3-5. あらゆる感情のなかで一番やっかいで一番使いやすい②
【マリアンネ・アッシェライア視点】
「おやすみなさい、カマラ」
「はい…… ごゆるりと、お休みくださいませ」
扉が閉まるのを待たず、マリアンネは公爵の前に回り込んだ。
首にぶらさがるようにして、男の唇をむさぼる。
「ねえ、元気、でまして?」
「ああ…… 休憩するのも、たまには悪くない、な」
「そうでしょ」
くすくすと笑って、杯を取り上げる。
瑠璃のペアグラス ―― 磨き抜かれて星のような光をたたえる宝玉の器を使えるのは、公爵家ならではだ。
(高価な器も広大な屋敷も使用人たちも…… すべて、わたくしのものになるのね)
マリアンネは大きい杯を公爵に渡し、ふちをわずかに触れあわせた。
「わたくしたちの未来に、乾杯」
「ああ、これからよろしく頼む…… 仲良くやってくれよ、揉め事はごめんだ」
「まかせてくださいな。アーニーをわずらわせることなんて、しませんとも…… 」
酒をぐっと流し込む。
上品なスズランと刺激的なスパイスの香り。口当たりは甘いが力強いキレとコクがあり、やわらかなタンニンがあとをひく。
ヴィンターコリンズでも特別な日にしか飲まない希少なワイン 『妖精の隠れ家』 だ。
(カマラはよほど、わたくしに、おもねりたいようね…… たかが愛人の地位がそれほど大切だなんて、みじめだこと)
マリアンネは高揚した。
書類から離れた男の手が、薄い夜着の胸につっこまれる。
しばらくそうして片手を遊ばせながら、公爵はもう片手の杯をゆっくりとあおった。
「ああん…… そこ…… あっ」
続きを期待し、吐息を漏らすマリアンネ。
だが公爵は杯を置くと軽く彼女をつきはなし、書類を拾う。
「さて、もう少し仕事をしなければ。もう行ってもいいぞ」
「…… お待ちしていますわ」
冷たい男の背を見送ったとき。
マリアンネの全身を、痛みが襲った。
―― 手もあしも腹も、うでも肩も首も、それぞれが別の方向に無理やり、ねじ曲げられているようだ。
イタイ! イタイタイタイタイイタイ!
タスケテ、ダレカ、タスケテ……!
喉がしびれて、口が重い。
声がまったく、出てこない。
息ができない。
クルシイクルシイクルシイクルシイ、ダレカ、タスケテ…… イタイ、クルシイ……
膝から、力が抜けていく ――
もうろうとした頭のなかで、さまざまなひとの声がひびいた。
誰もが、マリアンネにも心があることなど知らぬとばかりに、好き勝手に言ったものだった……
『なんてことだ! 男あさりしか能のない娼婦がこの家を継ぐことになるのか……』 『甘やかしすぎたのが悪かったのね…… こんなふうに育ってしまって』
『おまえみたいな女に引っ掛かった私が、愚かだったよ』 『いいかげんにしてください、母上!』
『できそこないの分際で、姉の婚約者を奪ったそうよ』
『あら、奪ったなどと言っても、結局はいつも姉のおさがりじゃなくて?』
『しっ、きこえるわよ』
『かまわないわよ、アッシェライアなんていまや斜陽じゃない』
くすくすといっせいに忍び笑いが起こる ――
床に崩れ落ちるマリアンネに、男が気づくことは、なかった。
※※※※※※※※
【ヴェロニカ視点】
「先に寝ておくように言って、仕事をして戻ってみたら、倒れていたんだ」
「外傷はなく、嘔吐や下血もなし…… 急な心臓発作でしょうね、お父さま。部屋に運び、明朝、医師に見せますわ」
「ああ、よろしくたのむ」
私は戸口に控えていたメアリーを振り返り、めくばせした。
メアリーは黙ってうなずくと、ドアをあけて使用人たちに小声で指示を出す。
カーペットのうえに倒れていたものは、あっというまにシーツでしっかりとくるまれていく ――
遺体の口元には、ほほえみが残っている。
見開いたままの血走った目を閉じてあげれば、きっと苦しみなく逝ったように見えるだろう。
「ほんとうに、こまったものだ」
マリアンネだったものを運びだす使用人たちの背を見送りながら、父が吐き捨てた。眉間に、神経質そうなしわがよっている。
「こうも葬儀が立て続けでは…… ヴィンターコリンズは呪われているに違いない、などと言い出す輩がでてくるぞ。面倒くさい」
「あら、お父さま。アッシェライア前侯爵夫人の葬儀を、我が家から出す必要が、どこかにございましたでしょうか?」
「ああ、そうだな…… たしかに、そのとおりだ」
「でしょう? ご遺体には防腐魔法を施して棺にいれ、丁重に飾りつけてラファエロに送りますわ。それでよろしいですわね?」
「よろしく頼む。先に、医師の診断書を持って挨拶に行くのを忘れるな。いきなり親の棺を送りつけたら戦争になる」
「もちろん。心得てございますわ、お父さま…… では。おやすみなさいませ」
「ああおやすみ」
淑女の礼をとろうとして、私はふと思いつき、きいてみた。
「お母さまのご病気…… 毒によるものと疑われたこと、お父さまはありまして?」
「…… 家のことはすべて、クロイツとケストナー夫人に任せている」
「わかりましたわ…… では、おやすみなさいませ」
父にいまさら、失望などしない。
廊下に出た私は、母の肖像を見上げた。
―― 私を産むまでの母は、 『社交界の真珠』 とうたわれ、貴族たちの憧憬をあつめていた、とケストナー夫人から聞いたことがある。
私を産んでからは健康を損ね、寝つくようになってしまった ――
たとえそれがカマラから毒を盛られていたせいだとしても…… もし母が私を妊娠しなければ、父がカマラに誘惑されることもなかったのではないか?
私を産まなければ、母は苦しむこともなかったのではないか?
―― 疑問が、私の心から離れたことはない。
『なにを言っているの、お砂糖さん?』
母の声が聞こえた気がした。
『あなたがいなければ、わたくしの人生はからっぽでしたよ。忘れないでね。
あなたがいるから、わたくしは幸せの意味を知っているの。あなただけがわたくしの真実の宝なのですよ』
前世の記憶がよみがえったあと、私はこのセリフをしばしば、こう考えたものだ。
そこまで依存しなきゃならないほど、母は不幸だったのか?
それとも、気を遣って嘘を言ってくれたのか……
―― どちらにしても、母が私に優しい言葉を与え続けてくれた事実は、消えない。
(もしお母さまがいまのわたくしを見たら、悲しむのかしら)
『あなたはご自分で思っているほど、以前と変わってはいませんよ、ロニー』
ふいに温かな声が、耳の奥をくすぐって、消えていった。
セラフィンの眼差しを思い出すと、心臓にさざなみが立つ。体温が少し上がってしまう。
困ったな、と私はためいきをつく。
人を操るための材料としないのであれば、好意をどう扱っていいのか、わからない ――
「お嬢様、ご気分がすぐれないのでしょうか?」
「いいえ、メアリー。心配ありませんよ、ありがとう」
メアリーの気づかわしげな目―― どうやら私はずいぶん長く、母の肖像の前にたたずんでいたようだ。
軽く頭をふって、歩き出す。
「気分は逆に、良いほどでしてよ。駒を思いどおりスムーズに動かせたのですもの」
「わかります。そういうときって、気分いいですよね」
「そうでしょう? ……でもそろそろ、用済みね」
「といいますと、お嬢様……?」
「処分はゆっくり、考えることにしますわ」
「えーと、それって誰なのか、うかがってもよろしいですか?」
メアリーがわくわくとした目を私に向けた。
―― カマラがヴィンターコリンズの毒を持っていることや、それを母に少しずつ盛り続けて病気にしたことは、まだ誰にも言っていない。
メアリーが知っているのは、私が誰かを使ってマリアンネを粛清したことだけなのだ。
「そうね…… あててごらんなさい?」
「ええっ、そんなの、わかるわけがないじゃないですか! …… えーと、Dのつく子?」
内緒、と答えようとしたとき、また。
ふいに 『秘密です』 というセラフィンの声が、耳の奥でこだました気がした。
―― ほんと、困る。




