秋、香る
アンティークランプが穏やかな光を灯している。
夕暮れの女学校からの帰り道、朱鷺子は何処からか金木犀の香りが漂ってきて、ほうっと息を吸い込んだ。
「良い香り……。どちらのお宅かしら?」
朱鷺子の通学路には、金木犀を植えている家は去年無かった筈。
彼女は好奇心で、香りに誘われるがままに歩き出した。
夢見心地で香りを辿っていくと、1軒の古いが趣のある家屋に辿り着く。
玄関先には金木犀が優しく黄色い花を咲かせていて、朱鷺子は顔を綻ばせた。
暫く花を眺めながら、香りを堪能していると、カラリと音を立てて、横引きの磨りガラスの玄関が開く。
「あら、お嬢さんこんばんは。金木犀を観てらっしゃるの?」
出てきたのは、かんざしを刺してお団子に髪をまとめている、品の良い女性。
左下にある泣きぼくろが、どこか色っぽさを感じさせた。
朱鷺子は家人に遭遇すると思わず、黄色い袴の裾を揺らして慌てる。
「あんまり素敵な香りだったのでつい……! 不審に思われたらすみません、私決して邪な気持ちはないんです!」
女性はくすりと笑い、朱鷺子に手招きした。
「何も疑っていませんよ、若い女性に楽しんでもらえて嬉しいわ。良かったら、ウチの縁側に来ません? そこからの方がよく見えるの」
朱鷺子は逡巡したが、金木犀と女性が魅力的で、頷いた。
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「お邪魔します……、わぁ、本当に綺麗!」
奥に案内されると、表からは見えなかった庭に植っている金木犀が咲き誇っている。
その香りはとても心地良くて、朱鷺子は感嘆の息を吐いた。
「去年植木を貰って、植えたのが今年咲いてくれたの。あぁ、名乗りが遅れてごめんなさいね。私は華江。主人が亡くなって一人暮らしなのよ」
部屋を見ると、確かに仏壇に年若い男性の写真がある。
朱鷺子は姿勢を正して正座した。
「私は朱鷺子と申します、お線香をあげさせて頂いて良いですか?」
「まぁ、ありがとう。こんなに可愛らしい方が来たと分かって、主人も喜ぶわ」
作法通りに線香をあげ、朱鷺子は瞑目する。
すると、線香からも金木犀の香りが漂ってきた。
「お線香も金木犀の香りがしますね。ご主人の趣味ですか?」
「ふふっ、私の趣味なの。主人はむしろ金木犀が嫌いだったわ」
麦茶を淹れたコップをオボンに二つ運びながら、華江は言う。
「金木犀の香りは、冬に向かって悲しくなるから嫌なんですって。そんな事ないのにね?」
朱鷺子はそういう考え方もあるのかと思う。
冬は確かに雪で全ての音がかき消えて、物悲しくなる人も居るのだろう。
「私は金木犀が大好きなの。香りも勿論だけど、黄色い小花と濃い緑の葉が素敵でしょう?」
「はい、そう思います!」
元気な返事に、華江はふふっと微笑んだ。
「私、毎日暇なの。朱鷺子さんさえ良かったら、たまに遊びにいらして」
「いいんですか?」
「えぇ、勿論」
それから朱鷺子は、迷惑やもと思いながらも毎日華江の家に通う様になった。
金木犀の香りに包まれて、華江と他愛もないお喋りを楽しむ。
このひと時は、朱鷺子にとってなくてはならない物になっていた。
だが、ある日の談笑中、華江がそっと呟く。
「もうすぐ金木犀も終わりね」
そう、終わってしまう。
朱鷺子は悲しかった。
なんとなく、この美人との時間は秋にしか訪れないと分かっていた。
「私、秋以外は実家に戻らないといけないのよ。手伝いをして欲しいんですって。両親も高齢だから仕方ないけどねぇ」
優雅に麦茶の入ったコップを揺らす華江は、自然に語る。
「じゃあ、暫くお別れですね……」
寂しそうに俯く朱鷺子の顎に、上品で細長い華江の指先が触れた。
朱鷺子は反動で顔を上げた。
「大丈夫、金木犀の季節にまた会いましょう」
室内には、金木犀の最後の残り香が漂っていた。




