34.走馬灯
振り向いた。
そこにエディがいた。
何の変装もしていない、臙脂色のコートを羽織ったエディが……
「驚かせてごめん。それから、待たせたことも」
しゃがんだ姿勢から立ち上がって、エディと向かい合った。
「ありがとうエディ。私を迎えに来てくれたのね?」
「白馬は調達できなかったけど」
エディがおもむろに、片膝をついた。
私の手をとり、口づけした。
震えが走った。
「ジュリアお嬢様。結婚して下さい」
はい、と言っただろうか?
言ったつもりだけど、声にならなかったかもしれない。
声は出なくても頷いた。
何度も何度も、頷いた。
「バブルガム宮殿で最後に会ったとき」
世界から音が消え、エディの優しい声だけが響いた。
「命を懸けて、ジュリアを護れる男にならなければと決意した。その自信がつくまでは逢いに来ないと。そして3か月間、山に籠って修行した。ようやく自信がついたよ」
エディは微笑んだまま、人差し指を立てた。
「1年前は、小さな炎しか出せなかった」
その指を、ピストルのように構える。
「今はこの通り」
バン! と口で言うと、炎の弾丸が発射され、サクラの巨樹の幹に当たった。
巨樹が揺れ、満開の花びらがひらひらと舞った。
「木を傷つけない程度に調節した。本気を出せば、この20倍の威力のファイヤボールを放てる」
エディの顔が引き締まった。
「もちろん、人に対して使うつもりはない。あくまでも魔獣用だ。だけど、レヴォワール閣下は、どうあってもこの結婚を認めないだろう。ジュリア」
エディが真剣になると、こんなにも凛々しい顔になるのかーーと、私は圧倒される思いだった。
「きみを連れて、世界の果てまで逃げる。そのためには、冒険者の技で威嚇する必要も出てくるだろう。ジュリアの父上や兄上や弟さんに、少々手荒な真似もするかもしれない。それでもいいかい?」
はい、と今度は、小さな声が出た。
「もう2度と、家族には会えない。それでも?」
これにも「はい」と答えたかった。
だけど……
思い出が、走馬灯のように巡る。
赤ん坊のころから、愛されて育った。
ジュリアがいちばんだ、と毎日言ってくれた。
私のすべてを褒めた。
この胸は、いつも温かいもので満たされていた。
10代になるころ、それを重荷と感じるようになった。
父上やお兄様や弟がまとわりつくのは、他の家族と比べて異常であることに気づいた。
ジュリア・レヴォワールは溺愛の砦に幽閉されている。
こんな不幸な境遇はない、と思いつめ、運命を呪うまでになった。
でも……
もう2度と会えないと考えると、息が苦しくなる。
何と言っても、父上もお兄様も弟も、私を心から愛しているのだ。
一度だって、悪いことを言われたりされたりしたことはない。
その人たちを裏切れるか……
文字通り、身体が2つに引き裂かれそうだった。
「わかった、ジュリア」
無言でいると、エディが優しく微笑んだ。
「そんなに苦しい顔を見たくはない。結婚は延ばそう」
「待って!」
必死に叫んだ。
「家族と別れるのは、正直言ってつらいわ。だけど、あなたと別れるのは、もう、無理」
「まだ付き合ってもいないのに?」
エディは笑いかけたが、私の頬を伝う涙に、笑みを消した。
「そこまで想ってくれるのは嬉しい。それだけに、きみにつらい思いをさせたくない。どうだろう。レヴォワール閣下やレオナルドさんに、ジュリアの気持ちを正直に話してみたら?」
「それこそ無理」
これについては、結論が出ていた。
「溺愛は、レヴォワール家に代々伝わる宿痾なの。つまり治らない病気。生まれつき匂いのわからない病気の人に、薔薇の匂いを教えるのは無理でしょう?」
「しかし病気なら、治療法が見つかる可能性がある」
「私には想像がつかない。少なくとも、現時点で治療法はないわ」
指で頬の涙を拭った。
「もしこの気持ちを話したりしたら、私は城に閉じ込められてしまう。そうなったら、あなたと一緒になれるチャンスはない。だから、何も言わずに逃げるしかないの。私を愛してくれる家族を裏切るのは、それこそ血を吐くようにつらいけど、それしか方法はない。この溺愛という病気から逃れるには」
「それで後悔しない?」
苦しい質問だ。しかし、それは正しい質問であり、必ず答えなければならない質問だった。
「ええ。後悔はしない。だって、私の人生ですもの。私は、私自身の溺愛を貫きたいわ」
ねえ、エディ。
わかってくれる?
あなたのためなら、すべてを捨ててもいいの。
親兄弟との縁を捨てるのはもちろん、どんなに貧乏をしても、どんなに危険な目に遭ってもいい。
あなたさえいたら。
そういう人に出逢えた私は、たぶん、世界でいちばん幸せだ。
「じゃあ、準備はいい?」
この家から、何も持たずに逃げ出す準備はできているかーーという意味で、エディは訊いたのだ。
迷わず「はい」と答えた。
レオナルドお兄様が、リカルドお父様とアンドレアに、エディの求婚のことを話しに行っている。
それを聞いたときの父上の反応を想像する。
急がないと、中庭から脱出できなくなってしまう。
迷っている時間はなかった。
がーー
「おーい、ジュリアあぁぁぁ!」
首すじの毛が逆立つ。
(しまった。お父様に見つかった……)
どうしよう。
逃げるべきか?
でも私の足で、逃げ切れるか?
「ひとまず俺は隠れる。しかし必ず迎えに来る」
エディはそう言うと、飛沫も上げずに池に潜った。
(エディ……)
こちらへ向かってくるリカルドお父様の姿を見ていると、巨大な溺愛の壁が迫ってくるように感じて、私は気が遠くなった。




