EP51・『断罪の雨』
視界を焼き尽くす、白亜の閃光。 肌を炭化させるほどの熱波。
逃れ得ぬ「死」の塊である疑似太陽が、ハーヴィーの頭上数メートルまで迫っていた。
誰もが目を覆う。 あるいは神に祈り、訪れる終焉を待った。
だが。
ドス黒い爆風が、大闘技場の中央から噴き上がる。
「――消え去れ」
地獄の底から響くような声。 同時に、ハーヴィーの背中から膨大な闇が溢れ出す。
それは瞬く間に物質化し、天を覆い隠すほどの**『漆黒の六枚羽』**となって展開された。
彼が左手を天にかざす。 ただそれだけの動作で、空間に巨大な「亀裂」が走る。
大気が、悲鳴を上げるように軋んだ。 不気味な吸引音が響き渡る。
都市一つを消し飛ばすはずの白亜の太陽が、ハーヴィーの掌にある「次元の歪み」へと吸い込まれていく。 まるで飴細工のように捻じ曲げられながら。
そして、瞬きする間に――消失した。
「……は?」
魔弓師ベルゼが、間の抜けた声を漏らす。 自らの命すら削って放った最強の切り札が、何事もなかったかのように消された。 その事実が理解できない。
「た、助かっ……た?」
祈禱師ロアンが、へたり込みながら安堵の息を吐く。
彼らはまだ気づいていない。 自分たちが、太陽よりも遥かに恐ろしい「禁忌」を目覚めさせてしまったことに。
戦場は、針が落ちる音さえ聞こえそうなほどの静寂に包まれた。
逃げ惑っていた群衆も。 戦っていた兵士たちも。 全員がその異様な光景に釘付けになる。
上半身の衣服が弾け飛び、鍛え抜かれた肉体を晒す男。 その背には、神への反逆の証である六枚の黒き翼。
そして、胸の中央――心臓の上には。
見えない爪でえぐられたような、生々しい**『逆六芒星』**の刻印。
傷口からはドス黒い魔力が脈打ち、鮮血がダラダラと腹筋の溝を伝って滴り落ちている。
それはまさしく、神話に語られる堕天使ルシファーの顕現だった。
「な……なんだ? その姿は……」
宰相ダルクニクスだけが、その本質的な恐怖に気づき、戦慄いた。 いつも冷静沈着な彼が、脂汗を流し、後ずさりをする。
「人の身で……いや、それは最早……一体何なのだぁーーッ!?」
混乱と恐怖が伝播し、阿鼻叫喚となりかけた戦場。 そこに、悲痛な叫びが響いた。
「ハーヴィー!!」
アーシェだ。 彼女だけは、その姿の禍々しさよりも、兄が負った代償の重さを直感していた。 駆け寄ろうと、足を踏み出す。
だが、ハーヴィーは振り返らない。 血の涙を流す心を隠すように、左手で優しく、虚空を撫でる。
フワリ、と。 強制的な睡魔がアーシェを包み込む。
「ぁ……」
彼女は糸が切れたようにその場に崩れ落ち、安らかな寝息を立て始めた。 愛する妹を、これからの惨劇(殺戮)から遠ざけるために。
そして、ハーヴィーはゆっくりと視線を巡らせる。 その瞳は、深淵のような闇と、燃えるような殺意が混ざり合った異色を放つ。
「ひッ……!?」
射抜かれたベルゼが、カエルのように縮み上がる。 ハーヴィーは無造作に左手を突き出し、死刑宣告の指を弾く。
「あばよ、ベルゼ……」
空間に、先ほどとは逆の「出口」が開く。
「――『虚空の還し火』」
漆黒の六枚羽が、風を裂いて大きく羽ばたいた。
刹那。 次元の扉から吐き出されたのは、先ほど飲み込んだ熱エネルギーそのもの。
だが、それは綺麗な光線などではない。 圧縮され、汚濁し、破壊の意思のみを宿した**『破滅の濁流』**だった。
「う、うわあああああああああああッ!!?」
ベルゼの絶叫が響く。 回避など不可能。視界を埋め尽くす炎の津波が、放った本人へと襲いかかる。
「ま、待っ、私の回復が――ぎゃあああッ!?」
近くで安堵していたロアンもまた、逃げる間もなく巻き込まれた。 回復魔法を展開する暇すらない。
二人の秩序の天秤は、自らが生み出した太陽の熱量と、ルシファーの呪われた魔力に揉みくちゃにされ――。
断末魔すら、瞬時に蒸発した。
後に残ったのは、地面を大きくえぐり取った焦げ跡と、風に舞う二つの灰の山だけ。
ベルゼとロアンが消滅した余韻も冷めやらぬ中、俺は冷徹な瞳で周囲を見渡す。 逃げ惑う兵士、混乱する群衆。 その全てが鬱陶しい。
俺はルシファーの力を行使し、王としての勅命を下す。
「――ひれ伏せ」
言葉に魔力が乗る。 それは拒絶を許さぬ絶対の強制力。
「あ、が……ッ!?」 「ひ、膝が、勝手に……!」
数千、数万の群衆と兵士たちが、一斉にその場に崩れ落ちる。 額を地面に擦り付ける。 誰一人として、顔を上げることすら許されない。
静止した世界で、俺は宣告する。
「『超・精密射撃殲滅魔法』発動――」
空が、重苦しい鉛色に染まっていく。 雲ではない。 それは空を埋め尽くすほどの、魔力で生成された弾丸の群れだ。
「――『リード・デビルズレイン(悪魔が降らせる鉛の雨)』」
指を鳴らす。 瞬間、鼓膜を叩く連射音と共に、死の豪雨が降り注ぐ。
それは、神業と呼ぶにふさわしい蹂躙だった。
無差別の破壊ではない。 一般市民や味方にはカスリ傷一つ負わせず、**「王国軍の兵士のみ」**を正確に射貫いていく。
「ぎゃああああッ!?」 「なんで、俺たちだけ……!?」
逃げることも、防ぐこともできない。 次々に兵士たちが肉塊へと変わり、死屍累々の山が築き上げられていく。
◇
「ひ、ヒィ……ッ!」
その地獄絵図を目の当たりにし、宰相ダルクニクスは震えていた。 歯の根が合わない。全身の毛が逆立つ。
(あり得ん……こんなデタラメな力が、人の身にあるはずがない……!)
かつて対峙した『魔王』ですら、ここまでの絶望感はなかった。 これは生物としての格が違う。 本能が警鐘を鳴らしている。逃げろ、と。
「や、やめろぉーッ!」 「クソが!! 何故だぁーッ!!」
ダルクニクスは無様に転げ回りながら、近くに落ちていた兵士のライフル銃を拾い上げた。 魔法など通じない。ならば物理で。 錯乱した彼は、ハーヴィーに向けて引き金を引く。
乾いた破裂音が響く。
放たれた銃弾は、正確にハーヴィーの心臓を捉えていた――はずだった。
だが、弾丸はハーヴィーに届く直前、空間に生じた「歪み」に吸い込まれて消失する。 時空間の完全制圧。 今の彼に、飛び道具など無意味。
「畜生ぉぉ――ぎゃっ!?」
次の瞬間。 ダルクニクスの悲鳴が響いた。
消えたはずの弾丸が、あろうことか真横の空間から飛び出し、ダルクニクス自身の膝を撃ち抜いたのだ。
「ぎゃあぁぁぁーッ!! わ、私の足がぁぁッ!!」
因果応報。 地面に這いつくばる宰相を、ハーヴィーは心底つまらなさそうに見下ろす。
「……もういい」
ハーヴィーが左手をダルクニクスに向けて振りかざす。 その瞳には、慈悲など欠片もない。
「消えろ。目障りだ」
気がつけば、ダルクニクスの周囲の空間に、無数の鉛玉が浮遊していた。 先ほどの雨ではない。 より高密度に圧縮された、処刑用の鉄塊。
「――『フェイタル・アイアン・スコール(致死量の鉄の嵐)』」
「や、やめろぉーーッ!!」
ダルクニクスの絶叫。 ハーヴィーが手を握り込むと同時、展開していた全ての鉛玉が一斉に殺到した。
凄まじい着弾音が重なり、一つの轟音となって吹き荒れる。
ダルクニクスが展開した多重防御魔法など、薄紙のように食い破られる。 全方向からの集中砲火。
一瞬の静寂の後。
そこには、全身から血を噴き出し、蜂の巣のように無数の穴が開いたまま仁王立ちするダルクニクスの姿があった。 もはやボロ雑巾だ。 致死量はとうに超えている。
「あ……が……」
だが、執念か、それとも狂気か。 ダルクニクスの虚ろな瞳が、一点を捉えた。 眠るように倒れているアーシェだ。
(道連れに……あの女だけでも……!)
「死……ね……ッ!」
最後の力を絞り出し、彼は手元に出現させた魔槍をアーシェへ向けて放つ。 ハーヴィーが動くよりも早く、小さな影が割って入った。
硬質な金属同士が激突し、甲高い衝撃音が火花と共に散る。
「させませんッ!!」
聖女レネだ。 彼女の掲げる『イージスの盾』が、妄執の一撃を完璧に弾き返す。 レネは振り返らず、叫んだ。
「ハーヴィーさん、トドメを!」
「……あぁ」
妹を守ってくれた仲間に、安堵と感謝を。 そして敵には、最大の引導を。
俺は虚空から、新たな相棒を召喚する。 ルシファーの魔力を帯びて変貌した、漆黒の大型リボルバー。
『ルシファーズ・ハンマー』。
撃鉄を起こす。 冷たい金属音が鳴り、シリンダー内の鉛玉が、消滅の魔弾へと変換される。
照準は、仁王立ちする死に損ないの胸元。
「――『超・重加螺旋弾』」 「スピン・ニードル・キリングショット」
引き金を引く。 紫電の閃光が、世界を焼き焦がすほどに輝いた。
辛うじて立っていたダルクニクスの耳に、遠雷のような轟音が届く。 だが、彼がそれを認識した時には、もう遅い。
大気を叩き割るような爆音。
巨大なエネルギーの螺旋が、ダルクニクスの胸元を精確に穿っていた。 防御も、肉体も、魂さえもねじ切る一撃。
「カ、ハッ……」
ダルクニクスの胸に、向こう側が見えるほどの巨大な空洞が開く。 彼は一度だけ空を仰ぎ――。
そのまま糸が切れたように崩れ落ち、絶命した。
ダルクニクスの身体が崩れ落ち、動かなくなったのを見届ける。 その瞬間、張り詰めていた意識の糸が、プツリと音を立てて切れた。
(あぁ……終わっ、た……)
ルシファーの強大な魔力を行使した反動か、あるいは肉体の限界か。 世界が急速に暗転していく。 俺の身体は重力に引かれるまま、糸の切れた人形のようにその場へ崩れ落ちる。
◇
静まり返る戦場の一角で、鉄塊が崩れる音が響く。
ハーヴィーが放った『悪魔の雨』。 その直撃を、無数の鎖を編み込んだドーム状の「鎖帷子の檻」で防ぎきった男がいた。 死神卿ゼクスだ。
「……ハァ、ハァ……化け物め……」
檻を解除したゼクスが、荒い息を吐きながら姿を現す。 だが、その鉄壁の鎖はボロボロに砕け、彼自身も全身から血を流していた。 致死の雨を耐え抜いたとはいえ、ダメージと疲労の色は濃い。
ハーヴィーが倒れたことで、戦場を支配していた圧力が消え、凍りついていた時間が再び動き出す。 それにいち早く反応したのは、歴戦の勇士だった。
「――朔夜! ハーヴィーを連れて撤退しろォーッ!!」
スナイデルの怒号が響く。 彼は瞬時に戦況を見極めていた。 敵幹部は壊滅。目的であるハーヴィーの救出も達成。 これ以上の長居は、勇者を危険に晒すだけだ。
「ここらが潮時だ。殿はこの俺たちの部隊で務める!」 「急げ! 全軍、退けぇーッ!!」
「承知ッ!」
朔夜が疾風のごとく駆け出し、倒れたハーヴィーを担ぎ上げる。 それを阻止しようとゼクスが一歩踏み出すが、膝が笑って力が入らない。
「チッ……」
ゼクスの目の前に、戦斧槍を構えたスナイデルが立ちはだかる。
「行かせねぇよ。死神さん」 「……邪魔だ、エルフ」
数秒の睨み合い。 互いに満身創痍。 だが、眼光だけは鋭く交錯する。
ゼクスは今の自分の状態と、撤退していく敵の勢いを天秤にかけ――不快げに舌打ちをした。
「興が削がれた。……首を洗って待っていろ」
ゼクスは黒い霧を纏うと、蜃気楼のようにその場から姿を消した。 これ以上の消耗を避けた、合理的な撤退だった。
「逃げ足の速い野郎だ……。よし、野郎ども! 少し暴れてからズラかるぞ!」
スナイデルは残された王国軍の残党を軽く蹴散らし、時間を稼いだ後、悠々と戦場を後にする。
◇
大闘技場から離れた街道。 車輪の音を軋ませ、一台の馬車が進んでいく。
戦いの喧騒は、もう遠い。 窓から差し込む夕日が、車内を優しく照らしていた。
「……無事で、本当によかった」
レネが、安堵の涙を拭う。 同乗しているキア、フィンロッド、フェンリル、そして御者台から顔を覗かせた朔夜。 全員が満身創痍ではあったが、その表情は晴れやかだった。
そして、彼らの視線の先には。
ボロボロになった服のまま、泥のように眠るハーヴィー。 その隣で、安らかな寝息を立てているアーシェ。 二人が並んで横たわっていた。
「……ふふ」
キアが口元を緩め、皆に目配せをする。
「見てみぃ。あないに強がってたくせに」
視線の先。 意識のないハーヴィーの左手が、アーシェの右手と、固く、強く握りしめられていた。
まるで、二度と離さないと誓うかのように。
悪魔に愛を捧げ、孤独を選んだ男。 けれど、無意識下の魂は、まだその温もりを求めていた。
皆は何も言わず、ただ優しくその光景を見守る。 今はただ、傷ついた勇者と姫君に、束の間の安息を。
馬車は夕日を背に、新たな運命へと走り去っていった。




