EP25・トロールと九頭龍
バーレイグは警戒を解かない。しかし、その濁った瞳の奥にある「何か」を探るように、静かにトロールを見返した。 森の静寂が流れる。どれほどの時間が経っただろうか。
やがて、頭上の巨人が岩のような唇を動かした。
「…おら、おらは。こ、この、この森に住むトロール族の、ベッカーと言うべ…」 その声は巨躯に似合わず、どこか臆病で訥々(とつとつ)としている。「言うべさ」
ベッカーと名乗ったトロールは、おずおずと一行…特に、静かに佇む銀髪の少女、レネへと視線を向けた。
「あな、あなた、貴方様は…ま、魔女様か?」
その問いに、レネが不思議そうに首を傾げる。「私? …まぁ、今は違うような、そうじゃないような? でも、どちらでもあるような…?」
「何じゃい、そりゃ!?」 思わずバーレイクが突っ込んだ。
だがベッカーは、レネの曖昧な答えに何かを確信したようだ。巨大な身体をゆっくりと折り曲げ、深く頭を下げる。ゴツゴツとした額が地面に擦れるほどの、深い敬意。 そして、切実な響きで懇願し始めた。
「た、大恩ある、い、慈しみの聖女さまをな…長い間、隠し守り、護ってきただががぁ…」 「もう、もうダメだべ…!」 「アイツ…奴が…とうとう、とうとう見つかっちまっただ…?」 「危険だ…とても、とても危険だべ…! フィン様…フィンさまを、もう、ま、守れないだ…?」
ベッカーは顔を上げ、濁った大きな瞳で必死に訴えかける。
「たすけ…助けてくださいだ…!」 「おねがいしますだ…!」
森の守護者からの、魂の叫び。それはこの森に、そして二人目の聖女に、切迫した危機が訪れていることを雄弁に物語っていた。
バーレイグは、深く頭を下げるベッカーに落ち着いて問う。 「…詳しく聞かせてもらおうか。フィン様とは、誰だ? そして、何があった?」
ベッカーはおずおずと説明を始めた。
「フィ、フィン様は…こ、この森の…聖女さま、だべ」 「…そ、その…聖なる森の中心にはな、わ、わらわらトロールでも近づけない禁領区があるだよ」 「だ、だが…入れないはずの『ヒュドラ』がな、さきほどから、その禁領区に侵入し始めたですだ…!」
「ヒュドラ…?」 バーレイグが眉間に皺を寄せる。九つの頭を持つ、不死身に近いと言われる伝説の魔獣。
「な、何らかの影響で、結界が弱くなったのでしょうだ…」 ベッカーは不安そうに森の奥を見つめた。
「わ、わらわトロール族は、長年にわたり守護者として、フィン様の眠りを見守って来たですが…」 「あ、あのヒュドラは…かつて、フィン様がまだ聖女だったころに、何度か痛い目に遭っているのを根に持っているですだ…! きっと、今だに恨んでいるんでしょう…!」
その言葉を聞いた瞬間、内心で冷たい汗が流れる。
(…ひょっとして、『結界が弱くなった何らかの影響』って、まさか…?)
視線が、隣に立つ銀髪の少女…レネへと向いた。 彼女を解放した、あの禁断の魔弾。あれがこの森の守護結界に、予期せぬ影響を与えてしまったのではないか。
だが、レネは何事も無かったかのように、スンと澄まして空を見上げている。
(…確信犯か、天然か…どっちだ…?)
いずれにせよ、今は目の前の問題に集中するしかない。ハーヴィーは不安に揺れるベッカーをなだめるように言った。
「…まあ、落ち着けよ、ベッカーさん。安心しなよ! 俺たちが、なんとかするからさ」
「ほ、本当ですだか!?」
「ああ。どの道、フィン様だっけ? その聖女様を解放しに来たんだ、俺たちは! 目的は同じだろ?」
その言葉に、トロールのベッカーは顔をくしゃくしゃにして喜ぶ。 「ありがとうございますだ! ありがとうございますだ!」 何度も何度も、地面に額を擦り付けた。
バーレイグが静かに頷く。「礼は、フィン様とやらを助けてからでいい。…案内を頼む」
即座に、ヒュドラ退治へと思考を切り替えた。脳裏には、過去に悪魔王討伐戦の道中で、一度だけ奴と戦った記憶がある。
(ヒュドラ…個体数は少ないが、厄介な相手だ)
だが、あの時は苦戦などしなかった。ベルゼの《太陽の法》が、奴の再生能力に対して効果絶大だったからだ。まさに、天敵。
(…しかし、今は勝手が違う)
現在の仲間たちの顔ぶれを思い浮かべる。 レネの《重なりの法》は強力だが、ヒュドラの巨体と再生能力にどれだけ通用するか。エリオットの短剣では、あの鱗を貫くことすら難しい。フェンリルの蒼炎は……?
弱点は知っている。奴らの驚異的な再生を止めるのは、火だ。首を斬り落として、即座にその傷口を火で焼けば、再生は止まる。問題は、どうやってそれを実行するかだ。
あの時は……そうだ。
まず俺が銃で奴らの注意を引きつけ、その隙にライザが、電光石火の速さで九つの首を断ち切った。そして一瞬で、ベルゼが切り口全てに炎の矢を撃ち込み、焼き払う。最後に、ダルクがトドメの爆炎魔法で本体ごと粉砕して終わりだ。
奴らが吐き出す猛毒も、ロアンの《万物の法》による解毒と治癒があれば、恐るるに足らなかった。
(…あの時は、本当に楽勝だったなぁ)
自嘲気味に息を吐く。 ライザの神速も、ベルゼの太陽の炎も、ダルクの殲滅力も、ロアンの万能の癒しも、今の彼らにはない。フェンリルの蒼炎は強力だが、ベルゼのように、寸分の狂いもなく瞬時に九つの傷口を焼き切れるか? そもそも、あの硬い鱗に覆われた首を、どうやって斬り落とすべきか。
さて、どうしたもんかね。
ルシファーズ・ハンマーの冷たい感触を確かめながら、この圧倒的に不利な戦いを制するための「解」を静かに模索する。 思考を、あらゆる可能性に張り巡らせた。
(まず、奴の厄介な再生を防ぐのは…問題ないはずだ) フェンリルの蒼炎に視線を送る。 (俺の弾丸に、フェンリルの蒼炎をエンチャントすることは可能だ。前回のジュリエッタ戦で実証済み。首の切り口を、遠距離から正確に焼き切れる)
(だが…一番の問題は、あの硬い鱗と太い首を、どうやって斬り落とすかだ)
ただ斬ればいいというものではない。ヒュドラの再生速度は異常だ。中途半端な攻撃では、斬り落とすそばから再生が始まってしまうだろう。
(ただ斬り落とすだけでは駄目だ。ライザのように…光速のような速さで、九つの首を、一瞬で、綺麗に断ち斬る。あの技量と力が必要だ) (彼女は事もなげにやってのけたが、あんな芸当、誰にでもできるもんじゃない)
レネの《重なりの法》で、超重力を乗せた一撃なら……? いや、それでも足りないかもしれない。
(それだけじゃない。奴らが吐き出す猛毒の対処も必要だ) (ロアンの高度な治癒魔法は、もう無い……)
眉間の皺が、より深くなる。圧倒的な戦力差。あまりにも多い不安要素。 思案に暮れ、無意識のうちに険しい表情を浮かべていたのだろう。
ふと、隣に立つレネが心配そうに顔を覗き込んでいることに気づいた。彼女は気配を敏感に感じ取り、声をかける。
「…バーレイグ?」 「大丈夫だよ!」
その声には何の根拠もない、しかし絶対的な「確信」が満ちていた。 彼女は、バーレイグの隻眼を真っ直ぐに見つめて言った。
「もっと、今の仲間を信じて」 「私たちが、いるじゃない」
その瞳に宿る、揺るぎない信頼の光。それはバーレイグが失いかけていた、最も大切なものを思い出させる、温かい光だった。
その光が、心に残っていた最後の迷いを完全に吹き払う。
そうだ。ライザも、ベルゼも、ロアンも、ダルクニクスもいない。 だが、今の俺にはこいつらがいる。
バーレイグは、レネの銀色の髪を、まるで妹にするかのように優しくポンポンと撫でた。 (そうだ。何も、迷うことは無い!)
ルシファーズ・ハンマーを握り直し、その隻眼に狩人の鋭い光を宿らせる。
「じゃあ、ヒュドラ狩りと行こうか!」
その力強い宣言に、皆が揃って「オウッ!」と、決意の返事で応えた。 エリオットの瞳には恐怖ではなく覚悟が、フェンリルの黄金の瞳には闘志が、そしてレネの瞳には、バーレイグへの絶対的な信頼が、それぞれ燃えている。
「ベッカーさん、案内を頼む」
「お、おお…任せるですだ!」
トロールの案内で、一行は聖なる森のさらに奥深く…禁領区と呼ばれる場所へと迷うことなく進む。 空気は澄み渡り、神聖な気配に満ちていた。だが同時に、その静寂を破るかのような不気味な衝撃音が断続的に響き渡る。
そこには、ベッカーの言う通り、巨大な九つの頭を持つ魔獣ヒュドラがいた。
その巨体が目に見えない結界の壁に何度も何度も体当たりを繰り返し、大地を揺らしている。結界はヒュドラの猛攻によって明らかに弱まり、所々に亀裂のような光の歪みが見えていた。
結界の向こう側には、まるで世界から切り離されたかのように神秘的な光を放つ小さな泉と、そのほとりに立つ一本の古木。
あれが、二人目の聖女が眠る場所か。
バーレイグは、静かにルシファーズ・ハンマーの撃鉄を起こした。 決戦の時は、近い。




