3-4. あらゆる感情のなかで一番やっかいで一番使いやすい①
【マリアンネ・アッシェライア視点】
「ふっ…… くふふふふっ…… 」
夕食のあと ――
マリアンネは鏡台の前でカマラに髪を整えさせつつ、込み上げてくる笑いに身をまかせていた。
―― 結局は、生き残ったものが勝ちなのだ。
(ザマァご覧なさいませ、お姉さま!)
マリアンネの姉 ―― ローザは、若いころ、才色兼備の侯爵令嬢として知られていた。
才色どころか誰にも優しい心の美しさ、天気さえも左右できるほどの強い風の魔力まで。
神に2物どころか3物も4物も与えられ、誰もがほめそやす侯爵家の跡継ぎ娘 ―― 姉は、マリアンネにとっては決して超えられない大きな壁。
マリアンネは、その根元でもがく小さなネズミにすぎなかった。
だが、ネズミにはネズミのやり方がある。
マリアンネの武器は豊かな胸と尻、そしてひとの抱く嫉妬や羨望の気持ちを知っていること ――
それをもって、姉の婚約者だった伯爵家の三男を誘惑するのは容易かった。
彼は優秀な男ではあったが、三男に生まれてしまった運命からか、他人にコンプレックスを抱きやすい性格に育っていた。
姉に対してすら、そうであり ―― 彼は婚約者に、愛情ではなく劣等感をもってしまっていたのだ。
マリアンネはそこをつき、劣等感をカバーし共感してくれる女を ―― 彼を立てほめそやす、可哀想な妹を演じた。
彼が己に惹かれているのを感じてからは、接触を増やし純粋な愛情を捧げてみせ、ベッドまで引きずりこんだ。
―― 結果、結婚式を待たずにマリアンネは姉の婚約者の子を妊娠し、姉から婚約者と侯爵家を奪いとったのだ。
だが、ことはマリアンネの思惑そのままには運ばなかった。
フリーになった完璧令嬢には、当然といえば当然ながら、求婚が殺到したのである。
そのなかでもっとも家格が高く資産を持っていた男 ―― ヴィンターコリンズ公爵と姉は結婚した。
姉が若く美しい公爵夫人としてますます名を馳せるいっぽうで、マリアンネは惨めだった。
姉から婚約者を奪い取った女として、夫ともども社交界から白い目で見られていたのだ。
それもこれも両親がいまだ姉のほうを愛して己を軽んじるせい ――
そう考えたマリアンネは、流行病に見せかけて両親を毒殺し、夫に侯爵家を継がせて侯爵夫人の座におさまった。
だが、マリアンネが夫を見る目は、このころから急速にさめてきていた。
―― 心が狭く愛のことばひとつ口にしないくせに 『子どもを甘やかしすぎだ。なにもできない男にする気か』 などと小言だけは、やたらうるさい。
気晴らしに新しいドレスを買っただけで不機嫌になる。財政を考えろというが、それをなんとかするのが夫の役割ではないか。
たかだか伯爵家の三男だった者が、誰のおかげで侯爵になれたと思っているのか ――
夫婦の関係はとっくの昔に冷えていた。
我慢できなくなったマリアンネは、ついに夫をもひそかに殺した。
方法は、両親と同じ ―― 高熱と下痢と嘔吐、全身が黒ずんで腫れる黒死病と酷似した症状で、服用すれば2・3日のうちに死んでしまう毒である。
創薬の天才といわれていたバーレント・フォルマ子爵に身体を許してねだったところ、簡単に創ってくれたものだった。
実物はすでになく、毒のレシピはフォルマの頭のなか ―― マリアンネが疑われることは、まったくない。
その後のマリアンネは、息子を侯爵にすえて、やりたい放題 ――
だが残念なことに息子のラファエロは、夫に似たつまらぬ男になった。
溺愛してやった恩も忘れて、夫と同じくマリアンネに説教するようになったのだ。
最終的にラファエロは、無理やりマリアンネを部屋に閉じ込めて見張りをつけ、外に出られないようにさえした。
そしてマリアンネが社交界から姿を消したことを 『母は病気』 とソツなく説明していたという ――
妙なところばかりが自分に似たのも腹立たしい、とマリアンネは思う。
そんな折、姉が亡くなったのだ。
―― 幽閉から逃れ、後妻として公爵家を牛耳る、最大のチャンス。
そう直感したマリアンネは 『ただひとりの姉をきちんと見送りたいのです』 と涙ながらに息子を説得して葬儀に参加し、そのまま公爵家に居座ったのだった。
ヴィンターコリンズ公爵は仕事一辺倒で 『鉄宰相』 とか呼ばれているがマリアンネから見れば 『ただのチョロい男』 。
その跡取り娘のヴェロニカのことも、昔から知っている。公爵家を継ぐには少しばかり善良すぎる、お人形のような娘だ ――
王宮に押し掛けて女性の温もりを提供すれば、男は勝手におちてくれた。
娘のほうは久々に会ってみれば多少、歯ごたえがでてきていたものの ―― 父親に逆らうような性格では、やはりなかった。
つまり、天下の公爵家はもう、手中にあるも同然 ―― これが、笑わずにいられようか。
「ふふっ…… ねえ、カマラ」
「…… はい、奥様」
目を伏せたカマラの表情を、鏡越しに読みとることはできない。
だがそれは、いまのマリアンネにはどうでもいいことだった。
―― カマラは善良なお人形のヴェロニカが、マリアンネのためにつけてくれたメイドだ。
『カマラはアッシェライアからお母さまについてきたメイドでしたから…… 馴染みがあるひとのほうが、よろしいでしょう?』 などと言って。
良いオモチャをつけてくれたものだ、とマリアンネは上機嫌で考えた。
「カマラ、あなたも、アーニーの愛人なんですってね?」
「…… はい」
「でもねえ。いくら貴族出身でも、孤児じゃあね? メイドとしての教育しか受けてない者が、まさか公爵夫人になんてなれるわけないわよね?」
「…… はい、奥様」
「そうよねえ。たかがメイドふぜいだものね…… ああでも、安心してちょうだい?
わたくしは寛容だから、愛人がいても許してあげるわ…… ふふふふっ。あなたの娘も、ちゃんと嫁がせてあげるわよ。その辺の使用人にでも、ね」
「………… ありがとうございます、奥様」
「あーら、よくわきまえてるじゃないの。だったら、このままわたくしの専属侍女にしてあげるわ。よぶんな野心を持たず、ただのメイドでいることね!」
「はい…… 」
マリアンネは見ていなかった。
彼女の髪をゆるく編んでいくカマラの黄色い瞳がゆがんだのも。唇を、血がにじむほどにきつくかんだのも ――
もっとも、見ていたとしても、より気分を上げただけに違いないが。
マリアンネはヴィンターコリンズについて知らなすぎるのだ。
「寝衣は肩を出すタイプにしてちょうだい」
「それは夏のものでございますが、奥様」
「そんなこと関係ないわね。わたくしは、アーニーに温めてもらうんですから。ああショールもちょうだいね。アーニーの部屋についたら、持っていって。必要なくなるから」
己の言動のひとつひとつが、カマラの神経をさかなでしている ―― それを、マリアンネは楽しんでいた。
透けるような薄絹をまとったマリアンネは、カマラの前でくるりとまわってみせる。
息子が成人する年齢になっても、見目の良い若い男から搾り取った精で保ってきた肌は、いまだ衰えてはいない ――
「どうかしら?」
「…… よくお似合いでございます、奥様」
「じゃ、案内してちょうだい。アーニーの寝室よ、もちろん知っているわよね?」
「…… はい」
カマラのあとをついて廊下を渡りながら、マリアンネは歴代の公爵と公爵夫人の肖像を見上げてうっとりとした。
やがてここに、マリアンネの肖像も並ぶのだ ――
ふとマリアンネは、1架の貴婦人画に目を止めた。
つややかで豊かな黒髪と、意思の強い紫水晶の瞳、陶器のような滑らかな肌 ――
病に倒れて見るかげもない、と噂に聞いていたが、葬儀で見た姉は期待したほどにはぼろぼろではなかった。
そしてその美しさは、娘のヴェロニカに、そっくりそのまま引き継がれていた ――
(また、フォルマに薬を作ってもらわなきゃ…… フォルマは、ヤバいことがバレて雲隠れ中、だったかしら?)
すぐにでもフォルマを探させよう、とマリアンネが考えたとき、公爵の寝室の前にきた。
カマラがノックする。
「ああ、ふたりともきたのか」
出迎えた公爵は、片手の書類に目をそそいだまま、顔をあげずに口だけ動かした。
「今日のぶんがまだ終わっていないんだ。家に帰ると時間がとられる…… おまえたち、ふたりで先に寝ていなさい」
「…… わかりましたわ。けど、アーニー。休憩も必要よ」
マリアンネが公爵の痩せた背に、これ見よがしに胸を押し付ける。
「カマラ、お酒を用意してちょうだいな。アーニーとわたくし、ふたりぶんね」
「…… 少しだけだぞ」
厳格そうな口元がほんのわずかに緩んだのを、マリアンネは見逃さなかった。
ほんとうにチョロい男、と心のなかで嘲笑う。
「…… ご用意できました。奥様。大きいほうが旦那様の杯でございます」
「わかったわ、ありがとう。もう行っていいわよ」
「ああ、せっかくだからカマラ、おまえも一緒にどうだ?」
「いえ、ありがたいお言葉ですが、わたしは一介の侍女でございますので…… またの機会に、ご相伴させていただきます…… では」
またの機会なんて、おまえにあげるわけがないじゃないの。
マリアンネは公爵の身に両腕をからませたまま、唇の両端をつりあげた。




