表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

捻くれ青春シリーズ

あるいは彼等の前夜祭

作者: カリーマン

書きかけで放置してたやつ。続きを書く気力がないので投稿。

「テーブルゲーム部の方がお見えです」

 まだ幼さの残る一年生書記の声に、元生徒会長・藤上(ふじがみ)叶香(きょうか)は顔を上げた。見れば、戸口に男子生徒が突っ立っている。端麗が過ぎていささか形容に困る相貌と、そこに浮かぶ色のない表情に、確かな覚えがあった。

「なぁんだ、君か」

 敢えて、落胆した声を出してみせる。

「すみません。すぐに消えます」

 男子生徒・古賀(こが)倫斗(しなと)は顔色一つ変えず応答した。予想の付いていた事だが、相も変わらず退屈な後輩だと叶香は思う。彼女の目にはその最低極まった自己評価が微塵ほども好転しているように見えないが、彼と同じ同好会の片割れは、きっとそう言えば憤慨するのだろうと、辛くもなく想像した。

 その様、少し見てみたくはある。

 とまれ、くだらない思考だった。

「冗談だよ。皆の反応を見れば、どちらが訪ねてきたのかなんて一目瞭然だもの」

 だから落胆はもう済ませてあると言外に言う。

「そうですか」

 男子からは羨望と嫉妬、女子からは憧憬と想望の視線を向けられていても、やはりそうとは気付いていないのだろう。

琴音(ことね)は、来たがらなかったので」

 そしてついでのように古賀は言った。

 気付けば下の名で呼んでいるらしい事に叶香は驚く。何かあったのは知っているが、何があったかまでは認知が及んでいなかった。恋敵にまた先んじられている事実に苛立ちばかり募るが、叶香の強烈な自意識はその露呈を良しとしない。

 幸い、本心を隠すのには慣れていた。

「お茶が入りました」

 丁度いい、一息入れて落ち着くとしよう。礼を言って会計の女生徒から湯呑を受け取り、静かにそれを傾ける。喉が熱くなって香りは鼻を抜けた。温もりが胸の辺りで放射状に広がった気がして、湯呑が空になっても、痺れるような熱が掌に残っている。

「現生徒会長の行方は気にならない?」

 貰ったお茶にも口を付けず、なお所在無さげに立ったままの古賀に、叶香は他愛もない話題を振る。

 古賀というのは自身の事以外なら律義な男だから、真面目に考え込んだ。

「来る途中」

 そうすれば、自ずと思い当たる節がある。

「サッカー部部長と役員が話しているのを見ました」

 顔付きからして重要な話題なのは理解できた。中には新しい生徒会長の顔もあった気がする。最も、この時期の廊下の窓が開いている筈もなければ声は聞こえず、読唇術の心得だってない古賀に、内容を知る由はなかったが。元より興味も薄い。

「来年度の予算の事でね」

 叶香は首肯した。

「会議では一度決定したんだけど、後から齟齬が出てきちゃって」

「つまり尻拭いですか」

「聞こえが悪い。可愛い後輩達が困っていたら、ちゃんと手伝ってあげるのが先輩の役割ってもんでしょ」

 可愛い、の部分に妙な含みを感じて、古賀は「そういえば新しい生徒会も女子ばかりだな」と思い出す。藤上叶香の存在を差し引いても、新生徒会は先代に比べ輝きがない。一方で「生徒会だけでミスコンが開ける」などと言わしめる程に粒揃いだった藤上生徒会に輪を掛けて、当代は美人ばかりであった。

 そんな事を考えつつ、ただ古賀の口は言うべき事を間違わない。

「すみません尻拭いとかお前何様だって感じですよね」

「ま、有態に言ってしまえばその通りなんだけどさ」

 遮るように、叶香は古賀にしか聞こえない声量で呟いた。叶香は人当たりの良い、勉学にも優れた模範的生徒として名が通ってはいるが、古賀の前では時折こうして毒のある素顔を見せる。意図が知れず不可解極まりないので、古賀はいつもそれが恐ろしかった。

「というわけで、あたしはここに居るんだよ」

 と思えば瞬きの間に、人好きのする笑みを貼り付けている。その切り替えの速さはいっそ不気味だ。

「それで、話ってなんですか」

 言いながら、怯えるような顔で視線を逸らした古賀に、叶香は内心ほくそ笑んだ。そうしている時だけ古賀は人間らしい。自嘲自虐に一切の疑問を持たない性格は間違いなく破綻していて、だから人並みの情緒を知らず、他人のそれが理解を越えると途端に委縮する。その瞬間だけ彼は人並みだ。

 そういう特異性が、叶香は嫌いじゃない。芸をした飼い犬に褒美を与えるような気持ちで、呼び出した訳を明かす。

「実は予算の事とも関係があるんだけど」

 概要だけなら簡単だ。最近、文芸部が新設されたのだが、その活動場所がない。今年度いっぱいは放課後に普通教室を貸す事で乗り切ってもらう算段だったが、さすがにずっとそうしている訳にもいかない。曰く文化祭では部誌の販売を行いたく、準備期間の放課後も使える場所が欲しいという。この際だから文化部部室棟を建てる話も出たが無論、そんな予算はなく話は一瞬にして立ち消え。そういえば、空き教室があったんじゃないかと先代の副会長が思い出したのは先週の話だ。

「で、その空き教室が、今あなたたち『テーブルゲーム部』の活動場所になっているという訳」

 事情を聴き終え、まず古賀の脳裏に浮かんだのは覇気のない顧問の顔だった。あの男、生徒会に申請も出さず教室を使わせていたらしい。鍵の管理は確かに事務の管轄で生徒会に関わりこそないが、部活の事であればこちらにも話を通すのが筋だろうに。

 というか、その程度の漏れを叶香が見逃す訳もない。とすれば今まで集まれていたのは、単に部長が叶香の気に召し、温情を掛けられていたからか。

 そんな古賀の憶測は概ね正しいのだが、

「ちゃんと目録にはあたしが記載しておいたんだけどね」

 一つ、見誤っていたとすれば、それは叶香の完璧主義だ。彼女は決して、己の経歴に瑕疵を残さない。どれだけ些細な汚れであろうと、それがいつか全体を腐らせるとも分からないなら、一つとして放ってはおかないのだった。

「それじゃあどうして」

 要は立ち退けという事らしいが、テーブルゲーム部側に非がないのなら話がおかしい。古賀の疑問は尤もで、しかし世には尤もでない言い分も多々存在し得る。

「文芸部の顧問が話の分からない人でさぁ」

 叶香の声が不意に険を帯びた。人好きのする仮面を被ったままそんな様子を見せるのは非常に珍しい。

「感情論ばかりなら説得も難しくないけど、本人は理論立てて喋ってるつもりっぽくて。自分は正しいって考えに揺るぎがないから、何言っても通じないのよ」

「それは……ご愁傷さまです」

「という訳で面倒くさくなったので受け入れました」

「それは……え?」

 その言い方だとまるで他の手ならどうにかなったようにも受け取れる。

 いやそれ以前に看過できぬ発言として、まるでもうテーブルゲーム部の立ち退きが決定事項かのような。

 叶香が――形だけは――申し訳なさそうな顔をして、手を合わせた。

「ごめんね。だから今年中に、撤収作業をお願い」

「はあ、まぁ分かりま――え、今年中?」

 今年度中ではなく?

「良好な関係を築いておく(恩を売っておけば)事は、後々活きてくるのよ(後々御しやすいのよ)。だから少し前倒しして、来年から活動できるようにするって、約束しちゃったの」

「……いえ、大丈夫です。俺が関わっている以上、当然の帰結でしょう」

 どうも古賀には別の手立てがあった風に思えてならないが、決まってしまったのなら仕方がない。自己評価の低さは反骨心の欠如にも繋がっていて、彼は端から文句を言う気がなかった。

「あら、ずいぶん素直じゃない」

「まぁ別に集まれれば場所なんてどこでもいいですからね」

 それに、叶香が折れるなんて、きっと伝え聞く以上に面倒臭い教師であろうから、敵に回したくない。琴音であればそれでもお構いなしに喧嘩を吹っ掛けに行きそうなのが、また殊更に懸念された。

「ふーん。もしかして、これであたしに恩を売れるとか考えてる?」

「まさか。知らない間に部活として承認してもらってた恩とチャラでしょう」

 繰り返すが、古賀に反骨心はない。

「君ならそう言うと思った」

 叶香も予想通りの返答に満足したらしく、薄くルージュの乗った唇を歪めた。今日一の作ったような笑顔に、古賀は寒気を覚える。そろそろ退散しよう……当然そう考えて、冷めてしまったお茶を一息に呷ると、終ぞ椅子をすすめてくれなかった元会長を見下ろす。

「それじゃあ、琴音に伝えてきます」

 話は以上だったらしく、叶香は止めなかった。居残っている生徒会役員の視線が追ってくるのを感じながら、悪目立ちするから仕方ないなと忘れず自虐しつつ、扉に手を伸ばす。

「明日から冬休みだねー」

 叶香の声が聞こえて、古賀は動きを止めた。それは独り言のようだったが、響き方からして間違いなく、彼女はまだ古賀の背を見つめている。

 今日は、終業式だった。

 身動きの取れなくなった古賀は、背中に汗が滲むのを感じる。季節外れのそれが、窓際のストーブの所為な訳もなく。

「あの、なんでしょう」

 意図を図りかねたので、元凶に問うてみた。

「本校の生徒としての誇りを持って、節度ある冬休みを過ごしたまえよ、古賀くん」

 だが叶香が調子の外れた低音で、芝居がかった事を言うと、古賀の気も抜けた。終業式の時の校長のモノマネ。要はいつものおふざけだ。

「はい」

 と愛想のない返事をして、扉を開ける。凝り固まった冬の空気がなだれ込んで、暖気は背中に隠れてしまう。窓の外の景色は灰色に見えた。

 不意に。

「不純異性交遊は校則違反だからね」

 古賀はギョッとして振り返った。今、耳元で囁かれたような気色悪さがある。酷く冷めた声音、まるで冬の空風みたいに。だが叶香は仏頂面で、手元の書類に目を落としていた。ならばそれは幻聴であったのか。

 琴音と出会ってからの出来事が走馬灯の如く駆けていき、その時々に抱いた感情が去来する。突然にそうなってしまった訳を理解しながら、しかし古賀は意識せぬよう努めた。

「……失礼します」

 扉が閉まって古賀は消える。その存在を思わせるのは、生徒会室に蟠った外気の残り香だけになってしまった。最後の挨拶を言う事すら古賀には難儀であったろうと、その情動を理解しているのは今ここで叶香だけだろう。

 駄目押しのように、古賀は最後に琴音の名を言った。その声が彼女を呼んでいるという事実だけで胸に痛みが走る。だから最後にとんだ意趣返しをしてしまった。それを抑えられないぐらい感情的になるのも、自分で困惑するぐらい、以前なら考えられない話だった。

 原因は分かりきっている。古賀倫斗。その名を無声で口にしてみる。倫斗。彼が琴音を名で呼ぶのなら、琴音もまた彼の事を下の名で呼んでいるのだろうか。

 くだらない感傷だと、人伝に聞いていれば思ったかもしれない。でもそれは前の叶香ならばという仮定で、今はその思いもよらなかったくだらない存在に落ち果てている。

 そうと自覚した上で、叶香もその声で、名前を呼んで欲しかった。そこはもう埋まってしまっているけれど、願わくは、叶うならば、どうか、あの磨かれた氷のような、潔癖なまでの純潔を思わせる涼やかな声で、「叶香」と呼んで欲しかった。

 ことね、ことね。無声で想い人の名を口にする。余人の望む自身を演じ、それが幸福と疑っていなかった叶香を蝕む、膿のような激情。それはきっと、桐風(きりかぜ)琴音という少女に対する、藤上叶香という少女の、初恋に相違なかった。



 特別棟二階へ上がる階段の踊り場で、数学教諭・(しき)恭平(きょうへい)は、向かう先に見知った女生徒を見つける。

 まるで冬の水面に張った氷の様に、酷く凍てついた佇まい。美少女という自称が一つも嫌味にならない玲瓏な顔は、しかしいつも通り物憂げだった。

 逡巡は反射的なもの。式の心底には彼女に対する苦手意識が根付いている。しかし今日ばかりは用向きがあって、だから億劫でも呼び止めぬ訳にはいかない。

「桐風」

 桐風琴音。女生徒の名である。式は彼女のクラス担任にして、所属する部活の顧問でもあった。

 三階に向かいかけたその足が止まる。琴音はまさに部室へ行く中途であったらしい。式に向けられた胡乱な眼差しからは、面倒臭いと読み取れる。

「なんです」

 剣呑な声。悪感情を隠しもしない。それは琴音の長所でもあり短所でもあり、彼女を学校一の変人候補足らしめる要因の一つだ。

 まぁ、式は慣れている。

「古賀はいるか」

 古賀倫斗。琴音が代表を務める同好会、テーブルゲーム部の片割れにして、琴音の第一の友人。

 あるいは、学校一の変人候補その二。

 結局のところ琴音に用はなく、式は古賀を当てにして来ていた。本来ならばテーブルゲーム部活動場所、もとい部員二人のお喋り空間と化している空き教室に出向き、そこで直接古賀に声をかける筈だったのだが。早すぎたらしく、教室を目指す部長と先に行き当たってしまった。そこまで至って声をかけないのも不自然だろう。必要な労力にさして差がなければ、結局は変わりない。

 しかし、

「彼なら今は生徒会室です」

 先に琴音と出くわした事といい、今日の式はついていないらしかった。

「そうか」

 無精髭を撫でながら、暫し思案。

「なら桐風、お前が手伝え」

「お断りします」

 まるで予期していたかのような即答である。

「男女共同参画社会なんて言いますけど、適材適所という言葉もあるでしょう。性差を問わずその仕事に適した人材の雇用が重要なのであって、時にそれは個人の自由意志よりも優先されるべきではないでしょうか。その観点から言えば、この庇護欲を掻き立てられるか弱き超絶美少女たる私に力仕事をさせるなど言語道断です」

 と、急に十八番の屁理屈を垂れ流して。

 しかも何故、力仕事だと言い当てられているのか。

「まだ何も言ってないぞ」

「簡単な推察です。事前の呼び出しもなし、先生はなにやら困っている様子。男手を必要としていて、しかし先生の交友関係からして頼れる人間は限られますから。大方、雑用でも押しつけられたんでしょうけど」

 残念でしたね、なんて清々しい顔で言ってのけるから、式は辟易するのだ。この場合、本人には悪気がなくて、単に自惚れているだけなのだが、そういう態度が相手の神経を逆撫でするのでいけない。式はもう受け入れ――諦めたものの、それが大人の対応なら、形だけの敬意に価値を見出すのもまた大人である。つまるところこれが甚く気に食わない教師陣もいた。

 加えて遅刻欠席が多く、万が一に出席したとて睡眠学習。これでテストの結果ばかりは恐ろしく良好なのだが、それだけで成績が決まるのはフィクションの世界だ。卒業どころか進級すら常に危うい琴音なら、きっとこいつを欲しがるに違いない。

「それは?」

 式が懐から取り出した一片の紙切れを、琴音は大した興味もなさげに一瞥した。

「必要出席日数の一覧」

 言い換えれば、琴音が後どれだけどの授業をサボれるか記された表だ。

「先生」

 式の眼前には、急に真剣な表情になった女生徒が一人。

「自分の事は一から十まで知る権利が、誰にでもあると思うんです」

「正当な仕事には正当な報酬」

「もうひと声」

「マッ缶でいいか」

「CCレモンを二人分お願いします」

 まったく、ちゃっかりしている。紙切れを琴音の手に押し付けながら、式は嘆息した。一本は古賀の為のものだろう。そうやって気を遣うだけの相手ができた事が、式には存外嬉しくもあったが。

「それで、」

 場所を変え、特別棟と教室棟を結ぶ一階渡り廊下。

 琴音の目の前に、無数のバレーボールが入った大きな籠がある。本来は体育の室内授業にて使われる筈で、間違っても吹き曝しのまま放置されていい物ではない。

「これは一体……?」

「よくわからんが授業で使ったらしい」

 式の答えは端的だった。同情を買いたがる性質ではない。ただこれを運ぶ必要があるだけで、琴音が把握するのはそれで十分なのだろう。

「体育館の倉庫までだ」

 キャスター付きとはいえ、重量のある籠を一人で操り、現在地からは特別棟を挟んで反対側にある体育館まで運ぶのは、なかなか骨の折れる労働と言える。式は見るからに体力も筋肉もある方でなく、何より堕落を愛しているので、人手を探していた訳だ。

「確かに女子でも足りる手伝いだが、しかし力仕事は男子の方がいいだろ」

 小汚いなりで優しさを見せられても女子は気持ち悪がるだけだ、という脳内評価はあまりにも辛辣すぎるのでさすがの琴音も自重した。実際そこに邪気はないので好感が持てる。確実に選びはするだろうが、偶には人好きもするだろう。

 ただ、結局は不当な手で琴音を動員しているのが全て台無しにしてはいる。

 そしてそうした好意に触れてこそ、琴音の釈然としない気持ちは膨れ上がった。

 これを用意したのは授業で使うと決めた教員で、間違いなく式以外の誰か。だのに片付けは人に押し付けている。

 まるで道理を弁えない幼子だ。

「自分で後始末できない事をやるんですね」

 不貞腐れているのを隠そうとしたら、余計に語気はらしくなった。

「子供の言う事じゃねぇな」

 こういう時、式は飾らないらしい。

「誰のおかげで進級できると思ってんの」

「私じゃなくて社会が悪い。美少女はいつだって正しいのです」

 琴音は臆面もなく宣った。段差を前に、籠の片側を持ち上げながら、式は珍しく笑みを浮かべる。

 それは、とても苦々しいものだったけれど。

「古賀と違ってお前は捻くれてるからなぁ。しかも筋金入り」

 今度は琴音が持ち上げて、段差を越えた。体育館と特別棟とを繋ぐ渡り廊下に差し掛かる。

 冬の乾ききった冷気が、琴音の熱を攫った。

「本当は全部、わかってるんだろ」

 それが原因、という訳でもなかろうが、琴音は気も漫ろで、だから段差に躓いた。

「大丈夫か」

「……美少女は時に神格化されますから。こうして抜けた姿を偶には見せる事で親しみやすさをですね」

 軽口を叩いて、言外に平気だと主張する。別に怪我はしていなかった。勢い余って籠の縁にぶつけた所為か、胸の下辺りが妙に痛んだけれど、すぐに収まるだろうと無視を決め込む。

 体育館では卓球部が練習していた。甲高い打球音、鋭い掛け声に満ちた空間の隅を、制服姿の女生徒と、縒れたスーツの教師が籠を引きながら進んで行く。

「代わりますよ」

 暫くもしないうちに、卓球部の生徒数人が手伝いを申し出た。琴音の目には、少なくとも最初の一人はまっさらな善意で声をかけてくれたように映った。残りが単なる後追いか、はたまた一人目より気づくのが遅れただけなのかは判然としない。

 女子だからだろうか、あっさりと任を奪われた琴音は所在なく。体育館の端、積まれたマットに腰かけて、倉庫の鍵を持った式が戻るのを待った。

 ここは騒然としていても規律がある。しかし耳を澄まし、目を細めれば雑音も感じられて。琴音の傍の入り口、丁度死角になっているが姦しい笑い声が聞こえる。走り込みから戻って来たばかりの一年生だろうか、台が足りない為なかなか打たせて貰えないらしい。恐らくは先輩であろう誰かの、悪口で盛り上がっていた。

「桐風」

 顔を上げると、先程より疲弊した様子の式がいる。

「行くぞ」

 さっさと歩き出したその背中を追いながら、すれ違い様、件の一年女子達を一瞥した。目が合う。色のない顔。琴音を見て一瞬、瞳に光が宿り。視線を外し際、ひそひそと耳打ちし合う姿を端に捉えた。

「運動部は爽やかでいかん」

 式がやけに疲れている訳を明かし、琴音の意識は逸れる。

「生気を吸われる」

「先生も相当捻くれてますね」

「これは生まれつきだ」

 渡り廊下に出る。校舎の間を風が走って、轟々と唸っていた。薄暗さに振り仰ぐと、何かを抑圧するかの如く、いつもよりずっと低い位置に雲が垂れ込めていた。

「道徳や倫理って」

 そう呼ばれる教科には色がないような気がする。あってもモノクロだ。それは琴音が小学生の頃、教室に貼ってあった大きな時間割表で、灰色のペンに塗られていたからかもしれないが。

「法律の条文で定義してしまえばいいと思うんですよね」

 少なくともあやふやな今のままのそれを、琴音は尊重しようとは思えない。努める意味がある気がしないし、逃れる意義を探す方が楽だと感じられた。

「そりゃまたディストピアな」

 さむ、とごちりつつ式。

「そうなりゃ人間お終いだ。少なくとも生物はやめてる」

 何の根拠があるのかそう言い切って、訳も話さず彼の姿はさっさと特別棟に消えた。

 この時期、CCレモンは購買の前の自販機でしか売っていない。時間帯的に教室棟のその一角は日が射し込まず、いつかの震災以来ずっと続く節電週間もあって、灰色の世界の中、自販機の光は人魂の様に浮かんで見えた。

 昼を過ぎたばかりで購買はギリギリ開いていたが、品物は殆どなくなっている。そこに琴音を連れ立って現れた式は、早々に済ませて暖かな職員室に戻りたかったが、ここに来て静かに悩みの体勢に入った教え子がいるのでどうしようもない。

「選びたきゃ選べ」

 そう言い捨てて、購買の方に向き直った。

「先生」

 睡魔と冷気が牽制し合い始めた頃、琴音からようやくお呼びがかかる。

「CCレモンと、ミルクティーで」

「何にそんな迷った」

 小銭を投入しながら、興味本位で尋ねてみる式。

「古賀くんが……いえ、単にどのドリンクなら私に映えるものかと」

「へー」

 そこまで言いかけたなら言えよ、と式は思わなくもない。しかしそこを突っ込むほど気安い関係でもないし、元より興味も薄い故、追及するだけ無駄な労力と諦めた。

 ミルクティーが落ちてくる。

 加えて、より気にかかる部分もあった。

「なんで苗字。名前で呼べよ」

 視界の隅で琴音が捩れた。

「な、んでで、すか」

「動揺しすぎだろ……」

 CCレモンが落ちてくる。どうも式と違い琴音はついているらしかった。ボタンに売り切れの文字が光る。

「古賀はお前の事、普通に名前で呼んでたぞ」

「……んんッ。それは、いつでしょう?」

「先週。授業の後、質問しに来た時」

 数秒悩んだ末、追加で小銭を投入した。

 テーブルゲーム部の二人の関係性が変化する様な出来事が、少なくとも晩秋にあったのを式は察している。詮索するほど無粋ではないが。

「ま、お前もそんな気張る必要ないだろって事だ」

「別にそういうつもりじゃありません」

 言う割に語調は頑なだな、と所感を心中で述べつつ、買った三本のうちからCCレモンとミルクティーを琴音に手渡す。ブラックの缶コーヒーは式のだ。

 それを見た琴音が一言。

「苦いの、お好きなんですか」

「いや、缶のは甘いよ。カイロ代わり」

 だから一番安いのを買っただけで、他意はない。少なくともそのつもりで、だが深層心理では嘘を吐けないので式にも本当のところはわからなかった。

「……それでは、そろそろ失礼します」

 終ぞ澄ました顔だけは崩さなかった琴音がそう言う。礼は言わない。逆の立場なら式もそうしただろう。言った通り、これは正当な対価で労いではないのだ。

 だから、

「桐風」

 呼び止め、振り返った彼女に手で提げていた物を放る。琴音のキャッチしたそれはお菓子の詰め合わせ。冬休み前だからと、売れ残り品をセットで安売りしていた購買の、そのまた売れ残りだ。

「古賀に宜しく」

 繰り返すようだが他意はない。だから、琴音が一瞬愉快な顔をした風に見えたのも気の所為。

「ありがとうございます」

 最後に頭を下げて、琴音は踵を返した。そこは違わないのが彼女の美しさだ。教師として試したとか、そんな意地悪をする器量は式になく、だからその応じ方に一切の感慨も抱かなかった。

「戻るか」

 意味のない独り言でも、彼女から意識を逸らすきっかけにはなろう。暖かい職員室と、小テストの束が式を待っている。

 急に現実が帰ってくると、全て放り出したいという気持ちが、彼の胸中で膨れ上がった。

本当は最後に二人をイチャイチャさせるつもりでした。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ