4.森の奥で
森に分け入るといつも思う。
ここはファンタジーへの扉だと。
感じるのだ。
妖精の気配を。
眼に見えない生き物が、人間を見てクスクス笑っている気配を。
森の奥には、きっと誰も知らない泉がある。
そこにはきっと、何千年も前から生きているお爺さんがいる。
私はそう信じている。
「ジュリア、気をつけろ」
父上が私を振り向いて言う。
「木の根っこだと思って踏むと、魔獣の触手だったりする。だから必ずわしの踏んだところを歩くのだぞ」
「あら、わたくしの心配はして下さらないの?」
私のすぐ前を行く母上が不満を洩らす。
「娘の溺愛もいいけれど、夫には妻を溺愛する義務もありますのよ」
「2人の女を、同時に溺愛はできない」
「何をおっしゃってるの? 妻と娘ですよ。恋愛結婚したのはどちらですの?」
「忘れた」
父上は、ゴツゴツした根っこをひょいと跨いだ。
母上が私をにらみつける。
「まさか自分が腹を痛めて産んだ子に、男を奪われるなんてね……いい笑い種だわ」
胸を拳銃で撃たれたように感じた。
「お母様、私は奪ってなどおりません! お父様は、変わらずお母様のものです」
「よく言うこと。人の男の心を盗んでおいて。あなたみたいな子を、世間では泥棒猫と呼ぶのよ」
あまりにもひどい言葉に、その場に頽れそうになった。
「泥棒猫だなんて……お母様、私はお母様を好きなのに、お母様は私を憎んでいますのね」
「昔は可愛かったわ。でも今は、ライバルになった」
「お母様には到底敵いません。決してライバルなどにはなれません」
「フン、若いからって何よ。わたくしのほうが、こんなに胸だって大きいのに」
母上が父上に追いついて、後ろから抱きついた。
豊満な胸を、父上の背中に思い切り押し付けて。
しかしーー
「何をするかっ!」
父上は烈火の如く怒り、母上を突き飛ばした。
母上は倒れて、木の根に背中と頭を打ちつけた。
「大丈夫か!?」
父上が血相を変えて、私のほうに飛んできた。
「泥ははねなかったか? お前の透き通るような白い肌に、汚い泥がついたら大変だ」
「わあ、ひどい、わあ!」
服も髪も泥にまみれた母上が、慟哭した。
「わたくしを洗って下さい! 動物や魔獣のフンがついたかもしれません。今すぐ家に運んで洗って下さいまし!」
「うるさい! お前はわしに抱かれたとき、もはや女としては穢れたのだ。フンくらいでガタガタ言うな!」
耳を塞いだ。両親の口喧嘩を聞くと、それこそ心が穢れる気がした。
「それに比べてジュリアの、何と穢れなきこと。ああ、愛おしくてたまらない……」
(いいえ、お父様)
心の中で呟いた。
(私には、好きな男性がいます。貴族をやめて平民になるかもしれない、エドモンド・アラベスターを。これでも私は穢れていませんか?)
「ほら、そこに朝まで寝てるつもりか? お前の可愛いレオナルドとアンドレアが心配なんだろ?」
お兄様と弟の名を聞くと、母上が弾かれたように起き上がった。
「そうよ。何をぐずぐずなさっているの。ジュリア、わたくしについた泥を払って」
私が、母上の背中に手を伸ばそうとするやいなや、
「汚いものに触るな!」
父上が割って入り、母上の背中をはたいた。
「あっ!」
必要以上の父上の力に、母上が呻いた。
「まるで鞭で打たれているようですわ。もう勘弁なすって下さい」
「お前の穢れは、これくらいで取れはせん。身体の芯にまで汚れが染み込んでいるからな」
「……ひどい」
母上の涙を見たくなくて、眼を逸らしたときだった。
静寂の森に、1発の銃声が轟いた。
「む? レオナルドの自動拳銃か?」
父上がそう言い、母上は蒼褪めた。
「あっちだ」
駆け出した父上と母上のあとを追う。
するとーー
「アンドレア!!」
母上が悲鳴を上げた。
弟のアンドレアが、頭にリンゴを載せ、樫の木に寄りかかって立っていたのだ。
そして、そのおよそ15メートルくらい離れた位置に、レオナルドお兄様が拳銃を構えて立っていた。
風に乗って、火薬の匂いが漂ってきた。
「よしなさい! アンドレアちゃんを殺す気?」
母上がメデューサのように髪を逆立てて、レオナルドお兄様に飛び掛かっていった。
「危ないですよ、お母様。女は下がっていて下さい」
拳銃を奪おうとする母上を制して、お兄様が淡々と言った。
「止めても無駄です。俺は明日決闘に臨みます。相手と背中合わせの状態から、10歩歩いて振り向いて撃つのです。その距離は約15メートル。互いに撃てるのは1発。その1発で、相手の眉間を確実に撃ち抜くための練習です」
「何言ってるの? 気は確か? 弟にもしものことがあったらどうするの?」
「僕なら平気です、お母様」
頭に載せたリンゴを手で押さえながら、アンドレアが言った。
「僕はまだ死にません。だって、ジュリアお姉様を愛してるから!」
その絶叫の論理は、全然理屈が合っていないように感じた。
自分の頭にあるリンゴそっくりに、頬を紅く染めたアンドレアに私は言った。
「お姉ちゃんを溺愛してくれてありがとう。でもどうして、お姉ちゃんを愛していたら死なないの?」
「当たり前だよ。死んだらお姉様にもう会えないもん!」
アンドレアはしゃくり上げて流涕した。
「お姉様の顔を見ることも、声を聞くことも、近づいて香りを味わうことも、体温を感じることもできなくなるんだ。そんなのは耐えられない。だから僕は死なない。この愛の強さの前では、死神も絶対に避けて通るはずだって、僕は信じてるんだ!」
「よく言った、弟よ」
レオナルドお兄様が、感情を昂らせて吃った。
「お、お、俺も、ジュ、ジュリアを溺愛しているからよくわかる。俺だって、弟殺しの罪で牢につながれたくはない。そ、そんなことになったら、ジュリアの香りを嗅げなくなってしまうからな」
明日から香水を変えよう。そう決意した。
「とにかく2人とも、実弾はやめろ。溺愛の深さは疑うべくもないが、わざわざ危険に近づくことはない。さあ、その拳銃を渡せ」
「お言葉ですがお父様、これは渡せません。もうあとには引けないのです。俺はこの銃で決闘します」
リカルドお父様の命令を、お兄様はきっぱりと拒否した。
するとお父様が、私に視線を送った。
(頼む、お前から言ってくれ。愛する妹の頼みなら、こいつは絶対に聞くから)
お父様の眼には、そう書いてあった。
私はレオナルドお兄様の睫毛の長い眼を、真っ直ぐに見て言った。
「私に、それくれる?」
「うん!」
お兄様から拳銃を受け取ったとき、パトリシアお母様の両眼から、炎がメラメラと立ち昇ったのが見えた。