弓田葵
――時刻は午後4時40分。家を出る前に姿見に全身を映したわたしは、どうしてもコーディネートが気になって仕方がなくなって、大慌てで着替え直していた。
いつものようなテーパードパンツを脱ぎ捨てて、長い足をロングスカートへ通す。ついでにTシャツも新しいものに着替える。普段の格好をして外へ出たら、いくら髪を切ったところでマンションの周りにいるマスコミにバレるかもしれないなんてことを考えたのもあるけど、蓮にいつもと少し違う姿を見せたかったというのもある。時間は指定されてないんだし、別に少しくらい遅れたって構わないわよね?
着替えを終えてメイクを再度チェックすれば準備完了。マスクと帽子で変装もしっかりキメて、「よし」と気合をいれたところで玄関から葵の足音が聞こえた。家に来るなんて言ってなかったのに、何かあったのかしら?
メイク室を出ると、リビングの窓際で腕を組み、やけに険しい顔をする葵が見えた。心音もなんだかいつもと違う。
緊張感で背筋が伸びたのは、アイツに会いに行くことを葵に悟られてはだめだと考えたせいだ。外に出るのを咎められても面倒だし、なにより妙な誤解をされたら困る。
平静を装って葵に歩み寄ったわたしは、「どうしたの?」と何でもない風に訊ねた。
「なんかずいぶん怖い顔してるけど、なにかあった?」
「……そうね。なにかあったといえば、なにかあったのかも」
そう言うと葵は口元を笑みで緩めた。今まで見たことのないような、不気味さを感じさせる笑みだった。
「……葵?」
◯
――木場のマンションまで行けば、案の定、マスコミが周囲をウロついている。「ヒマかよ」とぼやきつつ裏口から地下駐車場まで入り、入れ替わり期間中に顔見知りになった警備員に事情を説明して建物の中へ。エレベーターで木場の住む22階まで上がる。
廊下を歩いていると妙なことに気が付いて、というのも木場の部屋の玄関扉が若干開いていた。近づいてみると靴が挟まって扉が閉まるのを妨げているということがわかって、これは不用心と言わざるを得ない。あいつ、自分の立場がわかってるのか?
玄関扉を開け、「入るぞ」と言いつつ中に入ったその瞬間――リビングから何かがへし折れるような大きな音が響いてきた。
迷わず靴のまま廊下に上がりリビングへと駆け付ければ、へし折れた卓球台と倒れ伏す木場――そして、それらを見下ろすように立つ弓田の姿が視界に入った。
木場に向ける弓田の冷たい視線を見て理解した。この状況を作ったのはこの女だと。
「あら。これは少々予想外ね。まさかあなたがここに来るなんて」
そう言って不気味なまでに穏やかに微笑んだ弓田の背後から触手のような機械腕が2本伸びてきて、ぐったりとした木場の身体を抱え上げた。
「……弓田。二度は言わねえぞ。木場を離せ」
「離さない。この子の身体は今後の我々の計画のためにも必要なの」
瞬間、俺は弓田に向かって走り出した。相手が女だろうが構わねえ。全力でぶっ飛ばす。
フロアを割る勢いで思い切り右足を踏み込み、身体を半身捻りながら肘を繰り出す。
当たれば気絶は免れない一撃は弓田の正中線目掛けて突き進んだが――直撃寸前のところで奴の背後から新たに現れた2本の機械腕に防がれた。
「無駄よ。無駄無駄。なんの力も持たない喧嘩自慢が勝てると思ってるの?」
奴が薄く笑うと共に俺の身体は機械腕によって空き缶みたいに軽く投げられ、壁に叩きつけられた。骨の軋む音がする。酸素が肺から残らず追い出される。呼吸が遠い。胸が痛い。
「あなたの出番はここで終わりなの。あとは舞台袖に引っ込んで、指を咥えて見ていなさい」
「……ふざけんな。やらせるかよ」
ふたつ、大きく呼吸をする。息を整え戦闘態勢。
顔の前で拳を構えたその瞬間、機械腕が空気を切り裂きながら俺に向かって伸びてくる。肉を貫き、骨を砕く速度。
薄皮一枚で躱したところへ再び伸びてくる機械腕――回避。
弓田の攻撃は容赦なく浴びせられる。文字通り少しずつ身を削りながら攻撃を躱す俺は、奴に向かって一歩、また一歩と距離を詰めていた。
気づけば、拳の制空権内。ほとんどゼロ距離で放たれた一振りを前に出ながら避けた俺は、弓田の顔面に向けて最短距離のストレートを放つ――が、その一撃は背後から忍び寄っていた機械腕により、いとも容易く止められた。
「ここまで食い下がるなんて、本当に驚くわね。どうしてそこまでがんばれるわけ? あなたにとって木場たつきなんて、なんてことのないただの女の子でしょ? まさか、あの子を好きになっちゃったとか?」
「……アホ抜かせ。気に食わねえだけだ、お前の思い通りになるのがな」
「そう。まあ、なんでもいいけど」
弓田がつまらなさそうに鼻を鳴らすと同時に、俺は再度壁に叩きつけられる。
視界が明滅し、意識がドロリと溶けていく。
「じゃあね、サヨナラ。またどこかで会ったらよろしく」
完全に暗転した世界の中、弓田の厭味ったらしい声だけが辛うじて聞こえてきた。
◯
気づくと、俺はソファーに仰向けで寝ていた。額には冷えた濡れタオルが置かれている。不思議に思いつつ痛む身体を起こして周囲を見回せば、そこはまだ木場の部屋だ。窓の外も部屋の中も暗いが、人の動く気配がキッチンの方向から感じられる。
いったい誰がいるのか――と思った矢先、「レンちゃん、大丈夫?」と聞きなれた声が聞こえてきた。キッチンの暗がりから不安そうな表情をして現れたのは亜樹だった。
「……亜樹。どうしてここにいるんだ?」
「だって、いくら待っても全然お店に帰ってこなかったし、電話しても全然つながらなかったし……心配になるよ。当たり前じゃん」
亜樹は俺のそばに歩み寄ると、ソファーのひじ掛けに腰を下ろした。
「レンちゃんは倒れてるし、部屋はこんなに荒れてるし、たつきちゃんはいないし……ねえ、ここでなにがあったの?」
「木場がさらわれた。黒幕は弓田だ。探しに行く」
端的に説明した俺はソファーから立ち上がる。上半身は全体的にズキズキと痛むが、幸いなことに脚にはキてない。痛み止めを強めの酒で流し込んで少し我慢すれば問題なく動けそうだ。
急ぐ心に身体が追い付かない。全身を引きずるように歩いていると、亜樹が背後から俺の背中に弱弱しく抱き着いてきた。
「……ねえ、レンちゃん。もうやめた方がいいよ。もう全身ぼろぼろなんだよ?」
「だったら、木場を放っておけってのか?」
「警察に任せればいいよ。そうじゃなくってもヒーローが動けばいいんだよ。たつきちゃんも心配だけど……でも、レンちゃんに傷ついてほしくないよ、アタシ」
今にも泣きそうな震えた声には強い引力が秘められている。歩みを止めて、その手を取ってもいいんじゃないかと思ってしまうほどに。
それでも――。
「……たしかに俺は警察でもないしヒーローでもない。それに、俺に木場を助けられるだけの力があるのかはわからない。でもな、いまアイツを助けられるのは俺だけなんだ。だったら、やらなきゃいけないだろ。警察でもヒーローでもない、ただの男でも」
亜樹の身体が力なく俺の背から離れる。「ごめんな」とだけ残した俺は、一切振り返ることなく木場の部屋を出ていった。