6.誘惑の甘い囁き
チャールズ・イーリイ伯爵。
仇名は吸血鬼。
狙った獲物(女性)は必ずものにするから、そういう仇名がついたのだという……
「ジュリアお嬢様。私の愛をどうぞお受け取り下さい」
その声は、女性のように高かった。
そしてその唇は、まるで紅をつけた女性のように赤い。
唇の皮膚が薄くて、血の色が透けて見えるのだろう。それにしても、つい血を吸った吸血鬼を連想してしまう。
(もしかしたら本当に、イーリイ伯爵は何かの魔物なのかもしれない)
そんな凶々しい空想に怯えていると、
「おや、震えていらっしゃる。こんな大きなコートを纏っているのに、まだお寒いのですか?」
伯爵の身体からは、馥郁たる芳香が放たれていた。
嗅いだことのない香水の匂い。
眩暈がしそうだ。
匂いのせいなのかどうなのか、力が抜けて、伯爵の腕から逃げたくても逃げられなくなっている。
そうだ。
家族以外の男性に、身体を触られたのは初めてだった。
父上に禁じられて、舞踏会でも男性に手を引かれて踊ったことはない。
ましてや、このように抱きすくめられて密着したことなど……
眩暈の原因はここにあった。
心臓が、早鐘のように打っている。
こんなに速く心臓が動いたら、死んでしまうのではないだろうか?
嗚呼……
どうして?
どうして私は、こんなにドキドキしているの?
はしたなくも、伯爵を好きになってしまったの?
そうじゃなかったら、もっと本気で抵抗するはずよ。
「ジュリアお嬢様。私がこれほど好きになったのは、あなたが初めてです」
チャールズ・イーリイ伯爵の、甘い囁き。
「私はもう他の女性には近づきません。あなたが望むなら、他の女性とおしゃべりもしません。あなただけを愛します。一生大切にします。ですから私と、結婚して下さい」
返事はできなかった。
身体が痺れて、首を振ることもできなかった。
ただ勝手に、眼から涙が流れた。
何の涙だろう?
自分の心がわからない……
「その汚い手をジュリアから離せ!!」
走ってこの場に現れた父上が、怒声を響かせた。
「貴様! 今ここで決闘してやる!!」
続いて現れたお兄様も叫ぶ。
「お姉様に何をする! 僕が相手だ!!」
弟も吠えた。
「皆様、誤解しないで下さい」
イーリイ伯爵が、女性のように高い声で言った。
「私は本気でお嬢様を愛しています。遊びではありません。もしお嬢様をいただけないのでしたら、生きている意味がありません。死んだほうがましです。ですからどうか、私たちのあいだを引き裂こうとはしないで下さい。ほら、このように、お嬢様も力を抜いて私に身を委ねておいでです」
違う! と叫びたかった。なのに、どうしても声が出ない。
「この腐れ外道め! いいか、貴様なんぞより、わしのほうが100倍ジュリアを愛している!」
興奮した父上は、胸を掻きむしって言った。
「わしはジュリアのためなら、地位も名誉も財産も捨てられる。いや、妻も息子も、自分の命さえも捨てられる。それほどまでに、一途に娘を溺愛しておるのだ!」
「お言葉ですが、お父様」
レオナルドお兄様が、割って入った。
「俺はジュリアを、お父様の1000倍愛しています。もし魔王が現れて、我々の住む星とジュリアのどちらかを寄越せと要求してきたら、俺は迷わず星のほうを渡す!!」
「お兄様」
弟のアンドレアも言い募った。
「僕はお兄様の、1万倍お姉様を溺愛してます。もし大魔王が来て、ジュリアお嬢様の髪の毛を1本くれたら、この世に存在する全ての召喚獣をやろうと言われても、僕は絶対にお姉様の髪の毛を渡さない!!」
「フフフ」
イーリイ伯爵が、赤い唇をつり上げて笑った。
「あなたたちは、確かにお嬢様を溺愛していらっしゃる。しかし私も溺愛しています。問題は、誰の愛にお嬢様が溺れるかです。ほら、ご覧なさい。私に抱かれて、お嬢様はまるで海で溺れたかのようにアップアップしておられますよ」
私は息も絶え絶えになっていたが、それは決して、伯爵の愛に溺れていたからではない。男性との密着という、未知なる状態が続き過ぎて、呼吸困難に陥ってしまったのである。
「テメー、馬鹿野郎、死ね!」
父上が、公爵らしからぬ汚い言葉を吐いた。
「溺れるのは、ジュリアのほうじゃない。溺愛している側だ! 見ろ!」
リカルドお父様とレオナルドお兄様とアンドレアが、3人揃ってその場でアップアップとやり始めた。
その勝負の仕方、間違っていると思いますわ……
チャールズ・イーリイ伯爵に抱きすくめられて、呼吸困難になっている私。
それを見て、アップアップとやっているレヴォワール家の男3人。
さらにそれを見て、天を仰いでいるパトリシアお母様。
(最悪のシチュエーションだわ。お願い、神様。この状況からどうか救い出して!)
どうしていいかわからず、思わず必死に神頼みをしたとき、奇跡が起こった。
私から見て右手のほうの地面から、突然ぬっと手が生えたのだ。
そして、その手の人差し指の先からは、小さな炎が出ていた。
(あっ、あれは!)
間違いない。
エドモンド・アラベスターーーエディの手だ!!
(エディは、「俺が吸血鬼伯爵を倒す」と言っていた。だから、伯爵のあとをつけてニタイの森まで来て、地面に潜んだのね。どうしてわざわざ土に潜ったのかはよくわからないけど、とにかく冒険者の真似をしてきたからこそ、できる技だわ)
地面から生えた手は、勝利を確信したかのように、Vサインの形をつくった。
私以外の誰も、まだそれに気づいていない。
「フフフ。では私も遠慮なく、溺れるとしましょう」
イーリイ伯爵がそう言うと、私の耳元で、溺れる人のように荒い息をし始めた。
「救けて!!」
エディの手を見て勇気づけられた私は、ようやく声を出すことができた。
次の瞬間ーー
手の先の炎が、こちらに向かって真っ直ぐに飛んできた。




