首無し王子が結婚しました
第一章 夫婦の仲は交換日記から
フィリアは自室で本棚を眺めていた。
そこには祖国から持ち込んだフィリアの愛読書が並んでおり、もう何回も読んでしまったものがほとんどだ。読み飽きたとまではいかないものの、そろそろ違う本も読みたくなってきた。
「図書館に行こうかしら?」
一冊の本を取出し背表紙を眺めながら呟いた言葉に、侍女のジゼルが反応した。
「よろしいんじゃありませんか? 姫様はお部屋にこもってばかりですから、少し環境を変えてみたほうがよろしいですよ」
「そうねぇ」
頬に手を当てて悩むフィリア。
「でも、ここから図書館までが遠いのよ」
憂鬱そうに黒髪を掻き上げるフィリアは、先日この国に嫁いできたばかり。まだまだ勝手のわからない城に苦労しているのだ。
「そんな。たいした距離ではありませんよ。そんなことを言っていたら、慣れるものもありません」
「そうは言っても……」
弱気なフィリアを侍女が叱咤するがそれでも、彼女の気分は晴れなかった。いつもは美しく煌めいている碧い瞳も、今は不安気に曇っている。
「ああも周りに気を遣われるとかえって疲れるのよ。腫れ物を触るように接せられて、どうしたらいいかわからないわ」
フィリアの憂鬱は、この国でのフィリアの立ち位置にあった。
彼女は秋に婚約し、冬を越えてその年の春に結婚した。
今年で十五になったばかりで余りに早い結婚であるが、政略結婚であるため仕方ない。
そして、その政略結婚こそが、フィリアの立場を微妙なものとしていた。
「仕方ありません。事実、姫様は同情されて当然の立場にいらっしゃいますから。姫様だって、怖いから絶対近づきたくないとおっしゃったではありませんか」
「そうだけど……」
フィリアは言葉につまって俯いた。ジゼルに言われたからではなく、恐怖の対象について思い出してしまったからだ。
「アレスの耳に入らないか心配だわ」
祖国に残してきた姉想いの弟の姿が浮かぶ。結婚話があがった時、彼は最後までフィリアのことを心配して結婚に反対していたのだ。
「フィリア様のこととなると途端に冷静さを失われてしまう方ですからね。激怒して乗り込んでくるかもしれませんね」
「笑えないわ」
事実、フィリアの結婚を知った時、アレスはフィリアのもとに激怒して乗り込んできたからだ。
数か月前、冬の寒さがやわらいできた暖かい日。祖国クルトネ王国の閑散とした自室でフィリアは本の整理をしていた。
「こうして見ると、思ったよりもたくさんあったのね」
読書好きなフィリアの私物はそのほとんどが本であり、王女らしいものと言えば部屋にひとつだけ置かれたドレッサーに収納せれている品だけである。
一国の王女としてあるまじき光景であるが、フィリアの祖国クルトネ王国は万年財政難に苦しむ貧乏国であるため、誰も咎めるものはいない。
高価な宝石類を求めるよりも良いだろうと、もっぱら国の者はフィリアの本収集を止めはしなかった。
「全部は持っていけないかしら?」
悩ましげに本棚を眺めるフィリアだが、聞こえてきた足音に視線を扉に向けた。
次第に大きくなる足音は荒っぽく、相手の興奮具合がありありと伝わってくる。やがて足音の主はフィリアの部屋の前で止まった。
「姉上!!」
盛大な音を立てて入ってきたのは焦げ茶の髪に翡翠色の髪をした少年。肩を怒らせて大股で部屋に入ってきた弟に、理由が分かっているフィリアは苦笑した。
「アレス、お行儀が悪いわよ。足音がずっと前から届いていたわ」
「そうさせているのは姉上です!!」
五つ下の温厚である弟がここまで怒る姿は、フィリアも初めて見た。
「姉上、ラディエント王国の第一王子と結婚すると聞きました」
「そうよ。いい縁談を頂いたでしょう」
フィリアは秋に隣の大国ラディエント王国の王子と婚約し、そして今月の末には結婚する。弟には隠していたのだが、どこからか聞きつけてしまったようだ。国同士の政略結婚など特に珍しいものではないが、このフィリアの結婚にはある事情があった。
フィリアの自国クルトネ王国は、後方を険しい岩山に囲まれ、前方は大国ラディエント王国に塞がれている小さな国だ。もともとはラディエント王国の一地域であったのだが、のちに独立を許されて国となったものだ。特に特産もない国であるため、国全体が一丸となってどうにかやってきていたのだが、今年になってどうしようもない深刻な事態に陥っていた。
季節はずれの長雨のせいで農作物のほとんどがやられてしまい、クルトネ王国は前代未聞の大飢饉に見舞われたのだ。
このままでは国民の半数以上が餓死してしまうと、絶望していた国王にラディエント王国の現王は言ったのだ。
『クルトネ王国に対し、全面的に食料援助をする。そのかわり、クルトネ王国の第一王女を我が息子の妻として自国に迎えたい。』
それは援助のかわりに娘をよこせ、という明確な取引だった。
ラディエント王国以外の国とクルトネ王国は隣接しておらず、一番近い国でもラディエント王国の広大な領地を挟むため大変な労力と時間を要してしまう。
断るということは餓死することと同義であった。
無論、国王はそれを承諾し、フィリアにも異論はなかった。
例えそれが訳ありの王子であったとしても。
「ラディエントの第一王子と言えば、あの首なし王子ですよ!!」
アレスの悲痛な叫びが室内に響いた。不吉な響きにフィリアの肩がほんの少し揺れる。
フィリアの夫となるラディエント王国の第一王子、クロドベルトス・ド・ラディエントは、三年前までは亜麻色の髪に紫の瞳で彫刻のように美しいと有名だった。
あちこちの国から縁談が絶えず、本来なら弱小国の王女であるフィリアなどに声がかかるはずのない相手であった。
しかし、今やそれは過去形であり、縁談を望むものなど一人もいない。
「首がないんですよ!! 比喩などではなく、本当に」
「そうらしいわね」
そう、クロドベルトスには首がなかった。正確には首から上が。
王位争いの一環で、呪いをかけられてしまったとかなんとか。
どれほど優秀であっても首のない後継者など前代未聞。クロドベルトスは、王位継承者から外され、今や国内でも敬遠されていると噂されている。
そんな相手に嫁ぐのだ。姉想いのアレスが反対するのはもっともなことだった。
「考え直してください。首がないなんて。どうやって生きているのか、人間なのかもわからないような者ではないですか。だいたい、相手のことをなしにしたとしても、姉上はまだ十五なんですよ。結婚なんて早すぎです」
「無理よ」
フィリアは即答した。
クルトネ王国の法律では成人は十六からとなっており、確かにフィリアは十五歳と、まだ成人していない。王室会議では花嫁が幼すぎるとの声も上がっていたのだが、事情が事情なだけに、ラディエント王国側から急かされる形でフィリアは結婚することとなったのだ。もちろん、このことはアレスには内緒である。
「この婚姻はクルトネ王国を救うためのもの。それに、もう両国で話はまとまっているわ。今更どうこう出来るものではないのよ」
淡々と語るフィリアには一切の迷いはなく、何を言っても最早変わらないのだと、アレスに理解させた。
「……姉上は、それでいいんですか?」
「ええ」
フィリアは弟に向けて、出来る限りの最高の笑みを浮かべた。
実を言うと、フィリアはもの凄く不安だった。
アレスの言う通り、首が無い王子が生きて動いているなど、想像するだけでも背筋が凍るものだ。不思議に思う以前に恐怖の対象でしかない。
そして、フィリアは幽霊の類が大の苦手だった。
昔から怖がりで、最近になるまで夜に城を出歩くことすらなかった彼女にとって、首無し王子との結婚は死刑台に立つような絶望を与えた。
しかし、そんなフィリアの感情など、国の大事の前では気に留めるのも馬鹿らしい。
フィリアは王族としての誇りを総動員して、なんとか気丈に微笑んでいた。
「田舎の貴族と結婚させられるより、刺激的じゃない?」
内心ではびくびくと怯えていても、長年公務で培った作り笑いとはったりは完璧だ。
清々しいまでの笑みで頷かれてしまえば、アレスはそれ以上何も言えない。それでも納得はしていないらしく、難しい顔で黙り込んだ弟に、フィリアは少し申しわけなくなった。
婚約のことを意図的に黙っていたことには、多少なりとも罪悪感を持っているのだ。
「黙っていてごめんなさいね。アレスは絶対反対すると思ったから」
「当たり前です。」
即答した真面目な弟に、フィリアは微笑んだ。
幼い弟を残して国を離れることに不安はあるが、アレスならきっと良い為政者になるだろうとフィリアはさほど心配していなかった。
「そんな顔をしないでアレス。殿下の気性は穏やかだと聞くし、お首がなくても殿下の人間性そのものはきっとお変わりないと思うわ」
心にもないことを言いながら弟を安心させようとするが、アレスは納得しない。
「そんなのわかりません。その噂が正しいという保証もない。会ってみて襲われたらどうするのですか」
「あんまり怖いことを言わないで。大丈夫よ」
どこまでも姉のことを心配するアレスに、フィリアは苦笑した。
手を伸ばしてアレスの柔らかな髪を撫でる。
「心配しないで。隣の国なのだし、殿下にお許しを頂けたら多少の里帰りも出来ると思うわ」
「…………はい」
フィリアの言葉に間を開けて、それでも頷いてくれた。
その弟の優しさに、フィリアは微笑んで別れを告げたのだ。
弟のことを思い出したフィリアは、祖国を思い出し恋しくなってしまった。
約束通り、ラディエント王国の国王は大量の食糧をほとんど無償でクルトネ王国によこしてくれた。冬越えを諦めていた者たちも皆、給付された食料により救われたのだ。
フィリアはクルトネを救ってくれたこの国に感謝していた。だからこそ、現状での居心地が大変悪い。
「それで、いかがなさいますか?」
物思いにふけっていたフィリアだが、再度確認をとられて目を向けた。
「そうね、行きましょう。たまには動かないと歩き方を忘れてしまいそうだし」
肩をすくめながらフィリアは言うと、棚に本を戻した。
「フィリア姫」
自室からほんの数分歩いたところで、聞き慣れた声にフィリアは呼び止められた。一瞬顔をゆがめたフィリアだったが、すぐに笑顔を浮かべて振り返る。
丁度、ふっくらとしたお腹で丸い眼鏡をかけた金髪の男性が早足で歩いてくるところだった。
「まあ、ルペルト伯爵。ごきげんよう」
「ごきげんよう姫君、どちらにお出かけですか?」
挨拶もそこそこに、いきなり聞いてきた不躾な伯爵に一瞬フィリアの瞳が曇ったが、すぐに大人しく答えた。
「図書館に、本を借りに行こうかと思いまして」
答えながらも、フィリアには伯爵が次に言う言葉がわかっていた。
「では私もご一緒してよろしいですか? 姫もおひとりでは不安もあるでしょう」
気を遣った笑みを浮かべる伯爵。さも自分の言っていることがフィリアのためになっていると信じて疑わない表情だ。
フィリアはため息をつきたい気持ちを押しこめ、どうにか顔に笑みを張り付けていた。
フィリアが自国のためにこの国に嫁いだことは、城内では周知の事実だった。
そうでなければ、首のない王子に嫁ぐものなどいないと誰もがわかっていたからである。
そのため、フィリアは呪われた自分の息子を不憫に思った国王が隣国の窮地に便乗してよこした花嫁として、城内で多くの同情を集めていた。
特にこの伯爵は呪われた王子を嫌煙しているのか、やたらとフィリアに近づいてくるのだ。
初めは親切だと思っていたフィリアだが、程なくして伯爵の視線に憐れみと同情、打算を感じとり、不快感を味わったのは苦い記憶だ。
それ以来、フィリアはむしろこの伯爵にこそ会いたくないと思うようになったのだ。
しかし、伯爵は気持ちの悪いくらいフィリアに付きまとった。
偶然を装っているが、まるで見張っているかのようにフィリアが部屋を出るとすぐに近づき声をかけてくる。
そのため、フィリアは極力部屋から出なくなっていったのである。
「それともお部屋にお持ちしましょうか? 廊下には何人か使用人が控えております。姫様が態々出向かなくとも、言っていただければ彼らが取ってまいりますよ。」
人の良さそうな笑みの中に、気の毒そうに自分を見つめる瞳を見つけ、フィリアは喉がつかえるような息苦しさを感じた。
「……結構です。自分で見て探したいので、私自身が向かいます。付き添いも結構。ジゼルがいますので」
「しかし……」
「お気になさらないでください。この国の図書館は素晴らしいとお聞きしています。是非この目で拝見したいのです」
王女として培った有無を言わせない笑みを向け、フィリアは伯爵の言葉を封殺した。
「無駄に長居は致しません。昼食の時間までには戻ります」
なおも何か言いたげな伯爵を無視して、フィリアは出来るだけ早くその場を後にした。
胸の辺りがむかむかして、なかなか収まらない。
フィリアは胸の鬱憤を晴らすかのように更に速度を上げて歩いた。
「姫様、どこまで行くおつもりですか?」
ジゼルの淡々とした声が止めなければきっとどこまでも進んで行っただろう。
「図書館はとうに過ぎてしまいましたよ」
「えっ」
はっとして辺りに目を向けると、図書館の扉が五十歩ほど後ろにあった。無心になりすぎて気づかなかったようだ。
「えっと……ごめんなさい。少し考え事をしていたみたい」
フィリアは疲れたように微笑んだ。
なんだか最近疲れが溜まっているように思える。急激に環境が変わり、周りの空気にすら重さを感じるようになっている。
「姫様、ひとまず深呼吸でもなさってください」
ジゼルに促されて、フィリアは大人しく大きく息を吸った。
空気とともに溜まった黒い気持ちを吐き出し、なんとか落ち着く。
「ありがとう。少し楽になったわ」
急いで歩いたせいで、フィリアの髪は乱れていた。ジゼルは素早くフィリアの身だしなみを整えた。
フィリアは、てきぱきと動くジゼルを横目に見るが、その間も先ほども、ジゼルの表情は動かない。
フィリアが幼少の頃から仕えてくれているジゼルだが、フィリアは彼女の表情が変わるところを見たことがなかった。
ジゼルは常に無表情で作業をこなし、淡々とした口調で言葉を紡ぐ。
それを不気味と怯える者も過去にはいたが、フィリア自身は気にしてはいなかった。
昔、一度訳を尋ねたことがあったのだが、ジゼル自身もわからないとの答えが返ってきたので、そういうものなのかと完結していた。
自分の中に不安や悩みをため込みやすいフィリアにとって、ジゼルの冷静さは心強いものだ。
なにより、無表情であってもジゼルに感情がない訳ではないことを、フィリアは知っている。
「これで大丈夫かと思います。あと、よろしければこちらを」
ジゼルはフィリアの支度を整えると、袖口から何かを取り出した。
「……これは?」
「私が作りました。姫様のお守りになればと思いまして」
フィリアは取り敢えずそれを受け取った。
「……いい香りね」
「はい。中に香を染みこませた綿を詰めてあります。気分を和らげる香です」
「そう……ありがとう」
「はい」
掌にちょこんと乗ったそれは、小さな小さな首のない王子様だった。
「凄く細かく作ったのね。殿下の爪までちゃんと見えるわ」
「本人に近づけるべく努力いたしました」
「…………お首もないのね」
「現状を模倣しましたので」
「首から伸びているこの紐はなんなのかしら?」
「これを手首に巻きつけると、いつでも持ち歩いていただけます」
「…………」
フィリアは、自身の手首にしっかりと固定された人形を揺らした。
ふわりと、とても良い香りが漂ってくる。主に首から。
「ジゼルはとても器用ね」
「ありがとうございます。ちなみに等身大人形が間もなく完成いたしますので、そちらは寝室の枕元に置いておきます。寝つきを良くする香を入れていますので、姫様もよくお眠りになられると思います」
「……そ、そう」
恐らく、そっちも首が無いのだろう。怖がりのフィリアをわかっていてやっているのか。
なんとも言えない脱力感に、フィリアにかかっていた重力は綺麗に消えていた。
「姫様。私は、姫様が望まない限り、無理に王子殿下に近づこうとする必要はないと思っております。しかし、もし現状を打破したいと考えるならば、少しだけ交流を持とうとするのも手です。城での噂以外で、姫様は殿下のことを何もご存知ありません。知らないからこそ逆に恐ろしい想像をしてしまうこともあります。一度相手のことを知れば、少しは恐怖を感じなくなるかもしれません」
もっともなジゼルの言葉は、フィリアの中に簡単に入ってきた。
手の中の人形を揺らしてみる。
優しい香りが漂い、ゆらゆら揺れる人形自体に恐怖は感じない。
王子と会えば、彼のことも怖くはなくなるのだろうか?
「そうかもしれないわね」
フィリアの中に少しだけ明るい気持ちが広がってきた。
「私、殿下に会ってみるわ」
少しの期待と希望を抱いて、フィリアは宣言した。
結果から言うと駄目だった。
人間、そう簡単にはいかないというのがお決まりだろう。
フィリアは自室で意気消沈し、長椅子に沈んでいた。
「姫様。お茶が入りましたよ」
ジゼルが淹れたお茶を飲む。花の香りが漂い甘さが口に広がったが、それらは今のフィリアの心を癒してはくれなかった。
「あまり思いつめないほうがいいですよ」
「でも、絶対傷つけたわ」
フィリアは暗い面持ちで呟いた。
昨日、思い立ったが吉日とフィリアとジゼルはすぐに王子へ面会を申し出た。彼の側近である青年、ティーダに伝えるととても驚いた表情をし、何度も間違いはないかと確認までされた。
フィリアは結婚式に一度王子と会っただけで、それ以外では視界にも入れたことがなかったのだ。そんな彼女が突然会いたいと言い出せば驚くのも通りであろう。
しかし、彼の表情はフィリアが王子に会いたいと言ったことを喜んでいるようで、フィリアも意気込んだのを覚えている。
首無し王子となってしまってからの王子は皆に敬遠され、肉親である王ですらあまり会おうとしないらしい。故に王子はとても孤独になってしまったのだ。
これらの事情をティーダから聞いたフィリアは、首無しといえど怖くはないのではないかと思った。
この時のフィリアの心の中には、孤独に傷つく優しい青年の像が出来上がっていたのだ。
だから、と言うのは言い訳にはならないだろう。
フィリアは通された王子の部屋で彼と対面したとき
『きゃああああああっ』
心の底から恐怖した悲鳴を上げてしまったのだ。
首が無いということは想定して心構えをしていたが、その首の断面については全く考えていなかったのだ。
首が無いということはどこかで切れているということで、そこには確かに断面が存在するのだ。
本来首が存在するはずのそこには中央にまとめられた血管や骨が見え、その周りを埋めるように赤い血肉が詰まっていた。成人男性として引き締まった体は完璧に整えられ、美しい衣類をまとっているため上半身の異常さが際立った。それにより一層の気持ちの悪さフィリアにを与えたのだ。
『あ、あ、あ……』
貧乏とはいえ一国の王女である。大事に育てられた、しかも常人よりも怖がりな少女にとってそれは受け止めきれないほどの恐怖と衝撃であり、フィリアに耐えられるものではなかった。
ばたんっ。
そしてフィリアは王子本人と一言も言葉を交わさないまま、気を失ったのだった。
「凄く失礼だったわ」
フィリアの口から呻くような声が漏れた。
目を覚ましたとき傍にはジゼルしかおらず、フィリアは王子との対面が失敗したことを理解した。
そして、自分がいかに楽天的であったかを思い知ったのだ。
「姫様をたきつけて無理やり会わせたのは私です。非は私にあります」
ジゼルはそう言って慰めてくれたが、フィリアはそうは思わなかった。
確かにジゼルの言葉に動かされたが、自分の考えが甘かったのは事実だ。
昨夜は殿下の姿を夢に見て恐怖した。魘されたのだ。
自分が怖がりだとしっかり自覚していたはずなのに、首無し王子でも受け入れられると安易に考えてしまったのだ。
『無理をする必要はない。君の楽な生活をしていい。と殿下からの伝言です』
フィリアの意識が回復して程なく、ティーダだけが現れて困ったような表情で告げた。
王子からどんなお叱りを受けても可笑しくはなかったのだが、誰もフィリアを責めなかった。むしろ、フィリアにはそちらの方が堪えた。
「殿下を知りたいと思ったのは本当なのですから。姫様がそんなにご自身を責める必要はないのですよ。人間だれしも苦手なものや受け入れられないものはあります」
ジゼルはそれが価値観の違いと言うものだという。
フィリアは俯いていた顔を上げ、ジゼルを見上げた。
「ジゼルにも苦手なものがあるの?」
「ええ。ありますよ」
あっさりと肯定されたフィリアは思わず食いついた。
「そ、それは何?」
「秘密です」
「…………」
「そう簡単に、自分の弱みを教えるわけにはまいりませんでしょう?」
「ずるいわ」
簡単に教えてくれるとは思っていないが、しれっとした顔で話すジゼルにフィリアは膨れた。
フィリアにとって、お目付け役であり保護者のようでもあるジゼルだが、たまには彼女に頼られるような状態になってみたいものである。
結局一昨日までと同じく、特にすることもなく一日を過ごしていると戸を叩く音が聞こえた。
ジゼルが対応すると、女官から報告があった。
「他国の商人がいらっしゃっています。姫様に是非ご覧にいれたいものがあると」
こういうことは良くあることだ。
他国の商人が遠くの国から輸入した珍しい商品を、貴族や王族に売りに来る。
一応出向いたフィリアは、見たこともない品々に興味を引かれた。
「素敵ね。宝石ではないのに光っているようだわ」
クルトネ王国は、岩山とラディエント王国に挟まれた位置にあるため、国土に海が存在しない。
そのため、特に貝殻で出来た首飾りはフィリアの目を引いた。大きめの桜色の貝殻を中央にし、左右には小さい貝を連ねたものだ。
「いかかでしょうか? こちらは南の国から仕入れた逸品ものでございます」
笑顔を浮かべえた商人が視線を定めて売りに来るが、フィリアは悩み首を振った。
「……そうね。また今度にするわ。あれは何?」
軽く流して躱そうとしたフィリアだったが、そんな彼女の視線を首飾り以上に引いたものがあった。
フィリアの視線の先には一冊の本。緑色の表紙でいくつか小さな石で細かな細工がしてあった。
一見なんの変哲もない本がフィリアの目を惹きつけたのは、本についた小さな金具と穴だった。
「あれは鍵穴かしら? なんで本に鍵がついているの?」
小さな穴は鍵穴で、鍵を閉めると本が開けないようになるものだ。
フィリアにはその用途がわからなかった。
「これは日記帳です。中は白紙となっているのでその日一日あったことや、その感想を書き込んで後日読み返すことが出来ます。今、東の国の貴族の間で流行っているんです。こちらは鍵も付いていますので、誤って他人に読まれてしまう心配がありません」
商人は、話しながら鍵を取り出した。
「まあ、綺麗ね」
鍵は銀で出来ていて日記帳の表紙同様細かな細工がなされており、それだけで首飾りとしてフィリアを飾ることのできるものだった。
「いかかでしょうか?」
商人が手もみしながら伺うなか、ふとフィリアの頭に一つの考えが浮かんできた。
この方法なら、どうにかなるかもしれない。
フィリアは一回の失敗で諦めたくはなかった。
「この鍵、もう一つ用意できるかしら?」
「できますが……それでは鍵の意味はなくなってしまいますよ」
不思議そうにする商人に、フィリアは二本の鍵を注文した。当然、日記帳本体も。
二本目の鍵は後日届けることになり、フィリアは部屋に戻った。
「殿下にお手紙を書くわ。ジゼル、届けてくれる?」
「かしこまりました」
ジゼルには、フィリアが何をしようとしているのかわかった。
「上手くいくかしら?」
「それは、姫様次第かと思いますよ」
ジゼルの言葉に頷いたフィリアは、本の表紙にしっかりとした字でタイトルを書いた。
『交換日記帳』と
彼は、たった今届けられたものをどうするべきか悩んでいた。
ラディエント王国第一王子の側近となってもう大分たつティーダだが、ここ数年で彼の心労は激増していた。
理由は言わずもなが、その第一王子が王位争いに敗北し、致命的な欠陥を抱えてしまったためである。
それまでの王子は、透きとおるような真珠の肌、宝石のような瞳、絹のような亜麻色の髪を持つ美少年を体現したような存在であった。王子自身はそんな容姿を利用しようとも考えない外見に疎い人間だったが、周囲の人間はそうではない。美しい容姿を妬んだのか、王子を失脚させるための攻撃はそのほとんどが顔などの外見を狙ったものばかりだった。
そして、その集大成と言わんばかりに凶悪な攻撃を王子は喰らってしまい、彼は今までの人生をひっくり返した生活をおくることとなってしまったのだ。
王子は首から上を失った。
それは王子の重要な財産を失うものと等しいのだと、彼は知っていた。
王子に群がる人間はそのほとんどが美しい外見に引き寄せられた者たちだ。そして、彼はそれを悪いこととは思っていなかった。
美しさは武器になる。王子の微笑みは相手の気を緩め、人知れず言葉を漏らす。それは政治的思惑を持って集まった者たちを捌くために大変有効だった。
しかし、今ではそれも難しい。
なくすはずのない財産を、王子は失ってしまったのだ。
しばし逡巡したティーダだったが、やがて王子のもとに足を向けた。
足音に顔を上げた王子の視線が、何事だと問うてくる。
「来ていたのはフィリア姫の侍女でした」
王子の肩が動揺に揺れた。
無理もない。つい先日、王子は姫に会った瞬間悲鳴とともに拒絶を受けたのだから。
もう関わることはないと思ったのはティーダも同じだった。
「手紙と……何か小包を王子にとのことです。いかがなさいますか?」
ティーダの言葉に、王子はゆっくりと手を伸ばした。
まず手紙を開くと、丁寧な字である提案が書かれていた。
『先日は大変失礼をいたしました。交換日記なるものをいたしませんか? とある国で、一日あった出来事を本に記しておく習慣があるそうです。私たちはまだお互いのことを良く知りません。これを機に、お互いその日あったこと、思ったことを書いて交換してみませんか? 大変図々しい提案ではありますが、私は、殿下との交流をあれで終わりにしたくはありません。いかがでしょうか? どうかご検討ください』
手紙を読み終わった王子が包装を剥がすと、中から出てきたのは一冊の本と小さな銀の鍵。
そして、初めのページには手紙と同じ文字が書かれていた。
『殿下のことは、なんとお呼びしたらよろしいでしょうか?』
女性らしい、大人しい字だった。
「いかがなさいますか? お断りするのでしたら、返してまいります」
ティーダは祈る気持ちで王子を見ていた。
王子がフィリアに会ったとき、彼は王子がフィリアを試していることがすぐに分かった。
王子は、普段人と面会するときに被るベールを、そのだけは外していたからだ。
そのため、首の断面の鮮血のような赤身が露わになり、わずかに脈を打っていることも確認できた。
王女様が目にしたらどうなるかなど、考えるまでもなかったのだ。
案の定、姫は気を失いティーダが隣の部屋へ運ぶはめになった。その際、侍女である女性から殺気とも取れる怒気を感じ、ティーダは肝を冷やした。
王子が筆をとったのを見て、ティーダは無言で新たな包装の用意をした。
姫は王子の姿を受け入れられなかった。しかし、ただ離れようともしなかった。これは、王子が呪いを受けてから初めてのことだ。
姫に会う前から、王子はすでに心に傷を負っていた。
そして、これ以上負わないための警戒として、あのような行動をとったのである。
中途半端な優しさや同情は、ときに悪意よりも達の悪い棘となる。
あれを見ても離れていかない人間を、王子は探していた。
『これを届けろ』
一枚の紙切れをともに差し出された日記帳をティーダはしっかりと受け取った。
「かしこまりました」
王子の意に反して、また一歩近づいてきた王女。
もしかしたら。
湧き上がる予感をティーダはそっと胸にしまった。
「姫様、届きました」
「ありがとう。こっちに持ってきて」
数日後、自室で本を読んでいたフィリアは、本に栞を挟んで机に置いた。
日記帳の効果は、なかなかのものだった。
紙に書くということも、フィリアと王子には相性が良かったのだろう。
王子は言葉を話せなかったため、言葉を交わすにはどうしたってものに書く必要があった。対して、フィリアは王子の外見に恐怖を抱いていたため、顔を合わせずに言葉を交わせるということは大変役立った。
数日たつ頃には、フィリアは鍵である首飾りを常に身に付けるようになり、だいぶ王子と意見を交わせるようになった。
唯一不満があるとすると、それは王子からの返答が短いということだった。
『今日はいい天気だが、職務が多くて大変だ』
『本を借りた。面白い』
『ティーダがいいお茶をもらってきた』
『いい菓子もあった』
ほとんどが一文で済む長さだった。
「クロド様は、今日もお忙しいのね」
日記を読みながらフィリアはため息をついた。本日届けられた日記にも、書かれているのはたった四文字。
『おはよう』
フィリアはがっくりと肩を落とした。
「……挨拶だけなんて」
日記の割合は八割がフィリア、残りの二割が王子となっていた。
「それでも、たいした進歩だと思いますよ」
「そうらしいわね」
ティーダから聞いたことだが、現在城内で一番王子と言葉を交わしているのはティーダを除けばフィリアらしい。
呼び名も、変わった。最初の王子からの返答でクロドと呼ぶように書かれていたため、フィリアは王子のことをクロド様と呼んでいる。
たったそれだけで彼に近づけた気分になるのだから不思議なものだ。
「でも、もうちょっとどうにかならないのかしら? これじゃ、交流と言っても私が一方的に知らせているみたいだわ」
フィリアはその日あった出来事をそのまま赤裸々に綴っていたため、クロドに行動がつつぬけである。対して、クロドの仕事は公務が多いため、他国から来たばかりのフィリアには教えられないことのほうが多い。
「もしかしたら、書けることがないのかもしれませんね。一日中お部屋の中にいるとか」
「それはないわね」
フィリアはジゼルの言葉を否定した。
「あの方、たまに部屋を抜け出しているみたい。前に図書館の窓から見えたわ」
フィリアはもう、クロドをただ可哀相な王子とは見ていなかった。
見られなくなったというのが正しいが、フィリアが探してみるとクロドは城のあちこちにいた。城の抜け道を熟知しているらしく、ベールを被っていたがティーダが目を離した隙に部屋から出ては庭を散歩したり、日向ぼっこをしたりしているようだった。
彼は思ったより自分の時間で生きている人間だったのだ。
「あれで衛兵などに見つかったら大騒ぎになるでしょうね」
生まれ育った城だけあってそこらへんは上手くやっているようだが、呪いをかけられた身で無防備に一人で歩いてる王子など、他にはいまい。
本人と関わったことで、フィリアの中のクロドベルトス殿下の印象は大きく変化した。
そして、同時に興味も湧いていた。
周囲は首無し王子である彼を憐れみ敬遠しているが、彼自身はどう思っているのだろうか?
少なくとも文面上では、彼が現状にただ絶望してるようには思えなかった。
ただ、まだ壁を感じる。
「どうしたら殿下のことをもっと知ることが出来るかしら?」
「そうですねぇ。ティーダ様にお聞きしてはいかがです?」
ジゼルの提案に、フィリアはため息をついた。
「もう聞いたわ。殿下に日記をもっと書くよう話してくれると言っていたけど、この様子ではあまり効果はなかったみたいね」
フィリアは、今までのやり取りを振り返った。
『クロド、と呼んでくれて構いません』
そんな一文から始まり、フィリアの問いにクロドが答えたり、フィリアが答えたり。
「そういえば……」
フィリアはある日付で手を止めた。
『殿下の好きな食べ物はなんですか?』
この問いをした時だけは答えは書かれていなかった。作れるものであればクロドに作ってあげようと考えていたのだが、彼はフィリアに適当な質問を書いただけでその日を終わらせてしまった。
「この質問は失敗だったわね」
あとから気付いたのだが、首から上のないクロドが食事はどうしているのか失念していたのだ。
「お食事が出来るわけがないのに、私ったら本当に無神経だわ」
他にも、無意識に殿下を傷つけているのではなかと不安になる。
顔を見ずに言葉を交わしていると、時々王子の状態を忘れてしまうのだ。
フィリアは斜線を引いてその一文を消した。
「姫様のご趣味を使ってみてはいかかでしょう? 殿下の気に入りそうな本をお薦めしてみては?」
「……そうね」
本に関してならフィリアの知識の範囲は広く、話の種もそうそう尽きない。同じ本を読めば、お互いに長く話す話題として最適かもしれない。
「どんな本をお読みになるのかも聞いてみるわ。私の持っている本の中でお好きなものがあるといいけど」
「なかったら、姫様が殿下のお好きな本を読めばいいのですよ」
「それもそうね。ふふっ。なんだか楽しみになってきたわ。すぐ返事を書くから殿下に届けてくれる?」
フィリアは嬉々として筆をとった。
だんだんと日記帳が手紙として機能しており一日に何度も行き来するようになっていたが、それを問題とは思わなかった。むしろ今までのやり取りを振り返ることが出来、フィリアは日に一度は日記を読み返していた。
「そういえば、最近寝苦しいの。なにかいいものはないかしら?」
フィリアはジゼルに問いかけた。
フィリアが暗に示したのは、以前ジゼルが作った人形のことだった。
フィリアが王子と対面する直前に完成間近と言っていたが、それ以来人形が枕元に現れることはなかった。
ジゼルはフィリアに気をつかったのだ。
王子の姿を見て気を失ったフィリアには、王子の姿が受け入れられないと思ったのだろう。
「出来れば抱き枕になるものがいいのだけど、なかなか私の好みに合うものがなくて。クロド様に迷惑をかけないためにも、手ごろなもので済むと嬉しいのだけど」
少々態とらしく困った声を出すフィリアは、ちらりとジゼルを見た。
「姫様、最近読む本の種類に偏りがあるようですね」
ジゼルは突然、全く関係のないことを口にした。
「そ、そうかしら?」
「そうです。ここのところ、今までお読みにならなかった種類の本に偏っています」
ジゼルに無表情で言い迫られ、フィリアは冷や汗が出た。
「幽霊屋敷の惨殺」
ぴくりっ。
「吸血鬼の晩餐会」
ぴくりっ。
「恐怖大全集」
ジゼルが上げる題名に、フィリアはもの凄く動揺した。
それらは、ここ数日でフィリアが読破した本たちだ。
ジゼルには秘密裏に集めて読んでいたのだが、彼女に隠し事は出来ないものだ。とっくに知られていたようだ。
それでもフィリアは、往生際悪く抵抗してみた。
「なんのことかしら?」
だが、それは本当にただの悪あがきだった。
「本を寝台のしたに隠すのは、本の保存法としては不適切と思いますよ」
隠し場所まで言い当てられては諦めるよりほかない。
フィリアは降参した。
「無理に慣れないことをしては疲れてしまいます。寝つきが悪いのも、そのせいなのでしょう?」
「これでもだいぶ慣れてきたのよ」
確かに、読み始めたころは恐怖のあまり途中で投げ出したりしたものだが、根気よく何度も繰り返すうちになんとか最後まで読み切ることが出来るようになった。
その副作用として、毎夜毎夜悪夢と呼べるものに魘されるようになったのだが、それにこそ耐えうるようになれば、フィリアの目的は達成されるのだ。
「殿下のためですか?」
「私自身のためよ」
フィリアはジゼルの目を真っ直ぐ見て言った。
「私が、もっと彼に近づきたいの。せめてこの怖がりが治れば、クロド様の近くに居られるかもしれないでしょう?」
フィリアは現状で満足してはいなかった。
人間は一つの欲求が満たされると、次の欲求が生まれる。
穏やかに王子と文通を続けることも楽しかったが、フィリアにはその先も求める感情が生まれていた。
少しの間見つめ合っていた二人は、やがてジゼルが折れる形で終結した。
「ご無理はなさらないで下さい。寝不足でお肌場荒れると、別の意味で殿下に愛想を尽かされてしまうかもしれませんよ」
「失礼ねっ!!」
その日から、フィリアの寝所にはいい香りのする一体の等身大人形が置かれるようになった。
もちろんその人形には首がなかったが、フィリアが魘されることはなかった。
第二章 秘密のお茶会
努力の甲斐あってか、フィリアは数か月後には恐怖小説を一度も閉じることなく読めるようになっていた。
まだ楽しみを感じる域には達してはいないが、フィリアにすれば大した進歩である。
そうすると、さらに次の段階に進みたくなるのがフィリア性格だった。
「どうかしら?」
「どう、と言われましても……」
フィリアの前に座らされたティーダは困惑した。
いつものごとく日記帳を届けた帰り、フィリアに捕まり室内に引っ張りこまれたのだ。
「なにかクロド様の喜ぶことはない? 贈り物とか」
「それなら殿下御自身にお聞きした方がよろしいかと……」
最もなことだが、それで解決しないから聞いたのだ。
「それと姫君。お聞きしたいことがあるのですが……」
「なに?」
「あそこに置いてあるものはなんでしょうか?」
ティーダが示したのは、部屋の隅に置かれた等身大の人形だった。
「あれは殿下の人形よ。ジゼルが作ってくれたのよ」
フィリアは自慢げに話した。
ジゼルが等身大人形を完成させてから、フィリアはこの人形が大のお気に入りになっていた。首が無くても、もう恐怖は感じない。長く傍に置いたことで愛着が湧いたのだ。
「他にもあるの。ほらっ」
なんとも言えない顔をしているティーダに、フィリアは掌に乗った人形も見せた。
「可愛いでしょう」
笑う彼女に、ティーダは困惑した。
数か月前に恐怖で気絶した少女と同一とは思えなかったからだ。
あの時の彼女は、無意識ではあったが体全体で王子のことを拒絶していた。
「驚いてる?」
「あ、いえ……」
「無理もないわ」
言葉を濁すティーダに、フィリアは人形を渡した。
「見事ですね」
「ジゼルは素晴らしい針子でもあるの。いい香りもするでしょう? きっとティーダさんの人形も頼めば作ってくれるわ」
フィリアに言われて人形を振ってみると、確かに花の香りがした。
「……これを差し上げてはいかがですか?」
「え?」
「贈り物です。殿下に姫の人形を差し上げてはいかがでしょう」
彼は会話の中で律儀にも考えてくれていたのだ。
「私の人形?」
ティーダの提案に、フィリアは顔を顰めた。
「それは……ちょっとどうなのかしら」
「姫様のことをもっと考えるようになるかと思います」
「でも、恥ずかしいわ」
自分の人形を自分で作って送るのだ。自作の詩を他人に読まれるのと同じくらい恥ずかしい。
「それに、これを作ったのはジゼルよ。私には作れないわ」
「そうですか……」
また考えなおすティーダ。
「まだ、殿下にお会いになるのは怖いですか?」
ティーダは率直に聞いた。
遠まわしな聞き方が出来ないのはティーダの性格だ。
「お茶でもご一緒になさったらどうでしょうか? 最近の殿下は仕事仕事でなかなか休憩をなさらないので」
人形が大丈夫なら、もう本人を前にしても大丈夫ではないかと思ったのだ。
それはフィリアも思い始めていたことだったが、やはり人形と人とでは差がある。
前回見た光景を思い出すと、実際に会うことにはまだ躊躇いがあった。
「クロド様はお忙しいの? 王位継承権は剥奪されたと聞いたのだけれど」
フィリアは首をかしげた
「ああ、他国にはそんな噂が流れているようですが、正しくは殿下御自身が放棄されたのです。ですが、首が無くても殿下が優秀なのは変わりませんので、まだ多くの案件が殿下のもとに送られてくるんです。会議にはさすがに出られませんが、殿下の政策上の発言権は実は密かに強いんです」
「そうだったの」
得心がいったフィリアは、喉が渇いたためジゼルにお茶を要求した。
「でも、殿下が王位を放棄なさったのなら、次の国王様はどなたになるのかしら? 陛下のお子はクロド様お一人だったはずよね」
ジゼルがお茶をカップに注ぐ。
フィリアのお気に入りの甘いお茶の香りが広がった。
「陛下には歳の離れた弟君がいらっしゃいます。 厳格な方で、長年陛下を支えてきた方です。今はその方が第一王位継承者になります」
その人物なら、フィリアは結婚式で一度だけ目にしたことがあった。
笑ってはいたが、国王と同じ黒とも藍色ともつかない瞳は冷たい光を宿していた。挨拶に回った時も社交辞令以外は一言も話さず離れたため、それっきりフィリアの記憶からなくなっていたのだ。
「そう、あの方が王になられるのね」
確かに、年齢でいえば王子とのほうが近いだろう。国王陛下とは、兄弟というよりも親子と言った方が違和感がないほど歳が離れているのだ。
「あの方はよくあちこち視察に行かれているので、あまり城内にはいらっしゃいません。私も、滅多にお見かけしませんし」
「だから式で会ったきりお姿を見ないのね」
今はこの国の建国を祝う祭りの準備で忙しい時期だった。
古くからある大きな祭りで、王都に合わせて各地方でもそれぞれ開催するため、現地との連携が重要となるのだ。
「話が逸れてしまいましたね。殿下も通常の業務に加えて祭りの準備も行っているため、最近は寝る間も惜しんで動いていらっしゃるんです」
ティーダはため息をついて締めくくった。
働きすぎの王子を諌めてはいるのだが、聞かないために手を焼いているのだ。
「今までもよく働く方ではあったのですが、殿下はあの状態になってからは責任感からかさらに酷くなってしまって」
途方に暮れたような口調から、ティーダの心労が伺える。
彼も、王子が呪われたあとの劇的な環境の変化に振り回された人間の一人なのだろう。
そこまで聞いたフィリアは、どういうべきか正直迷っていた。
本音で言えば、殿下のためにもティーダのためにもお茶会くらいして疲労を和らげてあげたいのだが、実際にそれが上手く出来るのかと問われると、自信はなかった。
また殿下を目にして気絶してしまえば、あの時の二の舞である。それどころか、日記によって今まで積み上げた信頼さえも崩れかねなかった。
「まだ、断言はできないわ。ただ、考えておくわね」
なんとか口にしたのはそれだけだった。
ティーダも、フィリアの心情を察したのか、それ以上は無理には勧めなかった。そして、その代りにとある提案をした。
「殿下、そろそろお休みになってはいかがですか?」
クロドは側近の言葉に手を止めた。
時間を確認すると始めてから結構たっていたが、まだ止める気にはなれなかった。
書類が遅れている。
建国祭で使われる物資の確認名簿がまだ全然出来上がっていなかった。
担当だった者が、誤って一度完成していたものを処分してしまったためだ。
「殿下」
再度、今度は先ほどより少しきつく呼ばれたが、クロドはそれも無視した。
今の自分にとって、公務をすることこそがここに存在する意味であり証明であった。
国王夫妻にはもう長いこと会っていない。
部下だった者たちもティーダ以外は解放した。
もうクロドが会う人間はティーダ以外はほとんどいなくなっていた。
彼の姿を皆が厭う。
恐ろしいと恐怖し、畏怖の目を嫌いクロド自身も人前では出歩かなくなった。
最近は目下、人目を盗んで散歩するのが趣味だ。
他人に気付かれぬよう行動することに少し楽しみを見出してはいるが、それは個人のみでの楽しみだ。
皆に自分がいると示すのは、自身の書き記した文書のみ。これがなくなれば、自分を知るものはいなくなる。
そんな考えが、クロドには脅迫概念のように付きまとっていた。
ふと、机の隅に置かれた日記帳を見る。
最近は、示すものが一つ増えた。
押しかけ妻がよこしたものだ。
「先にそちらをお書きになってはいかかですか?」
ティーダがあからさまにクロドの視線を日記に誘導したのがわかり、クロドはようやく筆を止めた。
それと同時に気持ち的にはティーダを睨みつけたのだが、残念ながら顔がないためそれは全く伝わらない。それでも雰囲気で怒りは伝わっているはずなのだが、長年連れ添った側近に効果はない。
クロドは気持ちため息をついて筆を置いた
(最近、流されている気がするな)
呪いを受けてから三年。周りとの関係は数か月で諦めた。
呪われる前は、自分の容姿に蟻のように群がっていた連中は数えきれないほどいた。それらにうんざりしたことは多々あったが、こちらで上手く利用していた。しかし、彼らは所詮利害で動く者たちだ。利用価値のなくなったクロドから、彼らは雲を散らすように離れていった。
クロドは日記を開くと、フィリアの書いた文章を読む。
すっかり見慣れた書体は滑らかにフィリアの言葉をクロドの中に入れてくる。
最近はほぼ日記というよりも手紙に近い形で、問いかけるように書かれている文章。
『クロド様のお好きな本はなんですか? よろしければ、私の蔵書を何冊かご紹介したいのですが』
彼女はクロドのことを良く知りたがる。
好きな色、季節、花、食べもの。なんでも聞いてきた
自身のことについても他愛もないものの話を何行にもわたって書き記しており、クロドはこの日記を読むだけで彼女のことを詳しく知るようになってしまっていた。
(あまり良い傾向とは言い難いか……)
クロドは女性が苦手だ。
呪いを受ける前から女性の近くにいると気分が悪くなったし、獲物を狙うかのような捕食者の目にいつも怯えていた。
女は役者だ。
花のように笑い男を虜にするが、その裏では同性に対して容赦ない仕打ちをする。
男のために泣いたかと思えば、次の瞬間には笑い、違う男に尽くしている。
王宮で、社交の場で、クロドは幾度となくそんな場面を目にしてきた。
それはクロドの不信感、不快感を増長させ、無意識に女性に対して極度の拒絶体質を作り上げた。
女性が近づくだけで冷や汗が流れ、気分が悪くなる。会話はほとんど相槌のみですまし、他はほぼその恵まれた顔で微笑むのみ。
今思えばそれだけで人間関係が成り立っていたことに驚きだが、それは所詮その程度の関係だったからなのだ。
そのため、クロドに近づいた女性はフィリアが久方ぶりだった。
結婚式では形式通りに大人しくしていたが、二度目の対面でクロドはフィリアがどんな女性か試すとともに、これから関わらないようにしたつもりだった。
しかし、この現状はどうだろう。
フィリアはクロドから距離を置きはしたものの、決して離れようとはしなかった。
恐ろしげに悲鳴を上げ、気を失ったにもかかわらずだ。
クロドにはその神経が信じられなかった。
今ではティーダの次に言葉を交わしていると言えるほどに交流してしまっている。
(どうしてこうなったんだ?)
考えてみるが、原因としたら一つしか思い当たらない。
やはりこの日記だろう。
姫の提案を受けたのは、王の独断で王子には全く責任は無いにしろ、脅迫紛いの無理な結婚を強要したからにはそれなりに姫の要求には応えなければならないと決めていたからなのだが、それが思わぬ結果を生んでしまった。
予定では、フィリアにはクロドと関係のないところで適当に好きに暮らしてもらうつもりだったのだが、彼女はそれを良しとしなかった。
(俺のことを知りたい、か……)
そう言われる度に、クロドは不思議な気持ちになる。
今までその言葉を言ってくれた人間は何人いただろうか。
容姿が先走って、内面が追い付いていかない。
クロドは無意識に首を振る動作をし、日記を書き始めた。
『歴史書を読む。何かいい本があれば紹介して欲しい』
書き終えたとき、見計らったようにティーダが盆を持って戻ってきた。
「殿下、先ほどアルマデス殿下がお戻りになられました」
ティーダの言葉に一瞬、クロドの動きが止まった。
アルマデス・ド・ラディエント。
現王の弟であり、現在の第一王位継承者の名だ。
彼とはクロドが生まれたときから微妙な関係が続いていた。
現王であるクロドの父と王妃の間には、長らく子供が生まれなかった。
それでも今まで側室云々をうるさく言われなかったのは、王には年の離れた大変優秀な弟がいたからである。
アルマデスは若干五歳にして帝王学を学び、教師を驚愕させる才能を見せつけた。
彼がもっと早く生まれてきていれば、王になっていたのはアルマデスの方だったかもしれない。
そんな強力な後継がいたため、王は好きにできていたのだ。
しかし、その後間を開けず王妃に男子が生まれてしまったため、その体制は逆に問題になった。
生まれてきた男子は人々を魅了する美貌の持ち主だった。母方の祖母の血を濃く継いだのだろう。更に無能でもなく、なんでもそつなくこなす子だった。
王になって何の問題もない。
臣下たちも王自身も、どちらを次代の王とするか悩んだ。
年齢的に兄弟ほどにしか変わらない二人はよく一緒に鍛錬に励んだが、その都度周囲からどちらがより王にふさわしいか値踏みされているような気分だった。
結局はアルマデスが辞退する形で水面下の争いは収まったかのように見えたのだが、それから数年後。今から三年前。クロドはアルマデスの部下と思われる人間に呪いをかけられ継承権を失った。
互いにそこまで王位に執着はなかったはずなので、あれは部下の独断か暴走だろう。
クロドはそこそこアルマデスと共に過ごしていたため、それくらいは察しがついた。
結局はクロドが生まれる前に逆戻りと言うわけだ。
クロド自身、王位を失ったことに怒りはない。もともとアルマデスが受け取ることが正しいとさえ思っていた。傍にいれば、彼がいかに為政者として優秀であるかよくわかったからだ。
ただ、アルマデス自身がいらないというならば押し付ける気もなかったので受け取っただけなのだ。
「久しぶりに狩りをしないかとのことでしたが、いかがなさいますか?」
あれこれ思い返していたクロドは、ティーダの声に引き戻された。
アルマデスはクロドの容姿を気にしない数少ない人物だ。しかし、容易に近づけない人物でもあり、あまり一緒にいることはできない。
この誘いはあくまで社交辞令なのだ。
『断っておいてくれ。今は忙しい』
クロドは走り書きした紙を見せ、疲れたように肩を回した。
クロドが王位を失った経緯により、また水面下の争いが勃発した。
いくら優秀であっても、気に入らない人間はいつの時代にもいるものだ。アルマデスの失脚を狙うものたちが、盾としてクロドを担ぎあげようとするのだ。
今のところ呪いを理由に上手くいっていないようだが、ああいう輩は往生際が悪いのだ。あれこれしょうもないことを企んでいる。
そのせいでアルマデスの信者たちから今度は命を狙われるのだから、世の中は理不尽で満ちている。
圧倒的に癒しが足りない。
『ティーダ、お菓子』
疲れをどっと感じたクロドは、もう一枚の紙をティーダに差し出した。
よく使いまわされている紙で、だいぶくたびれている。
「もちろん。お茶と一緒に持ってきました。本日はエクエアです」
甘い香りと共に出されたのは、たっぷりのクリームをパン生地に挟んだ細長い焼き菓子だ。
見たことのない菓子だったが、甘い香りに誘われてクロドは素早く手を伸ばすとあっという間にそれを平らげた。
一つはそれほど大きくはなく、皿にはまだ四つ乗っている。
「あまり一度に食べてはいけません。ゆっくりです。ゆっくり」
お前は俺の乳母か。という意味を込めて睨んでみるが、相手に見えなければその威力も半減だ。
フィリアはクロドが食事出来ないと思っているようだが、それは大きな間違いだ。彼は、呼吸も出来れば食事も出来る。ただ、それが他人の目に見えないだけなのだ。
彼の首は、実はどこにもいっていなかった。ただそこにあるが、人の目に見えなくなっているだけなのだ。
所為、首だけ透明人間というところだ。
そのため、クロド自身に首がない自覚はほとんどない。触ることは出来ないが、彼は自分の意志で首を動かせるし、眼球も動かせる。口は動くし、言葉も発することが出来る。
ただし、透明とは他人からは存在しないものとされるため、口から放たれた音声は他人からは無きものとされ、受け取ってもらえないのだ。
「いかがですか? このエクエア、製作者の自信作らしいのですが」
『ああ、上手かった。次も頼む』
珍しく感想を聞いてきたティーダに少しの違和感を抱いたクロドだが、本当に気に入ったので、もう一つ手を伸ばす。
一口で食べやすく、後味が意外とさっぱりしているところが良い。
『誰が作ったんだ? 今までの菓子とは雰囲気が違うようだが。新しい職人でも入ったのか?』
「いいえ。これはフィリア姫がお作りになったものです」
思いがけない者の名が出たため、クロドは虚をつかれた。
(これを、彼女が?)
ついまじまじと菓子を見てしまうが、それで何かわかるはずもない。
しかし、確かに美味だった。
「姫はよくご兄弟に菓子を作って差し上げていたようで、殿下が甘いものがお好きだと話しましたら、殿下に渡して欲しいと頼まれまして」
ティーダは飄々嘘をついた。
フィリアに殿下の甘い物好きを話したのは本当だが、菓子を作るよう進言したのもティーダだった。フィリアは、殿下が何も食べられないと勘違いをしていたため、そのような考えに及ばなかったのである。
ティーダの説明を聞いたフィリアは、殿下の予想外の状態に驚きはしたものの進んで調理を始めてくれた。
これで少しは今より交流のきっかけを掴もうという二人の策略である。
(ティーダのやつ、だからさっきから色々と聞いてきたのか)
心なしかティーダの顔がしたり顔に見えてきたことに、クロドはいらっとした。
防衛線に開いた小さな風穴に針を通された気分だ。
「姫にご感想をお伝えしてみては?」
にっこりと笑ったティーダの視線の先にはあの日記。
クロドの見間違いか、先ほど書き終わったはずのものが机の上で異様に存在を主張しているように見える。
「いつも一行ほどしか書かれていないのですから、書く余白は十分にありますよね?」
いつも以上に強く推してくるティーダにクロドは思わず身を引いた。
『最近、お前はやけに彼女を押してくるな。俺が女嫌いなのは知っているだろう』
文章を書いた紙をティーダの顔に突きつけると、ティーダは笑みを引っ込めて真剣な顔になった。
「姫は殿下の奥方です。それに、彼女はただのお嬢様とは違うようですので……殿下もお判りでしょう? 彼女は大変諦めが悪いようですよ」
クロド自身、少し思っていたことを言われ、クロドは肩を落とした。
「少し、歩み寄ってみてもよろしいかと思います」
真摯な声で言われ、クロドは白旗を上げた。
こんな姿になっても、ずっと傍で支え続けてくれた側近の言葉だ。なによりも説得力があった。
『わかった。書き足そう。少し待て』
「はい」
さっき閉じたばかりの日記を再び開く。
それと共に、今まで頑なだった心までも緩んだ気がした。
その日は朝からフィリアは緊張していた。
「姫様。落ち着かれたらいかかですか? あまり歩き回ると、せっかく纏めた髪が乱れてしまいますよ」
「そうは言っても、とうとう今日なのよ」
フィリアはぐるぐると部屋の中を歩き回って気を紛らわせようとしていたが、その効果はない。
今日はフィリアとクロドの初のお茶会の日だった。
ティーダに促され、殿下のために菓子を焼いた日。殿下からの感想を受けフィリアは飛び上がってよろこんだ。
フィリア自身、思っていたよりもずっと嬉しかったのだ。
それから何度か同じやり取りを繰り返し、やっとの思いで今日のお茶会にこぎつけた。
殿下が甘党だったことはフィリアにとって意外だったのだが、その意外性がよりフィリアに殿下を身近に感じさせた。
初めの頃よりずっと余裕をもって対応できるようになったと自負したフィリアは、意を決してクロドにお茶会を提案した。
殿下の好物となったエクエアを作り、薔薇に囲まれた中庭でのお茶会だ。
「殿下もご了承下さったのですから、大丈夫ですよ。あまり緊張なさっていると、かえって失敗してしまいます」
「わかっているのだけど……ああ、駄目。そう簡単に落着けないわ」
フィリアは手の中の王子人形を強く握りしめた。
普段は花の香りで安らぐのだが、今回ばかりはそれは気休めにしかならなかった。
「とにかく、ティーダ様が呼びに来られるまでお座りください」
「ええ、そうね」
なんとか椅子に座ったが、そわそわして仕方ない。
それは不思議な感覚だった。
早く殿下に会いたいような、会いたくないような。
会って傷つけてしまわないか不安になる一方で、もう大丈夫だと思う自分がどこかにいるのだ。
実際にどうなるのかは、殿下に会ってみないとわからない。
「大丈夫、よね」
願望を口にすることで落ち着こうとしたフィリアは、かえって不安が増したことにため息をついた。
しかし、その息苦しい時間も戸を叩く音によって終わりを告げられた。
「姫、お時間です。準備が整いましたのでお越しください」
「は、はいっ」
弾かれるように椅子から立ち上がったフィリアは、さっとドレスと髪を確認すると、戸を開けた。
「おはようございます」
「おはようございます。ティーダさん」
笑顔で挨拶してくれたティーダに、少しだけ落ち着いたフィリアが笑い返す。
「準備をお任せしてしまって申し訳ありません」
本来、お茶会に招待した側が準備をするのだが、今回は殿下の姿を城の者に見られないようにするため、ティーダが主立って動いていた。
「いいえ。姫様が謝ることではありません。今日は良いお茶日和です。どうか、殿下とお楽しみください」
「ありがとう」
ティーダに連れられて向かった先には、赤、黄、白と三色の薔薇が咲き誇っていた。
「こんな場所があったのですね。綺麗……」
見とれるフィリアの背後で、草を踏む音がした。
「殿下。フィリア姫をお連れしました」
ティーダの言葉に一気に緊張を思い出した。
強張る体を叱咤し、唾を飲み込むと意を決して振り返る。
「お、お久しぶりです殿下」
多少かんでしまったが挨拶は出来た。
しかし、すぐに目に入ったクロドの姿に硬直した。
フィリアの名誉のために弁解をするならば、それは恐怖からではない。
クロドは頭にベールを被っていた。
縁は簡素に縫い止められ、見た目柔らかそうな生地に包まれた首から上は全く見えない。
「クロド様。これは……いえ、」
問いかけようとしたフィリアは言いかけて止めた。
これがフィリアに対するクロドなりの気遣いなのだと気付いたからだ。
「本日は、私の誘いにお応えいただいて、ありがとうございます」
初めの衝撃が去ったフィリアは、至極穏やかに挨拶が出来た。予想外の出来事が、緊張もそして少しの恐怖もを持ち去ってしまったのだ。
『こちらこそ、お誘いいただき感謝する』
クロドは、普段使用するものよりも、大きめの丈夫な板に書いた文字を見せた。
この日のためにティーダが見つけてきた、異国の書き物だ。白い石で板に文字を書き、さらにその書いたものを布で何度でも消して書き直すことが出来る。
「さあ、始めましょう。殿下のお好きなエクエアも焼いてきました」
ジゼルに運ばせた菓子をテーブルに並べる。
心なしか、クロドが喜んだ空気が伝わってきて、フィリアは微笑んだ。
「今日は、少し味に工夫をしてみました。こちらが通常の物で、その横の三つが果物をいれてあります。さらにこっちの四つには茶葉を混ぜ込んでみました」
皿の上の菓子を指さしながら説明をする。
それに合わせてクロドの体が動くのが面白く、笑いそうになるのを堪えた。
「でも、作りすぎてしまいました。二人で一度にこの量は無理ですね。残りは包んでお渡ししますね」
フィリアの言葉に、クロドの手があがった。
慌てたようにぱたぱたされる手に、フィリアは首をかしげる。
「殿下、一気に食べてはお体に悪いですよ」
ティーダの諌めに合点がいく。
クロドは全部食べると言いたかったのだろう。
「そうですよ。お部屋にお持ちになっても構いませんし、なんでしたらまたお作りしますわ」
不機嫌そうに腕を組むクロドに、フィリアは今度こそ声をあげて笑った。
「姫様?」
「す、すみません。面白くて」
怪訝そうな目を向けてくるティーダを躱して席に着く。
クロドのことを今まで以上に近くに感じ、なんだか楽しくなった。
『笑われるなんて心外だ』
憮然と取れる筆跡で訴えてくるクロドに、さらに笑うフィリア。
お茶会の空気は一気に穏やかになった。
「クロド様は本当に甘いものがお好きなんですね。他にも好きなお菓子はあるんですか?」
フィリアが気楽に尋ねる。
『暑いときは果汁を煮詰めたものを凍らせた氷菓子が好きだ』
「まあ、それは活気的な菓子です。クルトネには有りませんでしたわ。どんな味がするんです?」
『甘い。あとは果実の味がする。冷たいから食べ過ぎると体を冷やすがな』
書かれた言葉にフィリアが頷く。
「クロド様、実は食べ過ぎて冷やしたことがありますね?」
からかい気味に話すフィリアに、クロドは手を止めた。図星なのだ。
「やっぱり」
ふふふ、と笑うフィリアに、クロドの肩の力も抜けた。
『姫は何が好きなのだ?』
それはクロドからの初めての問いだった。
「私、ですか?」
心臓が小さく跳ねる。
戸惑うフィリアに、クロドは体を使って頷いて見せる。
「私は……本と、花、が好きです」
ドキドキする胸を押さえながら、どうにか口に出来たのはそれだけ。
『なら、ここは好きか?』
クロドが示したのは薔薇園のことだった。
三色の薔薇が咲き誇るひっそりとした小さな花園。城の者でも、ここを知る者は少ないのではないだろうか。
「はい。すごく素敵な場所だと思います。ここは誰が管理なさっているんですか?」
『私だ』
「クロド様が?」
何気なく聞いた問いの答えは意外だった。
花園ということで、管理者は勝手に女性の印象を持っていたのだ。
『もとは王妃のものだ。私が今の状態になってすぐ、不憫に思った王妃が寄越してきた』
クロドが書いた言葉はどこか他人事のようで、フィリアの表情が曇った。
クロドの両親である国王夫妻は、もう長いこと彼に会っていないのだ。
故意に彼を避けるように過ごしている夫妻に、フィリアは今更ながら怒りを覚えた。
『姫に譲ろう』
「え?」
『この庭が気にいったのだろう? 私は適当な管理しかしていないから、姫が管理すればいい』
フィリアの心情を余所に、あっさりとそんなことを言い出したクロドにフィリアは慌てた。
「そんな、いけませんっ。王妃様からの贈り物を私などに」
『私のものを誰に譲ろうが私の勝手だろう』
「ですが……」
クロドは軽く言うが、簡単にはいと言えるものではない。
フィリアはクロドの後ろで沈黙を守っているティーダに助けを求めたが、綺麗に無視された。
『受け取って欲しい。私ではどうせずさんな管理しか出来ない。姫に楽しんでもらえた方がずっといい』
なかなか押しが強いクロドに、フィリアはたじろいだ。
「でも……」
躊躇うフィリアは、ふと良い考えが浮かんだ。
「でしたら、ご一緒にいたしませんか?」
『一緒に?』
疑問が飛ぶクロドに、フィリアが説明する。
「難しいことではありません。二人で一緒に管理するんです。夫婦なんですし。今度ご一緒にここを散歩しませんか?」
そうすれば、次の機会の口実にもなる。
フィリアは小首を傾げながらお願いをすると、クロドの動きが一瞬止まった。
「クロド様?」
声をかけられてびくりと動き出す。
ぎこちなく動き出したクロドは、手をぐるぐる回して意味不明な動きをした。
「クロド様!? どうかなされたんですか?」
なんでもないと手を振るクロドの手が赤い。汗をかいているようで、しきりに手汗を拭いていた。
『大丈夫だ。わかった。今度ご一緒しよう』
見せられた板に、フィリアは満面の笑みを浮かべた。
「なんだか初々しいですね」
「そうですね」
「殿下、よかった……」
「ええ、本当に」
側近たちがそんな会話をしていたことを、当人たちは知らない。
お茶会は予想以上にいい結果に終わり、フィリアもクロドも上機嫌だった。
並んだ菓子を次々平らげる王子にフィリアが注意したり、ジゼルを制してフィリアのカップにクロドがお茶を注ぎ足したり、なかなか親密になれたといっていいだろう。
成り行きを見守っていたジゼルもティーダも、好感触な主たちにほっと肩の力を抜いた。
「次は違う菓子を持っていこうかしら?」
お茶会の余韻で上機嫌なフィリア。
「いいと思いますよ。姫も随分と殿下と打ち解けられたようで。特訓の成果が出たようですね」
「ええ。これからも頑張るわ」
意気込んだフィリアは満面の笑みを浮かべた。
「ただ……」
フィリアには、最近困っていることがあった。
思い出してまた頬が熱をもつ。
「どうなさいました?」
ジゼルが聞く。
「ねぇ、なんだかこの頃殿下の様子が変わっていないかしら?」
フィリアの言葉にジゼルは思案した。
「それは、まえよりずっと雰囲気が柔らかくなったように感じますが」
「そうじゃなくて……」
フィリアは言いにくそうに口ごもった。
「姫様?」
ジゼルが様子のおかしい主人に近づく。
フィリアは小さな声で呟いた。
「なんだか、輝いているように見えるのよ」
「…………」
ジゼルは沈黙した。
「きらきらして見えて、なんだか直視できないの」
頬真っ赤に染めて語るフィリアの姿は、恋している人のそれだった。
「……青春でございますね」
「え、なにか言った?」
「いいえ」
ジゼルは取り敢えず見守ることにした。
「気のせいでしょう」
第三章 王子の初恋は忘れた頃に
フィリアとクロドの関係がだいぶ良好なものとなった頃、ラディエント王国にある人物が訪れた。
「お久しぶりですわ。殿下方」
豪華な衣装に身を包み可憐な笑みを振りまいて現れたのは、ラディエント王国に負けず劣らず広大な領土を持つ北の国、ロシュエト帝国の第五皇女だった。
「ようこそいらっしゃいました。ロザーラ姫。出迎いが間に合わず申し訳ありません」
「いいえ。こちらも急な訪問でしたもの。迎え入れていただき感謝しています」
アルマデスが姫の手を取り挨拶をする。
姫も礼儀をもって返すが、姫の視線はあくまで横に立っていたクロドに向かっていた。
公の場には出席しなくなっていたクロドだったが、今回は相手側の強い希望でその場に立ち会っていた。
姫はアルマデスへの挨拶もそこそこにクロドのもとへ向くと、驚く周囲を置いてクロドの手をとった。
クロドの体が強張る。
「殿下、本当はもっと早くお会いしたかったのですが、あいにく父に足止めをされてしまいまして、こんなにも遅れてしまったことをお詫びいたしますわ」
ストロベリーブロンドの髪をなびかせ、エメラルドの瞳を潤ませる皇女の姿は、見るもの全員に強い庇護欲をかきたせた。
クロドは姫の勢いに押されて身を引いたが、なんとか踏みとどまって挨拶の形をとった。
「姫、火急な要件ということでしたが、いったいどのような案件でしょうか?」
ロシュエト帝国とは交流が盛んにありロザーラ姫も何度もこの国に足を運んでいたがが、今回ロザーラ姫は非公式の訪問としてラディエントを訪れていた。そして、その経緯は未だ知らされていなかった。
本来ならあり得ないことだが、『今から伺います』といった形の書状を国境手前で出してきたためラディエント側は急な対応に追われたのだ。
「はい。大至急、殿下にお会いしなければなりませんでした。全てはわたくしの未熟さが引き起こした過ちではありますが、どうしても諦めきれなくて……」
目を伏せるようにして陰る姫の表情に、その場に居るものたちもいぶかしむ。
そんなに深刻な事態なのか。
「落ち着いて下さい、姫。いったい何があったのですか?」
アルマデスが労わるように優しく声をかける。
ロザーラ姫は意を決したように顔を上げると、隣に立っていたクロドへ向き直った。
その時、ようやくクロドは姫の熱い視線に気が付いた。
「クロドベルトス様。まだ、あのお約束を覚えていらっしゃいますか? まだ、守ってくださいますか?」
姫が何を言おうとしているのか、クロドがはっとしたときはもう遅かった。
頬を紅潮させ、緊張した声で姫はクロドに訴えた。
「わたくしを妻にするとのお約束は、まだ有効ですか?」
静かな部屋のなか、突拍子もない問いが響き渡った。
ロシュエト帝国の姫が滞在して三日目。
城内はフィリアにとって、以前よりさらに居心地の悪い場所となっていた。
姫が対談の時に発したありえない発言は、瞬く間に噂話として城内広がっていた。
「姫様、ただの噂です」
「わかってるわ」
フィリアは窓の外の景色を見ながら力なく呟いた。
窓の外には、城の庭園を連れ添って散歩するクロドとロザーラ姫の姿が見える。
美貌の姫の隣には首無し王子。しかし、これが以前のクロドであったなら、美男美女の素晴らしい光景になっていたことだろう。
それを考えると、フィリアには噂を否定する気力は残っていなかった。
呪いを受ける前、クロドとロザーラ姫は恋仲だった。
身分的にも申し分ないため特に反対するものもおらず、まさに順調な交際を続けていたといってよかった。
しかし、三年前にクロドが呪いを受けてから全てが変わってしまった。
ロザーラ姫の父であるロシュエトの帝王はすぐさま娘とクロドの交流を切り、姫はクロドとの連絡を取れなくされてしまった。
悲しんだ姫だが、それでもクロドと連絡を取ろうと模索し、一度だけ手紙を出した。
『必ずまた、会いに行きます』
そして説得に説得を重ね、ようやくロザーラ姫はクロドのもとにやってきたのである。
「ふふ、まさしく純愛というやつかしら?」
フィリアは虚ろな目で遠くを見やった。
この、流行りの恋愛小説のような恋愛事情はすぐにフィリアの耳にも届いた
姫の滞在理由は一応ロシュエト帝国との関税についての対談となっているが、第五皇女にそんな案件が任されるはずもなく、単なる建前でしかなかった。
「今日は私とお散歩する約束だったはずなのだけれど」
「ロザーラ姫が庭園を見たいとおっしゃったそうですよ」
「初めて来たわけでもないでしょうに」
ジゼルと自分しかいない部屋で、フィリアは憮然と呟いた。
ロザーラ姫とクロド王子の恋物語は、必然的にフィリアの立場を悪役としていた。
呪いにも負けない愛を示した姫が、お金目当てで嫁いできた姫から王子を取り戻す。
物語として皆が望む展開はこうだろう。
「追い出されたりして」
「あり得ません」
「……そうね」
フィリアとクロドの婚姻は国同士の取り決めで決定したものであり、なにより既に式を済ませているのだから、今更ロザーラ姫が何を言ってもフィリアとクロドが夫婦なのは変わらない。また、一度婚姻した相手を破婚とすることはラディエント王国ではほとんどないため、フィリアかクロドの命が尽きない限り二人は夫婦である。
しかし、かえってそのことが皆の興味を引いていた。
いつの時代も、障害のある恋は人を引き付ける。
ロザーラ姫を不憫と思うとともに、無責任に応援しているものも何人かいるのだ。
「お気になさらず、と言っても無駄でしょうね。またお菓子を持って行ってはいかかですか?」
「ロザーラ姫のいるところへ行くのはいやだわ」
最近は、クロドのいるところにはロザーラ姫が付きまとっている。鉢合わせすると、姫は潤んだ目で睨みつけてくるのだ。
フィリアに対しては全く効果のない攻撃ではあるが、それを見た周りの人間が姫にほだされフィリアを微妙に敵視してくるのはいただけない。
「美しいって便利なものね」
綺麗な顔が悲しみに歪む姿は周囲の人間の心を打つ。
フィリアは何もしていないのに悪役の気分だ。
「姫さまも十分お美しいですよ。それに、愛嬌というものがあります」
「それって褒めてるのかしら?」
「もちろんです」
フィリアは苦笑すると机の引き出しから日記をだした。
「これもお渡ししたいのだけど、今日は無理かしらね」
直接会って話すことが出来るようになったのだが、未だに交換日記は続けていた。
これはクロドとティーダ、フィリアとジゼルの四人しか知らない秘密だ。
その秘密があることが、フィリアの心労を少しだけ軽くしていた。
「今日は、殿下とお食事をご一緒するのでは?」
「どうせまたロザーラ姫が一緒でしょう。あんな雰囲気で食べるくらいなら、一人の方がましよ」
約束がおじゃんになったのはこれで何回目だろうかとフィリアは考える。少なくとも、ロザーラ姫が来てから一度もフィリアはクロドとお茶が出来ていない。
「なんで今頃来たのかしら? クロド様が私と結婚なさったことは知っていたでしょうに」
不思議なのはそこだった。むやみに他国の乗り込んできて、既婚者である王子に公衆の面前で想いを告げたのだ。本来ならあり得ない暴挙だった。
「アルマデス様も何もおっしゃらないようだし、どうなっているのかしら?」
さすがにアルマデスが姫にほだされるということはないだろう。
一度だけ見たあの冷たい目を思い出し、そう思った。
しかし、沈黙を貫いているということに何か政治的思惑があるのではと思ってしまう。
「気になるのでしたら、姫様から何かお聞きになってはいかがですか?」
「そうね。でも、アルマデス様はお忙しいようだし……」
さすがに、多忙な王弟殿下をわざわざ捕まえて問いかけるのも気が引ける。
「では、殿下にお聞きしては?」
フィリアは、視線を日記に向けた。
「そう思って一応書いては見たんだけれど、これを渡せるのがいつになるのか」
フィリアはため息ををついた。
ロザーラ姫が常時クロドに張り付いているため、なかなか以前のように頻繁に交換できなくなった。
『明日は一緒に食事をしよう。食事のあとに話がある』
クロドからの伝言はそれが最新ものだ。
「話ってなんなのよ」
フィリアはふてくされたように机の上のペンをはじいた。
いい加減にしてくれ、というのが今のクロドの心情だった。
彼に声を発する機能が残っていれば、間違いなく言っていたことだろう。
「クロド様、今日は一緒にお庭をお散歩してくださらない?」
クロドはいやいやながら、腕にすり寄ってくるかつての恋人へ目を向けた。
彼女は以前と変わらずストロベリーブロンドの髪をなびかせ、真珠のような美しい肌に今流行のドレスをまとっていた。
『失礼ですが姫、私には仕事があります。他のものをよこしますので』
あいにくティーダは別件の仕事で席を外していて、この場にはクロドとロザーラの二人きりだ。
「でしたら、わたくしもお手伝いしますわ。わたくしは殿下のおそばにいたいのです」
甘えるようになだれかかるロザーラに、クロドは疲れたように内心ため息をついた。
三年前なら愛しさがこみあげてきたはずのその仕草が、今のクロドには響かない。
「お茶を用意させましたの。殿下のお好きな北の茶酒です。体が温まりますわ」
ロザーラの言葉と共に運ばれてきたものに、クロドは青ざめた。
北の茶酒とは、ロシュエト帝国で常飲されているお茶のことだ。渋みが強く飲みすぎると喉が焼け付くように熱くなることがある。
ロシュエトでは子供の頃から飲むため、ロシュエトの国民は皆お酒に強い。
室内に酒の香りが漂い、クロドの肩が強張った。
「このお茶に合う菓子も用意いたしましたの。気に入って下さるといいのだけど」
同じく運ばれてきた皿の上には、赤い焼き菓子が盛り付けてあった。
「最近ロシュエトの城下で流行っているもので、わたくしも好きなんです。この辛味が癖になるんですよ」
にこにこと楽しげに語るロザーラに、クロドは気分が悪くなった。
「クロド様は辛いものがお好きなのですよね? 今度は料理人にとっておきのロシュエト料理をつくらせますわ」
あ、俺死ぬかも。
本当は辛い物が苦手で、甘い物が大好きなクロドは戦慄した。
昔、恋人にもっと好かれたいばかりについた嘘が、今のクロドを苦しめていた。
あの頃は彼女のことを思えば耐えられたが、今同じように耐えられるとは思えない。
(フィリアの焼き菓子が食べたい)
そう時間はたっていないはずだが、クロドにはエクエアが懐かしく感じられた。
最後にフィリアとお茶したのはいつだったか。
少なくとも、ロザーラ姫が来てからはしていない。
「そうですわっ。今日の夕食に作らせましょう。ロシュエトの料理はとっても刺激的ですのよ」
すっかりその気になっているロザーラに、クロドは慌てて待ったをかけた。
声が届かないぶん、放っておくと彼女は一人で話を進めてしまう。
『待ってください姫。今夜はフィリアと食事の約束をしている。また後日に』
「でしたらご一緒にいたしましょう。わたくしもフィリア姫とはお話ししたいですわ」
クロドの言葉を半ば無視して話続けるロザーラ。
(筆談はこういう時に不便だな)
書く速さを上回る速度で話されると、遮ることも出来ない。
今まで特に不便と思っていなかっただけに、クロドは止めるすべがなかった。
(フィリアのおかげか)
今まで主に接していたのはティーダやフィリアだが、彼らに対して不便だと思ったことはなかった。
それは、彼らが常に気付かって会話をしていてくれたからだと、クロドは今気が付いていた。
『とにかく姫、今夜は無理なのです』
なんとか書いた板をロザーラに見せると、途端にその顔が不快に歪んだ。
「どうしてですの?」
彼女は自分の意志が通らないことが許せない人種だった。
彼女の容姿をもってすれば、周りの者は彼女のために最善をつくした。
政治に絡まない第五皇女は、帝国でも愛すべきものとして平和に大切に育てられたにちがいない。
そんな彼女に許されないことはほとんどなかったのである。
「クロド様は、もうわたくしのことを愛してはくださらないのですか?」
詰め寄ってくるロザーラに、クロドは無い頭を抱えたくなった。
愛するも何も、クロドはすでに結婚している身なのだ。彼女の行動は国の威厳を汚すものでしかない。
『姫、その話はもう済んでいるはずだ。これ以上は姫の品を落とすことになりかねない』
「そんなことっ。わたくしは納得していません」
叫ぶようにして抱きついてきた姫を、クロドはとっさに支えた。
その拍子に、首の部分を覆っていたベールが取れる。
(しまったっ)
なんとか抑えようと伸ばした手は虚しく空を切る。
「い、いやあああああああっ」
どこか既視感を覚える絶叫を聞きながら、クロドは突き飛ばされた。
錯乱したロザーラ姫がふらふらとしながら後退していく。
落ち着かせようと手を差し伸べるが、取ってくれるはずもなく。
(ちっ、早く他の者を……)
ロザーラの後ろにテーブルが見えたため、危ないと思い思わず一歩前にでる。途端に叱責が飛んだ。
「近づかないで!! 化け物っ」
瞬間、クロドの胸に痛みが走った。
いつかの光景がよぎる。
化け物。愛した人間から言われた言葉は、クロドの心の一番深いところに突き刺さったまま。今日まで凍結させ忘れていた。
(まだ、結構効くんだな)
フィリアと対峙した時には絶叫されて気絶までされたというのに、ここまでの痛みを感じなかった。
それが彼女の言葉はここまで刺さるのだから、最早これはトラウマといっていいだろう。
「どうしました!!」
衛兵と一緒にティーダが血相を変えて飛び込んできた。
「いやああっ……」
姫が力尽きて気絶する。
慌ててティーダがそれを支えた。
「殿下、いったい何があったのですか?」
問いかけたティーダだったが、その問いはクロドの姿を見て悟ったようで、取り合えずロザーラ姫を部屋の長椅子に横たえた。
その間クロドは何とかベールを被りなおしたが、すでに見てしまった衛兵たちは硬直したように顔に恐怖を浮かべたまま固まっていた。
叫び声を上げなかったのは彼らのささやかな意地だろう。
「お前たち、ロザーラ姫をお部屋までお連れする。一応医師を呼んでおいてくれ」
ティーダの指示でようやく我に返った彼らは、弾けるように反応して部屋をでていった。
嵐が去ったように静まりかえる室内。
クロドは椅子に項垂れるように座り込んだ。
「殿下……」
ティーダが気遣うように声をかける。
しかし、筆談する気にもなれなかったクロドは、手を軽く振りかえすだけでそのまま目を閉じた。
いつかの情景が浮かび上がる。
まだ呪いを受けて間もない頃。
まだ、自分の未来になんとか希望を持とうとしていたときのことだ。
恋人だったロザーラ姫が心配して見舞いに来てくれた。
自身の姿を不安に思っていたクロドは会わない方がいいと言ったのだが、姫は聞かずにクロドの寝室までやってきてしまったのだ。
正直に言うと嬉しかった。そこまで自分のことを心配して来てくれたのだと。
しかし、いざクロドと対面した彼女の口からは聞いたこともないような悲鳴が溢れ、駆け寄ったクロドの手は無情にも叩き落された。
『近づかないで、化け物!! 誰か、誰か来てっ』
まるでおぞましいものを見たかのように彼女を顔は恐怖で歪んでいた。
叫びながら飛び出して行った彼女の姿は、今も鮮明に覚えている。
その後、彼女は逃げるかのようにラディエント王国を去り、以降は手紙のやり取りすらしなくなった。
それが真実であり事実だ。
「クロド様」
不意にかけられた声で記憶の渦から戻された。
見ると、心配そうな顔をしたフィリアが傍にいた。
「申し訳ありません。私がお呼びしました」
ティーダが謝るが、上手く対応できなかった。
「クロド様」
再度呼びかけられ、フィリアに目を向ける。
彼女は真っ直ぐとクロドを見ていた。
この青々とした瞳が、クロドはお気に入りだった。
フィリアがそっと、クロドのベールへと手を伸ばす。
はっとしたクロドが手を止めるが、フィリアはそれを制した。
「大丈夫です、クロド様」
はらりと落とされる薄い布。
露わになった部分を痛ましげに見つめたフィリアは、そのまま腕を伸ばした。
(っ!!)
気付けばクロドはフィリアの腕の中にいた。
「私は、逃げません」
フィリアの温もりがクロドを包む。
人の温かみを感じたのはいつ以来だろうか。
「逃げません」
そうだ、フィリアは逃げなかった。
初めて対面したとき、衝撃を受けたフィリアには、もうクロドと会わないという選択も出来たのだ。その選択肢を、クロドは残していたのだから。
しかし、フィリアはクロドから逃げることをせず、あまつさえ交流の糸口を見つけようとあらゆる方法を試みた。
例え受け入れられない姿だとしても、クロドが望んでいたのはその姿勢だったのだ。
親も、恋人も示してくれなかったことを、彼女はしてくれた。
「私はずっと、お傍にいます」
生きている証ともいえる体温を感じて、クロドの心は解き放たれた。
フィリアにすがりつくかのようにきつく抱きしめ、音もなく涙を流した。
数年ぶりの涙だ。
凝り固まって、奥底で溜まっていた感情が一気に流れていく。
声なき声で泣きつづけるクロドの背を、フィリアは気が済むまでさすり続けた。
『すまなかった。みっともないところを見せてしまったな』
「とんでもありません!! 全然、みっともなくなんかないです」
しばらくして泣き止んだクロドは、恥ずかしげに立ち上がった。
もうすっかり調子を取り戻したのか、その動きは機敏だ。
対してフィリアは、大胆なことをしてしまった自分に今頃赤面している。
『ありがとう』
穏やかな文字で感謝を告げるクロドがやはり輝いて見えるように見え、直視できない。
(なんでなのかしら?)
混乱するフィリアだが、クロドはいたって普通だ。
『フィリア、手が』
「え?」
見ると、いつ切ったのか指先に小さな傷ができ、血が出ていた。
さっきの騒ぎで割れてしまった陶器の破片で切ったのだろう。
「すぐ手当てを」
ジゼルが道具をとりに向かう。
「大丈夫です。このくらい、なんともありませっ」
フィリアが言い切らないうちに、クロドが動いた。
素早く近づくと、彼はフィリアの手をとって心配そうにさすった。
あまり意味のない行為だが、不意打ちで触れられたフィリアの顔はその瞬間、沸騰したかのように真っ赤に染まった。
「お待たせいたしました。姫様、お手をお出しください」
ジゼルが包帯を持って戻ってきたが、クロドは手を離さない。
「殿下? フィリア姫の手当てをしなくては」
ティーダが声をかけるが、クロドはフィリアの手を離さず、代わりに反対の手をジゼルに差し出した。
「殿下が自らなさると、いうことでしょうか?」
肯定するクロド。
クロドは待ちきれなかったのか、ジゼルが何かを言う前に、彼女から包帯をひったくってフィリアの手当てを始めた。
「あ、あの、クロド様? そんな、わざわざしていただかなくても大丈夫ですから」
申し訳なさそうにするフィリアだが、結局クロドは手当てが終わるまでフィリアの手を離さなかった。
『俺がしたかったからした。気にしないでくれ。それとも、迷惑だったか?』
クロドが書いた言葉に、フィリアは胸が熱くなった。
「とんでもないです。ありがとうございます、クロド様。嬉しいです」
満面の笑みで返したフィリアの髪を、クロドは満足げに撫でた。
途端に、またフィリアの体温が上昇する。
『それと、様は止めてもらえないか?』
「え?」
『クロド、と呼んでもらえないだろうか?』
「えっと、それは……」
呼称はもはや癖のようなものだ。それに、フィリアとクロドではいくら夫婦と言えど身分的にはクロドが上だ。今更難しいと言いよどむフィリアに、クロドは言いにくそうに理由を説明した。
『思い出してしまうんだ。その呼び方は』
そこでフィリアは思い当たった。
彼女も、クロド様と呼んでいた。
クロドは違うと思っていても、その呼び名に彼女を重ねてしまうのだ。
「わかりました。えっと……クロド」
顔を赤くしたフィリアが拙く呼ぶと、クロドは上機嫌に腕を回した。
『今夜は温室で食事にしよう。見せたいものがある』
「あ、はい。温室って初めて行きます」
なにやら態度が変わったクロドに戸惑うフィリアだが、嫌な雰囲気ではない。
『そうか、きっと驚く』
以前よりも格段に雰囲気が優しくなったクロド。
フィリアは嬉しくなって頬が緩んだ。
『綺麗に支度してきてくれ』
「はい……」
フィリアはうっとりと頷いた。
ドレスは空色のフレアにした。祖国から持ってきた中で一番のお気に入りのドレスだ。
髪と化粧はジゼルに整えてもらい、ガラスがちりばめられた小さなカバンを持つ。
「ジゼル、変じゃないかしら?」
フィリアはせわしなく鏡で確認をしていた。
「大丈夫です。さっきから何回鏡をみているんですか。迎えが来てしまいますよ」
フィリアは温室の場所が分からないため、クロドが迎えをよこしてくれることになっている。
丁度ジゼルが言ったとき、扉から声がかかった。
「ほら、姫様。いらっしゃいましたよ」
ジゼルが扉をあけると、ティーダが立っていた。
慌ててフィリアは扉に向かう。
「ティーダさん、ありがとうございます」
ティーダはフィリアに微笑んで一礼する。
「殿下がお待ちです。私についてきてください」
フィリア達は、ティーダに続いて歩き出した。
城内は方角に合わせて大まかに四つの区画に区切られている。主に来客用の貴賓室や娯楽用の施設があるのは南区。会議室や執務室、資料室などの政務区画が北区。王族用の私室、居住区があるのが東区。聖堂や講堂、パーティー用の広間があるのが西区である。
温室があるのは、その中でも王族の私室に近い東区に面した場所だ。
王族以外の立ち入りを禁じられているそこは、ある意味純粋なプライベートな空間だった。
「こちらになります」
ティーダの後ろをついて歩くこと数分。
示された場所には、見たこともないほど大きなガラスのドームがあった。
「綺麗……」
月の光を反射して輝く姿は温室そのものが宝石のようであり、フィリアは目を奪われた。
「凄いわ。殿下の言っていた通りね」
うっとりと見入るフィリアは、温室の入り口に立つクロドに気が付いた。
「クロド!!」
フィリアが思わず駆け寄ると、クロドはその手をとって優雅に一礼した。
『ようこそ、ラディエントが誇るガラス宮殿へ。驚いただろう?』
「ええ、本当に綺麗。素晴らしいわ」
興奮して答えるフィリアの笑顔に、クロドは眩しく思った。
こんな風に自分に笑いかけてくれる人間は、何年ぶりだろう。
今の光景が、奇跡のように思えた。
『さあ、中に入ろう。中も気に入ってくれるといいが』
クロドに促されて中に入ると、そこはもう別世界だった。
「温室の中に川があるわ」
温室の中を横切るように小さな小川が流れていた。
『水辺に咲く花を育てたいと王妃が言ったものだから、国王が作らせたんだ。この先に、小さな池がある』
クロドの指す先には、確かに小さな池があり、水面にいくつかの花が浮いていた。
『ここは王妃の要望であらゆる種類の花が一年中育てられているんだ』
「そうなんですか。王妃様は本当に花がお好きなんですね」
クロドの薔薇園を思い出す。あそこも、もとは王妃のものだった。
『ここだ』
川の少し先のところに、二人分の椅子とテーブルが置かれていた。
二人が席につくと、ティーダとジゼルが食事を持ってくる。
料理はどこから調べたのか、全てフィリアの好きなものだった。
「美味しい」
一口食べてフィリアの顔がほころぶ。
『それはよかった』
クロドもまた頷いて食器を手に取る。
彼は少し躊躇ったが、フィリアはクロドの躊躇を感じとり彼の被っているベールに手をかけた。
「大丈夫よ」
そっとかけられたベールを取り払う。
「大丈夫」
フィリアはもう一度、クロドに言い聞かせるように繰り返した。
食事をするためにはどうしてもベールをとる必要がある。
しかし、そうすれば食事時に生々し好い光景を晒すことになるため、今までクロドは誰かと食事を共にすることは避けてきた。
焼き菓子程度ならベールの中に入れて食べることは出来るが、食事ともなれば、そんな失礼な態度はとれない。
「一度傷つけた私がこんなことを言うのは図々しいかもしれませんが、そんなに気負わないでください」
フィリアはとったベールを丁寧に畳むと、テーブルのわきに追いやった。
「もう、私には隠さなくて大丈夫です」
真っ直ぐにクロドを見て微笑むフィリアに、クロドから動揺した雰囲気が漂った。
いくら受け入れられたからといって、こうも真っ直ぐに笑顔を向けれては堪らない。
最近になって思い出した想いの衝動。
先ほどは衝動のままにフィリアを抱きしめたが、今はそうもいかない。
クロドは湧き上がる想いを胸にくすぶらせたまま、目の前の料理に手を伸ばした。
「美味しい?」
可愛らしく聞いてくるフィリアに、頷くクロド。
微笑ましい情景に、端で見ていたティーダはほっと胸をなでおろした。
しばらく二人は何気ない会話を楽しんでいたが、不意にクロドは食器を置き、天井を指さした。
『上を見て』
「え?」
言われるままにフィリアが見上げると、円形に広がった天井には、満天の星が輝いていた。
「まあ……」
目を輝かせるフィリア。
これがクロドの言っていた見せたいものだったのだと、フィリアは理解した。
『私は、もう誰も心に入れることはないと思っていた。』
フィリアが顔を戻すと、クロドはそう書いた板を見せた。
それは、クロドが今まで心に澱ませていた孤独の感情。
『この姿になって、皆が私から離れていった。父も、母も、恋人も』
恋人の言葉に、フィリアの胸が痛みを帯びる。
『受け入れられない姿なのは理解していた。しかし、理解していても、簡単に割り切れないのが感情だ。私は、悲しかった』
明かされるクロドの苦しみに、フィリアは泣きたくなった。
彼は三年も、その孤独に耐えてきたのだ。
『どうして生きていられるのかと皆に聞かれ、しかし、私自身どうしてこの姿で生きていられるのか不思議でしょうがなかった。調べたところ、どうやらこの身の呪いは失敗していたようで、中途半端に呪いがかかってしまったらしい。本来なら、体全てが消えていたはずだと、興味深そうに専門家には言われたよ』
「そんな」
改めて聞く真実に、フィリアは驚いた。
『私の存在を消そうとして、誤って首だけ消してしまったらしい』
肩を竦めて呆れを示すクロドだが、誤っていなければ今頃クロドはいないのだ。
フィリアはその事実に恐怖した。
『まあ、かえってこちらは困ることとなったわけだから、ある意味成功と言えるだろうな』
今だから簡単に言えることである。
数日前のクロドでは、きっとここまで軽く話すことは出来なかっただろう。
それほど、フィリアがクロドに及ぼした影響は大きかった。
『そんな私のもとに、君がきた』
はっとフィリアはクロド見た。
クロドの瞳を見ることは出来なくても、確かい温かい思いが向けられているのを感じることが出来る。
『初めは適当に私の傍から追い払おう思って、わざとベールを取っていたんだが』
対面したときを思い出す。確かに、あのときのクロドは普段のベールをつけていなかった。そのせいで、フィリアは恐怖で気絶までしたのだから。
「あ、あのときは本当に、申し訳ありません」
思い出すと、フィリアは胸が痛くなる。
あの時の自分と、先ほどのロザーラ姫との間に、いったい如何ほどの違いがあるだろうか。
『いいんだ。あれが普通の反応だ。フィリアはなにも悪くない。逆に、怖い思いをさせてしまった私が謝るべきだ』
「そんなっ。殿下は悪くありません」
互いに互いを庇い合い、フィリアとクロドは向かい合って笑った。
『でも君は、私との関わりをやめなかった』
そう、次に渡された日記を見て、クロドは驚いたのだ。
あれを見て、まだ近づこうとするものがいるのかと。
『それから少しずつ、君は私に近づいてきた』
好きなものを聞いてくれた。興味があるものを勧めてくれた。知ろうとしてくれた。
その全てが、クロドの望んでいたものだ。
『菓子を作って持ってきてくれた。お茶にも誘ってくれて』
変に取り繕うことをしない関係は、とても心地いいものだ。
『来てくれたのが君で、本当に良かった』
その言葉を見た瞬間、フィリアの瞳から温かいものが流れた。
「っ、クロド……」
『君が来てくれて、私の世界は再び色を帯びた。ありがとう』
真摯な言葉に、フィリアの胸がいっぱいになる。
通じたのだ。
孤独だった王子にフィリアが精いっぱい注いだ思いやりは、時間と共に愛情という花を咲かせていた。
「そんな。私の方こそ……ありがとう、ございます。クロド」
なんとか言えたのはそれだけだった。
嗚咽を堪えて震えるフィリアの背を、クロドが落ち着くまで支えていた。
それからの二人の距離は飛躍的に近づいた。
クロドはフィリアを大切に扱ったし、フィリアもクロドに寄り添った。
『もうすぐ建国祭がある』
「そうですね。どんな催し物をするんですか?」
クロドの部屋で、フィリアはクロドの隣に座っていた。
『花を飾った神輿に子供を乗せて城下を一周する』
ラディエントの建国祭は、主に王族と子供を主役とする。未来あるものを尊ぶという意味で、この日はラディエントの子供たちにとって待ちに待った日でもあるのだ。
「素敵ですね」
『見たいか?』
「はい」
返事をしてしまってから、フィリアはしまったと思った。
クロドは祭り中、城から出られないのだ。
国民の前での挨拶もアルマデスが行う。
この姿では仕方がないものわかるが、寂しい。
「ティーダに言っておこう。王族の席には座れないが、席は用意しておく」
クロドの言葉に、フィリアは胸が締め付けられた。
彼は、一緒に見ようとは言ってくれない。
「いいえ。クロドと一緒にいます」
『無理しなくていい』
「いいえ。」
フィリアは反論した。
「私はクロドと見たいと思ったのです。貴方がいなのなら、私も行きません」
きっぱりと言ったフィリアに、クロドは驚いたように動きを止めた。
『いいのか?』
震える文字が愛おしかった。
「はい」
返事をすれば、クロドに抱きしめられた。
「ク、クロド!?」
フィリアが焦った声をあげる。
フィリアの焦りが面白いのか、クロドは更にフィリアの手をとって甲を指でさする。
すると、フィリアの顔が真っ赤に染まった。
これはクロドからの口づけの仕草だ。
口づけという最大の愛情表現が出来ないクロドは、最近になって内にあり余る想いを伝える手段として、口づけの仕草を編み出していた。
ただ手の甲をさすっているだけなのだが、クロドがやると妙に色気が出ていけない。
また、実際の口づけよりも人目を気にせず出来てしまうため、クロドは想いのままにこの仕草を使う。
意味を知っているフィリアだけが恥ずかしさに頬を染めるのだが、それもまた、クロドを喜ばせるものとなっていた。
フィリアの恥じらう姿はまた、とても可愛らしくクロドの目には映るのだ。
フィリアは真っ赤になった頬をもう片方の手で押さえて耐えた。
(熱くなってる)
ロザーラ姫の一件から、クロドはこのようなスキンシップが増えた。
隙があれば抱きしめてくるし、歩くときは手を握ってくる。
頬を撫でられると、くすぐったさとともにむず痒い気持ちが湧いてきて恥ずかしくてたまらないのだ。
「クロド」
いつまでたっても終わりそうにないスキンシップを受け、フィリアが途方にくれたように名を呼ぶと、クロドはようやくフィリアを解放した。
「あの、少し恥ずかしいです」
真っ赤な顔で目を潤ませて訴えてくる妻の姿に、クロドは眩暈がした。
湧き上がる欲望。
今すぐ押し倒してしまいそうな手を握ることで押しとどめている。
「でも、温かい」
恥ずかしいと言っておきながら、フィリアは自分からクロドの胸に寄りかかった。
どきりとクロドの胸が跳ねた。
「あ、どきどきしてる?」
嬉しそうにくすくすと笑うフィリア。
(なんだこの小悪魔は!!)
クロドは試練だと呻きながらも、幸せをかみしめていた。
「殿下」
そこへ水を差す声が聞こえた。
「ティーダさん」
ティーダがなんとも言えない表情で立っていた。
彼には主夫婦が長椅子の上でいちゃいちゃしているのがよく見えた。
「仲がよろしいのは大変良いのですが、仕事はしてください」
じとっとクロドの視線が虚空から向けられたが、それで引くティーダではない。
だてに首無し王子の側近を何年も続けていないのだ。
ティーダの手には何枚かの書類があった。
「こちらに目を通してください」
クロドは内心ため息をついた。
「クロド」
フィリアにも促されて立ち上がる。
クロドはティーダから書類を受け取ると、執務机に向かった。
「では、私は部屋に戻っていますね」
フィリアは邪魔にならないように腰を上げた。
クロドに告げるが、クロドはじっとフィリアを見ていた。
「クロド?」
首をかしげるフィリアに、クロドが板をかざす。
『一緒の部屋で寝ないのか?』
「っ!!」
読み上げた瞬間フィリアの顔から火が噴いた。
今までフィリアとクロドは夫婦ながら距離を取っていたため別々の部屋で暮らしていた。
しかし、距離が埋まった今、その必要はないと言いたいのだ。
「え、で、でも……」
考えたことがないとは言えない提案だ。しかし、意表をついて提案され、フィリアはパニックになった。
『駄目か?』
「駄目では、ない、けど」
『夫婦は一緒に寝るものだろう?』
「ねっ」
露骨な言い方に、フィリアはとうとう限界に達した。
「ジ、ジゼルに相談してから決めます!!」
そう言い残してフィリアは遁走した。
「殿下、あまりいじめるのは勧めませんよ」
『可愛いだろう?』
呆れるティーダに、クロドはご機嫌で仕事に取り掛かった。
第四章 修羅場は夜道で
フィリアは暗闇で目を覚ました。
無言で辺りを見回したが、見知った寝室ではない。
樽や木箱が積み上げられていることを考えると、倉庫か物置という線が強いだろう。
しかし、フィリアにはどうして自分がこんなところにいるのか分からなかった。
(確か、クロドへの菓子を届けようとして……)
記憶を巡り、フィリアははっと辺りを見回した。
「ジゼルッ。いないの?」
確か、クロドの私室への道を歩いていたら、向かい側からロザーラ姫が歩いてきたのだ。
クロドとの騒ぎがあってから部屋に閉じこもっていると聞いていたので気まずく感じたフィリアだったが、ロザーラ姫はフィリアへ話しかけてきた。
「ごきげんよう、フィリア姫」
「……ごきげんよう」
人の目を引く美しい容貌。しかし、フィリアはその笑みに陰りを感じた。
「そちらはクロド様に?」
フィリアの持っていた皿に目をやり、問いかけてくるロザーラ姫。特におかしな点はないはずなのに、違和感がぬぐえない。
「ええ。」
短く答えて早く会話を終えようとするフィリアだが、ロザーラ姫はさらに近づいてきた。
「わたくし、以前からフィリア様とお話ししたいと思っていましたのよ」
どこか不気味な雰囲気に、ジゼルがフィリアの前にでた。
「申し訳ありません。姫様は殿下とのお約束のお時間が迫っていますので、後日改めていただいてよろしいでしょうか?」
有無を言わせない口調で告げるジゼルだったが、姫にはきかなかった。
「あら、侍女のくせに立場がわかっていませんのね。王族の会話に割り込むなど。無粋の極みですわ」
「申し訳ありません」
「謝るのは速いのね」
高見から見下した態度は勘に障るものだが、ジゼルの表情は崩れない。
それがなおさらロザーラ姫の不興をかったようだった。
「貴方たち、自分の立場を理解していて? 邪魔者だってどうして気が付かないのかしら?」
フィリアはロザーラ姫よりも、その後ろに控えている護衛たちが可哀相になった。
彼らはロザーラに言葉に顔を引きつらせ、すっかり青ざめている。
無理もないだろう。
フィリアはこの国の王子妃であり、ロザーラは他国の姫で無理を言って滞在している身だ。どちらが弱い立場で邪魔者なのかは言うまでもない。
ロザーラ姫の言っていることは嫉妬に狂った女の戯言でしかなかった。
「ロザーラ姫、このような場所でそう言った発言は避けられた方がよろしいですよ」
「なんなの、その口のきき方は!! 援助目的で嫁いできたくせに。貴方なんかとわたくしでは、同じ一国の王女でも品格というものが違うのよ!!」
フィリアの忠告も虚しく、ロザーラ姫の声はどんどん荒くなっていった。
このままでは騒ぎになってしまうだろう。
「お話ならお部屋でしましょう」
仕方なく、フィリアはクロドのもとへ行くことを諦めて、ロザーラ姫を自室へ招いた。
「貴方は外してくださる?」
護衛を外にだし、ロザーラはさらにジゼルにも退去を命じた。
再び抗議しようとしたジゼルだが、フィリアに制される。
「ジゼル」
「姫様、ですが」
「大丈夫よ」
「……わかりました。扉のすぐ傍にいますので、何かありましたらお声を」
心配そうにしながらも、ジゼルが部屋を出ると、扉が閉まった。
「さあ、これで邪魔者はいなくなったわ。思う存分話し合えるわね」
室内を踊るように動きながら語るロザーラの姿は、やはり普通ではなかった。
「さて」
くるりと一回転する度に、ストロベリーブロンドの髪が舞う。その光景は確かに美しくはあった。
「どうして貴方がクロド様のお傍にいるの?」
一変して無垢な少女のように問いかけるロザーラに、フィリアは緊張した。
状況に合わない無垢さは疑惑を通り越して、恐怖しか感じさせない。
「どうして、あの方をずっと愛していたわたくしではなくて、貴方なの? 貴方、所詮お金が目当てで嫁いできたのでしょう?」
それは否定できない事実だった。
確かに、フィリアはクルトネ王国への食糧援助と引き換えに嫁いだ身だ。それがなければ決して今回の婚姻はありえなかっただろう。
「わたくしは、ずっとあの方だけを思ってきたのです。今回だって、ようやくお父様から許可をいただいてこの国に来ることが出来たというのに」
「では何故、逃げたのですか?」
言ってからしまったとフィリアは思ったが、もう構わなかった。
彼女のあまりに勝手な物言いに耐えられなかった。
「クロドは貴方を責めはしなかったはずです」
そう、クロドは責めたりしない。ただ悲しげな顔をするだけだ。
「だから、お父様が邪魔をして」
「でも、他にも連絡の取りようがあったでしょう。貴方は父親の言葉を免罪符にしているだけだわ」
フィリアの切り返しに、ロザーラの顔は怒りで真っ赤になった。
「な、なんて失礼な!! わたくしはただ、皇女としての立場をおもかって行動しただけです。それを逃げたなどと」
「でしたら、貴方のクロドへの思いは所詮その程度だったということですね」
フィリアは厳しい言葉を放った。
「本当に彼のことを愛していたというのなら、せめて一言でも、彼を安心させる言葉をかけるべきだったのではないですか? 彼が今までどんな思いでいたか、わからないのですか?」
声なく泣いていたクロドを思い出すと、今でも胸が痛む。
彼はきっと待っていた。恋人からの便りをずっと。
待って、待って、でも来なくて。彼は心を閉じたのだ。
「貴方なんかに、彼はわたさない」
するりと口からでた言葉に、フィリアは驚いた。
そう、わたさない。わたしたくない。
フィリアの中で確たる想いが叫んでいた。
「なによ。それが本心ってわけ」
ロザーラはフィリアを指さした。
「どんなに綺麗ごとをならべたって、結局は自分のためじゃない」
ロザーラの言葉がフィリアを糾弾する。
しかし、フィリアは怯まなかった。
「そうですね」
今まで、フィリアは自身の中にこんな激しい感情があるとは思っていなかった。
彼が欲しい。彼の一番でありたい。他の女性など見ないで欲しい。
黒い感情が渦巻いて、きっと自分は今、とても醜い顔をしているに違いない。
「でも、私は、あの人を一人には絶対しない」
フィリアは真っ直ぐにロザーラを見て言いきった。
「……なによ。なによ、なによ」
ロザーラは、髪を振って取り乱し始めた。
「わたくしだって、わたくしだって」
「ロザーラ姫?」
「わたくしだって、あの方のお傍にいたかったわ!! でも、駄目だったんだもの。あの姿を見て、恐ろしくてたまらなかった。愛していたのに、受け入れられなかった!!」
ロザーラの悲痛な叫びが室内に響く。
「愛していたのに受け入れられなかった。そんなわたくしに、あの方が失望するのも怖かった。どうしてこうなるのよ。あのまま呪いなんて受けなければ、今頃あの方の隣にいたのはわたくしだったのに!!」
フィリアは息をのんだ。
確かに、呪いが全てを狂わせたのは確かだろう。
しかし、フィリアはそれ以前から、ロザーラはクロドのことを愛していなかったと決めつけていた。
だが違ったのだ。
愛していた。
でも、受け入れられなかった。
それは、最初の頃のフィリアに少し似ていた。
「ロザーラ姫」
「同情なんてやめて。余計みじめだわ」
フィリアはそれ以上何も言えなかった。
ロザーラの気持ちがわかっても、クロドを譲れないことに変わりはなかった。
「一つ聞いていい?」
やがて落ち着きを取り戻したロザーラが言った。
「はい」
「貴方は、あの人の姿を見てもなんとも思わなかったの?」
ロザーラの問いに、フィリアは真っ直ぐに答えた。
「いいえ。私も、初めて拝見した時は悲鳴をあげて、挙句に気を失いました」
ロザーラが驚きに目を見開く。
「なら……」
「それでも」
ロザーラの言葉をフィリアは遮った。
「私はあの人から逃げたくなかった」
挑むようにロザーラを見つめ返すフィリアに、ロザーラは言葉を失った。
「そう」
一気に勢いを失ったロザーラは、扉に向って歩いた。
「帰るわ」
「……はい」
俯きがちに部屋を出ていくロザーラをフィリアは見送った。
同じ人間を想う者同士、決して気が合ったわけではないが、ロザーラの想いを知った今、フィリアの胸には鋭い痛みが伴っていた。
(もし、殿下が呪いを受けなければ、彼女は確かにクロドと結ばれていた)
あったかもしれない未来。
呪いがもたらした結果はやはり大きい。
フィリアは、ため息をついて椅子にもたれかかった。
「な、一体なんなの!? 無礼者!!」
扉の外から慌てた声が聞こえ、フィリアは驚いて部屋から出た。
「ロザーラ姫!?」
外に出ると、見知らぬ男が三人、ロザーラ姫を襲っていた。
「なっ、誰か!! 賊が姫をっ」
フィリアは近くにいるはずの護衛やジゼルに聞こえるよう大声を発した。
しかし、賊の動きは速かった。
気付けば一人がフィリアの背後に回っており、フィリアは首に強い衝撃を受けた。
覚えているのはそこまで。
気が付けは、今の場所にいたのだ。
「ここはいったい……誰かいないの? ジゼル、衛兵っ」
呼びかけてみるが、外に人の気配はない。
フィリアは流行る気持ちを抑えるように、深呼吸をした。
どこか出られる場所はないかと見わたすが、扉らしきところにはしっかりと鍵がかかっており、窓は格子窓でフィリアの手の届かない高さにある。
あれからどれくらいの時間が過ぎたのだろうか?
フィリアがいないことにはそのうちジゼルが気付くだろうが、それでは遅い。
ロザーラ姫が襲われていた光景を思い出すと、どうしても気持ちが焦ってしまう。
フィリアは意を決して近場の木箱に足をかけた。勢いをつけて飛び乗る。
そこで背伸びをすると、どうにか窓に届いた。
「あれは、厩舎?」
窓を開けて見ると、外には見慣れない建物が見えた。何頭もの牛を繋いであるということは、おそらくは厩舎だろう。ということは、ここは城の外ということになる。
「なんとか、人に伝えられたら」
誰かいないかと視線を巡らせる。
すると、厩舎に人影が入って行った。
「すみません!!」
声を張り上げてみるが、届く距離ではない。
このままでは行ってしまう。
フィリアは焦って身を乗り出そうとしたため、背伸びした足を滑らせてしまった。
「きゃあっ」
派手な音を立てて木箱から転げ落ちる。
背中と腕を打ち付けて、痛みに呻いた。
無力さが込みあげてきて、涙がでてくる。
「いたっ」
手をついたところに何か固い物が散らばっており、フィリアは手を切ってしまった。
「こんなところに……ガラス?」
フィリアは妙案が浮かんで地面に飛びついた。
床には他にもいくつかガラスが散らばっている。その中で一番大きな破片を手にとり、もう一度木箱に上った。
窓から漏れる光にかざす。
この光が厩舎にいる者の目に留まれば、気付いてもらえるかもしれない。
「お願いっ」
フィリアは祈るような気持ちでガラスをかざし続けた。
数分後。
「誰かいるのか?」
気付いてくれたのか、人の声が外からかけられた。
「はいっ。閉じ込められてしまって、助けて下さい」
「フィリア姫?」
「え?」
相手はフィリアを知っているようで、フィリアは驚いて扉を見つめた。程なくして開いた扉の向こうから現れたのは、フィリアも見知った人物だった。
「アルマデス殿下!?」
そこにいたのはアルマデスだった。
「どうして殿下がここに?」
「フィリア姫こそ、何故このような場所に!?」
アルマデスもフィリアの姿に驚きを隠せないようだった。
「……怪我をされているようですね。取りあえず、こちらに」
目ざとくフィリアの手から流れる血を見つけ、気遣うように促す。しかし、今のフィリアには、そんなことを気にしている余裕はなかった。
「いいえっ。それよりも早く、ロザーラ姫をお助け下さい。姫が何者かに襲われました」
フィリアの言葉にアルマデスの動きが止まる。
「早くしないと、手遅れになるかもしれません!!」
「フィリア姫」
「急いで、捜索を」
「姫」
力強い声で呼ばれ、焦って取り乱しかけていたフィリア我に返った。
「アルマデス殿下……」
戸惑うフィリアに、アルマデスは優しく語りかける。
「ロザーラ姫はご無事です。今、自室で休まれています」
「え……」
「賊は捕えられました。大丈夫です」
微笑むアルマデスの言葉に、フィリアはほっと息をついた。
「よかった……」
「ですが、フィリア姫には少し、お話を聞かなければなりません」
賊についてだろう。協力は惜しまないつもりだったので、フィリアは当然と頷いた。
「もちろんです」
しかし、返事を聞くアルマデスの表情はさっきと打って変わって優れなかった。
「アルマデス殿下?」
「少し、不快な思いをなさるかもしれません」
辺りが不穏な空気に包まれた。
「アルマデス殿下」
聞きなれない声が聞こえた。
それとともに、何人もの兵たちがフィリアとアルマデスを取り囲む。
「え?」
フィリアは驚き、アルマデスを見上げた。
「申し訳ありません姫。事情は後でご説明いたしますので、今は彼らに従っていただきたい」
「そんなっ」
それはまるで賊の扱いだった。
「フィリア・ド・ラディエント。国王暗殺未遂の疑いで拘束する」
「暗殺!?」
驚くフィリア。
しかし、一方的に罪状が告げられフィリアは拘束された。
「なんでこんなっ。 アルマデス殿下!!」
フィリアの叫びに、アルマデスは申し訳なさそうな顔をするだけだった。
「お前たち、姫に手荒な真似はするな」
それだけ言い残して、アルマデスは行ってしまった。
「こちらに」
フィリアは言われるままに従うしかなかった。
連れて行かれたのは、単にフィリアの自室だった。拘束をはずされ、自由になる。
「許可がでるまで、部屋から出ないようにお願いします」
連れてきた者たちも、それだけ言うと行ってしまった。
「一体、なにがあったというの?」
フィリアは状況が分からず眉をひそめた。
「姫様!!」
部屋の奥から影が飛び出してきて、フィリアは身構えた。
「ジゼル」
飛び出してきたのはジゼルだった。
彼女は普段きっちり詰められている髪を振り乱し、やや憔悴した面持ちでフィリアに駆け寄る。
「ご無事だったのですね。どこかお怪我はありませんか? ああ、手に血が。私がついていながらなんてこと」
始めてみるジゼルの姿に、フィリアは目を丸くした。
「ジゼル、いったいどうなっているの? 私どのくらい閉じ込められていたのかしら?」
フィリアの問に、ジゼルは涙目で答えた。
「姫様はまる一日行方不明でした。私が不甲斐無いばかりに」
「ジゼルは大丈夫だったの?」
フィリアに問われ、ジゼルは悔しげに俯いた。
「私も賊に襲われ、姫様のお声に駆けつけることが出来ませんでした」
賊は三人だけではなかったのだ。
「不意を突かれたようで、私たちも気を失わされてしまいました。私が駆けつけた時には廊下にロザーラ姫が倒れていて、姫様のお姿が消えていました」
と言うことは、彼らの標的は初めからフィリアだったということになる。
考え込むフィリアに、ジゼルは手じかな椅子を運んでくると座らせた。
「取りあえず手当てをいたしましょう。なんですか、この乱雑な包帯の巻き方は」
やや憤慨した様子でジゼルは衛兵によって巻かれた包帯をはずした。
「それでジゼル。私はどうして軟禁されているのかしら?」
フィリアは一番気になっていたことを聞いた。
ジゼルの手が止まる。
見ると、ジゼルは緊張した面持ちでフィリアを見ていた。
「ジゼル?」
声をかけると、ジゼルは固い口調で答えた。
「姫様がいらっしゃらない間に、何者かが国王陛下に毒を盛ったのです」
「なんですって!?」
フィリアにも緊張が走った。
それは明らかな暗殺行為だ。
「それで、陛下はご無事なの?」
「はい。詳しくはわかりませんが、大事には至らなかったようです。今は療養されています」
ジゼルの言葉に、フィリアはひとまず安心した。
「では、その嫌疑が私にかかっているのね?」
ここにフィリアを連れてきた兵たちはそんなことを言っていた。
アルマデスが止めなかったということは、きっと間違いないのだろう。
ジゼルは暗い表情で答えた。
「姫様の作られた菓子を、陛下は口になされたようです。そのすぐ後に血を吐いてお倒れになったらしく……」
それで合点がいった。
フィリアはロザーラに会う前に、クロドのために新作の菓子を焼いた。
厨房の皆も、いつものことなのでフィリア一人に好きにやらせてくれていたが、それがかえって仇になったのだろう。
誰もフィリアの無実を証明できないのだ。
「でも、あれはクロドのために作ったものよ。陛下のためではないわ。それをどうして陛下が口になさったのかしら?」
不可解な点が多い。
まるでこじつけだが、フィリアを陥れるために大きな力が無理やり働いているように思える。
「わかりません。私も、事態収拾のための兵が付いたときに、この部屋に入れられましたので」
それからは今と同じく、この部屋に軟禁状態だったのだろう。
「ごめんなさいね、ジゼル。辛かったでしょう」
「いいえ。姫様」
フィリアはジゼルの心労を思うと胸が痛んだ。
疲れた顔は一睡もしていないのが一目瞭然で、普段の無表情がなくなるほど心配してくれたのだ。
「今はお休みください。姫様もお疲れでしょう」
そんな場合ではないとわかっていたが、フィリアはどっと疲れを感じた。
どのみち、今は大人しくしているしかないのだ。
「……クロドは?」
会う約束をしていたクロドのことが心配になった。
「殿下は今回の一件でお忙しいようです。一度だけティーダ様がおいでになって、状況を説明されていかれました」
「そう……」
フィリアはクロドの現状を思って胸が塞いだ。
妻であるフィリアが疑われたことによって、クロドにも多大な迷惑をかけているのだろう。国内での彼の立場は未だ不安定なのだ。
「顔色が悪いです。さ、姫様」
ジゼルに促されて、フィリアは寝室へ向かった。
クロドは憤慨していた。
『フィリアに嫌疑をかけるなどと、ふざけている』
昨日、約束していたお茶の時間に、フィリアは来なかった。
心配して見に行かせたティーダが血相を変えて戻ってきて、クロドに信じられない状況を説明した。
「フィリア姫が何者かに連れ去られました。護衛の者は皆気を失っており、一緒にいたロザーラ姫も意識がないとのことです」
『どうしてそうなった。何故フィリアが攫われる!!』
「それと、ほぼ同時刻に国王陛下が何者かに毒をもられたようで、今城内は混乱しています」
『なんだと!!』
信じられない気持ちでクロドは椅子を蹴り倒して立ち上がった。
騒がしい足音が聞こえ、アルマデスの配下が数名やってきた。
「クロドベルトス殿下。アルマデス様がお話したいとのことです」
ティーダが取り次ぐと、アルマデスが入ってきた。
「クロド」
『アルマデス様、どういうことですか?』
クロドは急かすように詰め寄った。
『陛下は? フィリアは無事なのですか?』
掴みかかりこそしないものの、板状で歪んでいる文字がクロドの焦りを物語っていた。
「クロド、落ち着きなさい」
『俺は落ち着いています。早く状況を知りたいのです』
アルマデスはため息をついた。
「それを焦っていると言うんだよ。無理もないが、とりあえず座りなさい」
諭されるようにしてクロドは椅子に座った。
「フィリア姫は今捜索中だ。ただ、少し面倒なことになった」
「と、言いますと?」
ティーダの問に、アルマデスは険しい顔で答えた。
「フィリア姫に嫌疑がかかっている」
クロドは耳を疑った。
部屋の空気が冷たくなり、緊張が走る。
もはや文字を書く気にもならなかった。
「陛下が食べたのは菓子だった。変わった形をしていて、珍しいからと陛下に届けられたらしい。それに毒が入っていた。作ったのはフィリア姫だ」
円形の揚げ菓子で、毒見はされたが問題がなかったため、陛下口にしたらしい。
しかし、予想を反して国王は倒れた。
国王自身、異変を感じてすぐに吐き出したため摂取した毒の量は微量だったが、そこは問題ではなかった。
何故、毒見をしたのにわからなかったのか。
騒然とする城内で、菓子を作ったのはフィリアだということがわかった。彼女がよく厨房で料理をするのはある意味有名だったからだ。
「事情を聞こうにも姫自身が見つからないため、一部の者からは逃げたのではと言う声もあがっている」
「そんなっ、姫は攫われたと」
「どちらにしろ目撃者がいない。護衛もロザーラ姫も気を失っていて、見ていないようだしな」
たった数刻で状況が目まぐるしく動いていた。
「とにかく、姫を見つけないことには事態の収拾がつかない。私はこれから議会に赴く。ロザーラ姫まで襲われ、このまま収集出来ないでいると国家間の争いに成りかねない。お前はここで待っていなさい」
アルマデスは忙しそうにまた出ていった。本当に説明をしにきただけだったのだろう。
「殿下……」
クロドは強くこぶしを握り、ともすれば暴れだしそうになるのを抑えていた。
些細なきっかけで叫びだしてしまいそうだ。
それから一睡もせずに待っていたが、フィリアが見つかったという報告はないまま一日が過ぎてしまった。
一度ティーダに侍女の様子を見に行かせたが、彼女も相当焦燥していたとのことだった。
当然だろう。クロド自身、自由に動けないこの身がもどかしかった。
「殿下!!」
部屋に転げるように入ってきたティーダが、ようやく待ちに待った報告を告げた。
「フィリア姫が保護されました」
報告を聞くとともに、クロドはすでに歩きだしていた。
周囲がざわめく。
「ひっ」
久しぶりに人気の多い回廊を、全くの気遣いもせずに歩いた。
どこからか悲鳴が聞こえた気がしたが、気にもならなかった。
会いたい。
たった一つの衝動がクロドを突き動かしていた。
「で、殿下!?」
目当ての一室に着いたときに、ようやくティーダが追い付いてきた。
一応戸は叩いたが、返事を聞く前に開けてしまった。
「王子殿下!?」
フィリアの侍女が驚きの声をあげる。
クロドは部屋の中を素早く見渡し、フィリアの姿がないと隣の寝室にまで向かった。
「姫様は今、疲れてお休みに……」
侍女の声が聞こえるが、頭に入ってこない。
クロドはベットに近づいた。
掛布団の間から黒髪が見える。
疲れ切って眠る少女の姿に、クロドは手を伸ばした。
もはや本能に近かった。
「え……クロド!?」
思いのままに、眠っていたフィリアの体を抱きしめていた。
「あの、え?」
温かい。
その時、クロドはようやく衝動の正体を知った。
クロドは怖かったのだ。また手の中にあるものを失うことが。
温もりを思い出したクロドにとって、また失うことは、もう耐えられないことだった。
もしこの温もりを失ってしまったら、自分はもう正気ではいられない気がした。
「クロド……」
そっとフィリアがクロドの背をさする。
大丈夫だとなだめるように、赤子をあやすように。
「心配をかけて、ごめんなさい」
フィリアはクロドが満足するまで抱き続けた。
『気分はどうだ?』
「もう、大丈夫です」
落ち着いたクロドはフィリアのベットの横に腰を下ろした。
『怪我をしている』
フィリアは、クロドの視線が手の包帯に向いていることに気が付いて、そっとそこを撫でた。
「ジゼルが手当てしてくれました。大丈夫です。もう、痛くないです」
クロドはフィリアの言葉にほっと息をついた。フィリアの手を取って優しくさする。
それはまるで宝物を触るようで、フィリアは心が温かくなった。
「クロド」
フィリアは意を決してクロドに問いかけた。
「国王陛下は……」
フィリアの言葉に反応するように、クロドはフィリアの手を握った。
『大丈夫だ』
たった一言。
そこには、色々な思いが詰まっていた。
『フィリアのことは、私が守る』
クロドは力強い言葉でそう綴った。
守られている。それはフィリアにとって大きな力となった。
「私も、クロドを守ります」
そう言ったフィリアを、クロドは精一杯抱きしめた。
クロドは今まで、なるべく城内で目立たないように過ごしてきた。
呪いを受ける前は容姿のせいで、そして王位継承権を失ってからは馬鹿な連中が荒波を立てないよう、小さな箱庭のなかで隠居するかのように生きてきた。
しかし、最早そうしてはいられない。
大切なものを手に入れた今、ただ手を拱いてはいられない。
何もしなければ、手の中のものはあっという間にこぼれていってしまうのだから。
クロドは堂々とした足取りで歩いていた。
周囲の人間が恐れるように避けていく道を、怒気をまとって進んで行く。
ばんっ。
盛大な音をたてて豪奢な扉を開いた。
「なんだ!!」
会議を開いていた重役たちがざわめく。
「貴方は……」
「殿下」
「殿下が何故?」
久しぶりに公衆に姿を現した首無し王子に、皆虚をつかれた。
『我が妻に嫌疑がかかっていると聞いた。放っておくわけがないだろう』
差し出された板に書かれた言葉に、何人か目をそらした。
『妻は賊に襲われた身であるはずだが、何故そのような不名誉な疑いがかかっている? 事と次第によっては、ただでは済まないが?』
クロドの気迫に、重鎮たちは口ごもった。
しかし、これだけで済む話ではない。
「姫の作られた菓子に毒が入っていました。決してあらぬ疑いではありません」
一人が声をあげた。
「それに姫が襲われているところを目撃したものはおりません。自作自演と疑われてもしかたのないことです」
その隣の男も声をあげた。
調子を取り戻したのか、口々に言い始める。
声をあげた者の大半はクロドを排除しようとしている者たちだった。
その時点で、これが何らかの策略であることは明白だ。
しかし、何故そこまでクロドを蹴落とそうとするのか不思議だった。
もうクロドは継承権を失っており、次代の王はアルマデスで決定している。何もしなくてもアルマデスは王になるのだ。今ここで事を起こす理由などないはずだ。
訝しむクロドは室内にアルマデスの姿を探すが、ここにはいなかった。
『アルマデス殿下はどこにいる? 彼はなんと?』
クロドの問いに、重鎮の一人が答える。
「ただ今、陛下のもとにいらっしゃいます。話をお聞きすると」
『では、皇太子がいないのに会議を進めていたのか?』
「殿下はお忙しい身、その憂いは我々が払わなければなりません」
もっともらしく忠誠心をしめすものたちに、クロドは内心舌打ちした。
『では、私が出席しよう』
クロドは手近な椅子に座った。
『そうそう、フィリアは厩舎の近くの小屋に閉じ込められていたそうだ。発見したのはアルマデスと聞く。その時、小屋は中からは開けられず、窓からの出入りも出来なかったと言っていた。これでどうやってフィリアの自作自演とする?』
クロドは尊大に見える態度で足を組んだ。
『菓子も、一部からしか毒はでなかった。菓子が出来た後からかけられたと考えるのが正しいのではないか?』
クロドの言葉に、会議室はすっかり静かになった。
重苦しい沈黙が降りる。
「珍しい者がいるな」
不意によく通る澄んだ声が響いた。
「アルマデス様」
誰かが呼んだ。
「国王に話は聞いた。フィリア姫にかかっている嫌疑はまだ確証がない。証拠がないものを拘束することは出来ないよ」
アルマデスは人の良い笑みを浮かべて言った。
「彼女の軟禁は解く」
第五章 見えた想い
フィリアの軟禁は存外あっさりと解かれた。
皇太子であるアルマデス殿下の言葉は絶大な力があったが、それとともに首無し王子が動いたことも大きかった。
今まで呪われた身として表舞台から消えていた王子が現れたことは、その姿とともに臣下たちに大きな衝撃を与えた。
「クロド、最近忙しそうね」
「そうですね。会議に出席するようになったと聞きます」
フィリアは薔薇園でお茶を飲んでいた。
本当はクロドも来るはずだったのだが、急遽入った会議で遅れると連絡があった。
クロドは事件以降、今まで欠席していた公務を行うようになった。
未だにクロドの姿に恐れを抱くものは多いが、呪いを受けてから三年。クロドはその視線に慣れていた。
「会えないのは寂しいけれど、最近のクロドは活き活きしてるわ」
もともとが真面目な分、王子としての本領を発揮して、アルマデスと良い関係を築きつつあるという。
影ながら案件を片付ける暮らしをしていた頃よりずっといい。
「こういうときこそ、日記帳よね」
フィリアはカバンに入れていた日記帳を取り出すと、今日あったことをつらつらと書き始めた。
会えない分は、以前のように書けばいいのだ。
クロドも今はその日のことを一文で済ませることはなく、むしろ細かく書き綴っていた。なにより、フィリアの一日の行動をよく知りたがった。そのためフィリアは以前よりも時間をかけて長々と日記を書いている。日記はすでに二代目にいたっている。
「何を書こうかしら? 今日飲んだお茶の銘柄は書いたし、新作お菓子の感想も書いたわね」
お茶を飲みながらフィリアは考えた。
「ところで姫様」
「なに?」
「姫様は、殿下に想いをお告げになったのでしょうか?」
「えっ?」
ジゼルの唐突な問いに、フィリアは動きを止めた。
「ジ、ジゼル?」
侍女の突拍子もない問いに、焦った声がでる。
「どうしたの? 急に」
(というより、質問の意図がわからないわ)
困り顔の主に、ジゼルも、聞き方が悪かったのだと気付く。
「申し訳ありません、言い方が悪かったようです」
頭を下げ、再度質問をした。
「姫様は殿下とかなりの距離を縮め、夫婦としてこちらが恥ずかしくなるほど仲睦まじくされているようですが」
「……」
ジゼルの言葉に閉口するフィリア。
その頬は羞恥でやや赤くなっていた。
「もしや、愛の告白はなされていないのではないかと思いまして」
てん、フィリアは自身の時が止まったことがわかった。
(えっ?)
ジゼルの言葉を心中で繰り返す。
「愛の?」
「告白です」
ゆっくりとかみ砕き、その意味を理解したフィリアは、次の瞬間、沸騰したかのように首まで真っ赤に染まった。
「なっ、ななななっ」
「姫様、落ち着いて下さい。今ので、姫様が告白していないことはわかりました」
冷静にジゼルが話すほどに、フィリアは混乱していく。
(なんでいきなりそんなこと!! でも確かに告白はしていないわ。いや、でも)
「私たちはすでに結婚しているのよ。今更そんなこと」
「でも、結婚式のときは、姫様にその想いはなかったのでしょう?」
「それはそうだけれど」
フィリアは言葉に詰まる。
「でしたら、おっしゃったほうが良いかと思います。殿下も、姫様から告白されたら嬉しいと思いますよ」
ジゼルに押されて、フィリアは徐々に考えた。
「それに、姫様も。いくらすでに思いが通じあっていると言っても、殿下から愛の告白をされたら嬉しいのではありませんか?」
ごくり、とフィリアの喉が鳴った。
(それは、確かに嬉しいかも)
嬉しい以上に、心臓が爆発してしまうかもしれないが、それでも確かに欲しいと思う。
「殿下も同じだと思いますよ?」
「そうかしら……」
考えるフィリア。
長年愛情から遠ざかっていたクロドにとって、確かにその告白は嬉しいかもしれない。
「そう、ね」
頷くフィリア。
「では、早速今日。お伝えくださいまし」
「はっ!?」
フィリアは声をあげた。
「思い立ったが吉日と言いますから」
「そんな、無理よ!!」
「無理ではありません」
ジゼルの切り返しに、慌てふためくフィリア。
「いつもは、告白以上に恥ずかしい行為を人前でしまくっているではありませんか」
「なにをっ」
「手の甲を」
「っ」
ジゼルの指摘に、フィリアは思わず手を隠した。
「何度も目の前でされては、姫様の反応からだいたいの検討が付きます。ちなみに、ティーダ殿もご存じのはずです」
「そんな……」
知られていたことに、フィリアは恥ずかしやらショックやらで、頭を抱えた。
「ですから、勇気をだしてください。告白など、口づけよりも簡単ございます」
「もう、今日のジゼルはなんだかいつもより意地が悪いわ」
フィリアは拗ねたように頬を膨らませてジゼルを見た。
「そうでしょうか?」
「そうよ」
「そうですか」
さらりと流してしまうジゼル。
「……わかったわ」
引く様子のないジゼルに、フィリアはとうとう承諾した。
「でも、人に言われて告白するのも、なんだか微妙ね」
思いは確かにあるのだが、なんだか複雑な気分だ。
「姫様の想いは確かなのですから、大丈夫です」
ジゼルの言葉に苦笑し、フィリアはお茶を飲みほした。
「でも、まあ。それはクロドに会ってからね」
忙しいクロドのことだ、今日も会えるかわからない。
暗殺事件はまだ解決していない。
フィリアへの嫌疑は一応晴れたが、何分目撃者がフィリア以外いないため事態はなかなか進展しなかった。
肝心のフィリアは賊の顔を見ていたが、奴らは賊らしく顔の大半を布で覆っていたため、ほとんど意味をなさなかった。
唯一証言できたのは、匂いだ。嗅いだことのないものだったが、確かに変な匂いを嗅いだ。しかしこれも、実態が無いうえ嗅いだこともないもののため、例えようもなかった。
「そういえば、ロザーラ姫はどうなったの?」
ひとまず告白のことは置いて、フィリアはロザーラ姫のことを思い出した。
あれっきり姿を見ていなかったが、ジゼルに聞くと意外な答えが返ってきた。
「祖国にお帰りになったそうです」
「え、お帰りになっていたの? いつ?」
「私たちが部屋から出られなかった間のことと聞いております」
ジゼルの言葉に、最後に話したロザーラ姫の姿を思いだす。
『帰るわ』
あの時の言葉はそのまま、祖国に帰ることを言っていたのだろう。
愛していたのに受け入れられなかったと泣いていたその姿は、フィリアの中に深く焼き付けられた。
「そう……」
フィリアは彼女からクロド奪ったのだ。
それに恥じない行動をとらなければならない。
フィリアは薔薇の花に視線を向けた。
相変わらず色とりどりの薔薇が咲き誇っている。
「あら?」
フィリアはカップを置いた。
薔薇園の向こう側に人影が見えた。
「クロドが来たのかしら?」
予想外のことに、心臓が早鐘を打つ。
(告白って、まだ心の準備が全くできていないのだけど)
しかし、それは早合点だった。
「いえ、殿下からはまだ何の連絡もありません」
ジゼルに同意を求めると、彼女は否定した。
クロドは来るときは律儀に連絡をよこすのだ。今日はまだそれがなかった。
「じゃあ、あれはどなたかしら?」
今度はフィリアの視線の先にジゼルも向く
「確かに、誰かおりますね」
「でしょう?」
フィリアはもっとよく見ようと生垣に近づいた。
「あの方、見たことがあるようなないような……」
フィリアはどこか琴線に触れた人物に首を捻った。
まだ結構な距離があるため顔が見えず、明確な誰と上げられるわけではないが、知っている気がしてならない。
「姫様?」
「声をかけて見たらわかるかもしれないわ」
フィリアは出来る限り生垣に近づいて声をかけた。
「すみません、そこの方」
聞こえなかったようで、相手に反応はない。
何かしきりに手を動かしているようだ。
「すみません」
フィリアは、今度はもっと声を張り上げた。
すると、相手はこちらを向いた。驚いた空気が伝わってくる。
「ちょっとよろしいですか?」
フィリアはさらに声をかけたが、相手は近づいてくるどころか離れて行き、ついには去ってしまった。
「不審者と思われてしまったかしら?」
生垣の向こうから突然声をかけられ、驚いたのかもしれない。
「でも、本当に誰だったのかしら? あんな場所で、一体何を?」
逃げられてしまったことで余計に気になってしまった。
「お茶は終わりにするわ」
「姫様?」
ジゼルが咎めるような声をあげた。
「だって気になるのだもの。どうしてあんな場所にいたのかも。あそこに行ってみましょう」
フィリアは少し楽しげに笑った。
単調な生活に、少し飽きていたところだった。
フィリアはジゼルの片づけが終わると、生垣を回るようにして反対側まで出た。
当たり前だが、そこにはもう誰もいない。
「ここで何をしていたのかしら?」
フィリアが人のいた辺りに座り込むと、ジゼルが眉をひそめた。
ドレスが汚れると思ったのだ。
「姫様、お行儀が悪いです」
「ちょっとくらい良いじゃない。誰もいないのだし」
「そういう問題ではありません」
「はいはい……あら?」
フィリアは生垣の土の中に光るものを見つけた。
「何かしら?」
それは小さな針だった。
端に小さな石が付いたその針は、何本も生垣の中に埋められていた。
「姫様、むやみに触ってはいけません」
ジゼルが厳しい声をあげた。
「……クロドに知らせた方がいいわね」
今度は、フィリアもジゼルの言葉に従った。
隠すように埋められていたそれは、到底植物の育成に必要なものとは思えない。
明らかな不審物だった。
フィリアが持っていたハンカチを広げると、ジゼルが用心深くそれに包んで仕舞った。
「今日の会議が終わるのはいつの予定かしら?」
「夕方には終わるかと」
今は昼すぎだ。
フィリアは日記帳にそのことを書き記すと、ジゼルに日記帳を渡した。
「姫はお部屋から出ないでくださいね」
賊の件から警戒心を強めたジゼルは、そう念をおすと、早足にクロドのもとに向かった。
「でも、これはいったいなんなのかしら?」
フィリアは自室のテーブルにハンカチを広げると、もう一度針を見る。
よくよく観察してみると針の長さはまちまちで、一番長いものはフィリアの中指よりも長かった。
「あら? この匂い……」
顔を近づけて観察していると、針から微かに妙な匂いがした。
「これは……」
何か確信を掴んだような気がしたとき、戸を叩く音がした。
途端、フィリアは警戒した。
素早くハンカチをドレスにしまい、返事をした。
ジゼルがいないため、取り次いだのは見知らぬ使用人だった。
「ルペルト伯爵がお越しです。姫にお会いしたとのことで。いかがなさいますか?」
久しぶりに聞く名前に、フィリアは小太りの男を思い出した。
この国に来たばかりの頃は気持ちの悪いくらいに付きまとわれていたけれど。
(そういえばここのところ姿を見ていなかったわね)
彼の存在そのものをすっかり忘れていた。
「今日お越しになるとは聞いていないのですが、何用でしょう?」
フィリアは用心深く答えた。
「それが、姫様に直接お話ししたいとおっしゃって……」
困り顔で答える使用人に、フィリアは仕方なく答えた。
「わかりました。お通しして」
フィリアは寝室とは反対側の客室で対応した。
そこには扉が二つあり、大きな窓もあった。もしなにかあったとしても、多少無理をすればいくらでも逃げられるだろう。
「失礼します。お久しぶりでございますフィリア姫」
「ええ、本当に。お久しぶりですね、ルペルト伯爵」
現れた伯爵は、ぽってりとしたお腹を抱えるようにして部屋に入ってきた。
(前見たときより、ふっくらしたんじゃないかしら?)
伯爵はフィリアの向かいの椅子に座った。
「いつ見ても姫はお美しい。かの王子が寵愛するのが分かります」
「そんな、もったいないお言葉です」
以前と同じく、大げさなお世辞にフィリアは笑顔で答えながらも内心ため息をついた。
(この人、変わってないのね)
そんな言葉が聞きたいわけではないのだ。
フィリアは愛想笑いを浮かべた。
「ルペルト伯爵も変わらずお元気そうで何よりです」
フィリアは皮肉を込めて言ったが、伯爵は気付かない。
「ええまあ。ですが、最近は忙しくてなかなか休みを取れませんで、お恥ずかしくも、少しやせてしまいました」
ふっくらとしたお腹をさすりながら話す伯爵に、フィリアは笑顔が引きつった。
(いや、それ絶対うそでしょう!!)
確かに、よく見ればやや疲れが顔に出ているも、そのお腹からは苦労は感じられない。
(むしろ余計に肥えたんじゃないかしら?)
正面で人がよさそうに笑う伯爵はしかし、その瞳は何かを探していた。
「まあ、ご無理はなさらないでくださいね。ですが、侯爵の御領地は緑豊かな大変美しい土地だと聞いています。きっと良い物がたくさん育っているのでしょうね。羨ましいですわ」
フィリアは会話の種を振ったが、伯爵の瞳はさまよいつづける。
「そうですか。しかし、王都の素晴らしさには及びませんよ」
「そんな。御謙遜を」
フィリアは口に手をあてて笑いながらも、伯爵の動向を注意深く観察した。
(何をそんなに探しているの?)
伯爵の瞳は、さまよいながらも徐々に濁っていくようだった。
伯爵の不審な行動に、フィリアは用心して扉を確認した。
「そういえば、私ったらお茶もお出ししないで。少しお待ちになってください」
立ち上がり、伯爵を気にしながらもお茶の用意をする。
「いえいえ、お気になさらずに。姫は先ほどもお茶をお飲みになっていましたし……」
不自然に言葉が止まる。
フィリアは霧が晴れるかのように、先ほどの人物を思い出した。
(そうだわ、あれはルペルト伯爵の)
少しお腹の出ていたシルエットが、今の伯爵そっくりだ。
言った本人も、すぐに失態に気が付いたようだ。
「ルペルト伯爵、貴方はっ……」
フィリアは扉に向かって走りだした。
「おっと」
しかし、見た目に反する速さで伯爵が立ちふさがる。
フィリアはすぐに身をひるがえした。
「ジゼル!!」
大声を上げる。
「彼女はいませんよ」
「どうでしょう?」
フィリアは居間に続く扉を、蹴破る勢いで開けた。
「姫様!!」
隠れていたジゼルがフィリアを庇うように前にでた。
日記を届けて戻ってきたジゼルは、そのまま別の扉から居間に隠れて話を聞いていたのだ。
「伯爵様、何故このような暴挙をなさるのですか?」
フィリアの問いに、伯爵は薄笑いを浮かべて詰めよる。
「それはあなたが一番よくわかっているのでは?」
じりじりと迫る伯爵。
フィリア近づいた距離によって気が付いた。
「あなたは、あの時の……」
伯爵からはあの妙な匂いが漂っていた。
「今気が付いたんですか。入った時から警戒されていたから、もう全て気が付いているかと思っていましたよ。失敗したなぁ」
伯爵は困ったように肩を竦めた。
「自分からばらすなんて、間抜けですね」
「どうでしょう? 証拠はないんだ。あなたの証言だけでは今みたいにまた振り出しだよ」
伯爵はまだ負けているとは思っていなかった。
確かに、フィリアの証言のみでは弱いだろうが、彼は戸の影にいる二人には気が付かなかったのだ。
「それは、どうかな?」
だから、後ろから声をかけられたとき、伯爵は飛び上がるように振り返った。
「ア、 アマデウス様!? クロドベルトス様まで!!」
伯爵は呆然と彼らを見やった。
「現行犯だな」
アルマデスは呆れたようにそう言い放った。
クロドは素早く伯爵の横をすり抜けると、フィリアのもとへ駆け寄った。
「クロド……」
大丈夫かと言うようにフィリアの頬を撫でる。
フィリアはそれだけで胸に安心感が広がるのが分かった。
「こ、これは違います」
「何が違うんだろうか?」
出来損ないの悪役よろしくうろたえる伯爵に、アルマデスは普段とは違い冷たい笑みを向けた。
「これは、その……そう、姫が何やら怪しい動きをしていたため、ちょうど問い詰めようとしていたところです」
それはあまりに拙い言い訳だった。
「ほう、怪しい動き。それはどんな?」
アルマデスの問いに活路を得たと思ったのか、伯爵は早口に答えた。
「殿下所有の薔薇園の生垣で土をいじっていました。あそこは人のほとんど立ち入らない場所です。不審に思って私が後から見てみたところ、そこにはなんと毒の塗られた針が何本も出てきたのです」
侯爵は言いながら、フィリアが拾ったものと同じ針を数本だした。
「これです!! これこそ、国王暗殺未遂事件の犯人の証拠。今すぐこの者をひっ捕らえ下さい」
あまりの良いようにフィリアは絶句した。
「何をいうのです!! それはあなたが持っていたものでしょう。拾ったのは私のほうです!!」
フィリアも負けじとハンカチから針を取り出した。
「これは貴方が埋めたものでしょう!!」
同じ針が双方から出される。
「アルマデス様、どちらを信じられるおつもりか」
伯爵は、今度はアルマデスに詰め寄った。
両者が同じ言い分で同じ証拠を示している。
「そうだな……」
アルマデスは考える素振りを見せた。
しかし、フィリアのもつ証拠はこれだけではない。
「匂いです!!」
フィリアは叫んだ。
「賊に襲われたとき嗅いだのと同じ匂いが伯爵から漂っています」
フィリアの言葉に、皆の視線が伯爵へ向いた。
「な、何を……」
うろたえる伯爵に、アルマデスが近づく。
「これは、塗料の匂いだね」
「塗料、ですか?」
「ああ、我が国では屋敷の外壁に虫除けの特殊な塗料を塗り込むんだ。特定の果実をつぶして作る塗料で、これは家によって配合が違うがら、それぞれで色も匂いも違うんだよ」
それは決定的な証拠だった。
「確か、ルペルト伯爵の領地では塗料専用の果実の栽培に力を入れていたね」
アルマデスの言葉に、伯爵の顔色がどんどん悪くなる。
「この香りが貴方の王都の屋敷の塗料と同じであれば、決まりだろうね」
「そんな、姫の証言だけでは……」
伯爵は大量の汗をかいていた。
「おや、この針から何か臭うね。これが毒針だといったのは伯爵だろう?」
針の端についた石に、微かながら塗料が付着していた。
ここまで見せられてしまっては、もう言い逃れは出来ない。
力を失うようにうなだれた伯爵。
「連れていけ」
アルマデスの連れてきた兵たちに連れられて、伯爵は出て行った。
「終わった?……」
フィリアはほっとして体の力が抜けた。
「姫様っ」
「大丈夫、少し気が抜けただけよ。きゃっ」
フィリアは急な浮遊感を感じて悲鳴を上げた。
「クロド」
なんとクロドがフィリアを横抱きにして持ち上げていた。そのまま寝室へ向かう。
「わ、私は大丈夫だから。歩けるわ」
説得を試みるが、クロドは声がでないのをいいことに綺麗に無視した。
「噂通りの寵愛振りだね」
後ろから聞こえるアルマデスの言葉に、フィリアは人前だということを思いだして赤面する。
クロドはその姿さえも隠すようにフィリアを抱きかかえた。
「クロド。姫に説明する時間もくれないのか?」
アルマデスがクロドを止める。
ようやく足を止めたクロドは、さも仕方なさそうにアルマデスの方を向く。
「そう不貞腐れるな。すぐ済む」
アルマデスはクロドの肩を叩くと、フィリアに目を向けた。
「フィリア姫。今回の一件、貴方に多大な迷惑をかけたこと、お詫びいたします」
一礼して謝罪の言葉を口にしたアルマデスに、フィリアは目を見開いた。
「そんなっ。アルマデス様が謝ることではありません。むしろ私にかけられた嫌疑を晴らしてくださって、感謝しています」
フィリアはきつそうに身をよじったが、クロドは回した腕を離してはくれなかった。
「いいえ、姫。これはある意味私のせいでもあるのです」
「どういうことですか?」
フィリアは意味がわからず困惑した。
「ルペルト伯爵は、私を王位へと強く推していた一人です。そして、おそらくはクロドに呪いをかけた主犯でもある」
フィリアは息を呑んだ。
「彼は前々から私を王にしようと画策していました。そして、クロドに呪いをかけることに成功したのでしょう」
語るアルマデスの表情は優れない。
「しかし、呪いは半端にかかり、実はいつ解けても可笑しくない状況だったのです」
「え!?」
フィリアは予想外の言葉に目を丸くした。
「呪いが、解ける?」
そんなこと、考えてもみなかった。
三年も放置されていた呪いだ。勝手に解けないものと思い込んでいた。
「そうです。この呪いは解くことが出来ます」
はっきりと告げられた言葉に、フィリアはただ呆然としていた。
喜ぶよりも、驚きが強すぎて受け止めるので精いっぱいだったのだ。
「それがわかったのはつい最近のようで、だから彼らは焦ったのでしょう。何かの弾みでクロドにかかった呪いが解けてしまうと、またクロドに継承権が戻り私は王には成れなくなる」
ようやく事件の全貌が見えた気がした。
つまり彼らは、クロドの呪いが解ける前にアルマデスを王位につかせようとしたのだ。
本当なら、クロドを毒殺出来たら完璧だったのだろうが、呪われたクロドに毒が効くかわからなかったのだという。
それで国王を直接狙うとうのも、大胆ではあるが。
「知らないところで動かれていたとはいえ、原因の一旦は私にもあります。巻き込んでしまって、申し訳ない」
再度済まなそうに謝られ、フィリアは笑うしかなかった。
「無事犯人は捕まったのですから、お気になさらないでください」
フィリアの言葉に、アルマデスがほっとしたように笑った。
「あっ」
もう待てなかったのだろう。クロドがフィリアを抱いたまま寝室へ歩き出した。
事件については聞くことは聞いたからいいのだが、まだクロドの呪いの解き方については聞いていない。
それに、このままではアルマデスに失礼だ。
「ちょっとクロド、私はまだ話が」
しかし、クロドはフィリアの声を今までにないほど綺麗に聞き流した。
「あのっ、失礼します」
仕方なく、フィリアはそれだけ伝えることになった。
「あの、クロド? ちゃんとアルマデス様に挨拶をしてからのほうがよかったのでは……」
フィリアの声はだんだんと尻すぼみになった。
さっきは気が付かなかったが、クロドの体から怒気が出ている気がする。
「クロド?」
フィリアは恐る恐るクロドを見上げた。
ぽいっ。
ベットにつくと、軽く放り投げられた。
「きゃっ」
ベットが軋む。
フィリアが起き上がるまえに、クロドがベットに上がってきて抑えられてしまった。
「な、なんで怒ってるの?」
『わからないか?』
このときになってようやく、クロドはベットサイドに備え付けられた板に言葉を書いた。
「わ、わからないわ」
おずおずと話すフィリアに、クロドは内心舌打ちをした。
顔があれば盛大に顰めているところだ。
『なんであんな無茶をしたんだ』
荒々しい文字だった。
「だって、伯爵の方からやってきたのよ」
フィリアも負けじと反論した。
『入れなければいい。俺たちが来るのはわかっていただろう。それまで待っていれば危ない目に合わずにすんだ』・
「そんなことをしたら、逃げられていたかもしれないでしょう。ジゼルを行かせたから、クロド達が来るのはわかっていたし、それまで持てばいいと思っていたの」
途端、クロドが掴む力が強くなった。
『それで持たなかったらどうするところだったんだ!!』
叩きつけるように石板に文字がかかれ、クロドの持っていた白石が砕けた。
「っ」
書かれた文字だ。それでも、クロドの怒りと焦燥は痛いほど伝わってきた。
「…………ごめんなさい」
フィリアはこみあげてくる涙とともにクロドの胸に顔をうずめた。
「助けに来てくれて、ありがとう」
クロドはしっかりとフィリアを抱きしめてくれた。
エピローグ
その後、ルペルト伯爵は領地を没収された上で、裁判にかけられることになった。
「これで落ち着けるわね」
フィリアはいつかの温室に来ていた。
『そうだな』
今日は前回と同じく晴天で、円形の天井にはまた満天の星空が広がっていた。
「きれい……」
『そうだな』
「…………」
フィリアはじっとりと目で向かいに座る夫を見た。
「それ、もういらないんじゃない?」
板を掲げるクロドに苦笑する。
「もう癖だな」
温室に少し低くも、よく通る声が響いた。
クロドは笑う。
「フィリアだって、目は版を向いているよ」
「そうかしら」
この声でフィリアと呼ばれるのが好きだと思った。
自然と互いに顔を見合わせて笑い合う。
クロドの呪いの解き方は、その後アルマデスによって明かされた。
ルペルト伯爵の吐いた解除法とは、古典的によく使われているものだった。
「月の光を浴びるといいらしいよ」
「月の光?」
フィリアは半信半疑に聞き返した。
「ええ」
訝しげな顔をしているフィリアに、アルマデスはあくまで笑顔を向ける。
「古来より、月の光には不思議な力があると言われているでしょう?」
「ですが、それならクロドは浴びたことがあるはずです」
そう、単に月の光を浴びればいいのなら、とっくに昔に解けていたはずだ。
フィリアは疑いの目を向けた。
「浴び続けなければならなかったんだ。少量では意味がない。それこそ、毎日浴びるといった感覚でなければ解けない。そんな間隔で浴びたことはないだろう?」
アルマデスはクロドに確認するように問いかけた。
『ええ』
さすがにそんな間隔で月の光を浴びたことはない。呪いを受けてからは部屋に引き込もることがほとんどであった上に、この城は構造的に窓が少ない。
せいぜい温室にいるときくらいだろう。
「だからだよ」
「でしたら……」
フィリアは期待の籠ったまなざしを向ける。
「ああ。ひと月ほど、毎夜温室で月の光を浴びていれば、おのずと呪いは解けるだろう」
アルマデスの言った通り、クロドの呪いは約ひと月で解けた。
三年も悩んだ呪いが、解き方さえわかってしまえば案外脆いものだ。
クロドの腕が伸びてフィリアの頬を撫でた。
「くすぐったいわ」
フィリアは笑って同じく手を伸ばした。
「……私よりすべすべしてる」
「そうか?」
触れた肌は滑らかで、フィリアは少し嫉妬した。
「なんか敗北感を感じるわね」
むくれるフィリア。
「俺は、フィリアの方が好きだ。うまそうだし」
クロドの言葉にフィリアは耳まで真っ赤になった。
「そういえば」
ふとクロドがにやりと笑った。
「な、なに?」
身構えるフィリア。
「俺たち、誓いのキスって、してないよな」
「っ!!」
フィリアは爆弾発言に飛び上がった。
逃げようとするが、伸びてきた手にがっちりと頬を抑えられ阻止される。
「駄目、か?」
その聞き方はずるいと思った。
クロドに求められて、フィリアが彼を拒むことなど出来るはずないのだ。
「ありがとう」
恥ずかしさのあまり目をつむったフィリアには、近づいてくるクロドの顔は見えなかった。
しかし、唇の感触は確かに感じた。
「これからもよろしく奥さん」
開いた目の先には、自分の旦那様の顔が確かにあった。
END
初めまして、作者の夏樹と申します。
この小説は、私が初めて新人賞への投稿を意識して書いた作品です。
まだまだ拙い作品ではありますが、どなたかに読んで頂けたらと思い投稿いたしました。ここまで読んで下さった方、ありがとうございます。