ヒーローとして
マンションを出てからしばらく経った。外はすっかり日が暮れている。腹が減ったので適当な牛丼屋で飯を食ったら、店員が終始こっちを見ているもんだから食いにくくってしょうがなかった。いいだろ、ヒーローが牛丼食ったって。
サインを求める声を振り切り店の外へ出る。来田街の夜は今日も騒がしい。あちこちで人が生きている音が鳴り響いている。両手を目一杯に広げたって、この音の主を全員護るなんて無理だろう。そんなことはわかってる。でも、それをやるのがヒーローなんじゃないのか。ガキみたいな理想論だが。
こういう時は酒を飲むに限る。けど、どうせこの身体じゃコンビニに行ったところでアルコールは売ってくれないだろう。とりあえず亜樹の店にでも行くか。亜樹はこの身体の俺に酒を出してくれないだろうが、星野くんをちょっと〝誘惑〟でもすれば、あるいは缶ビールくらいにはありつけるかもしれない。
そんなことを考えながら夜道を歩いていると、背後からクラクションを鳴らされた。振り返ると、見覚えのあるねずみ色のバンがヘッドライトでこちらを照らした。
横づけされた車の窓から顔を出したのは木場だった。
「何の用だよ、不良女」
「どっちかっていうと、いまのアンタの方が不良女に見えるけど」
木場は口元を笑みで緩める。
「アンタを探してたの。急に家からいなくなるんだもん」
「そうかよ」と答えた俺は真っ直ぐ歩き出す。木場の運転するバンが俺をゆっくりと並走した。
「昔から思ってたけど、この街の音ってどうしようもなく品がないわよね。ギラギラしてて、加減がなくって……。この街を担当してくれって言われた時、『ここを守るの?』って思ったもん」
「……どうでもいい話するためについて来たのか?」
「そうね。それと、アンタがその身体で酒でも飲まないか心配になって」
妙に勘の鋭いヤツ。「飲むかよ、そんなの」と返したその時――「助けて!」という悲鳴と共に赤ん坊の泣き喚く声が、ひどく篭った音で聞こえてきた。それに遅れて聞こえてきたのは、「騒ぐんじゃねえ!」という男の怒声。危険のシグナル。出番だ――と思うと同時に身体が動き出す。
「どこ行くつもり?」
「さあ、どこだろうな」
「当ててみようか。人助けに行くつもりでしょ?」
「……だったらどうするつもりだ」
木場は車の窓からバットガールの衣装を投げ渡してきた。
「忘れ物。これが必要でしょ」
「必要ねえよ。ヒーローじゃなくっても、人は助けられる」とそれを投げ返せば、「だったら、せめてこれだけでも付けて」とイヤホンマイクが代わりに飛んでくる。
「アンタが言う通り、ヒーローじゃなくっても人は助けられる。でも、ひとりよりふたりの方が、もっと多くの人を助けられる気がしない?」
黙ってうなずいた俺は、イヤホンマイクを耳につけた。
〇
夜の街を駆ける。先の悲鳴が聞こえて以降、それらしき音は聞こえない。もう手遅れ……なんて頭に過った嫌な考えを振り切るように頭を振ると、イヤホンから木場の声が聞こえてきた。
『音はどっちの方向から?』
「七時の方向。そんなに離れてはなかった気がするけど、もう聞こえない」
『ちょっと待って。防犯カメラの映像を見てみる』
カタカタとキーボードを叩く音が一分ほど続いた後、木場は落胆したように息をついた。
『今現在、周辺の防犯カメラにそれらしい人影は映ってない。ちょっと時間を巻き戻しても同じ』
「……もし事件が起きたのが来田街の外だったら、どうする?」
『……調べてみる。ちょっと待って』
「いいのか? 担当区域とやらがあるんだろ?」
『わたしが間違ってた。あんなのクソ食らえってヤツよ』
「ヒーローにあるまじき言葉遣いだな」
『どっかの誰かさんから受けた悪影響のせいね』
鼻で笑った木場はさらに続けた。
『真黒、聞いた音に特徴はなかった?』
「特徴っていっても……声の主は若い女と、あとは赤ん坊。それと、音はかなり篭ってたくらいか」
『OK。そこまでわかればいけるかも――っと、ヒット。その地点から100mほど西に進んだ先。赤い屋根が特徴の大きな家で、苗字は馬近。事件が起きたのはたぶんそこ』
「間違いないのか? その根拠は?」
『音が篭って聞こえたのは、恐らく家の壁が防音仕様だから。で、防音仕様の壁と赤ちゃんを家族に持つ家はこの近隣じゃそこしかない』
木場が説明し終えるより先に俺の脚は動き始めていた。急げ、手遅れになる前に。
周囲を見回しながら全速力で道を駆けていると――見つけた。赤い屋根の三階建ての家。玄関に駆け寄って表札を確認すれば『馬近』の文字。閉じた雨戸の隙間からはリビングの灯りがわずかに漏れている。ここで間違いないようだ。
「あったぞ。中に入る」
『ちょっと。真正面からなんて無茶よ。中でなにが起きてるのかわからないんだから』
「となれば……方法はひとつだ。お前、たしか〝人気者〟だったよな?」
『……ちょっと。イヤな予感がするんだけど、せめて何をやるつもりなのかだけ教えて』
木場の問いに答えないまま玄関扉の前に立った俺はインターホンのボタンを押した。ややあって、通話口から警戒心が見え隠れする不愛想な男の「はい」という声が返ってきた。
問題はここからだ。
息を深く吸い込んだ俺はぐっと恥を忍んでインターホンのモニターをのぞき込むと――。
「こんばんは〜! 突撃! ファンのお宅訪問でぇ〜す!」
と、人差し指で自らの両頬をぐりぐりしながら、精いっぱいのアホを演じて声を上げた。
『ちょ――わたしそんなアホみたいな喋り方、アンタの前でしたことあった?!』
「アイドル的な人気があるとは聞いてたから、この程度のことやってるもんかと思ってたけど……やってないのか?」
その時、玄関扉が内側から開かれて、無精ひげを生やした大柄の男が姿を現した。ぎょっとしたのも束の間――。
「き、木場たつきさんッスよね! 大ファンなんです、俺!」
ヤツは口角の下がっただらしのない笑顔を見せてエヘエヘと笑った。
効果てき面だ。俺、意外とアイドルの才能があるかもしれん。なんてことを考えながら開いた玄関扉の先に向けて耳をすませる。
やけに早い二人分の心音。赤ん坊のグズる声。
「……あのぉ。ひとつ質問なんですけどぉ、奥様とかお子さんっていま中にいらっしゃいますぅ?」
「い、いやいや! いない! いないッス! でも、部屋片づけてくるんでちょっとここで待ってもらって――」
疑惑が確信に変わった瞬間、俺は男の鳩尾に掌底を叩き込んだ。大きな体がぐらりと揺らいだところに、追撃の肘を顎へ。
急所への急所への二撃は一瞬にして男の意識を刈り取り、ヤツはうつぶせになる形で玄関に倒れこんだ。
『……お疲れさま。それとわたし、あんな喋り方しないから』
「わかったよ、もうやらん。でも、うまくいったんだからいいだろ?」
小声でやり取りしながら家の中へ。心音が聞こえる方へと廊下を進んでみれば、リビングとキッチンが一体になった広い部屋に出てきた。大きなテレビの正面に置かれたソファーの陰には、両手足を縛られ口にガムテープが張られた女と、訳も分からず泣き続ける赤ん坊が寝かされている。
ガムテープをそっと剥がして「大丈夫か?」と小声で問えば、女は涙を流しながら幾度とうなずく。
「それならよかった。男はもう片付けたら安心して――」
「ま、待って! まだもうひとりいるの!」
背後からやけに重みのある足音が聞こえてきたのはその時のことだ。振り返るまでもなく、彼女の言った〝もうひとり〟がそこにいることはわかった。
振り返れば、小柄な男が血走った目で俺を凝視していた。上下黒いジャージの上には、外側から四肢を支えるような無骨なデザインの土木作業用パワードスーツを着込んでいる。
強盗野郎は俺を睨みながら追い詰められたチワワみたいに震えた声で叫んだ。
「なんだァテメェは!」
「ヒーロー登場。今日は出血大サービスで素顔の登場だ。ありがたく思え」
「――ッ! ふざけやがってェ!」
こちらに向かって踏み出した男は、その右腕を力任せに振り下ろしてくる。パワードスーツを着ているせいで音も予備動作も無駄に大きく、避けるのは造作もない――が、問題は攻めだ。正中線に二撃入れれば確実に気絶させられる自信はあるが、スーツの力で一撃貰えばその時点でこの身体は壊れる。
「ちょこまかすんじゃねェっ!」
よほど頭に血が上ったのか、男は無暗に両腕をぶん回しながら俺との距離を詰め始めた。周囲のテーブルやイスが、ひっくり返り、あるいは壁に叩きつけられて破壊される。バカみたいな攻撃だが、強みを押し付けるという意味では理に叶っている。
どうするか――と、その時、男の着ているスーツから妙な駆動音が聞こえることに気づいた。何かが空転するようなカラカラとしたあの音は左半身下肢、膝の辺りから。
整備不良による故障とみた。狙うならあそこだ。
辺りに散らばるイスの脚を右手に取り、男に向かって突進。裏拳を放つ要領で横一線に振られた左腕を、膝で床を滑りこみながら躱す。大ぶりの一撃が髪先を掠めるのを感じながら、俺は右手に持ったイスの脚をスーツの左膝関節部分に目掛けて思い切り叩きつけた
ガキンと、金属が弾ける音があたりに響き、パワードスーツはその場に左膝をついて停止する。
止まった相手を手玉に取るほど容易いことはない。ヤツの左側に回った俺は側頭部へ全体重を乗せた膝を叩き込んだ。
ゆっくりと倒れ込む男の身体。完全に沈黙した肉体とは裏腹に、スーツの駆動音が虚しく響いている。
――決着。
首筋に流れる汗を拭いつつヤツの身体からスーツを剥がし、気絶した犯人たちの手足をガムテープで縛り上げたところで、『お疲れさま』と木場が声を掛けてきた。
「とりあえず、ひと安心ってとこだな」
『そうね。……でも、こっからが厄介よ。〝面倒なヤツ〟が絡んでくるから』
「どういうこった」
『すぐにわかるわよ』と返す木場の口調は心底うんざりしたものだった。