グンタイアリがあらわれた
渋谷スクランブル交差点を見下ろすお天気カメラの映像。最初は、画面の隅のアスファルト が少しだけ汚れているように見えた。だが、その汚れは生き物のように蠢き、意思を持ったアメーバのように、急速に、かつ少しずつ広がっていく。
黒い絨毯のようなものが、大通りを埋め尽くしていく。
画面の中で、歩行者たちが足を止めた。
怪訝そうに足元を見つめた次の瞬間、一人の女性が弾かれたように叫び声を上げ、走り出した。それを合図に、交差点はパニックに包まれた。
しかし、逃げ場はなかった。
黒い広がりは人々の逃走速度を遥かに凌駕し、彼らを包囲するように四方から退路を断っていく。
人々は次々とその「黒」に飲み込まれ、波に呑まれるように地表から消えていった。
はじめは黒く覆い尽くされた人々が、激しくのたうち回っているのが見えた。
信じられないことに、ものの十分後、黒い波が次の獲物を求めて移動した跡に残されていたのは、白い人骨と、無残に引き裂かれた衣服だけだった。
東京に突如、信じられない数のグンタイアリが出現したのだ。
その日を境に、日本の首都機能は完全に停止した。
アリの群れはミリ単位の隙間からあらゆる場所に侵入した。
総理大臣官邸は発生からわずか数時間で通信が途絶。
後に自衛隊の装甲車が強行突入した際、最高機密の執務室で見つかったのは、原型を留めない無数の衣服と、不自然に転がる白い骨だけだった。総理の姿はどこにもなかった。
近年の高気密なタワーマンションも、彼らの前にはただの「縦に長い檻」でしかなかった。
外壁を真っ黒に染めて這い登る数億匹の軍勢は、換気口や配管を喰い破って各部屋へ侵入した。
上層階の住民は、夜の闇の中でライフラインを断たれ、下層から響く断末魔の叫びを震えながら聞くしかなかった。
地下鉄の駅はさらに凄惨なデス・トラップと化した。
逃げ込んだ数千人の避難民の頭上から、階段から、通気口から、黒い津波が容赦なく流れ込んだ。
暗闇の閉鎖空間に、肉を削ぎ落とされる肉声と、骨がぶつかり合う音だけが響き渡った。
文明の誇るコンクリートの街は、わずか数日で血と骨の転がる沈黙の廃墟へと変貌した。
「……本当に、東京は全滅したんだな」
本州の南端、温暖な気候に恵まれた地方都市の一軒家で、男はテレビの画面を凝視しながら力なく呟いた。
テレビから流れるのは、洋上の自衛隊護衛艦から中継される臨時の音声放送だけだった。
東京発の映像は数日前に途絶え、今はただ、アナウンサーが震える声で
「地表に留まらないでください」
「海か、完全に密閉された施設へ」
と繰り返している。
男の住む地域では、まだアリの姿は確認されていない。
窓の外には、いつもと変わらない静かな地方の田舎道が広がっている。
セミの声がうるさいほどに響き、入道雲が青空にそびえていた。
テレビの中の地獄が、まるで遠い異国の出来事のようにさえ思えた。
「まさか、こんな遠くまで来るわけがない。海もあるし、山もある」
自分に言い聞かせるように、男はぬるくなった麦茶を飲み干した。
しかし、男は知らなかった。熱帯の悪魔たちが、すでに日本の高温多湿な夏を味方につけ、あらゆる街道や山林を黒く染め上げながら、驚異的な速度で南下していることを。
「ちょっと、テレビの音が聞き取りづらいんだけど。電波悪いの?」
台所から妻が声をかけてきた。
確かに、画面のノイズがひどくなっている。ザザ、ザザザ、と不気味な砂嵐が混ざり始めた。
エアコンのインジケーターランプがパチパチと明滅し、部屋の照明が一瞬、暗くなった。
「ブレーカーか?」
男は立ち上がり、廊下へ出ようとした。
その時、男は違和感を覚えた。
部屋の隅、障子の敷居の溝に沿って、一本の細い「黒い筋」が伸びていることに気づいた。
最初は、ただのゴミかと思った。
あるいは、古い家によくある隙間風の汚れか。
だが、その筋はかすかに蠢いていた。数ミリの黒い点が、数え切れないほどの密度で、一列になって部屋の奥へと向かって進んでいる。
「なんだ、これ……」
男が這いつくばり、その黒い筋に顔を近づけた、その瞬間。
ピシ、と壁の裏で不気味な音がした。
続いて、天井裏から、ザーッという、まるで激しい夕立が屋根を叩くような、だがそれよりも遥かに不快で湿った「擦れる音」が響いてきた。
男の背中に、冷たい汗が噴き出した。
慌てて振り返り、庭に面した大きな掃き出し窓を見る。
外の田舎道。
さっきまで白く照らされていたアスファルトが、じわじわと変色していくのが見えた。
道路の端から、草むらから、信じられない密度の「黒」が、まるで意思を持つ絨毯のように、男の家を取り囲むように広がっていく。その速度は、男の想像を遥かに超えていた。
庭の木にいたセミの声が、唐突に途絶えた。
代わりに聞こえてきたのは、庭の芝生が、生垣が、そして我が家の木造の土台が、数億の顎によって凄まじい勢いで削られ、咀嚼されていく音だった。
「あなた? 何か音が――」
台所から歩いてきた妻の足元。
すでに畳の隙間から、無数の黒い点が噴き出し始めていた。
その直前まで、住人は誰も気づかなかったのだ。
悪魔の軍勢が、すでに足元を完全に制圧していたことに。




