EP52・『勇者ハーヴィーの帰還』(第一部・完)
時は流れた――。
忍びの郷。 外界から隔絶されたこの隠れ里にて、俺はようやく本格的な治療を開始していた。
安易な回復魔法には頼らない。 この里に伝わる『命脈の法』と呼ばれる、東洋の医術を用いた治療だ。
裂けた肉を丁寧に縫合し、里でしか採れない秘薬を傷口に塗り込む。 そして、特殊な薬草を煮出した薬湯に浸かり、身体の内側から生命力を活性化させていく。
硝煙と血の匂いではなく、薬草の独特な香りに包まれる日々。 それが、張り詰めていた俺の神経を少しずつ解きほぐしていった。
◇
ある程度傷が癒えてきた頃、俺はようやく治療室という名の牢獄から解放された。
夜空には満月。 湯気が立ち込める岩造りの露天風呂に、深く身を沈める。
「あぁ……マジで生き返るな」
夜風が火照った頬を撫でる。 静寂の中、湯が揺れる音だけが響く。
片手で湯をすくい、まだ赤みが残る右腕の付け根にかける。
「っ……い痛、痛」 「まだ少し沁みるか……」
だが、この痛みさえも生還の証だ。
「あぁ、酒でも持ってくるんだったなぁ。良い月見酒になったろうに」
そんな独り言をぼやいていた、その時だった。
「兄様、入りますわよ!」
「……は?」 「いや待て待て、まだ俺が入ってるだろ!?」
脱衣所の扉が勢いよく開く。 振り返った俺の目に飛び込んできたのは、大きなタオル一枚を巻いただけのアーシェの姿だった。
(おいおい、嘘だろアーシェ?)
湯気越しに見える白い肌に、俺は慌てて壁側へ顔を背ける。 アーシェも今さら羞恥心が湧いてきたのか、頬を染めて俺に背を向けた。
チャプン……と湯が揺れる。 お互いに背中を預ける形となり、背中越しに妹の体温が伝わってくる。
しばらくの間、気まずい沈黙が流れた。 やがて、アーシェがぽつりと呟く。
「……ボロボロになっちゃったけど。本当に生きて帰って来てくれて、ありがとう、兄様」
震える声。 その言葉を聞いた瞬間、俺の胸に熱いものが込み上げた。
悪魔に魂を売り、世界を敵に回した。 それでも――。
「あぁ……ただいま、アーシェ」
帰れる場所がある。 そんな当たり前のことが、これほど幸せだなんて、今まで感じたことはなかった。
「……今までありがとう。アーシェ」 「ううん、私は全然だよ」
背中越しに、彼女が首を振る気配がする。
「いつも、兄様がヒーローになって助けてくれるから」
「ははっ、ヒーローか?」
大量殺戮を行った反逆者(俺)が、ヒーロー。 世間が聞けば卒倒するだろうが、この小さな妹にとってそう在れるなら、悪くない。 俺は照れ隠しに、濡れた髪を乱暴に掻き回した。
「……」
再び、穏やかな沈黙が流れる。 このまま少し、月を眺めてから上がろうか――そう思った時だった。
「にゃっほーーーいッ!!」
頭上の夜空から、黒い影が落下してきた。
ドボォォォォンッ!!
「うわっぷ!? な、何だ!?」 「ずるいにゃー! アーシェ姉ばっかずるいにゃー!」
盛大な水飛沫を上げて顔を出したのは、猫耳を揺らすフィンロッドだ。
「わっちも、わっちも一緒に兄たまとお風呂に入るにゃぁー!」
バシャバシャと湯面を叩いて泳ぎ回る。
「こらっフィンロッド、お風呂で泳ぐんじゃ無い! お尻ぺんぺんだぞ!」 「にゃははははっ、捕まえてみなよー!」
静寂は一瞬で崩壊した。 さらに、騒ぎを聞きつけたのか、脱衣所から新たな影が現れる。
「あらぁ~、何やお楽しみやないのぉ~」
たわわな果実を揺らしながら、キアがタオル一枚で入ってきた。 その豊満な肢体が、湯気の中で妖艶に揺れる。
(マジかぁ……)
「し、失礼します……」
続いて、レネも顔を真っ赤にして、視線を泳がせながら入ってくる。 狭い露天風呂は、一瞬にして女湯と化した。
「むぅ……!」
その光景に嫉妬したのか、アーシェが頬を膨らませて俺の腕を引く。
「兄様はこっちですわ!」
「お、おいアーシェ、くっつくなって!」 「いいえ、離しません!」
アーシェが自分の胸の方へ、俺の顔を強引に向ける。 柔らかい感触が腕に当たる――その時だ。
「にゃ! 隙ありー!」
泳いでいたフィンロッドが、悪戯な笑みを浮かべてアーシェの背後に回り込み――そのタオルを勢いよく引っ張った。
「あっ――」
視界が、白一色に染まる。
(……世界を敵に回したが、俺の手の中にはこれだけの『温もり』が残った。なら、悪くない取引だ――)
そんなハードボイルドな独白が脳裏をよぎった直後。 俺の鼻から、熱い鮮血が噴き出した。
ブゥーーーーーッ!!
「に、兄様ーーッ!?」 「あかん、大将がのぼせたでー!」 「ち、治療室へ戻さないと!」
視界が暗転していく中、俺は幸せな喧騒を聞きながら、再び治療室のベッドへと運ばれていくのだった。
◇
翌朝。
昨夜の喧騒が嘘のように、忍びの郷は穏やかな静寂に包まれていた。 木々の隙間から木漏れ日が降り注ぎ、空気は澄み渡っている。
俺はアーシェと二人、並んで見事な枝ぶりの一本桜を見上げていた。 季節外れの魔力によるものではなく、自然の摂理として咲き誇る薄紅色の花弁。
「きれいな花ね……」
アーシェがぽつりと呟く。
「あぁ……」
なんだろうか。 ただ花を見ているだけなのに、この華やかさの中に、不思議なほどの安らぎを感じる。 血なまぐさい戦場とは対極にある、ありふれた春の光景。それが今は、何よりも尊く思えた。
俺とアーシェが桜に見惚れていると、背後から賑やかな気配が近づいてくる。
レネ、フィンロッド、そしてキア。 さらに、車椅子に乗ったエリオットを、朔夜がゆっくりと押しながらやってくる。 その傍らには、銀色の毛並みを輝かせたフェンリルも寄り添っていた。
皆が桜の木の下に集い、自然と宴――花見の席が設けられる。
「今年もなんとか、こうしてお花見ができましたなぁ、朔夜はん」
キアが桜を見上げ、感慨深げに呟く。 その横顔は、いつもの妖艶さの中に、どこか憑き物が落ちたような晴れやかさがあった。
「ええ。ですがキア様、今年の桜はいつもよりも格段に美しく咲き誇っている様に感じます」
朔夜が穏やかに答える。
「なぜでしょうか? やはり、堂々と胸を張って、真正面から桜を見上げられている自分がいるような気がするのです」
「せやなぁ……。いっつも監視官のおっさんらへの接待行事みたいになってたさかいに」
キアはふふっ、と優雅に笑みをこぼし、里の民たちへ視線を向けた。
「見てみよし。古老はんらも、下々の者まで……みんな心から喜んで花見を楽しんではるわ」
そこには、誰に遠慮することなく笑い合う人々の姿があった。 キアは視線を俺に戻すと、とくとくと徳利を傾け、盃を差し出してくる。
「ハーヴィーはん……勇者はんには、感謝してもしきれまへんわ」 「ほれ、おあがりやす。今日は祝い酒やさかい」
「……あぁ、いただくよ」
俺は盃を受け取り、くいっと豪快に飲み干す。 喉を焼く酒精が、心地よく胃に落ちていく。
「プハァーッ! うまい!」
「ええ飲みっぷりじゃねか! 若いの!」
それを見たエリオットが上機嫌で声を上げ、「ほれ、もう一杯!」と自らの酒瓶を突き出してくる。 どうやらエリオットもすっかりほろ酔い気分のようだ。
見渡せば、アーシェもレネも、この賑やかな雰囲気に流されて少し顔を赤らめ、楽しそうに果実酒を舐めている。 フィンロッドに至っては、郷の子供たちに囲まれ、「お姉ちゃん」ぶって得意げに世話を焼いていた。
平和だ。 俺はしっとりと酒を含みながら、この幸せを噛み締めていた。
その俺の隣に、静かにフェンリルが歩み寄ってくる。
「……悪くない冒険だったな」
相棒の短い言葉に、俺は苦笑交じりに頷く。
「あぁ。痛い思いもしたが……かけがえの無い、大事なものも得られた」
「フッ、そうか」
フェンリルと共に過去の旅路に想いを馳せていると、不意に皆が何やらごそごそと相談し、俺の方へ集まってくる気配がした。
「ん? 何だ?」
俺が振り向くと同時。 アーシェとレネが、満開の桜の小枝で作った見事な花束を、俺の胸に押し付けた。
そして、全員が声を合わせて叫ぶ。
「「「せーのっ、お帰りなさい、ハーヴィー!!」」」
「……?」
一瞬、俺は呆気にとられた。 だが、彼らの曇りのない笑顔を見て、言葉の意味がじんわりと胸に染み渡っていく。
帰る場所。待っていてくれる仲間。 それを、俺は確かに勝ち取ったのだ。
俺は花束を抱え直し、少し照れくさそうに笑って答える。
「……あぁ、皆。ただいま」 「これからも、よろしくな」
歓声が上がり、再び宴が始まる。 俺たちはその後、誰もが酔いつぶれて眠ってしまうまで、語り合い、酒を交わし合う。
頭上には満開の桜。 降り注ぐ昼の陽射しは、いつもよりもやけに眩しく、俺たちの新しい門出を祝福しているようだった。
(第一部・逃亡編 完)




