3
牧場付きの我が家は、相も変わらずしんとした静けさに包まれていた。ロッジ風の我が家は、まだ微かに木の香りが残り、内装は開放感を感じさせる広めの作りになっている。嵌め込み窓から覗く外の景色はもうすっかり夕暮れ時を迎え、薄暗い影が地上に落ちていた。
玄関の側近くにあるスイッチを押して家の隅々にまで通った魔法光の明かりを灯し、少年を連れて寝室がある二階へと向かう。素朴と言えば聞こえは良いが、それ程お金を掛けていない内装ははっきり言って木の温もりを感じる以外には、殺風景過ぎる家だ。とはいえ、そこここに置かれたヘンテコな調度品がある意味この家を不可思議な空間に作り上げている。
「ああ、籠は適当な所に置いといてくれ。こっちだ」
「ここ、あんたの家なのか?」
「ん? ああ、そうだ。ともかくついて来い」
一人暮らしには些か大きすぎる家でもあったけれど、こういう非常時には大きい家も役に立つというものだ。
以前は両親が使っていた部屋は現在俺が使っているので、昔俺が使っていた寝室のベッドに子どもを寝かせ、その脇から子どもの寝息や顔色を確認する。呼吸も安定しているし、顔色も悪くはない。ただ、少しばかり体力を使い過ぎているから、今夜辺りに恐らく熱を出すだろう。その辺りも注意して見ておく必要があるのかもしれないな。
ちらと後ろに視線を遣れば、大人しく着いてきた少年の顔色も随分と良くなっている。
ここへ来るまでには藪の中や獣道を通ってきたせいで、お互い少し身なりが汚くなってはいるけれど、これならば取り敢えずは一安心だ。
「今、お湯と着替えを持ってくる。少しここで待っていろ」
「あっ、ちょ…!」
何か背後で喚いていた気がするが、扉越しに聞こえるのは雑音のみ。
この世界では、魔法工学技師の開発によって数多くの便利な道具が発展している。それはこの家にある洗濯機や全自動湯沸し器が付いた風呂場もその一つで、俺は浴槽に湯を溜めながら血が乾いて固まった服を脱ぎ捨てて金だらいに放り込んだ。
「これも洗わないとなぁ」
内装自体は広めであるけれど、この家はそう大きい家では無いから、客人が出入りする一階以外は所狭しと様々な物が積み上げられている。特にそれは、両親が置いていった何と形容して良いのか分からないガラクタ品が多く、一応許可を得てから捨てようと決めては居たものの、家主が変わってからもう五年以上も変わっているんだし、そろそろ本格的に片づける必要があるのかもしれない。
脱衣場にあるタオルと予備の服を掴んだ瞬間、俺ははたと動きを止めた。
「そういえば、あの子ども達、俺の服が合うのか…?」
年齢的には俺と近かったようだが、多く見積もっても十二歳かそこらだろう。実際には九歳位だと俺は見ているが、俺は一昨年から雨後の筍のように身長がぐんぐんと伸びているお陰で身長は百七十センチを優に越えている。合わなくなった洋服は悉く雑巾にしたり、野良着にしてしまったので既に手元には無い。
確かあの子ども達の身長は、十センチ以上低かった気がするのだけれど、仕方がない。
「まあ、合わなければ袖を折って貰えば良いか」
大は小を兼ねるとも言うしな。
寝室に居る少年と子ども用の洋服とお湯を張った桶、それから体を拭く為のタオルを片手に俺は寝室へと戻った。軽くノックをした後に部屋に入れば、少年は所在無げにうろうろと子どもの眠るベッドの周りをうろついていた。
「おい、椅子はそこだぞ」
両手が塞がっているのでベッドの脇に折りたたんだ簡易椅子を少年に顎で指示し、ベッド脇のサイドテーブルに桶と服を置いた。桶の中からゆるりと白い湯気が上がる。体を冷やさないようにと湯を張ってきたが、もう少し熱くても問題なかったかもしれない。
「すまないが、俺は先に風呂に入らせて貰う。これで体を拭いてやってくれ。また後で声を掛けるから、お前は後で風呂に入れば良い」
「ああ…ってあんた、なんて格好してるんだよ!!」
「何って、ああ。さっきズボン脱いで来たからな」
そういえば今はボクサーパンツにラフなシャツだけという些か変態じみた格好をしていたんだったか。とはいえ、男同士なんだし騒ぎ立てる事でも無いだろう。
大体、ベッドの上に居る子どもは、よく眠っているようだしな。
「ともかく、お前も手が血で濡れてるだろう? この子も、このままじゃ気持ち悪いだろうし」
眠る子どもの服には乾いた赤黒い血が広範囲に広がっている。別にベッドが汚れるのは構わないが、風邪を引かれては困る。そこまで面倒は見きれない。
「友達、なんだろ? 同性なんだし着替えさせてやれ」
「そうだけど、あんたなんでそんな事までしてくれるんだよ! 俺達が何者かなんて、あんた何も知らないのにっ」
「それはお互い様だ。好意は有り難く受け取っておけ。別にそれでお前がどうにかなる訳じゃ無い。気にする必要など無い」
「でも、俺は…」
少年はベッドに寝かされた子どもと俺を交互に見つつ気まずそうに口ごもる。危機感があるという事は良い事だ。特に、未だ人拐いなどが横行するこの世界では、自己防衛こそが重要なのだ。とはいえ、押し問答をしていても先に進まないのだから、少年に新しいタオルを放り、眠っている子どもに目を向けた。
「さっきまでの威勢はどうした? お前はこの子を助けてやりたかったんだろう? なら利用出来る事は最大限利用しておけ。お前はこの子の事だけ考えていれば良い。ともかく俺は風呂に行く。飲み物が飲みたけりゃ下の冷蔵庫に入ってる物を飲め。腹が減ったのなら、その辺においてあるパンでも齧ってろよ。じゃあまた後で」
少年の返事を待つ事無くさっさと風呂場に向かい、金だらいに放り込んだ服に水を張って浸け込んで軽く揉み込み、適当に疲れきった体を洗う。何度か金だらいの水を変えて手洗いし、水の色が透明に近づくまで丁寧に手洗いする。これで血が落ちなければ、また野良着にするしか無いが、いっその事服を染めてしまうのも良いかもしれない。
温かな湯気が立ち昇る浴槽に肩までゆっくりと浸かると、久しぶりに大きな癒術を行ったからか、体の節々が悲鳴を上げていた。これはもう、明日は絶対に金縛りにでも合ったのかという位に筋肉痛となるに違いない。
「それにしても、熱いお湯は生き返るなあ」
心地好いお湯に思わず感嘆の息が漏れる。やはり予想以上に疲れているらしい。いや、本当に肉体だけを 見れば、あたかも体力が尽き果てるまで全力疾走した後かのように、全身の至る部分が悲鳴を上げている。
「そろそろ戻らないと不味いか」
あまり長湯をし過ぎると、あの少年が不安で押し潰されてしまうかもしれないしな。一度お湯を抜いて少年の為に新しい湯に張り直し、俺は用意していた服に袖を通して寝室に向かった。
「遅くなっってすまん。体、拭いてやれたか?」
「ああ。でも、服は…」
「やっぱり大きすぎたか。まあこればっかりは仕方が無いからな。俺が見てるから、お前は風呂に入って来い。血で汚れてる服は湯を張った金だらいがあるから、そこに浸け込んでおいてくれ」
「分かった」
口数少なくそう言って部屋を出て行った少年は、何処か疲れたような足取りだった気がするが、何というか子どもの感情というものは起伏が激しいのだ。興奮状態から抜け出してこの家に来たものの、漸く少し落ち着いてきた事によって掻き消されていた魔獣への恐怖や不安が一気に溢れ出しているのだろう。こればかりはもう、自分の中で消化する他無い。大体俺は他人なのだから。
「冷たい、とは思うけどな」
何事も経験だ。身を持って学ぶ事は、少年にとっても良い糧となるだろう。まあ、側に居てやれば自然と気持ちが浮上するだろうから、俺はただ見守るだけだ。
そんな事を考えていたせいか、急に眠気が沸き起こって来る。
「眠い」
ベッドの端に腕を乗せて頭を凭れさせると、瞼が重く降りてくる。必死に目を凝らしても睡魔には勝てそうにない。いや、今はまだ眠る訳にはいかない。少年が戻って来るまでは。うつらうつらと頭を揺らしながら、ぼんやりとそう思っていた筈なのに。
いつの間にか俺はぐっすりと深い眠りに着いていた。
*
次に目を覚ました時、部屋の中は真っ暗闇に包まれており、恐らくは深夜に差し掛かった時刻だと伺えた。ああ、やっぱり眠ってしまっていたのか。恥ずかしい。光量を抑えてそっと部屋の明かりを灯すと、寝室の片隅に置いた二人人掛けのソファーがもぞもぞと蠢く。
大判のタオルケットから顔を出したのは、あの少年だった。眠そうにはしていないが、妙に落ち着いている。これは浅い眠りで横になっていたのだろうか。
「すまない、起こしたか。熟睡してしまったみたいですまないな」
「……いや、眠って無かったから大丈夫」
「飯はまだ、だよな。起きてるならご飯食べるか?」
「うん」
やけに素直にそう頷いた少年は、俺の後に引き続いて部屋を出て、階下のリビングへと向かった。冷蔵庫の中を覗くと、ソーセージや卵は一応置いてあるが、食べ盛りの子どもには少し物足りない量だろう。
まあそうは言っても夜食兼夕食のようなものだし、あまり食べられないかもしれないから、取り合えず湯を沸かしている間にソーセージと卵を焼き、一人分残っていたシチューを温めて早朝に焼いたバゲットをテーブルに出した。我ながら豪華だが、まだまだ食べ盛りの少年には少し物足りない量かもしれない。
魔法工学が発展したこの世界では、一つ前の過去生同様に何不自由のない生活が送れている。魔法の発展に尽力した先達のお陰で俺のような庶民でもこのように生活出来ているのだから、魔法工学様様だ。
しかし大人しいな。少年はまるで遠慮するかのように小さくご飯を摘まむ。
少年の纏う衣服は俺が出していたものだけれど、丁度良いサイズだったようだ。裾を引きずる様子もなく、袖が小さすぎるという事もない。良かった。が、今は気になる事がある。
「口に合わなかったか?」
じっと押し黙った少年の手元に視線を落とすと、少年が動揺した様子でフォークを食器に落とした。「いや、そんな事無いけど」もごもごとそう言う少年は、カップの中に満たされた水を勢いよく飲んだ後、盛大に噎せていた。おいおい、何をしているんだ少年。ポケットに入れていたハンカチを少年に渡せば、真っ赤になった顔を隠すように「ありがとう」と呟く。素直でよろしい。思わずふっと口元が緩んだ。
「大丈夫か?」
「うん、大丈夫」
そう手を振ってはいるが、大丈夫そうには見えない。だが、これ以上突っ込むのも失礼に過ぎるか。そう思い直して食事を進めると、再び少年も躊躇いながら食事に手を付けた。別に美味しくない訳ではなさそうだ。目元が綻んでいるし、食事のペースも先程よりも上がっている。ただ、心ここにあらずという雰囲気が少年の所作に滲み出ている。何を気にしているのやら。そうは思うけれど、取り合えず別の話題を上げてみる。
「食べられる分だけ食べろよ。お替りもあるから」
「…どうしてそこまで良くしてくれるんだよ?」
少年はそう呟いた。どうして、たって。
「別に意味は無いけど?」
「なっ、何だよそれ!」
「おいおい、声落とせよ。起きちまうぞ。どうして、って言われてもなあ。だって俺、お前の名前すらまだ知らない訳だし」
カッとした様子で身を乗り出す少年は、ぎろりと俺の目を射抜く。おいおい、一応俺は恩人――じゃないけど、助けた人間だぞ。勿論、これは俺のエゴだからとやかく言うつもりは無いが。肘をテーブルに付けたまま行儀悪くフォークを少年に向ければ、少年はうっと詰まって椅子に座り直した。まあ、素直な事で嬉しいよ、俺は。弟かなにかに向ける親しみを込めた笑みで少年をじっと見つめ返す。
「別に良いんだけどな。俺も名前とか言ってないし」
カップに残った水を一気に呷り、新しい水を入れていると少年が先程よりも静かな目で俺を見た。それはあたかも何かを覚悟するかのような強い光が見えて居る。さて、その表情は何を表しているのだろうか。僅かに興味を惹かれて少年の目を覗き込んだ。
「俺の名前は、ルーン・グラディウス。眠ってるのは、ライド・ファングだ」
「そうか。わざわざありがとな。俺の名は、レドガルス・ホークだ。今日、ってか昨日か、十五歳になったばかりなんだがな」
「……ええっ、あんたまだ十五なの?!」
そんなに驚かれるとは思っていなかったが、まあ年齢以上に見られる事は俺にとって珍しい事ではない。焦った少年――グラディウスの表情から見るに、恐らく相当年上に見られていたのだろう。いつの間にか空になっていた食器を下げ、グラディウスが食べていた食器もついでに下げてシンクの桶に浸した。
「まあな。おま、あーグラディウスは何歳なんだ?」
「俺は、」
ぐっと唇を噛んだグラディウスは何かを言いかけて息を詰めた。
「言いたくないなら聞かないでおいてやる。だが、お前達が何故あの山に入ったのかは知らないが、お前達は死の淵に立たされていたという事実を忘れるなよ。お前達は救われた訳じゃない。間一髪で死ななかった。それだけだ」
「……! 分かってる」
「ならそれで良い」




