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この山の薬草を狙って入って来たのか…?」
都市部では決して手に入らない貴重な薬草も、この辺りではそう苦労することなく沢山採取する事が出来る。
だが、無茶な事をするものだ。恐らくはこの近辺の住人などではなく、遠方から富を狙ってやって来た連中なのだろう。十分な下調べをすれば、この山の危険性は十分に把握する事が出来ただろうに。
「助けに行くしかない、か」
誰か助けて! と救いを求める叫び声は、未だ周囲に響き続けている。こんな大声で叫び続ければ、そう遠くない内に危険な魔獣を呼び寄せることにも繋がりかねないが、恐らくはそんな考えすら抜け落ちている状態なのだろう。
いつの間にか叫び声は、先程よりも更に大きく、切羽詰まったような泣き声に変わっている。
くそっ、行くしかないか。内心で悪態を吐きながらも、ここで見捨てるという選択肢は残念ながら持ち合わせてはいない。
「死ぬなよ…!」
背負い籠にしっかりと蓋をして両肩に背負うと、俺は体勢を低くして、声が響く方向へと駆けだした。
足音を消す、などという余裕はない。がむしゃらに地面を蹴りつけ、自らの膝から腰程度に伸びた雑草を掻き分け、時に切り払い、ザクザクと音を鳴らして一直線に駆け降りた。
まるで大型の獣が近づいて来るかのような足音が地面から、草から鳴り響く。恐らく、声の主もその音に気が付いたのだろう。
「だ、誰だっ!」
鋭い怒気と共に鈍く反射するダガーが目の前に迫って来た。直線的に投げられたそれを身を低くして躱すと、俺は対峙する声の主に、「やめろ!」と鋭く声を上げた。
「声が聞こえてやって来た者だ。今そちらに出る。危ないから武器は投げないでくれよ」
呼吸を整えて両手を肩の上まで上げて降参のポーズを取り、声の主が居るらしい開けた巨木の下に這い出た。頭の上に掛かった落ち葉を両手で軽く払い、ぽかんとした表情で俺を見つめる少年を見つめ返す。
「お前、人間か…?」
「そうだ、見て分からないか? 頼むから武器で攻撃なんてしないでくれよ。俺はただ、叫び声がしたからここに来ただけなんだ」
声の主は意外にもまだ少年と言って差し支えない幼い子どもだった。若干ボロボロになっている衣装は、どう見ても獣に襲われた後にしか見えなかったが、命に別状は無いようだった。しかし少年の足元には、外見から見て同じ位の年頃の子どもが横たわっていた。すんと鼻を嗅ぐと、鉄錆のような不快な血の臭いが鼻の奥に纏わりつき、思わず荒々しい仕草で背負い籠を足元に落とし、横たわる子どもの前に立ち塞がる少年の元に駆け寄った。
「うっ、動くなよ!」
「そんなことを言っている場合か! その子、怪我をしているんだろう? 早く何とかしたくて助けを呼んだんじゃないのか」
「そ、そうだけど。でも…」
まごつく少年の肩越しに子どもの状態を見た瞬間、俺は冷静さをかなぐり捨てて横たわった子どものすぐ側に膝を着いた。
「おい! これはどうしたんだ? まさか魔獣にでも襲われたのか⁈」
子どもは見るからに重症だった。切り裂かれた腹部から出血したそれは、子どもの腰回りをぐっしょりと血で濡らし、その周囲には血だまりが出来ている。内臓をやられたのか、それとも出血が多すぎるのか、子どもの顔色は今や土気色になっている。
「おい、どうなんだ答えろ! この子は魔獣に襲われたのか⁈」
「……うっ、ん。山に入って暫くしたら、ダイアウルフの群れに襲われて…」
「馬鹿野郎! 早く止血しないと失血多量で死ぬぞ!」
ひゅっと少年が息を呑む。だがそれに構っている暇などない。今はこちちが先だ。
子どもの血で張り付いた服をめくると、応急措置だろうか、丸めた衣服で傷口を押さえられてはいたものの、その服すらぐっしょりと血で濡れており、ぽたぽたと赤い血が地面に落ちている。
「酷いな…」
ああ、この少年はこの子の為に人を呼んだのか。それにしても出血が酷い。これでは早晩、この子の命は消えてなくなるだろう。
「お前はここを押さえてろ! お前、高等癒術は使えるか? もしくは薬でも良い。何か持っていないのか⁈」
「初級ならともかく、高等癒術なんて使えない! …俺は光属性じゃない、から。薬も軟膏くらいしか持ってない…」
小さな声でそう言った少年は、悔しそうに唇を噛み、渾身の力で子どもの腹部を押さえ、体をぶるぶると震わせた。
ああ、そうか。忘れていた。ここでは誰もが癒術を扱える訳ではなかったのだ。
この世界では、高度な癒術は光属性という特殊な属性を持つ人間にしか扱う事が出来ない。勿論、かすり傷や擦り傷程度ならば、属性に関わらず簡単な初級の癒術―――というか魔法の部類に入るもの―――で治す事も出来る。
だが子どもの様子を見るに、最早手遅れに近いこの状態では、上級癒術師か、或いは国によって認定を受けた国家癒術師にしか治す事は出来ないだろう。
山を下りて町へ行けば癒術師も居るだろうが、並の癒術師ではこの傷は手に負えない。それに、そこまで行ったとしても、この子どもの体力がいつまで持つのか分からないのだ。
実際、子どもの意識は既に無く、呼吸も頼りないものだ。いつ呼吸が止まってしまっても、不思議では無い程に。
どうする、どうすれば良い? 考えろ。考えるんだ!
これまで転生してきた人生の内、魔法のある世界で生きていたのはおよそ三回のみ。その中でも属性に関係なく癒術を扱えた人生はたった一つ。
ああ、そうだ。あの時は属性に関係なく誰もが高度な癒術を扱えた。勿論、それには血の滲むような修練とあらゆる知識を学んだ上での事だ。誰もが到達出来る訳ではないその高みに、俺はあの時到達していた。
そしてその中には、属性によって異なる方法でありながら、同じ効果をもたらす癒術もあった筈だ。
俺の今の属性は火。これで扱える癒術と言えば―――。
「よし、俺が何とかする。少し離れていろ」
「は、離れてろって、どうする気だよ…!」
「今から癒術を行う。と言っても俺は専門職じゃないから、余り期待はするなよ」
「まさか、こいつを実験台にするつもりかよ!」
「ならお前がこの子を救えるのか? この子を救う程度の癒術を扱えもしないのに?」
怒気を飛ばす少年を睨み付ければ、悔しそうに、「どうして」と震える声を漏らす。悔しさと、虚しさと、憤り。少年の目には複雑な感情の色が浮かんでいた。だが、これが現実というやつだ。抗うことの出来ない、まさに一刻を争うような事態。それが現実に今起こっているのだ。
それを止められる術は、今の所俺の中に秘められた知識のみだろう。
「俺なら助けられるかもしれないって言っているんだ。だがこれで効果が無ければ…諦めるしかない。そこは覚悟しておけ」
「助けられるかも、って、どういう意味…」
「いいから退いていろ。集中出来ない」
よろめくように後退した少年を横目に、俺は過去に学んだ術式と魔法陣をイメージしつつ子どもの腹部に手を当てた。
派手な魔法ではない。だが、膨大な魔力を遣うこの癒術は、自然に存在する地脈を用いて魔力に変換し、癒術へ転用する魔法である。
幸いな事に俺は、人体の何処か損傷し、どのような状態にあるのかを正確に視る事が出来る魔法を習得している。
損傷個所を余すことなく確認すると、恐らくはダイアウルフの牙によってだろう、内臓にまで及ぶ深い傷口から徐々に表層の皮膚へと癒術を行使する。
「炎が…!」
少年の目には、俺が癒術を施している部分が燃えているように見えるのだろう。だが、実際に皮膚や内臓を焼いている訳ではない。これは属性癒術による副次的な効果だ。恐らく少年の視覚には子どもの全身が炎に包まれているように見えている筈だ。
それから五分か、或いは十分程経った頃だろうか。漸く癒術が終わった。
地脈の蓋を閉じ、魔法のイメージ映像を媒介にして子どもの体内を見ていた視覚を実際に現実で見ている視覚へと切り替える。少年は先程の瀕死の状態が嘘のように赤みを帯びた穏やかな寝顔を晒して地面に横たわっていた。
念の為にと、腰に垂らした手巾で先程まで血を流していた子どもの腹部を拭うと、後ろに立っていた少年が何処か呆然とした声で「傷が、ふさがっている」と呟き、転ぶように駆け寄ってきた。
その場を少年に譲り、癒術の行使によってぐっしょりと汗で濡れた額を乱暴に袖口で拭う。
血だまりに膝を着いていたからか、俺の膝から下のズボンや手は未だ子どもが流していた血で濡れているものの、一部には既に乾いている箇所もあって、なんというかまあ、とんでも無い事をやってのけたものだと苦笑する事しか出来なかった。
「おい、あんた、何者なんだよ?」
「そんな事はどうでも良いだろう。それよりもここに長く居過ぎた。他の魔獣も血に引き寄せられてやって来るぞ。移動する。この籠を背負えるか?」
「出来る、けど」
「じゃあ、それを背負ってついて来い。俺はこの子を連れていく。さあ、いくぞ」
「行くって何処にだよ!」
「勿論、俺の家だ」
ちらりと振り返った少年は唖然とした様子で口を閉口させ、俺を見つめる。しかし俺が軽々と子ども抱き上げると慌てた様子で後ろを付いて来た。それが少しばかり面白くて、俺はこっそりと笑みを浮かべた。
久しぶりに行使した癒術は、やはりそれなりに疲労感を伴うものだったが、本当に酷いのはこの後だろう。これから味わうことになるだろう筋肉痛やら節々の痛みを想像し、顔を顰めた。
さっさと家に帰らなければ結局共倒れになってしまう。明日はちゃんと町の癒術師に診せに行く必要がある、そう思いながら、俺は勝手知ったる山の獣道を早足で駆け降りて行った。




