EP46・『エリオットの命懸けの懇願』
鼻をつく薬草の匂い。 そして、腐った沼のような重苦しい沈黙。
エリオットが意識を取り戻したとき、最初に感じたのは「喪失」だった。 膝から下が、軽い。 あまりにも軽すぎる。
「……あ、……」
視線を落とす。 粗末な寝台の上、そこにあるはずの両脚は存在しなかった。 分厚く巻かれた包帯の先は、無惨に断ち切られ、赤黒い血が滲んでいた。
――ああ、そうか。 俺は、負けたのか。
「気がついたか、若造」
声をかけたのは、顔に無数の皺を刻んだ里の古老だった。 その横では、身体中の骨を繋ぎ直されたフィンロッドが、泥のように眠っている。
だが、部屋の隅で膝を抱えるアーシェとレネの瞳には、生気がない。 まるで、世界の終わりを見たあとのように虚ろだ。
「……ハーヴィーは」
エリオットの掠れた問いに、アーシェがビクリと肩を震わせる。 彼女は顔を上げない。 ただ、ポタポタと床に涙を落とし続けている。
「連れて行かれたわ」
答えたのは、部屋の入り口に佇む美女――『龍霜の魔女』キアだった。 彼女は長いキセルを揺らし、冷淡に事実だけを告げた。
「あの男は囮になった。お前たちを逃がすために、右腕と……その自由を代償にしてな」
右腕。 あいつの誇りである、魔銃を握る腕を。
エリオットの奥歯が、ギリリと音を立てて噛み締められた。 悔恨が内臓を焼き尽くす。 だが、その炎は絶望のためのものではない。
「…………ッ、立て」
エリオットは叫んだ。 寝台から身を乗り出し、激痛に顔を歪めながらも、死んだ目をしている仲間たちを睨みつける。
「泣いてる暇なんてないぞ!! ここで立ち止まってどうする!!」
「でも……! ハーヴィーはもう……!」
アーシェが悲鳴のように声を上げる。 だが、エリオットはそれを遮った。
「生きてる! あいつはまだ生きてる! 俺たちに『準備しろ』と言って、時間を稼いでくれてるんだぞ! それを無駄にして、メソメソ泣いて終わるつもりか!?」
エリオットの声が、薬草の匂いが充満する部屋を震わせる。
「奪い返すんだ! ハーヴィーは……あいつは、俺たちにとって唯一無二の勇者だろうがッ!!」
勇者。 その言葉が、凍りついた空気に亀裂を入れた。
「フェンリル!!」
エリオットは、窓辺でうずくまっていた巨狼を呼ぶ。
「お前は走れ! 南の解放軍の元へ! スナイデルに伝えろ、『借りを返す時が来た』とな! そのままウォーデンの共和国軍にも援軍を要請しろ! 使えるコネは全部使え!!」
フェンリルの金色の瞳に、理性の光が戻る。 巨狼は短く、力強く唸った。 友の意思を継ぐのは、自分しかいないと理解したのだ。 一陣の風となり、フェンリルは窓から闇夜へと消えていく。
「レネ! 君は伝書鳩だ!」
「は、はいッ!」
「俺の組織を総動員させろ。奴らがどこへ消えたのか、大陸中の情報を洗わせるんだ! まだ場所がわからねえ以上、手がかりが要る。どんな些細な情報でもいい、あの『怪物』どもの足取りを掴め!」
レネが涙を拭い、強く頷いて駆け出していく。 止まっていた歯車が、軋みを上げて回り始めた。
だが、足りない。 これだけでは、あの異次元の強さを持つ集団には勝てない。 最強の「ジョーカー」が必要だ。
エリオットは、半身を起こそうとして――バランスを崩し、無様に床へと転がり落ちた。
「ぐ、ぅッ……!」
切断面が床に打ち付けられ、焼けるような激痛が脳天を突き抜ける。 包帯から鮮血が滲み出し、床板を汚していく。
「馬鹿者! 死ぬ気か!」
医師が慌てて駆け寄ろうとするが、エリオットはそれを手で制した。 脂汗を流しながら、這う。 腕の力だけで、泥臭く、無様に、前へと進む。
「……合わせろ。忍王、朔夜に」
「お主、その体で……」
「足なんざくれてやる……! だが、あいつの命だけは……俺たちの勇者だけは、見捨てるわけにはいかねえんだよ……!」
ズリ、ズリ、と。 血の跡を引きずりながら進む男の姿に、古老が息を呑む。 やがて、古老は何も言わずにしゃがみ込んだ。
「……乗りな。若いの」
「爺さん……」
「以前、お主らに孫の命を救ってもらった借りが残っておるでの。死に損ないの背中でよければ、貸してやる」
広間では、忍王・朔夜が腕を組み、冷ややかな瞳で外の雪景色を見つめていた。 その背後で、扉が開く。
古老に背負われたエリオットは、朔夜の前に降ろされると、血に濡れた包帯のまま、深々と頭を垂れた。 床に額を擦り付ける。 プライドも、参謀としての矜持も、すべてをかなぐり捨てた土下座だ。
「頼む……! 力を貸してくれ、朔夜ッ!」
「……我ら忍びの義理は果たした」
朔夜の声は、淡々としていた。
「貴様らをあの場から救い出したのは、かつての恩に報いるため。それだけの話だ。これ以上の関与は、里の掟が許さぬ」
「掟だと……? そんなもんで、世界が守れるかよッ!」
エリオットは顔を上げ、血走った目で王を睨みつける。
「世界が狂ってるんだ! あんたも分かってるはずだ! ハーヴィーは……あいつだけが、この狂った秩序をぶち壊そうとしてた! 馬鹿みたいに一人で、泥をかぶって……!」
「兄さんを……取り戻したいのッ!!」
エリオットの隣に、アーシェが崩れ落ちるように並ぶ。 彼女もまた、額を床に押し付けていた。
「ハーヴィーは……私のたった一人の兄なんです……! お願いです、力を貸してください……ッ!」
少女の悲痛な慟哭が、広間に響き渡る。 その姿に、里の者たちが動揺し始める。 かつてハーヴィーに救われた者たちが、一人、また一人と声を上げ始めた。
「お頭……あの方には恩があります」 「見殺しにはできねえ」 「俺たちも戦わせてくだせえ!」
民の声。仲間の涙。そして、両足を失ってもなお燃え盛る男の執念。 それらが波紋となって、朔夜という氷の城を揺さぶる。
朔夜の視線が、わずかに揺らいだ。 腕組みを解いたその拳は、白くなるほど強く握りしめられている。
「……愚か者どもが」
その呟きは、拒絶の言葉か。 それとも、氷が溶ける音か。
忍王の瞳に、初めて「熱」が宿ろうとしていた。
広間の空気は、依然として張り詰めていた。 忍王・朔夜の拳は固く握りしめられているが、未だ首を縦には振らない。
その膠着を破るように、レネが膝を進めた。 彼女の視線の先には、朔弥の背後で紫煙をくゆらせる『龍霜の魔女』キアがいる。 聖女たちの頂点に立つ聖天の乙女として、レネにとってキアは遥か高みにいる姉のような存在だった。
「キアお姉様……お願いします」
レネは、祈るように両手を組み合わせての必死の懇願。
「貴女なら……貴女の知恵と力なら、あの恐ろしい怪物たちの正体がわかるはずです。どうすればハーヴィーさんを取り戻せるのか、教えてください!」
「お願いだにゃ! キア姉!」
レネの横で、フィンロッドも小さな頭を床に擦り付けんばかりに下げた。 聖女や魔女たちの中でも一番の年少者である彼女は、大粒の涙を目に溜めて訴える。
「お兄ちゃんは……あの方は不器用だけど、誰よりも優しい魂を持ってるにゃ! あんな冷たい牢屋で、独りぼっちで殺されるなんて嫌にゃ! 絶対に嫌にゃあ!」
末っ子であるフィンロッドの悲痛な叫びと、清廉なる聖女レネの必死な訴え。 二人の妹分の姿に、キアは細い眉をピクリと動かした。 彼女はゆっくりとキセルを口から離し、紫色の煙を吐き出す。
「……ほんま、あんたらは何も知らはらへんのえ」
冷ややかだが、どこか哀れむような響きを含んだ声だった。
「ハーヴィーはんを連れ去った連中。あれはただの強者やない。……『秩序の天秤』。王国の秘密結社であり、この世界の暗部どす」
「秩序の……天秤……?」
レネが顔を上げる。
「表向きは歴史の影に隠れてはるけど、その正体は3000年前からこの世界を操り続けてきた『番人』たちえ」
キアの美しい瞳が、スッと細められた。 そこには明確な憎悪の色が揺らめいている。
「あの方らはな、他ならぬ女神様を封印し、ウチら聖女から魔法の根源を盗みよった大罪人……。勇者選定システムさえも、奴らが自分たちを守るために作った手遊びなんよ」
キアの言葉に、場が凍りつく。 単なる誘拐ではない。相手は、女神を封じ、聖女の力を奪った神殺しの簒奪者たちだったのだ。
「ハーヴィーはんは、その理不尽な『秩序』に目をつけられ、襲われたんえ。奴らは自らの秩序を保つためなら、国一つ、種族一つを平然と消し去るわ」
ざわり、と。 広間の空気がさらに重く淀む。
「それでも……」
震える声で、レネは立ち上がった。 その瞳には、恐怖よりも強い光が宿っている。
「それでも、ハーヴィーさんは戦いました。その『理』が間違っていると信じたから……私たちを守ろうとしてくれたから!」
レネはキアを真っ直ぐに見つめ、声を張り上げる。
「お姉様! もしその歪んだ『秩序』がハーヴィーさんの命を奪うというのなら、私は……私は聖女の力を使ってでも、その天秤をへし折ってみせます!!」
その言葉に、キアが初めて微かに目を見開いた。 いつもおどおどしていた妹分の、覚悟の表情。 それはかつて、女神と共に戦った聖天の乙女たちの瞳と同じ色をしていた。
「…………」
キアは何も言わなかった。 ただ、長い沈黙だけが降りる。
彼女はふわりと紫煙を吐き出し、その煙の向こうで、細めた瞳を静かに閉じた。




