17.賢者様に狙われた私
奇術師子爵の騒動から、3か月が過ぎた。
季節は秋。
愛馬〈ドウティング〉に跨っての、紅葉を眺めながらの中庭の散歩が心地よい。
ドウティングとは、異国の言葉で「溺愛」を意味するらしい。むろん、名付け親はリカルドお父様だ。
ちなみにレオナルドお兄様の愛馬は〈オンリーラヴァー〉で、アンドレアは〈ラブパッション〉、父上は〈クレイジーアバウトユー〉である。
「ジュリア!」
サクラの樹下で〈ドウティング〉を止め、赤や黄色に色づいた葉に手を伸ばしていたとき、パカラッパカラッという馬の駈歩の音が聴こえてきた。
(中庭で駈歩なんて……せめて速歩でないと危ないわ)
猛然と馬を走らせて迫ってきたのは、顔面を紅潮させたレオナルドお兄様だった。
「おまおまおまおまおまおまおまおまおま」
お兄様が手綱を引いて〈オンリーラヴァー〉を止めた瞬間、私は拳でお兄様の顔面を殴った。
お兄様は後ろ向きに1回転して落馬した。
「気持ちいい!」
レオナルドお兄様はすぐに立ち上がり、はしばみ色の瞳をキラキラと輝かせた。
「一度お前に全力で殴られたかったんだ。これで積年の夢が叶ったよ!」
私は気持ち悪いです、と喉まで出かかったが、何とか堪えて馬から降りた。
「お兄様、落ち着いて下さい。庭で駈歩はいけません」
「待て待て待て待て待て待て。これが落ち着いていらいらいらいらいいらいらいら」
殴る構えをしたら頬を出してきたので、もう諦めた。
「吃らずに話せませんか? まず何があったかを言って下さい」
「いや、すまん。お前が好き過ぎて、つい」
「ありがとうございます。特に嬉しくもないですけど」
「ゾクッ! さすがジュリア。俺の歓ばせ方を熟知しているなあ!」
泣きたくなった。
レオナルドお兄様は、超絶美男子だ。
それなのに、私を溺愛しているせいで、何かが完全におかしくなっている。
たぶん誰とも結婚できまい。哀れだ。
「ジュジュジュジュジュジュジュジュジュリア」
「はい、何でしょう?」
「たたたたたたたたたたたたたたたた」
「何が大変なのですか?」
「おまおまおまおまおまおまおまおま」
すると突然〈ドウティング〉がイラッとした顔をし、後ろ脚でお兄様を蹴った。
お兄様はまた後ろ向きに1回転したが、今度は「気持ちいい」とは言わなかった。
「うー、効いた。でもお陰で落ち着いたよ。ところでお前は、ノックス大賢者のことは知ってるだろう?」
「ノックス大賢者? あの有名な?」
お兄様はゴクリと喉を鳴らして頷いた。
「我がアラン王国を訪れて、経済発展のための助言をしてくれているあの【賢者十段】のノックス大賢者が、お前をパートナーにしたいと外務大臣に要求したんだ!」
意味がわからなかった。
「賢者様のお仕事は、政治関係でございましょう?」
「仕事というか、その突出した知恵を、世界のために役立てるのが役割だ」
「お金を受け取らずに?」
「もちろん、国が謝礼を払ってるさ。しかし我が国が雇っているわけではない。賢者は国を渡り歩く。そうして訪れた国や地方で、もっとも必要なことを教授し、やがてまた旅立っていく。まあ、教えられた知恵を活かせるかどうかは、その国の政治家の力量にかかっているがね」
話を聞いて、ますます意味がわからなくなった。
「いったいどうして賢者様は、私なぞをパートナーに?」
「私なぞ?」
レオナルドお兄様が、まるでオーガのような恐ろしい顔をしたので、私は〈ドウティング〉をけしかけるポーズをとって牽制した。
「ジュリア、そう自分を卑下するな。お前の素晴らしさは宇宙よりも偉大なのだから」
「そんなことでいちいち怒らないで。この子が蹴るわよ」
お兄様は〈ドウティング〉から眼を逸らした。
「しかしなジュリア、この話は本当なんだ。外務大臣の第一秘書が俺の親友で、さっき酒場で内密に教えてくれてね。早くお前に伝えなければと急いで帰ってきたんだ」
首を傾げた。
「だけど私は、政治のことなど何も存じません」
「甘いぞ、ジュリア!」
お兄様が一歩近づいたので、私は一歩下がった。
「……なぜ下がった?」
「嫌だからです。それより、何が甘いのですか?」
「ジュリア。お前は、大賢者の知恵を甘く見過ぎている」
「どんなふうにですの?」
「ノックス大賢者の考えていることは、つまりーー」
お兄様は声を潜めて、
「世界一の美女は国を滅ぼすこともある、という昔からよくある事例だ」
と言い、真っ直ぐに私を見た。
「はあ?」
拍子抜けした。
「そういう昔話は聞いたことがありますけど、私はだいいち、世界一の美女なんかじゃありません」
「それが卑下だと言うのだ! お前は世界一どころか宇宙一……あ、蹴らないで」
頼みも虚しく、〈ドウティング〉の蹴りが見事に腹に決まった。
「ぐふっ! でもそれ以外に考えられない。きっと大賢者は、アラン王国を訪れてから美女のことを調べ、お前が国を滅ぼす逸材であることを見抜いたのだ。だからこそ自分のパートナーに指名して、身近に置いておき、国を滅ぼさないように監視することにしたのだろう」
お兄様はそう言うなり、〈オンリーラヴァー〉に飛び乗った。
「さあて、こうしちゃいられない。ジュリアを奪われてなるものか。例えアラン王国が滅びようとも、溺愛する妹は渡さない! 親友の秘書に掛け合って、外務大臣を動かし、ノックス大賢者には諦めていただく!」
私の返事も待たずに、お兄様はパカラパカラと馬を駈歩で行かせた。
(諦めていただくって……そもそも王に知恵を授けるような方が、お兄様の言うことなんて聞いて下さるかしら)
ため息をついた。そして、愛馬の艶の良い焦茶色の背中を撫でた。
「ねえ、ドウティング。賢者様に呼ばれたら、私は行くべきかしら? もし嫌でも、断わることはできるかしら?」
すると〈ドウティング〉が私のほうに顔を向け、言葉を発した。
「大変なことになったなあ、ジュリア」
私は腰を抜かした。