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短編集  作者: 宮川学
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「女」

読んで下さい。

宮川 伊紗良「女」

私が以前、学問を修めていた大学の世界史の講義で、クレオパトラと云う女について学んだことがありました。三〇〇〇年続いたエジプト王朝最後の女王として、また世界三大美女としても有名なその女を、その時の教授はこう説明なさったのです。

「…えー、このクレオパトラと云う女は、皆さんよくご存じですね。彼女はエジプト王朝最後の女王であり、また一節ではありますが。魔性の女としてもよく語り継がれているのでございます。それが何故かと言いますと、この女は己の美貌または教養を駆使して、数々の名声ある男達を手駒にかけた事でも、これまた有名なのです…」

例えば、当時覇権大国であったローマ帝国を統べる支配者、カエサルがその例に挙がるのではないでしょうか。私はその時、そのカエサルとかいう男を、心の底で腹が捩れる程嘲笑ってやったのです。いくら美人で教養が有るからといえ、たかが女に溺れるなど、王者の威厳もあってないようなものだ。馬鹿馬鹿しい。今考えれば当時の私だからこそ、そう笑い飛ばせたのだと思います。

それから私は大学を卒業し、横浜の印刷会社に勤務することとなりました。外観こそ小振りでしたがそこそこ権威ある会社で、しかも私はその職場で君子と言われるほど勤勉かつ誠実な社員として評価されていたわけですから。当然給料や生活に困ることなど毛頭無かったのです。社内の勤勉君子と言えば、皆、私を思い起こすくらいでありましたから。

さて、冒頭に書きましたそのクレオパトラを私がなぜ今になって記憶に蘇らせたのかと言いますと、つい数週間前のことに遡ります。いえ、事の発端と致しましてはよもや数年前になるのでしょうか。ただ真面目にやれと言われた事をはい承知致しました、とこなして行くのは、充実感さえあるものの、どうも満足という観点では劣っていたのでございます。なにかこう、何でも良いから、精神または生活に一点の輝きさえあれば良いのに。私の休日はいつも、上司から回されてきた原稿を辞書片手に校閲することか、作家の執筆意欲を少しでも上げ、原稿を期限までに間に合わせることのどちらかに注がれていて、唯一の娯楽と言ったら、それこそ近頃は俗世もすっかりハイカラですし。あの赤レンガ倉庫付近の洋食屋で、カレーやらビフテキやら、それも多分本当はビーフステーキと呼ばねばならないその肉塊を、どうも着飾って略称に呼んで食べたものです。あれこれ特にいって美味いとは感じなかったのですけれど、やはりそういったものを口にする事自体が、当時の私には楽しかったのだろうと考えます。

それでもやっぱり、この空白は埋まらない。

例えるなら心の一番深い場所に、ぽっかり穴が空いて塞がらないようなのです。どれほど上等な肉を食べたところで、所詮満たされるのは腹の中だけで、その満足が、私の心の臓の、心持ちに行くことはなかったのです。

その時丁度、変な噂を聞きました。私の担当する作家が、彼は私とよく似た男で、〆切を破ったことなど一度もなく、それ故に私は休日を他作家の原稿を間に合わせることに注げたのですけど。彼がふと、

「君も少しは気休めの一つや二つ、習慣にした方が良い。受動的な、受け身の話だ。君はいつも自分から何かをしようとして、それを完全に娯楽だと思っている。それではいけない。自分は何もせず、ただ誰かから奉仕されるのを…そう、それそれだ。奉仕。奉仕されることが今の君には必要なのだ。どうだい。いっぺん、考えてみてはどうかね」

そう言われて、私は不意に、納得がいってしまったのです。確かに、私は私の人生で、何か奉仕されるようなことをしたか?もしかしたら多少はされていたのかもしれない。けれど私の記憶を掘り起こしても特別出てこないというのは、それはきっと無いのだ。そして彼の言葉に心から頷くと、彼は幾分笑って、ある茶屋を紹介して下さったのです。その茶屋は、大通りを少し外れた、町外れの旅館やらが立ち並ぶ細い通りのさらに奥。誰かに気付かれることを前提としないような場所に、ぽつんとありました。彼が云うには、どうも店主の娘が特段別嬪で、まああとは、行けばわかるさと、半ば追い立てられるように向かったのでありました。

その女を見た時、私は酷く美しいと思いました。美しいという言葉が単純に使われるのをこれ程までに恨んだことはこの時以外無いでしょう。とにかく、美しかったのです。私はこれでも小説の校閲や添削を任されていた身でありましたから、ものを言い表す能力にかけてはそれなりに自信を持っていたのですが、どうにも。美しい以外の言葉が出てこぬのです。どう頑張っても、それ以上に彼女を云うに相応しい言葉は存在しませんでした。形式的に外見を説明するのも勿体無く思いますが、彼女は近頃の娘達がすっかり西洋に染まり、例えば垂らした黒髪を編んだりリボンで留めたりしているのにも関わらず、その黒髪を几帳面に桃割れに結っていました。顔立ちも日本らしく、しかし白粉は薄かったため陶器のような肌の湿り気が直に感じ取られたのを覚えています。最も目を惹く特徴といえば形の整った小さい唇に引かれた紅だったと思います。それはまるで死装束に紅色の細い帯を巻いたようで、どうにもその色の所為で生きている印象がしなかったものの、死人にしてはどうにも奇麗すぎるのでした。元より女性と面と向かったことなどない私でありましたから、彼に言われていたので若干身構えてはいたものの、それでも若干ですから。女は私を見ると一瞬首を傾げるような動きを見せ、それからあぁ、と息を漏らすような声量で言いました。その声はなんだか、誰にも手入れされることなく何百年も放置された神社の、錆びた鈴の音のようで、よく無邪気な少女の声を表すのに鈴の鳴るようだという例えを用いますけども、それよりは明らかに大人びて妖艶で、しかし私の頭に浮かんできたのは間違いなく鈴だったのです。

「彼の方…えぇ、是永様のお知り合いの方?そういえば以前知人を紹介なさると言っていたわね」

私はしどろもどろになりながら、あ、はい。まあ。とやっとのことで絞り出しました。すると彼女は此方に近付いて、まじまじと私の顔を覗き込むのです。その仕草が依然艶やかで、それでいてどこか幼い雰囲気を含んでいるので、尚更たち悪く私は目を右往左往させてあからさまに戸惑う事しかできないのでした。

私は元来から、恋愛や結婚というものに対してかなり進んだ考えを持っていました。ので、例えば堅苦しい見合いだとか、機械的な顔合わせを通して恋というものを経験するのは、どうしても気が乗らなかったのです。幸い私は商人の次男で、殊更結婚などを急かされることはなかったのですが。それでも、時折ふと、私の人生にも色恋の一つや二つ、あっても良いのではないだろうかと、年を重ねるにつれてその考えは深まるばかりでした。その時偶然、彼女が私の前に現れたから、本当は誰でも良かったのではと。未だに私は、彼女の顔を思い出すたび、そんな言い訳を腹の中でぐるぐると繰り返しているのです。

私が彼女を気に入った理由は、まず彼女の名前に、強く惹かれたからだと思います。彼女は、梨に花と描いて、「梨花」というのでした。あまり見た事のないその名前を、私は初めて会った時からよく覚えていて、半ばそれを口にする口実が欲しいために彼女の茶屋に通っていたといっても、きっと大袈裟ではないのです。

「よお、梨花さん。すまないね、遅くなってしまって。約束の時間は七時だったというのに」

「別に構わないわ。私、この二時間ずっと花火を見ていたから暇してなかったの」

「花火?なんだい、花火大会でもやっているのかね」

「ええそうよ。ほら、修治さんも見た方がいいわ」

彼女に促されるまま私は彼女の隣に座って、一緒に空を見上げました。確かに、遠くで赤色の花火が美しく弧を描いていました。ぴゅーっと風を切る音がして、直後白い光を赤にぼんやり縁取った線が、花を模って咲き誇ります、しかし数秒後にはぱらぱらと崩れていくのを、彼女はいつまでも惜しそうに、少しばかり悔しそうに眺めているのでした。彼女は自分から私に語りかけることは基本なく、私が何か質問をして、それに彼女が素っ気なく答える。それが私たちの中の通例でした。そしてこの日も、先に口を開いたのは私の方なのです。

「どうだい梨花さん、綺麗かい」

「ええ、綺麗だわ」

その返答は本当に素っ気ないものの、それがかえって彼女の美しさを引き立てているのでした。私は彼女が襖を開けた時ふいと翻る袖口の布であったりとか、茶を淹れる時の指先の弧を描いた動かし方であったりとか、私に何か聞かれて少しばかり思考する時の首の傾げ具合などを、いやと言うほどしつこく見つめたものです。するとある日、彼女はいきなり私の顔をじぃっと眺め始め、十数秒ほど経ったところで私が「なんだい、そんなに見つめられたら私でも照れるじゃないか」と軽く躱そうとすると、

「そうでしょう?私だってあんなにじろじろ見られちゃ照れるわよ」

これは一本取られた、と思いました。彼女は冗談を言うことにはあまり興味がないのか見かけ長けていなかったのですけど、他人の隙を突くことには人一倍の鋭さと賢さを持っていたのでした。日々客と接する中で磨かれた観察眼なのだと私は納得したのです。私は週に大抵三回、残業が続く場合は一回、長休みが取れれば駄々っ広い家に一人でいるのも居た堪れず、週に五回は彼女のもとに通っていました。今更ですが私は彼女の噂を聞いた当初、茶屋と建前をつけて遊女もどきのことをやっている売春婦という印象を抱いたのです。実際は全くもってそんなことはなく、寧ろ客との対話を丁重に行い、向き合うことを義務付けられているかのように、丁寧に時間は過ぎていくのでした。彼女は如何なる時でも私と一定の距離を保って、髪の毛一本すら触らせようとはしなかったのです。私も変に彼女に言い寄ったりはしませんでした。何だか、私と彼女の関係をそんな事で縛り付けたくは無かったのです。ここで誤解を招かぬ様に、私は今の今まで彼女とそういった行為に及んだ事は一度たりともない事を先に断っておきます。彼女も私もそんなものは望んでいないのでした。それ以前に、今でも私はただ女という垣根を越えて、彼女に惚れているのです。そのつもりでいなければ、私が壊れてしまいそうな気がしてならないのです。

ここで、再度クレオパトラと云う女について言及させていただきます。そういえば冒頭でその一節を紹介しました世界史の教授は、あの説明の後にこう付け加えたのです。

「…しかしながら。その男を手駒に、という点においてクレオパトラに悪の印象を抱くのは間違っているのです。彼女はエジプト王朝の為に自分という存在さえ駒としました。彼女が最期、コブラに自身を噛ませたという話は有名ですが、誰かこの背景を知る者は居りますか。…居ない様ですね。では説明致します。クレオパトラはオクタウィアヌスに捕らえられた際、自分はローマに連れて行かれ見せしめにされるという話を聞いたそうです。彼女は思ったのでしょう。一生鳥籠の中で羞恥を晒すくらいなら、エジプト王朝最後の女王、ファラオとしての威厳を保ったまま死んでやると。良いですか。クレオパトラを、絶世の美女や悪女という、女という立場で一括りにしてはならぬのです。彼女が女である前に王であり、戦士であり、人であった。それらの数々の立場を威厳のもとに守り抜いたということを、決して忘れてはいけませんよ」

…私は随分長い事、その言葉を忘れていたのですが、彼女に出会ったことで、再度思い出したのです。当時の私には教授の発言の意味が分かりませんでした。威厳といえど、たかが女ではないか。そして、男を騙したという事実も変わらないではないか。私には理解できませんでした。思い出した当初もそうだったのです。

しかしこれが、私の最大の失態になるなど、思いもしておりませんでした。

一度。たった一度だけ、彼女が私に心を開いてくれたのではないかと思われる瞬間がありました。彼女の元に通い始めて、半年が経過した、九月の中旬でした。よく覚えています、その時の情景が今でも脳裏に焼き付いて離れないのですから。情景、と私はここに書き記しましたけれども、どうしてそう書いたのか。その日はやっと残暑が止み、心なしか少しばかり地面も涼しくなって、少し前までかんかんに熱って蜃気楼を作っていた遠くの景色も随分落ち着いて見えたのです。それが何だか私には彼女への想いにようやく終着点を見つけ安堵している自分のように思えて、その景色になんだか情が移ってしまったのでした。

いつも通り午後七時でありました。私が茶屋の暖簾を潜ると、案の定彼女は示し合わせたかの様に、畳の上で茶を淹れていました。

「あら修治さん。今日は時間通りなのね」

「ああそうだよ。仕事が早く終わったからね」

彼女はその日、いつになく上機嫌でした。特に私に自分から話しかけてきて、当時の私は顔にさえ出さなかったものの内心ひどく会話の調子を乱され困惑したものです。しかし彼女の知らぬ一面を見た様な気がして、私の胸の内は何となく弾んでいました。

「そういえば梨花さん、君はどうしてこの茶屋を営む様になったんだい?」

私がそう問いかけると。彼女は真顔になって、幾らか目を閉じて開いてを繰り返し、口元に手をやり少しばかり考えるようにその手に顎を沈めて、ふと顔を上げました。聞くところによると、彼女の両親は元々裕福な商人だったそうです。しかし経営が破綻し、最終的に両親が残したこの茶屋を、今でも経営しているのだと。かなり簡略的に書きましたが、実際細かいところの出来事を彼女は話したがらなかったのです。

私はそれを聞いて、その時やっと繋がったのです。クレオパトラを頭の片隅でどこかぼんやり彼女に重ねていただけだったのが、やっと線を結びました。そして、私は自分を恥じました。筆舌尽くしがたいどろどろとした後悔だけが私の耳元に語りかけてくるのです。お前は彼女の心に土足で踏み込み、挙句自業自得に全てを失ったのだと。頭を抱えかけ、ここは彼女の目の前だと何とか思いとどまりましたが。私は口を金魚のように開閉させていたと思います。滑稽だと笑うくらいしてくれても良かったのに、彼女は私の異変に気付いたのか「修治さん。何かあったの?」と、面白いくらい冷静に聞いてきました。「いや、何でもないよ」と私が決死に返すと彼女はそうと言ってまたいつもの澄まし顔に戻ってしまい、その時私は、目の前で獲物を取り逃した狩人のような、やや野生的な悔しさを感じたのです。その起因が何であれ、彼女はまた私に心を閉ざしてしまったのだと、その現実だけを突きつけられるばかりでした。

今でもあの時、どうすれば良かったのか私には分かりません。分かろうとしたところで無駄であるのが目に見えていますから何もしません。私はその日いつもより三十分程早く茶屋を出ました。逃げたかったのだと思います。頭の中ではもう終わりだ、私に向いた一切の信用を失くしてしまったのだと、ひたむきに下を向くほかないのでした。彼女はいつも通り玄関まで私を送ってくれ、いつも通り「では、また」と言うのみでした。それが異様にも怖く感じてしまったのです。彼女の瞳に一切の悪気は見えないはずなのに。彼女へのやり場のない罪深さと後悔と羞恥と反省と、それでも期待はたくさんあって、まだ取り返せるのではないのかと、愚かに願うだけなのでした。私は早足になっていました。大股で膝の関節が痛くなるほどぴんと伸ばして、背筋は丸まっていましたからなんとも情けのない光景に思えた事でしょう。夜の街をただひた歩き、けれどもう後ろを見ることも、引き返すことも出来ないのでした。人としての彼女を知ろうとなんて思わなければ良かった。身勝手に、そう口にしたのです。彼女という女に酔いしれたまま、何も知らないままあの茶屋に居れば良かったものを。馬鹿な男だ。救いがねぇ。

私は空に向かって、そんな汚いことを口走ってやったのです。

ここまで読んで下さり、心より感謝を申し上げます。

正直このような形で私の醜態を紙に晒してみますと、何とまあ、私は愚かな事でしょうか。あの日から現在に至るまで、私は茶屋に足を運んでいません。その周辺を避けて通るよう歩き、極力彼女に会わぬのは当然、茶屋を視界にも入れぬよう務めました。彼女がどうしているのかという事に関しては、やはりそれで仕事が手につかなくなるほど気になってしまうのですが、仕方がありません。気に掛からなくなるまで、しばし待とうと思います。

冒頭で私は、クレオパトラの手に落ちたカエサルを、腹の底で嘲笑したと書きました。しかし、本当に嘲笑されるべきは今の私に他ならないのです。女としての彼女だけに堕ちるだけならまだましでありました。彼女という茶屋の娘に堕ち、彼女という人間に堕ち、梨花に堕ちたのです。しかもそれは泥沼で、私は右も左も行けないのです。たとえ彼女に会う勇気が私にあっても、会ったところでどうするのだという話ですから。誰か私を腹が捩れる程嘲笑ってはくれないだろうか。

人の威厳など、あってないようなものなのです、私は。

読んで下さりありがとうございました。

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