春
「私の話し相手になって」
突然僕の目の前に座ってそう言った彼女は、黒い棒みたいな楽器を持っていた。ここではふさわしいとは言い難いものだ。
「あの……」
僕はおそるおそる口を開く。
「なに?」
「あの、ここ、美術室です」
「知ってる」
彼女は真顔でうなずく。僕はそれからどうしたらいいかわからなくて、ただ、彼女と楽器と、自分が書いていた絵の間で視線をうろうろとさせていた。すると、彼女はいきなり立ち上がって、楽器を構えた。僕はその姿にくぎ付けになった。
風に揺れる短い髪、紺色のジャンパースカートに映える臙脂のリボン。視線は真っ直ぐ、何かを見つめているようで。そっと吹き口を唇で挟み、息を吸って、彼女は目を閉じた。
僕は時々思い出す。春の淡い風、そしてマリーゴールド色のワンピースを。
***
今日は春にしては暑い日になるらしい。果たして春と呼んでしまっていいものか、最近の日中の日差しは暑苦しい光を放っている。だから僕は朝から、がたがたの木の椅子に座る。かなり前に作った色を筆にとり、キャンバスにのせていく。茶色の上に描く淡いピンクは、今の時期ではとっくに散って、青々とした葉に変わってしまっている。
そんなことは知ったことではない、と僕は描く。まだ春をささやく朝の日の光と風を頼りに。
「まだその絵描いてるんだね」
振り向くと、美術室の窓から顔をのぞかせた、いつもの顔。彼女はいつものように教室に入ってきて、がたがたの椅子を引っ張り出してすぐそばに座る。
僕はばれないようにため息をついて、再び絵に集中する。少し濃い色を取って、のせる。影の具合とか、光の加減とかを気にしながら。適当にやっているように見えるかもしれないが意外と考えてやっている。彼女はその作業をしばらく見つめ、「なるほど」と一言。一体何に納得したのか、と聞く間もなく、立ち上がって窓のすぐそばに移動した。
僕はその動作を横目で確認し、隙を見てスケッチブックを広げる。僕の絵が全く進まないのはこれの所為だ。教室の窓と彼女の横顔。まだ荒削りの下書き。彼女がここに来るようになってから一か月が経とうとしているのに、どうにも納得がいかずに進まない。もう何回描き直したか。
いつものように、彼女が演奏している姿を眺める。締め切った窓が開け放たれたような快感。音色が風となって耳をかすめる。何かのソロか、時々間違えて、「あぁ」と声を漏らす。そしてまた吹きなおす。その繰り返し。
その様子を絵におこそうとするが、肖像画を必死に避けてきたのがここで仇になるとは。今日も消しゴムを消耗するだけで終わった。
彼女にばれないようにスケッチブックを隠し、筆に持ち替えて、何となく腕を組んで考えるふりをする。そしてちょっと暗い色をのせてみたところで予鈴が鳴った。彼女はぴたりと吹くのをやめる。
「じゃあね。また明日」
と言って、出した椅子を片付け、さっさと美術室を出ていく。本来の練習場所だろう音楽室はすぐ近くにある。オーボエは繊細な音の楽器だし、弦楽器とか金管楽器とかが鳴っているところではやりづらいんだろうと僕は勝手に思っているが、真相はわからない。僕はキャンバスを教室の隅に寄せ、スケッチブックを片手に美術室を出た。
「おはよー! どうよ『春』の絵は」
「おはよう。全然だめ」
教室に向かう途中でいつも会う、遅刻ぎりぎりは日常茶飯事の声がうるさい人。この友人はかれこれ中学からの仲で、僕に何かと付き合ってくれる優しい男だ。僕が今置かれている現状はすべて彼に話しているが、彼は本当に声はうるさくても口が堅い。
「あはは、だめか! まあそのうち描けるって」
彼が大声で笑った所為で近くの生徒数名の視線が痛いが、僕は関係ない。
「しかし嫌な人に絡まれたもんだ。ばれたら数々の男を敵に回すことになるぞ」
「わかってるよ。だから君にしか相談していないんじゃないか」
毎朝美術室に来る彼女はかなり有名人だ。管弦楽部というだけで一目置かれるが、まず美人。そして人当たりがよく、僕と違って友達も多い。しかもこの辺りではレベルの高い音楽大学を受験できるくらいの実力の持ち主。まったく非の打ち所がない。そんな人間が僕に一体何の用だというのだろうか。
「直接彼女に聞いてみたらどうよ」
「それだけは無理」
僕は全力で首を振る。そんな度胸があったらすぐ聞いているし、そもそも最初の会話以降、一度も喋っていないのだから。彼はつまらなさそうに口をとがらせる。無理強いしないのは彼の優しさだ。それに甘えてばかりはよくないんだろうけれど。
教室が近くなってきたころ、彼は先とは打って変わってにこやかな笑みを浮かべて僕の肩に腕を回した。これをする時は決まっている。
「それはそうとさぁ」
「だめです」
「まだ俺何も言ってないよ」
「どうせ宿題見せてって言う」
「流石だなぁ。察し能力が違うぜ。ということで」
彼は僕より先に教室に入って、僕の机の中から一瞬で数学のノートを探し当てた。そうだ、将来は弁護士になるとか言っているけど、警察犬とかどうだろう。
「ありがとう!」
満面の笑みでノートを掲げて感謝されたが、僕はだめと言った気がする。
それから季節は変わって、日差しはすでに朝も暑苦しい。美術室の窓を可能な限り開けて、まだ熱されていない風を通す。桜の絵はさすがに完成してしまって、次は文化祭に出すための絵を描いていた。秋らしい絵にしろと顧問に言われたのを無視して、花と霞の夜の絵を描いていた。相変わらず春からは離れられなかった。
彼女もまた、相変わらず来ていた。吹く曲はいつもころころと変わっていったが、ここ二週間くらいはずっと同じ曲だった。これがまた春を思い起こさせる綺麗な曲で、彼女の暖かい陽だまりのような音色によく似合っていた。
「いい曲だなぁ」
僕はパレットで色を作りながら、そう思っていた。と、彼女の演奏が止まった。目を丸くして僕を見ている。
「な、何かありましたか」
さすがに声を発した。彼女がミスと予鈴以外で演奏をやめることは今までなかったのに。
「びっくりした。……いい曲でしょ」
「え」
無意識でしゃべっていたことに気付いた僕は、その場で固まった。彼女は表情を崩して、僕の横の椅子に座った。
「この曲ね、私の先生が明日演奏するの」
彼女は持ち込んでいた楽譜ファイルから、チラシを取り出して渡してきた。真ん中に写っているダンディな男性が、彼女の先生か。
「よかったら」
「あ、ありが……」
「一緒に行く?」
二度目の硬直。受け取ったチラシがひらひらと床に落ちる。
「え?!」
彼女はきょとんとした顔で、間抜けな僕の顔を見つめる。
「だって、場所わからないだろうし。それに、せっかくならいい席で聴きたいでしょ」
「……あ、あぁ!そう、そうですね!」
僕は熱い顔を隠すように急いでチラシを拾って、スケッチブックに挟み込んだ。
彼女はくすっと笑って、椅子をしまった。ちょうど予鈴が鳴った。
「じゃあ、また明日ね」
いつものように、彼女はすぐに教室を出ていった。僕はただ座って唖然とするしかなかった。まずい、これではこの学校の男たちを敵に回すだけでは済まなくなる。
「おはよー! まだいたのか。……おいどうした?」
声のする方へ視線を動かす。親友のうるさい声に僕はなぜか泣きそうになった。
何を思ったか地下を出て、外の出口で待つことにしたことを少し後悔している僕は、ほぼ真上から容赦なく照り付ける太陽に、せめてカラッと晴れてくれないものかと日陰から切望した。畳みかけるような車の熱気も、引っ付いて歩くカップルも、本当に暑苦しい。
「お待たせ」
ゆっくり歩いてきた彼女は、普段とは別の雰囲気を纏っていた。否、いつもの雰囲気がより鮮明になったという方が、僕の中ではしっくりきた。
彼女はマリーゴールド色のワンピースを着ていた。軽い生地が何枚も重なっているスカートの裾は少し透けていて、薄い花びらのようだった。
暑さはどこかへ消えた。探していたピースがはまった感覚。僕は今すぐスケッチブックを開きたい衝動を抑えながら、彼女に導かれるまま演奏ホールへ向かった。
「すごかったでしょう、先生の音楽」
ホールを出た後、満面の笑みで僕に語りかけてきた。
演奏は、素晴らしかった。彼女の先生は本当にすごい技術の持ち主なんだろう。軽やかな音色は心に直接語り掛けてきた。喜々とし、かと思えば憂い、時には怒号し、悲愴を歌う。楽器とはここまで感情が表れるのか、と感動した。
ただ、あの曲は彼女の方が好きだなと思った。先生の演奏も素晴らしかった。ピアニストとよく息が合っていて、上手く溶け合って新しい色を生んでいた。聞くと、ピアニストは先生の奥さんだそうだ。お互いをよく知っているからこそ、あの演奏ができたのだろう。
けれど、それ以上に彼女の暖かい陽だまりのような音色は、僕をつかんで離さなかった。
「びっくりしました。本当にすごかった」
「でしょ? 私の目標。先生みたいに吹くのが夢なの」
僕は君の音の方が好きだな。なんて言えたら素敵な男性だったんだろうけど、僕はそんなキザなことは言えない。「達成できるといいですね」と言って、彼女を微笑ませるので精一杯だった。
待ち合わせた場所に着いて、僕は地下鉄に続く階段を下りる前に彼女と向き合った。
「今日はありがとうございました。とてもいい時間でした」
「よかった」
彼女はにっこり笑った。
「じゃあこれで」と僕は階段を一段下りた時、彼女は後ろから「ねえ」とつぶやいた。僕は振り返ると、彼女は何かを差し出していた。隙間から見える黒い線と、黒い玉。僕はそれが何かすぐに分かった。一体彼女はどこから漏れ聞いたのだろう。という疑問と、最初からこれが狙いだったんだと悟った。
「私の話し相手になって」
僕は連れて行かれるまま、楽器屋に入った。彼女が店員に何やら話し、奥にある練習室に通された。グランドピアノと数台の譜面台がある部屋だった。彼女は黒い小さな鞄を下ろし、チャックを開けた。中には分解されたオーボエが入っている。彼女は慣れた手つきで組み立て、指をパタパタと動かす。僕は渡された楽譜を見つめていた。彼女が最近吹いていた曲。彼女の先生が吹いていた曲。僕にこれの伴奏を弾けというのだ。
「あの」
僕が話しかけると、彼女は無言で僕を見た。
「僕、ピアノは……」
「嘘。君、音楽界では有名だから」
彼女の鋭い目に、僕は言い返せなくなる。当然と言えば当然、僕はコンクール常連の人間だった。楽器は違うとはいえ、同じ歳で音楽やっていて、噂だろうとなんだろうと耳に入ってくるだろう。でも。
「君がソロしか弾かないのも知ってる。だからこそよ」
そう言うと、練習を始めた。もう質問も拒否も受け付けないということだろう。僕は諦めてピアノ椅子に座った。譜面置きに楽譜を置いて、しばらく見つめる。そしてゆっくり鍵盤に手を置いて、前奏を弾く。このくらいなら初見で何とか追えそうだと僕は思った。
僕がテンポを緩めたそのタイミングで、木洩れ日のように音が差し込んでくる。彼女の音がピアノの音の上を走って、春の淡い風が草木を揺らした。彼女が歌うたびに輝くマリーゴールド色のワンピースも、本当に美しかった。そこには確かに春があった。
だからこそ思った。彼女の音は僕にはもったいない。僕では溶け合うことはできない。
途中で僕は席を立った。彼女は目を丸くしていた。急に夢から覚めたようだった。
「帰ります」
「ど、どうして」
彼女は荷物をまとめる僕を引き留めようと必死だった。楽譜をかばんにしまい終わって、僕は顔を上げた。
「僕は君の補色だから」
そう言い残して、僕は練習室を後にした。僕は一回も振り返らずに逃げた。
それから、彼女は美術室に来なくなった。
僕は毎日スケッチブックを開いて彼女の絵を描いた。完成したのは卒業前。この時期らしい、低い雲が空を覆った日だった。
***
「それにしても『僕は君の補色だから』って断わるなんて、本当にとんでもない奴だよな。永遠のネタだ」
「うるさいな。本当にそう思ったんだから」
静かでいいアトリエだというのに、彼はなぜこんなにも声を大きくして喋れるんだろうか。しかも自分が通っていない大学なのに。僕は彼とは真逆に声を抑えて喋った。
「しかし、どうしてそんなことを言ったのかねぇ、お前は」
高校生の頃、彼は散々馬鹿にして笑い転げているだけだった。理由を聞かないのは彼なりの配慮だったんだろうが、やっぱり気になってはいたらしい。ほとぼりも冷めたところだ、僕は答えた。
「補色って知ってるよね」
「反対色みたいな」
「その通り。つまりそういうことだよ」
彼は「わかるわけないだろう」と言わんばかりに首を傾げた。僕は水彩絵の具を取り出して、パレットに青色と、橙色を出した。
「この二色は補色。混ぜると」
「どぶ色だな」
筆で混ざった綺麗だったはずの二色は、お世辞にも綺麗だとはいえない色に変化する。黒にもなり切れない、汚い色だ。
「それで『僕は君の補色』なのか」
あまりしっくり来ていない様子だった。僕は少し考えて、付け足した。
「じゃあ君は、大好きないちごのショートケーキと家系ラーメンを一緒に食べたいかい」
「いや……まずいでしょうそれは」
想像したのか、苦虫を噛み潰したような顔をする。
「そういうこと」
僕が深く冷め切った青なら、彼女は明るく暖かい橙。僕と彼女はこの絵の具と同じ。溶け合って美しいものを生み出すことはできない。
彼は妙に納得したようにうなずいて、「あ、でも最近次郎系の美味しさに気付いたんだよね、俺」と意味の分からないことをつぶやき始めた。僕はそんな親友を無視して、パレットと筆から鉛筆に持ち替えて絵に向き合った。あぁ、デッサンっていうのは本当につまらないな。
僕はピアノはやめていなかった。でもピアニストよりもデザイナーになりたかったから、芸術大学に進学した。美術大学にしなかったのは、時々は音楽もやりたいなと思ったからという、馬鹿みたいな理由だ。おかげで棟を移動すれば自由にピアノが弾けるし、誰かが必死で練習をしている姿を見ると、やっぱりやめておいてよかった、と心の底から思える。
ある日、僕は彼女が通っていた音楽大学に行く用事があった。研究室の先生からのご指名により、作曲家の教授に絵を渡すというご依頼を受けた。もうかれこれ三回目だ。二人の偉大な先生方は、昔から絵を音楽に書き起こすという高度な遊びをしているらしい。立派な仕事にもなりそうなのに、遊びと片付ける。これだから天才は頭がおかしい。
この音楽大学は技術の素晴らしい学生ばかりが集まる場所だ。そこそこ上手い、では到底入ることはできない。学内を歩いていて聞こえてくる音はどれも洗練されている。ここは伸ばす場所ではなくて磨く場所だ。と、作曲家の教授がいっていたが、その通りだと思う。
作曲の棟に入ろうとした時、近くにあったホールから聞こえてきた音で、僕は足を止めた。気がつけば僕はホールに入っていた。席はほとんど埋まっており、どうやらちょっとした学内コンサートが開かれているようだった。かわいいイラストが印刷されたプログラムを受付の学生から受け取り、ホールの後ろに立った。アナウンスが流れる。次は木管楽器の部。
何気なくプログラムを見て、心臓が跳ね上がった。拍手が響く中、僕は視線を舞台に向けることができなかった。
舞台に響くチューニングの音。僕はおそるおそる顔を上げた。綺麗な紺色のドレスを着た彼女は、ピアノの短い前奏の後、のびやかなフレーズを奏でた。ピアノの伴奏と楽しそうに音が踊る。明るくて楽しげな曲だ。
彼女の演奏技術は過去のものより磨かれて、より素晴らしいものになっているのだろう。けれど、あの高校生の頃の暖かい陽だまりは。淡い風は。彼女は変わってしまった。春はどこかへ行ってしまった。
演奏が終わると、会場は歓声と拍手に包まれた。僕も拍手をした。そろそろ出ようと思ったその時、彼女と視線が交わった。気がした。舞台からは遠いし客席は暗いから気の所為だろう。僕は受付の人に軽く会釈をしてホールを後にした。さて、教授のところにいかないと。と階段を上ろうとした時、僕は腕をつかまれた。振り向くと、紺色のドレスが見えた。
「……待って」
肩で息をした彼女は、腕を握りしめたまま僕を見上げた。美人な顔は健在だった。
「私の演奏、どうだった」
彼女の手に力が入る。僕はぎこちなく微笑んだ。
「すごかったですよ。技術も表現も。高校生の頃とは全然違いました」
僕は率直な感想を伝えた。彼女は一つうなずいて手を離した。
「そう。ありがとう」
彼女はそれだけ言ってまた小走りでホールに戻っていった。僕はその場で立ち尽くした。彼女は笑顔だった。なのに、どうしても引っかかる何かが残った。
僕は作曲の教授のところに行き、絵を渡した。教授は四枚の小さい絵を見て、「一枚にしてって言ったんだけどなあ」とつぶやいて、絵を置いた。
「いつもありがとね。今日ね、すごく美味しいクッキーがあるからよかったら食べて」
「ありがとうございます」
僕は出されたクッキーを一ついただいた。これは確かにおいしい。
「そういえば、君、彼女と同じ学校だったんだって?」
えぇっと名前なんだっけ。オーボエのさ。と教授が考えていたので、僕は彼女の名前を告げた。教授は僕を指さして、何度も頷いてにやりと笑った。
「そうそう。彼女は本当に上手かったよ。受験の時、ぼく面接官だったんだけどさ。それはもう、楽しそうに吹くから、ぼくも楽しくなっちゃって」
でもねぇ。と紅茶をカップに注ぐ。
「彼女の今の演奏聞いたことある、君」
「実はさっき下のホールで……」
教授ははっとした表情をし、額をたたいて「後で怒られるなあ」とぼそっとつぶやいた。どうやらあのコンサートには顔を出さなければいけなかったらしい。
「まあいいや。そう、聴いたんだね。どうだった」
「どうって……」
「君、彼女の音を近くで聴いてたんじゃないの。一回君のピアノで合わせたことがあるとか」
「どうしてそれを」
僕は飲みかけていた紅茶を吹き出しそうになった。教授はまたにやりと笑った。
「彼女はぼくの研究室によく遊びに来るからね。で、感想は」
教授の顔が僕の顔を覗き込む。僕は観念して正直に話した。
「とても上手でした。技術も表現も比べ物にならないくらい。でも」
「でも?」
「根本が変わったというか。確かに上手いんですけど、彼女の良さはもっと他にあったのになぁ、と……」
僕は紅茶を飲んで語尾を濁した。教授はそんな僕を凝視して、深くうなずいた。
「うん。ぼくも同感」
教授はかじったシガレットクッキーを僕に向けた。
「ぼくはね、それを救えるのは君しかいないと思っているんだ。どう、もう一回くらい彼女と合わせてみたら」
僕は間を空けずに首を振った。
「補色だからかい」
僕はうなずいた。うなずいてから、そこも筒抜けなのかと思って悲しくなった。
「補色って混ざると汚い。わかるよ。そんな音楽は僕も嫌いだ」
そう言って教授は席を立った。そして、本棚から分厚い大きな図鑑のような本を取り出した。題はゴッホと書かれている。
「この絵、知ってるよね」
「はい。『夜のカフェテラス』です」
「ぼくこの絵大好きなんだよ。ちなみにこの絵の特徴って、補色が使われているところだよね」
教授は青色と橙色で塗られた部分を交互に指さした。
「何もさ、補色を混ぜる必要はない。お互いを引き立てるのが補色なんだよ。この絵みたいにさ」
僕は『夜のカフェテラス』をじっと見つめた。暖かいカフェの明かりの橙と、夜空の青の二色が印象的な絵画。夜空というものを、黒ではなく青で表現し、夜空の下の街並みを黒で描く。そうすることでより補色である二色が引き立つ。本当に美しい絵画だ。
「音楽の上での補色って、ぼくはとてもいいと思うんだけどね」
教授は残ったシガレットクッキーを食べ、紅茶を飲みほした。
「でもさあ、ぼく、クリスマスみたいな赤と緑の補色は好きじゃないんだよね。落ち着きがないと思わないかい、この絵みたいに」
と、教授は先生が描いた四枚の絵の一枚を取り出して僕に見せた。なるほど、僕もあまり好きではないかもしれない。僕はうなずいた。教授はにやりと笑うと、「彼女をよろしく」と一言、そのままPCに向かった。もう作曲するらしい。僕は邪魔をしないように、静かに研究室を出た。スマホを出して、研究室の教授に帰りが遅くなる旨のメールをうった。
僕は学内を探し回った。まずはあのホール、それから練習室を探し回ってみたが、見つからない。通りがかった人たちに尋ねてみたが、みんな首を振るばかりだった。そもそも僕が不審な人間に見えれば、彼女の居場所なんて言ってくれるわけもないのに、そこまで頭は回っていなかった。何人も聞いて、ある男に尋ねた。声をかけて気が付いた。さっき彼女の伴奏をしていた男だ。
「ついさっき帰ったよ。しかし、君あの演奏を聴いたかい。俺と彼女の息ぴったりの演奏。たまらなかっただろう。二年の付き合いだからね……って、ちょっと!」
自分に酔っているだけのお前の話はどうでもいい。……とは言わず、僕は男の話には耳を傾けずお礼だけ述べて、彼女を追いかけた。
大学を出て、バス停に向かって走った。横をバスが通り過ぎる。間に合うか、いや、間に合わせなければ、絶対に後悔する。
僕はバスに乗ろうとした彼女の腕をつかんだ。
「今度は僕の」
暖かいマリーゴールド色のワンピースがなびく。
「僕の話し相手になって」
***
窓から入ってくる風が心地よい。太陽も傾いて、街を黄昏に染め始めていた。
研究室の先生は、いつの間にか准教授から教授になっていた。僕が大学を卒業して五年経って、いまだあの教授との遊びは健在らしい。
先生は僕のスケッチブックを見て、にやにやしながら僕に語り掛けてきた。
「じゃあ、君は彼女のことが好きだったんだねぇ」
僕は少し考えて、笑いながら答えた。
「そうなんですかね。僕にはよくわからなくて」
「でも絵に描くほどでしょう。青春だね」
教授はにやにやしながらスケッチブックを眺めた。教室の窓、彼女の横顔とオーボエ、それからワンピース。僕の一番の傑作だ。
「そうですね。だた、僕は彼女のこと……」
先生の携帯が鳴った。教授は画面を確認すると嫌そうな顔をしながら電話に出た。どうやらあの作曲の教授のようだ。遊びに対するクレームだろうか。
先生は僕にスケッチブックを返して、手を振った。「もう帰りなさい」ということだろう。僕はお辞儀をして、研究室を後にした。久々のアトリエは気持ちがいい。また自由に絵が描きたくなる衝動を弄びながら、大学の門を出た。
少し歩いて、コンビニの駐車場に見慣れた車が止まっているのが見えた。車に乗り込むと、高校生の頃を思い出すあの曲が流れていた。運転席に座っている彼女は目をつむっていた。
「今のところがあんまり納得いってないの」
「そうかな。僕はきれいだと思うけど」
彼女は再び無言になった。僕が何を言ったって認めない彼女を微笑ましいと思った。僕は席に身を預けて、目をつむる。
「春だね」
「そう? この時期にしては暑いけど」
彼女が横で前かがみになって車のクーラーをつけた気配がする。僕は声を出して笑った。
「なに笑ってるの」
「いや、いや。何でもないよ」
気持ち悪いものを見たように顔をゆがませた彼女に、僕は笑いながら首を振る。
僕は時々思い出す。春の淡い風、そして、マリーゴールド色のワンピースの君を。