轟音が響く。
黒い稲光が壁面に触れる。
「成功」
梨華が微笑むと絵里が脳震盪を起こしているように頭をふらふらとさせている。全力射撃の反動を身体で押さえ込むためにそうなるらしい。
英次は少女を抱き上げると跳躍する。
「わー」
少女は胸に抱き抱えられて楽しそうに笑っている。ピーターパンに空を教えてもらった子供のように…笑っていたが、英次にとってそれどころではなかった。
英次と少女の居た場所に二重螺旋の光が貫き、時計の山を粉砕してはどこまでもそれが道のように続いていく。破壊音がどこまでも続き、やがて聞こえなくなった。
「絵里の主砲で時空間壁面を突破しやがった」
英次が舌打ちする。もしあれが直撃でもしていたら、こちらは木っ端微塵で影すら残らなかっただろう。
「外に出るんだよね?」
英次が中空で静止すると少女が不安なのか、英次の衣服をぎゅっと掴んだ。
「出たくないのか?」
少女は少し考えてからゆっくりと首を縦に振った―――肯定。
「外は怖いもの。ここはいいの。私以外に誰も居なかったから」
「俺が入ったときは怖くなかったのか?」
「うん」
「じゃああのお姉さんたちは?」
英次が下を指差すと少女は二人の新たな侵入者をじっと見つめる。
「きれいなひと」
少女は何かに魅入られるように梨華をじっと見つめている。英次は完全武装している絵里を見て思わず苦笑してしまう。
なんだあの格好は…。
絵里が最初に英次に気付いて目を丸くしていた。ちょいちょい、と絵里が梨華の腕を引っ張りこちらを指差し、梨華は怪訝な顔をしてこちらを見上げている。
「あら、お邪魔だったかしら?」
「そういう風に見えるか」
英次がすとん、と着地して少女を地面に下ろすと、少女はぺこりと頭を下げる。絵里も慌てて頭を下げて少女同士の挨拶が終わる。
「ここは誰が作ったのか特定できた?」
「いんや、むしろここは元々あった場所かもしれないな」
英次が空を見上げるが、そこには何もない。陰鬱とした茶色い空がどこまでも続いている。
「そう考える根拠は?」
英次が腕にはめた時計の文字盤を梨華に見せると、梨華は自分の腕時計の文字盤に視線を落とす。
「時計がずれてるわね」
「正確には時間軸だな。魔導師に出来ないことは?」
絵里が「はいはい!」と手を上げ、梨華が「どうぞ」と譲ると絵里が元気良く、
「それは『時間の管理と操作』ですっ」
と答えた。
管理、とは進行を遅らせたりすることで、操作は逆転させることを意味する。梨華が大学部授業の受講中に行った魔法はあくまで時間を整理しただけであって、管理には属さない。
「で、その子は?」
梨華に指を指された少女は絵里をじっと見ている。絵里はにこり、と微笑みかけると少女もにこりと笑う。
「ここにいた子だよ」
「住んでいるのかしら?」
「まさか」
英次が失笑する。三人の視線が少女に向けられると、少女が首をかしげた。ただ視線はずっと絵里を見つめている。
「私は絵里といいます。よろしくです」
「絵里?」
「うん、私は絵里」
少女は「絵里…絵里?絵里」と何度も絵里の名を口にする。その様子にただならぬ何かを感じて英次が少女の肩に手を置き、梨華に視線を送る。梨華は意図を読み取って英次と自分の感覚を無接触接続すると、英次は素早く少女の思考ネットワークに入り込んだ。
低い視点から見るこの時計だらけの世界はこんなふうに見えるのか。
英次は少女がここにやって来たときの記憶にぶつかって記憶を追従する。
とぼ、とぼ、と言うのか、頼りない足取りで少女はどこまでも歩く。途中、何度も躓きながらも何かを知っているかのように歩き続けた。そこで記憶が途切れる。
真っ暗な空間でいくつも銀河のように輝く光が見える空間。少女の記憶中枢に到達する。末端記憶の中で一番介入しやすいのが時計の世界を歩く光景だった。そこから任意の記憶を走査しようとして英次は目を細めた。
時計の世界の記憶しか残されていない。というよりも他の記憶の残滓も見当たらない。つまり、少女は少女の姿のままここで生まれ、そしてこの世界以外を知らないことになる。
それは『有り得ない』ことだ。探す、どこか自分でも焦っている。これは絶対に有り得ないこと。その概念が崩れる。
有機生命体全てが絶対に持ち合わせていなければならない記憶。命の共通の記憶が少女には存在しない。
「とおーりゃんせーとおりゃんせー、こーこはどーこの細道じゃ~」
ふと声が聞こえて英次の意識が束縛されて動けなくなる。
「てんじんーさまのほそみちじゃ~」
哀しそうな声。昔に聞いたことのある歌だ。
「ちょっおっととーしてくだしゃんせ~」
英次が続けるとどこか嬉しそうに声が返ってくる。
「ご用の無いものとおしゃせぬ~」
英次は瞬間的に七年以降前の記憶を走査する。
(検索不可能時間数…)
つまり、存在しない。
「この子の七つのお祝いに~お礼を収めに参ります~」
英次が動揺しつつも返すと、歌声が止まった。
首を掴まれて引っ張られる。物凄い勢いと力で身体がまるでゴム紐で一気に引っ張られるようだった。何かの衝撃。全身に壁を突き破るような衝突を感じて意識が一瞬にして元に戻ると梨華が微笑んでいる。
「無事?」
「無事、ではないな」
少女から手を離すと少女がくすくすと笑っている。記憶防壁に当たったのだろう。英次の侵入を察知した少女が本能的に組み上げた侵入者対策。
『梨華』
『わかってる。その子、生きてない』
梨華も感覚を共有していたのだから、英次の見て来たことを知っている。
『七年前だ』
『そうね…七年前からこの世界は彼女のために作られたって事?』
『断定は出来ない』
英次の言う通り断定は出来ない。ふと英次は少女を見下ろす。
「外の世界が怖いって、何が怖いんだ?」
少女は首を横にふるだけ。意思の疎通ができない。
「絵里」
少女が絵里の名を呼ぶ。
「何かな?」
呼び捨てにされたことに腹を立てるようなことはせず、絵里が微笑んで尋ね返す。
「あなたも七年前から世界にいる」
「…」
絵里の目が急に虚ろになった。決して誰もが触れなかった絵里の七年前以上前の記憶。
「私はだあれ?貴女は絵里、でもだあれ?私とあなたは誰と誰?」
問いかけのような言葉に絵里が少女に右手を伸ばし、少女が左手を伸ばし、掌と掌を合わせた。
梨華と英次は突然のその行為に意味が理解出来ずに硬直する。
虚ろな瞳の絵里と白い衣装の少女が目を閉じ…。




