8.命の恩人はどこへ
夢を見ていた。
夢の中で、私はボロボロの服を着ていた。
そして、陽射しの強い砂漠で、膝を抱えて座っていた。
「ごめんね」
私よりも、もっとボロボロの服を着たエディが、すぐ横で優しく微笑みかけてきた。
「ジュリアを連れて、地の果てまで逃げてきてしまって。こんなことをしなければ、今ごろ君は何不自由ない生活をーー」
「いいの」
私もエディに微笑みかける。
「大好きな人と一緒にいられたら、ほかに何もいらない」
エディが無言で、私の手に手を重ねてきた。
荒れてがさがさだけど、逞しくて温かい手。
自分の心臓の音が、聴こえるようだった。
重ねたエディの手に、力が加わった。
身体の芯が熱くなる。
ああ、エディ。私、溶けてしまいそう。
こんなふうになったの、生まれ初めて……
そう。
思えば、私は生まれてからずっと、籠の中の鳥だった。
父上とお兄様と弟の溺愛に囲まれて、そこから一歩も外に出ることができなかった。
もちろん、感謝はしている。
自分を本気で溺愛してくれる家族を、裏切りたくはない。
でもーー
「エディ、ごめんなさい」
「……どうしたの? 謝るのは、俺のほうだけど」
「私のせいで、お父様たちに命を狙われて」
本来エディは、冒険の旅に出たかったはずだ。
それなのに、まるで犯罪者みたいに、着の身着のままでの逃亡生活を強いられている。
その首に、多額の賞金まで賭けられて。
名士リカルド・レヴォワール公爵の令嬢、ジュリア・レヴォワールを非道にも誘拐した科で……
「お父様の差し向けた殺し屋に撃たれるのが先か、アラン王国の国家警察に捕縛されるのが先か。まあどっちにしろ、行き先は墓場しかない」
エディはクスクス笑う。怖くはないのだろうか?
「でも怖くはないよ」
私の心を見透かしたかのように、エディは言った。
「こうして今日は砂漠、明日は村、明後日は森と移動して、経験値を上げるのが今はすごく楽しい。殺し屋とか警察なんて、せいぜいレベル10の敵だ。俺がレベル20にもなれば、ちっとも恐がることはないさ」
「……そういうものなの?」
貴族の家庭に生まれて安全に暮らしてきた身には、まったく未知な世界の話だった。
「エディ、頼もしいのね。ほかにももっと、色々なことを教えて」
私はそっと、エディの肩に頭を載せた。
エディの身体が、緊張にこわばった。
お互い無言になる。
ついにそのときが来た、と思った。
私は顔をゆっくりと動かして、エディを見上げた。
エディの頬が紅くなっている。
たぶん私も、紅い。
そっと眼を閉じた。
自然と唇がゆるむ。
貴族の令嬢が、こんなふうにするのははしたないだろうか?
でも、もう止まらない。
私はエディを愛している。
エディの顔が近づいてくるのがわかる。
私はエディを受け入れるため、さらに顎を上げたーー
「ジュリア!」
耳元で大声が炸裂して、ハッと眼を開けた。
エディの顔がすぐそこに。
……いや。違う。
この濃い顔はエディではない。
それは、汗と涙にまみれた、リカルドお父様の顔だった。
「おお、良かった! 生きていた!」
夢から覚めた私に、父上は言った。
大袈裟な。
ただ寝ていただけなのに、生きていただなんて。
変なお父様。
「ジュリア、死んでなかったんだな?」
父上の後ろには、レオナルドお兄様もいた。
……どういうこと?
私、そんな死人みたいな寝方をしてた?
「お姉様! お姉様!」
お兄様の横では、アンドレアが泣きじゃくっている。
私はガバッと上半身を起こした。
ここは私の部屋じゃないーー外だ。
地面には落ち葉。周りにはたくさんの樫の木。
思い出した。
ニタイの森で、私はチャールズ・イーリイ伯爵に撃たれたのだ。
記憶を辿る。
イーリイ伯爵が私を連れ去ろうとしたとき、変装をしたエディが地面から飛び出した。
ボロボロの布を纏い、手作りの大剣を背負い、自らを「勇者」と名乗って。
すると伯爵がエディに発砲した。
私は我を忘れて、伯爵の腕に飛びつき、拳銃を胸に抱え込んだ。
その瞬間、胸に衝撃を受けた。
「お姉様、生きてて良かったあ!!」
アンドレアが泣きながら、私の胸にむしゃぶりついてきた。
銃で撃たれた私は、気を失ったらしい。
そのあいだに、あの夢を見たのだ。
しかしどうして、気絶しただけで済んだのか。
銃弾はーーどうなった?
「アンドレア、よしなさい。15歳にもなって、みっともないわよ」
そう言って弟の身体を押しやると、衝撃を受けた左胸の辺りを触ってみた。
服に穴が開いている。そして、その周りが少し焦げていた。確かに銃弾は服を貫いたのだ。
それはブラウスの胸ポケットの位置だったが、中に何かが入っていた。形は四角い。ポケットに手を入れて取り出す。
それは、円い穴の空いた小さな箱だった。
(そうかーーアンドレアからのプレゼントを、私は無意識にポケットにしまったんだわ)
箱を開けた。
中には、ひしゃげた銃弾と、2つに割れた虹色に輝く石があった。
「あっ、魔石が!」
アンドレアが叫んだ。
「生命力アップの魔石が割れてる! そうか、魔石がお姉様の命を護ったんだ!」
そのとき、女の悲鳴のような声が響いた。
「そうだったのか!!」
声のほうを振り向くと、地面にへたり込んでいたチャールズ・イーリイーー人呼んで吸血鬼伯爵の姿が眼に入った。
「てっきりお嬢様を殺してしまったと思った……もう駄目だ、自殺するしかないと思った……助かった……奇跡が起こった……」
「何を言うか、この馬鹿者!」
父上がつかつかと歩み寄り、伯爵の頭をゴツンと殴った。
「何が奇跡だ! 貴様には、どうしてジュリアが死ななかったのかわからんのか!」
伯爵が力なく首を振った。
「なら教えてやろう。由緒あるレヴォワール家の伝統であり、宿痾でもある溺愛が、ジュリアを死なさなかったのだ。愛は万能とはまさにこのことだ!」
私にはまるで意味不明だったが、父上とお兄様と弟は感涙に咽び泣いた。
そしてなぜかイーリイ伯爵も、
「皆様の溺愛に感動しました! 私にはまだまだ溺愛が足りません。修行して出直して参ります!」
どういう修行をするのだろう? これまた意味不明だったが、父上は伯爵を抱き締めて、男4人で号泣した。
馬鹿馬鹿しくなったのか、パトリシアお母様は帰った。
私は、エディが飛び出してきた地面のところに行った。
不思議なことに、そこには穴も何もなかった。
(いったいどんな技を使ったのかしら。私の知らないあいだに、ずいぶん冒険者の修行をしたみたいね。次に会うときは、夢で見たように、本当に私を連れて逃げてくれないかしら?)
森のあちこちに眼をやった。
でも、もはや「勇者」エドモンド・アラベスターは、まるで砂漠に吹く風のようにどこかに消え去っていた。