3-11. 海と成功は人を開放的にするもの③
【イアン王子視点】
なんてことだ ――
イアンは、膝を折りそうになっていた。
ヴェロニカに言われて、とるもとりあえず駆けつけた入江の、建物のかげである。
イアンの目の前に繰り広げられているのは、信じがたい光景だった。
―― 夕焼けの広がる海をバックに、イアンが真実の愛をささげているはずの女が、別の男に寄り添っている ―― イアンにしか向けないはずの、とろけるような笑みを浮かべて。嬉しそうに。
(僕のことを 『愛している』 と言ったのは…… 『おねえさまより先に出会えたら良かったのに』 と言ったのは……! 嘘だったのかっ、ドリス!)
本当ならすぐにでも、その場におどりでて男を斬ってしまいたい。
だが、できない。
男は、王弟セラフィン ―― イアンと同じく宮廷での立場は弱いとはいえ、他国の王女を母に持つ彼は明らかにイアンより優位だった。
殺すといろいろ問題があるのだ。
そのうえ、剣の腕もとうていかなわない。
斬りかかったところで逆に斬られるのはイアンのほうであることは確実だった。
(ドリスドリスドリスドリスドリスドリスぅぅぅぅっ! ヴェロニカが死んでしまったら、おまえと結ばれるはずだったのに! 公爵になれなければ僕は、ただのごくつぶしなのに……! よくも……!)
愛する女の裏切りに涙をこらえるイアンの肩に、冷たい手が置かれた。
ふりかえると、そこにはまた、婚約者の幽霊 ――
「ねえ、あなた。悔しいでしょう? 悲しいでしょう? その気持ち…… よくわかりますわ…… 」
「ヴェ…… すまなかった! 僕がきみの…… 望んだりしたから……! こんなことになるなら、きみだけをほんとうに、大切にするんだったのに……!」
「まあ、ありがとう存じます、殿下…… けれど、わたくしもう、あちらにまいらねばなりませんの…… 」
「ヴェ…… すまなかった、ほんとうにすまなかった…… 」
「あやまらないでくださいな、殿下。あなたの人生が実質、終わったとしましても、それはあなたのせいではありませんわ…… いけないのは…… あの…… 」
「ドリス…… あの裏切りもの…… 」
「そうですわ…… ドリス…… あの子ですわ…… 」
冷たい手が、なにかをそっとイアンの手に握らせた。
「どうぞ、わたくしからの最後の贈り物ですわ、殿下…… 」
「なんだ、これは」
イアンの手の中には、小さな薬入れ。どこでも手に入るようなシンプルなものだ。
「わたくしを殺した毒、ふたりぶん…… ねえ、イアン殿下?」
悲しみも苦しみも、邪魔する者もいっさいない天国で、愛するひとと永遠に暮らし続けるのは、素敵でしょうね。
―― ヴェロニカの姿がかき消えるように見えなくなったあとも、その声はイアンの耳のなかにこだまし続けた。
※※※※※※※
【ドリス・トレイター視点】
「あの…… プロポーズしていただけたのは、とても、嬉しいんですけどぉ…… 少し、待ってください…… まだ、おねえさまの葬儀も終わっていませんしぃ…… 」
「もちろんです。あなたをほかの誰かにとられたくなくて、つい急いでしまいました」
返事はいつまでも待ちますよ。
セラフィンの美しい顔が夕日のなかでほほえむのをドリスはうっとりと眺め、考えた。
どちらにしようかしら。
―― セラフィンは優しく紳士的で、ドリスをお姫さま扱いしてくれるのが、とても気持ちいい。
だが紳士的すぎるというか、少々、情熱に欠けるというか…… つまりはキスすらもまだでは、性技のレベルもはかれない。
結婚してからヘタクソなどとわかれば、最悪ではないか。
それに、以前にドリスが媚薬のことを口に出したときは、少し話しただけなのにとてもイヤそうな顔をされた ――
セラフィンと一緒に媚薬を楽しむのは、難しそうだ。
それどころかドリスにも媚薬を禁止してこようとしかねない。
(ま、そしたらテキトーに愛人作って遊べばいいけど…… バレても泣きさえすればごまかせそうよね!)
―― いっぽうでイアンは確実にドリスにハマっているのが見てとれる。
身持ちが固くて、これまではどんなに誘惑してもキスどまりだったが……
その真面目さは結婚後はむしろプラスだろう。
浮気せずに金と薬を運んできてくれる顔の良い奴隷 ―― それもまた、非常に捨てがたい。
しかもイアンは普通にキスがうまかった。
一緒に媚薬を楽しむなら、やはりイアンか ――
(いっそのこと、ひとりを夫にして、ひとりを愛人にしちゃおうかしら)
楽しく妄想をしながらセラフィンにエスコートされて別荘に帰ると、イアンが来ていた。
「やあ、ドリス、久しぶり…… 会いたかったよ」
「イアン殿下…… あたしもですぅ」
「殿下などとよしてくれ。僕ときみとの仲だろ? イアンと、呼び捨てでいい」
「でもぉ、もったいなくて…… 」
セラフィンが聞いているのに ――
ドリスは内心で冷や汗をかいたが、セラフィンは気づいていないようだった。
少し用事が残っていますので、と言いおいて、席をはずす。
「あああドリスドリスドリスドリスドリス! 会いたかった、僕のドリス!」
セラフィンの姿が扉の向こうに隠れたとたん、ドリスはイアンに抱きしめられた。
(これよ、これ…… この辺が、セラフィンには足りないのよね! 気持ちいい…… )
優しくて紳士的なのも素敵だが、愛されている実感はイアンのほうが強いのだ。
ドリスもイアンの腰をきゅっと抱きしめかえす。イアンの手が、ドリスの背中をまさぐり、尻へと降りていく ――
「部屋へ行こう」
あえぐようにイアンがささやいた。
「ヴェロニカは死んだんだ……!」
「そうね」
くすくすとドリスは笑い、イアンの唇をねだる。
ねっとりとしたキスのあと、ふたりの口からはどちらからともなく笑いがもれた。
「「ヴェロニカが、やっと死んでくれた…… !!」」
ふたりはもつれるようにしてイアンの部屋に向かった。
「さあ、乾杯しよう。僕たちの未来のために」
「このワイン…… ふふふ。よく、手に入ったわね?」
「ヴェロニカの侍女がくれたよ。 『主との最後の時間を、どうかごゆっくりおすごしくださいませ』 と言っていたな」
「ふふふふふっ。それなら、しっかり、ゆっくりすごさせてもらわなくちゃ」
イアンが手ずからグラスに注ぐワイン ―― 瓶に刻まれた 『妖精の隠れ家』 の文字に、ドリスは機嫌を良くする。
ヴィンターコリンズでも特別な、希少なワイン。
それを、たったひとりの公爵令嬢として飲めるだなんて。
なんて気分がいいんだろう。
「あら? グラスがひとつね?」
「飲ませてあげる…… 僕の愛しいひと」
イアンがグラスをあおり、ドリスに口づけした。
―― 男と同じ温度になった甘く苦い液体が口のなかを満たし、喉をうるおす。胃に落ちて熱になり、全身をかけめぐる。
この感覚は、媚薬……
きっとイアンが、あらかじめワインに入れたのだろう。
―― これだからイアンとはやめられない、とドリスは笑った。
胸にこぼれた赤く黒い雫を丁寧になめとり、男も笑う。
「ね、僕にも飲ませて?」
「もちろん、いいわよ」
ドリスが口移しにしたワインをイアンは喉を鳴らして飲んだ。
「もっと?」 「もっと……!」
「もっと…… 」 「もっと……!」
ワインがすっかりからになったころには、ふたりは一糸まとわぬ姿でお互いをむさぼりあっていた。
「幸せだよ、ドリス。愛してる…… 」
「あたしもよ、イアン…… 」
「この幸せが永遠に続けばいいと思わないかい? 誰にも邪魔されないところで…… 」
「そのとおりね…… っ!?」
交わされる睦言のとちゅう、ドリスはふいに身体に異変を感じた。
全身がねじられるようにきしむ。
心臓が激しく打つ。
喉がしめつけられて、息がつまる。
イタイ、クルシイ、クルシイ、クルシイ、イタイ、イタイ、クルシイクルシイクルシイクルシイ…… イタイ!
「あ…… 」
「僕ね、むかし、いとしいひとが、いた…… 」
目の前のイアンも、苦しさに顔をゆがめている。
なのに、その青の瞳には恍惚とした光が浮かんでいる。
ドウシテドウシテドウシテ、イタイイタイイタイイタイクルシイイタイクルシイ…… タスケテ
「ひとつに、なりたくて、たべた…… けど、そのあと、ぼくはひとりで、さびしくて、かなしくて…… 」
「うう…… あ…… 」
イアンがなにを言っているのか、ドリスにはわからなかった。
たべ…… イタイイタイイタイイタイ、タスケテタスケテタスケテクルシイ…… タスケテイタイ!
「だから、こんどは…… いっしょに、いこうね…… 」
「 ………… 」
いやよ…… やっと、公爵令嬢になったのに、い…… イヤヨイヤヨクルシイクルシイクルシイイタイ、イタイイタイイタ…… ッ!
ドリスを抱きしめる男の口から、赤黒いものがごぼりとあふれた。
顔にかかる血の、濃いにおい……
―― ドリスの意識はそこで、途切れた。




