3.秘密の花園
(エディが吸血鬼伯爵を倒す? どういうこと?)
意味がわからずに聞き返そうとしたとき、
「じゃ、そういうことで。善は急げだ」
と言うなり、エディはさっと薔薇垣の中に消えた。
まるで奇術師のように……これもまた、友達の冒険者からコツを教わった技なのだろう。貴族の自覚はゼロだ。
茫然と立ち尽くした。
レオナルドお兄様だけでなく、エディまで命を危険に晒そうとしている。
男の人って、危ないことが好きなのかしら?
それでもし死んだら、身近な人が悲しむことを考えないのかしら?
エディが死ぬ、ということを想像した。
すると薔薇の色が滲んで見えた。
両の眼に、たちまち涙が溢れたのだ。
この感情は、間違えようがない。
私はエディが好き。
幼馴染のエドモンド・アラベスターを愛している。
いずれ平民になる、冒険者になりたがっている夢想家のエディを。
好き。
愛している。
まるで魔法の言葉だ。
この言葉を思い巡らすだけで、ほかのことはすべてどうでもよくなってしまう。
貴族の資格を剥奪されてもいい。
財産を失ってもいい。
家族から石を投げられて王国を追い出されてもいい。
大好きなエディと一緒になれるなら。
エディはどうなんだろう?
チャールズ・イーリイ伯爵と闘うのは、私のため?
危険を冒して庭に侵入したのは、私に逢うため?
白い歯を見せて笑いかけたのは、私を好きだから?
ねえ、エディ。
あなたも私のこと、子どものときからずっと好きなの?
「ジュリア!」
突然の声に、飛び上がった。
「何をしてる。風邪をひくぞ!」
さっと振り返る。声の主はーーリカルドお父様。
例によって、私を見る父上の瞳には、ハートが2つ輝いていた。
「ブラウス姿で庭を歩くなんて……もしお前が風邪をひいたらと思うと、わしは悲しみで気を失ってしまいそうだ」
「そんな、お父様。もう春ですから、この服装でも暖かいくらいです」
「ならん! 春を甘くみるではない! さあ、わしのコートを着るのだ」
父上がお散歩のときによく着る、ビロードのロングコートを脱いで、有無を言わさず私に着せた。
コートは父上の湿気を吸って重かった。
父上の顔を見上げると、額に汗がびっしりと浮いていた。
「……お父様、やはりコートは暑いのではないですか?」
「いや違う。お前が好き過ぎて、汗が噴き出て止まらなくなったのだ」
父上の愛はーー怖い。
「ジュリア。好きだ」
「……存じております」
「父親が娘を愛する、いいや、溺愛するのは、当然のことだろう?」
「お父様とお母様の慈愛には、1日たりとも感謝を忘れたことはございません」
「娘の初恋の相手は父親だという素晴らしい金言がある。愛するジュリアよ、この言葉は真実かな?」
「恋などという世俗的な言葉では、到底言い表すことはできません」
それは、絶対に「恋」ではないという意味だったが、父上は非常に満足した様子で、
「どうだ? わしの身体から出た愛をたっぷり吸ったコートは、この世のものとは思えないほど暖かいだろう?」
「はい、お父様。とてもこの世のものとは思えません」
できるだけ、父上の汗の匂いを吸い込まないようにした。
「ジュリア。妻には内緒だぞ。これで欲しいものを買いなさい」
父上は声を潜めると、私に着せたコートのポケットに手を突っ込み、そこから金の延べ棒を取り出した。
「まあ、お父様、そんなものが。だからコートが重かったのですね」
「さあ受け取りなさい。お小遣いだ」
「これはいくら何でも多過ぎます」
「いいから、いいから」
父上は私を抱きすくめるようにし、金の延べ棒をぐいぐい手に押し付けてきた。
父上の息が荒い。
「……いけません、お父様」
「いけなくない。いいのだ、我が愛する娘よ」
父上の顔は濃い。眉は太く、眼は二重で、鼻梁が高く、口は大きく、立派な鼻髭がある。
それが近くに迫り、私はギュッと眼を閉じた。
「固くなってるな、ジュリア。お父さんからのプレゼントだよ。遠慮することはない」
「受け取れません」
「妻を気にしているのか? お前と妻とでは、比較にならない。どっちを愛しているか、わかるだろう?」
「お父様、肩が痛い……」
父上の恐ろしい指の力で、私の華奢な骨は折れそうになった。
「あなた」
そのとき、救いの声がかかった。
パトリシアお母様が、「溺愛の花園」に現れて下さったのだ。
「あら、またジュリアを溺愛されていましたのね」
オホホと、高い声で母上は笑った。
口を隠した上品なその姿は、娘の眼から見ても妖艶だった。
父上が、私から手を離した。
「パトリシアよ。ジュリアを産んでくれてありがとう」
「何年前の話? ほかにお礼を言って下さることはないの?」
「ジュリアを育ててくれてありがとう」
「それだけ?」
「それで充分ではないか」
母上は肩をすくめた。その仕種は、私の10倍も色気があった。
「ねえ、あなた。ちょっと心配なことがあるの。来て下さらない?」
「来る? どこにだ?」
「レオナルドちゃんとアンドレアちゃんが、拳銃を持って出ていったの。森へ行くと言って」
「森? すぐそこの、ニタイの森か?」
「たぶん。でも心配だわ。危ないことをするつもりじゃないかしら?」
「魔獣でも狩る気だろう、きっと。卑しい冒険者の真似をして」
父上が吐き棄てるように言った。父上は、貴族が貴族らしくない行動をすることをひどく嫌う。
「あなた、森に行って下さらない? もし2人が危険なことをしていたら、連れて帰っていただきたいの」
「お前とジュリアも来い。最近あの2人は,わしの言うことより、お前たちの言うことをよく聞くからな。特にジュリアの」
父上はそう言うと、ポケットに愛用の回転式拳銃があるのを確かめて、大股に歩き出した。
そのあとを追って歩いた。すると母上が、ロングコートの襟を引っ張った。
「これ、お父様が着せたの?」
母上に顔を振り向けて答えた。
「はい、お母様」
「風邪をひくのが心配だから?」
「……はい」
「ふーん。そんな優しいこと、お父様は、わたくしにはちっともして下さらないわ」
母上は、大きな瞳で私を上から下までじろじろ見た。
「実の父親を惑わすなんて、ジュリア、あなたは本当にすごい娘ね」
そう言うと、丈の長いスカートを翻して歩いていった。
私はしばらくその場に立ち尽くした。