帝国の崩壊 その2
木場のマンションまで戻ると、駐車場入り口には既にマスコミが大勢待ち構えていた。半ば無理やり輪の中に突っ込み敷地内まで入れば、さすがにここまでは追ってこれないらしく、それらしき人影は見当たらない。それでもなお木場はすっかり怯え切った様子で、自室のリビングに戻るまでその小さな震えが止まることはなかった。
ソファーに深く背を預け、砂糖とミルクたっぷりの温かいコーヒーを飲んだところで、木場の頬にようやく赤みが戻ってきた。ひとまず落ち着いたらしいと思いきや、貧乏ゆすりが依然として止まっていない。
無理もない。俺だって、未だ心臓がバクバク叫んでる。
俺たちと同様にひどく焦っているであろう弓田は、窓の外を険しい瞳で見つめながら「最悪なことになったわね」と呟いた。
「最悪なんてもんじゃないわよ。葵、どうして外を見張ってなかったの?」
「見張ってないわけないじゃない。でも、急に強い眠気が襲ってきて、それで……」
「眠くなったなんて言い訳になると思ってるわけ? 人が来たらどうなるかくらいわかるでしょ?」
言い合いを続けて険悪なムードになってきたふたりの間に、俺は「待てって」と割って入る。
「ふたりとも落ち着け。今は喧嘩してる場合じゃないだろ」
すると木場は不満げにふんと鼻を鳴らし、弓田から視線を外した。
「……アイツ。帝国の崩壊、とか言ってたわよね。つまり、その帝国っていうのはわたしのことだったってこと?」
「わからんけど……そう考えるのが自然だろうな」
「だったらふざけんなって話よ。わたしをハメて、アイツになんの得があるわけ?」
苛立ちを隠せない様子の木場はマグカップに残っていたコーヒーを一気に飲み干した。
「アイツ、見つけたらただじゃおかないんだから」
怒りのおかげで木場がいつもの調子を取り戻してきたところで、弓田が今後についての話を切り出した。
「ピエロの目的についてはともかく、まずはこの状況をどうにかしないとまずいわ。人気ヒーローが男に抱かれてホテルから出てくるなんてスキャンダル、放っておいたらたつきは引退に追い込まれる危険性だってある」
「な――なんでそんなことにならなくちゃいけないのよ?! そもそも、わたしと蓮はそういうんじゃないし!」
「落ち着いて。あくまでそうなる場合も考えられるって話」
「……ああもうっ! どうしてこうなるのよ?!」
――ヒーローは半分公務員半分自営業みたいな職業ではあるが、〝クビ〟という概念はしっかり存在する。そのヒーローの活動する周辺地域から、たとえば「活動している様子が見受けられない」といった苦情が入れば国の調査が入り、いくつかの条件に該当しているとヒーロー活動を行うための資格が恒久的にはく奪される。これがヒーローとしてのクビである。
活動時間内であるにもかかわらずヒーローとしての職務をまっとうせずに男とホテルに行っていたうえ、〝担当区域〟なんてローカルな取り決めを作って活動していたなんてことまで知られれば、木場の資格はく奪はまず免れないだろう。
髪を乱雑にかき上げるなどしてあからさまに冷静さを失っている木場に代わり、俺が弓田と会話を続けた。
「この状況を打開する手はないのか?」
「……クリーンなイメージで売ってたたつきにとって、今回の件は大打撃です。苦情殺到は間違いない。一朝一夕でどうにかなるものじゃありません」
「打つ手なし、ってことか?」
「……とりあえず、記者会見を開きましょう。それで、たつきの口から今回の一件をきちんと説明する。入れ替わりなんて信じて貰えないかもしれないけど……そうするしかない」
「悪いことなんて何もしてないのに、ご迷惑をかけてもうしわけございませんでしたーなんて言って、頭を下げろって言うわけ?」と木場が怒りをあらわにする。
「気持ちはわかるわ。でも、この一件を宙ぶらりんにしたままでヒーローなんて続けられるわけがない。あなたにだってわかるでしょ?」
弓田は木場に歩み寄ると、未だ小刻みに震えるその手をそっと握った。
「私が頭を下げるだけで解決することだったらいくらだってそうする。でも、今回の件だけは別。あなたが表に立たないと、説得力は生まれない」
木場は口を閉ざしたまま何も答えない。しかし弓田は急かすようなことはせず、母を思わせるような穏やかな表情で木場の覚悟を待った。
息が詰まるような長い沈黙が続いた後、「わかった」というか細い声が空気を揺らした。
「……やるわ、会見。ヒーローであり続けるために」
「……よかった。それじゃあ、早速いろいろと手配してくるから。遅くとも今日の夜には開けるようにがんばってみる」
弓田はスマホを片手にリビングを飛び出す。木場も大変だが、弓田だって木場に負けないくらい大変なはずだ。感心を通り越して尊敬する、心から。
「……偉いよ、お前も、弓田も。俺ならきっと、やってられるかって投げ出してる」
「仕事だからね、わたしも、葵も。アンタだって口ではそう言うけど、わたしと同じ立場だったらきっと同じことしてると思うわよ」
木場は俺に顔を向けると、精一杯強気な笑みを浮かべてみせた。
「蓮。アンタは会見には出なくていいけど……近くにはいてよね。なんかあったら、アンタにも頭下げさせてやるんだから」
「このやっすい頭でいいなら、いくらだって下げてやるよ」
◯
記者会見はその日の夜七時に設定された。場所は来田街内にある市民会館の大ホール。1000人規模で人が入れる場所で、どれだけマスコミが来ても問題ないのはもちろん、テレビ中継のための機材スペースは十分。会場について聞いた際、木場は「処刑場にはうってつけね」と自嘲気味に笑っていた。
時刻は午後の六時半過ぎ。俺は木場と共に会場の控室にいた。着慣れていそうにない黒のレディーススーツに身を包み、葬式みたいに青い顔して部屋の隅に縮こまる木場は、落ち着かない様子で絶えず身体を揺すっている。防音イヤリングをしているから外の音は聞こえないだろうが、大量に集まった人の気配は肌で感じていることだろう。
どんなことを言ったところで無駄だとわかりながらも、俺は「大丈夫か、木場」と声をかけた。
「なに。ビビってるように見える?」と木場は無理に笑う。
「ああ、モロにな」
「……心配してくれてありがと。でも平気よ。やらなきゃいけないことだもの」
気丈に振る舞った木場が不器用に親指を立てたその時、部屋の外から「ちょっといいかね」という聞き覚えのある声が聞こえてきた。木場の所属する事務所の社長、名前は山羽といったか。
木場は苦虫を潰したような顔で「なんの用よ」と吐き捨てると、俺に小声でささやいた。
「蓮、隠れてて。アイツ、アンタを見たら訴訟とか言いかねない」
言われた通り、俺は控室にある衝立の影に隠れる。それを見た木場が「どうぞ」と声をかけると、扉が開いて山羽が現れた。
「やあ、たつきくん。これは大変なことになったね」
「何の御用時でしょうか。社長は会見に出られない予定だと伺ってますけど」
「いやなに。ひと足早いが、お疲れ様と言っておこうかと思ってね」
「どういう意味ですか?」
「今回ここで君がどんな釈明をしようとも、ヒーロー引退は免れない。終わりだよ」
「まだそうと決めつけるのは早いと思いますけど」
「なにを馬鹿なことを……。街を守らず男と一緒にホテルに行く。この行動のどこに言い訳の余地があるのかね?」
「だから、あれにはちゃんと理由があって――」
「正当な理由があろうとなかろうと、無駄だ。民衆は見たいものを見て、信じたいものを信じる。いま民衆が見て、そして信じたいのは、君の恥ずかしいスキャンダルだよ。記者会見をすれば何かが変わると君は思っているだろうが、そんなことは断じてありえない。会見では無駄なことは何も言わず、ただ平謝りして、引退宣言でもした方が君の人生の今後のためだ」
我慢ならなかった。本来、この男は木場を護るべき立場のはずだ。それなのに、素知らぬ顔して好き放題ものを言うなんて大人のやることじゃない。
我慢ならなかった。だから俺は、思わず衝立の影から飛び出した。
突如現れた俺を見て、山羽は「君は……」と目を丸くする。
「ちょ、ちょっと!」と焦る様子の木場を片手で制した俺は、山羽の視界を塞ぐよう目の前に立った。
「お前、それでも本当に社長かよ」
「ああ。見ての通りだ」
「だったらお前の仕事は木場を煽ることじゃなくて、護ることのはずだろ? 何やってんだ、こんなところで」
山羽の目つきがあからさまに険しいものへと変わる。苛ついたか、腹が立ったか。何だっていい。こっちだって苛ついてるし腹が立ってる。
負の感情を腹の底に押し込めるように鼻から小さく息を吐いた木場は、ゆっくりと俺に背を向けた。
「君とはいずれ一対一で話がしたい。そのつもりでいてくれてまえ」
山羽は捨て台詞を残して部屋を出ていく。廊下から足音も聞こえなくなったところで、木場は緊張の糸が切れたようにふっと笑った。
「アンタ、バカね。裁判になったらどうすんの?」
「いいんだよ。向こうにそのつもりがあるなら、遅かれ早かれ同じことになってたはずだ」
その時、「たつき、そろそろよ」と弓田が廊下からこちらに呼びかけてきた。「了解」と軽く答えた木場は自らの頬を軽く叩くと、颯爽と控室を出ていく。
「木場。こんな面倒な仕事、とっとと片付けてこい」
軽く固めた右拳を挙げて答えた木場は、肩で風を切って歩くヒーロー然とした足取りで〝バケモノ退治〟に向かった。
◯
バットガールこと木場たつきの記者会見は定刻通り7時ちょうどに始まった。会見場では飢えた野良犬みたいな眼をしたマスコミ共がカメラを構えており、その場にいるだけで人の悪意にあてられて頭がおかしくなりそうだ。
控室のテレビから中継を見守っていると、神妙な面持ちをした木場が弓田に連れられて舞台袖から現れた。途端にフラッシュが激しく焚かれ、画面越しにも関わらず視界が眩む。
席の前で静止した木場と弓田は、マスコミ達の方へ向き直すと、深々と一礼しその体勢で身体を固めた。するとまたフラッシュの洪水が浴びせられる。
一分強ほど頭を下げた後、着席した木場は右手にマイクを取って語り始めた。
「皆様、本日はお集まり頂きましてありがとうございます。まず、この度はファン並びに関係者の皆様方に多大なるご迷惑とご心配をお掛けしてしまいまして、大変申し訳ございませんでした。しかしながら、本日、記者の皆様にお集まりいただいたのは謝罪のためだけではございません。この度、なぜこのようなことが起きたのか、きちんと一から説明を――」
「その前に、ひとつだけよろしいですか?」
記者席の中から男のしゃがれ声が上がる。不躾な物言いにあからさまに怪訝そうな表情を浮かべた弓田は、マイクを取って質問した男を鋭く見た。
「申し訳ありませんが、質問は後にしていただいて――」
「いいの、葵。わたしは構わないから」
木場の答えに不安そうに眉を下げながらも、弓田は「では、そちらの方」と男を指す。
男は不快な喋り方でベラベラと語り出した。
「僕としましてはねぇ、ここにいる凡百のマスコミと違って、バットガールがどこのどんな男と寝ようがどうだっていいんですよ。それよりも僕はねぇ、ヒーローにはヒーローらしいことをしてほしいわけですよ。わかりますよねぇ?」
「ええ、もちろん。ですから――」
「なぁにがもちろんだよなにが! オタクらがやってることなんて全部わかってんだよ!」
声を荒げた拍子に男がテレビに映る。クタクタになったネイビーのスーツを着た、いかにも野良記者といった風体の男だ。
男の発言に会場は騒然とし、警備員が動き出す。テレビには困惑した木場の姿と敵意をむき出しにした表情の男の姿が映る。
ひりついた空気の中、男は矢継ぎ早に続けた。
「〝担当区域制度〟、だったよなぁ! 自分が担当する区域の中にいる人だけを守る。逆を言えば、その担当区域とやらの外にいる人はどれだけ困ってても知らん顔ってわけだ! そんなのが許されると思ってんのかよ!」
男は懐から四つ折りの紙を取り出し、それをカメラに見せつけるように広げた。それは担当区域について書かれた記事のゲラ刷りで、タイトルは『ヒーロー業界という帝国の崩壊』。
「週明けにはこの記事が善良な市民の皆さんの目に触れることになる。アンタらヒーローは、そうなったらどうなるんだろうなぁ?」
勝利宣言の如く男が高々に叫んだその瞬間、その場にいたマスコミ連中は肉に群がる狼のように木場の元へと駆け寄った。