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起章〜始まりに全てを失う物語

 時田鶫(ときたつぐみ)

 高校2年の6月、彼は記憶を失った。


 最初は記憶喪失という事実を、周りの人間に気付かれないようにしていた時田だが、案外すぐにバレてしまう。


 親友でありナンパ野郎の昨間。幼なじみでありサディスティックロリータの明日香。イツメン(?)の癒し系少女、今井、腹黒美少女の束嶺と、夏休み中に記憶を取り戻そうとするのだが……?

 


形の無い物がある。

触れる事は出来ない。見る事は出来ない。けれどそれは、確かに存在する。


――人はそれを、『想い』と呼んだ。


それを伝えるために、それを読み取るために、人はどれだけの試行錯誤してきたのだろう。


それでも、

触れる事は出来ない。見る事は出来ない。

でも、だからこそ、繋がる事に意味が生まれるんだ。



そういうもんだと思うんだ。







 早速で悪いが、地獄という物を思い浮かべて欲しい。


 ああ、仕事が忙しい。職場が地獄のようだ。

 ――まあ有りだろう。だが違う。


 美人と結婚したはずが、数年後には見るかげも無いだらしないおばさんになっていた。まるで家庭が地獄のようだ。

 ――まあ仕方ないだろう。あると思う。だが自業自得だ。


 ナンパしたり浮気したりしてたら、全員に同時にバレた。なんか色々と地獄のようだ。

 ――勝手にして欲しい。


 無機質に灰色の空、そびえ立つ無数の剣山、マグマのような灼熱の温泉。

 ……そう、それだ。

 それこそが、俺が今見ている光景だ。


 ただし、修正がある。

 無機質な灰色の空は、本当に無機質なコンクリートの壁であり、無数の剣山は、1つだけ。マグマのような灼熱の温泉は、グツグツと煮えたぎった鍋だ。


 そんな圧倒的に異常な部屋の中、吊された俺は考えた。何故、こんな事になっているのか、と。

 そして考えを巡らそうとして、気付いた。

 そういえばこの前、親友が言っていた。

 地獄に居る悪魔が、全員美少女だったなら、どんな苦難も乗り越えられる、と。


 ――はっきり言おう。絶対に無理だ。


 俺はまだ(いちおう)生きている。

 グツグツ鍋にも浸っていないし、剣山には触れてもいない。

 なのに、ただ吊されているだけで、何も考える事が出来ないんだ。


 ただ淡々と、光景が目に映るだけ。そしてたまに、煮えたぎる鍋がポンとお湯を跳ねさせると、まるで飛び魚のようだよヒャッホーイ、などという気分にはなれるはずも無く、ただ必死で身体を揺らし、回避するのみ。

 そんな状況で、美少女観察をする暇なんてあるはずが無い。


 ちなみに、俺の好きな女性のタイプは癒し系だ。そもそも地獄に居るようなやつらに癒し系など居るはずが無い。居たとしても、癒されるはずが無い。


 ……大分脱線した気がするが、つまり、考え事をする余裕なんか全く無い、という事だ。

 こんな状況で、経緯を模索する程便利な思考回路は俺には備わっていない。


 というかまず俺には、こんな目に逢うような覚えが無い。記憶喪失前の俺は、こんな報復を受けてしまうような事をしたのだろうか。

 そんなはずは無い。何故なら、親友やら友人からは、俺は気の効く面倒見の良いやつで、家事や片付けが大好きで、集まりがある時は幹事を買って出て、外食に行った時にはいつも奢っていたような人間だと聞いた――ってちょっと待ておかしくないか?

 俺は高校2年生のはずだ。

 ――そんな高校生が居るのか?


 家事片付けは親がやり、子供が手伝うぐらいだというのが日本の相場らしい。

 面倒見が良くて幹事を買って出てメシ代は奢る?


 いやいや居るわけ無いだろうがそんな高校生っ!!

 あいつら俺に暗示をかけて、あいつらの良いような性格にしようとしてやがったなふざけんじゃねぇ! 次会ったら絶対に――

 ガチャ、

「よおツグミ。調子はどう」「ゆぅうだぁぁあいっ!!」

「地獄に悪魔が居る!?」

 ――地獄に引きずり込んでやるっ!


「おい優大! てめぇ俺を騙してたな!?」

 部屋に入ってきたチャラ男に喚く。

 チャラ男は俺の反応を見て苦笑し、

「騙してなんかいない。というかなんの話しだ?」

 と、この地獄がなんでも無い事かのように手を広げた。


「……あくまでシラを切るつもりだな……?」

「だから、いきなり言われても解らないだろ、普通に」

 そりゃあそうだ。俺は何かも言わず問い質しているのだから、優大からすれば街を歩いていただけで職務質問を受けるのと同じようなものなのだろう。


 ……だからどうした。

 俺には、やらなければならない事があるんだ!


「てめぇを地獄に引きずり込んでやるっ! 縄を解け! 今すぐその頭蓋骨を引っこ抜く!」

「高校生の発想じゃねぇとかそう言われて縄を解くやつはいねぇとか色々ツッコミたいが……、ツグミ、本当に覚えてないのか? 生鮮になって考えてみろ」


 優大に言われ、俺は考えた。

 そうだ、こんな状況は明らかにおかしい。もう少し生鮮に、

「なれるかぁぁあっ!!」

「おお、ツッコミのタイミングが凄く良いぞ」

 俺は生物(なまもの)じゃない。いや、いちおうまだ生物(せいぶつ)なんだが、多分それも時間の問題だろう。


「優大! てめぇ俺をどうするつもりだ!」

 煮て食うのか八つ裂きにするのか。少なくとも頭蓋骨を引きずり出すのと同じぐらいグロテスクな未来しか想像出来ない。


「何もしないさ。ただちょっとした拷問を受けてもら」

「拷問って時点でちょっとじゃねぇ!!」

「……じゃあ拷問を受けてもらおうと思ってな」


 優大は腰に手を当て、不敵に笑った。えんま様、というひらがな表記がピッタリの笑みだ。


「記憶喪失を隠してたのが、そんなに気に喰わなかったのか……?」

 自分で言って、自分で苦しくなった。

 剣山が刺さったわけでもないのに、胸に痛みが走る。

 これは罪悪感だろうか。友人を、親友を誤魔化し、騙していた事に対する罪の表れなのだろうか。


 いや、違う。

 視界がぼやけ始めて、気付いた。


 ――酸欠だ。

 吊されてるんだから、なって当然かもしれない。


「ったく、ツグミ。解ってないな。俺はそんなふざけた理由でお前を縛り上げたりしない。俺は真面目に――」

 優大が言うと、後ろのドアが勢い良く開いた。

「咋間ー。面白い事があるって聞いたけど、何があるん――って、時田ぁあっ!?」

 見覚えのある美少女が、入ってくるなり仰天する。


「よお。遅かったな、束嶺」

 優大が陽気に手を振るが、彼女は口をパクパクさせたまま部屋を見回している。


 束嶺舞華(たばねまいか)。自称クラスのアイドル、別称女神、隠れ名の『ミス・ブラック』という3つの称号を欲しいままにする、黒髪が似合うお嬢様だ。

 まあそんな事はどうでもいいんだ。


「おい、優大」

「どうした、ツグミ?」

 問題なのは、

「今、面白い事って聞こえたんだがなぁあっ!!」

 100%ふざけてんじゃねぇかっ!!

「気のせいだ」

 なわけあるかっ!!


「ちょお、大丈夫なん、時田? 顔色悪いで?」

 束嶺が俺に近付こうとして、止めた。

 俺の周りの剣山や鍋に怖じけたのだ。


 ふと、束嶺の後ろ。――開いたままのドアに隠れた、2人の少女が見えた。

 小動物のように震える少女は、俺の事を心配してくれているように見える。今井広恵(いまいひろえ)。やっぱりあいつは優しいぜ。


 ……その隣で、何かを期待し、待ち構えている少女の目は、まさに小悪魔そのものだ。

 明日香望美(あすかのぞみ)。俺と幼なじみのはずだが、それは幼なじみに向けるような目じゃないぞ。――と、言おうとしたが、声が出なかった。


「さて、全員揃ったな」

 優大が仕切る。

「でも……これは、やり過ぎなんじゃ……」

 ドアの影から今井。あの内気な感じ、癒されるなぁ、こんな状況じゃなければ。

 とりあえず、そんな事は無い、と言った優大を殴らせて欲しい。


「流石に、ここまでせんでもええんとちゃう?」

 呆れたように束嶺。おいこら面倒くさそうな顔をするな。いや、止めてくれるなら歓迎だが、そんなわけにはいかない、と楽しげに笑った優大を地獄に落としたい。俺が落ちる前に。


「べ、べつに、優大のためじゃ……無いっつうの」

 ドアに隠れたまま望美。待て、ツンデレっぽく言っても、事実俺のためとは思えないから成立してない。むしろ正論だ。


「よし、じゃあ――」

 優大が何か言っている。だが、やばい。視界と一緒に耳までおかしくなってきた。

 このままじゃ……。


 走馬灯が巡る。

 それは、記憶が無くなってから一ヶ月間しか無い、あまりに短い走馬灯。



 ≦≡memory's≡≧



 16歳の初夏、俺は記憶を失った。


 最初に目が覚めたのは、病室のベッドの上だった。


 最初はそこが病院だと解らなかったが、居合わせた医者と話し、俺はどうやら記憶喪失になったらしい、と知った。


 俺の名前は時田鶫(ときたつぐみ)。三坂高校に通う2年生で、母と父との3人家族だ、と聞いても、それが自分の事だと思えなかった。


 記憶を失うきっかけは、落下事故だったらしい。

 ひどい雨が降りしきる中、自分が住むマンションの下で倒れていたとか。


 幸い当たり所が良く、致命傷にはならなかった。

 脳にもあまりダメージは無いから、落下のショックで記憶を無くしたのかもしれない。だから、時間が経てば戻るだろう、と、医者から説明された。


 ついでに、当時の俺は身体が弱っていたとか。

 風邪を引いた状態で雨に打たれたから、マンションの途中で倒れ、運悪く落下したのかもしれない。という事も言っていた。


 風邪をこじらせて落下したなら、精神的ダメージで記憶が一時的に飛ぶ事も有り得るかもしれない。


 妙に深刻な顔でそう言う医者の顔には、こんな前例は無い、というのがなんとなく出ていた。

 その理由は、当時は解らなかった。



 入院したのは2週間だった。

 その間に思い出したのは、基本的な知識だけだった。

 医者いわく、記憶している物によって、脳の使う場所が違うから、知識を思い出すのと経験や思い出を思い出すのとは勝手が違い、連動して思い出す事はあまり無い、とのこと。


 基本的な知識を思い出したとはいえ、少し難し過ぎる話しだった。


 思い出を思い出すには、その時経験した事に似た体験をすれば良い、というアドバイスを貰った。

 だから、両親や友人に協力して貰いなさい、とも聞いた。

 にも関わらず――


「ここが、俺の家か」

 俺は、退院して1人、マンションの前に立っていた。

 医者に住所を教えて貰い、自力で帰ってきたのだ。

 住所の見方、というのは、基礎知識に含まれたらしい。携帯電話の使い方もしかり、ネットで地図を調べる方法は、入院中に思い出す事が出来た。


 入院中、両親と2人の友達が見舞いに来てくれた。

 ……思い出す事が出来ず、会話の中にさりげなく織り交ぜる事で、そこはかとなく聞き出す事が出来た。


 話術は、基礎知識のうちに含まれたのだろうか。

「どうして来たの?」

 とひとこと聞くだけで、

「親だから」「友達だから」

 と、堂々と教えてくれる。

 それを利用したのだが、両親の名前は、医者に聞いた。流石に名前を聞く事はできなかったのだ。


 何度か来てくれた友人の2人は、いつも2人一組だった。

 その2人が呼び合うのを聞き、2人は、男が咋間で、女が広恵、と解った。


 名前はあまり呼ばないようにしつつ、最低限の時だけ呼ぶ事にした。

 最初に、

「お前、いつも下の名前で呼ぶのに、どうしたんだ?」

 と男に聞かれた時は焦ったが、

「確かにいつも、ゆうだい、って呼んでたよね」

 と、広恵から助け舟が出たため

「見舞いに来てくれて嬉しくってさ。ついテンパったんだよ、ゆうだい」

 と、回避出来た。


 そして広恵を広恵と呼んだら何故か赤面したのだが、特にツッコミも無かったから大丈夫だろう。


 ――そう、大丈夫なのだ。

 なんとかなるなら、迷惑をかけたくない。


 いや、それは建前だ。

 何故か、言いたくなかったのだ。

 俺は記憶喪失になったのだ、と、言う事が出来なかったのだ。


 だから俺は、自力で思い出さなければならない。

 両親にも友人にも打ち明けないで、俺は記憶を回復させる。


 医者が言うには、つまりいろいろと体験すればいいのだ。

 ならば、家の事は片付けとかをすれば思い出せるだろう。

 そうやって少しずつ、誰にも打ち明けずに記憶を取り戻す。


 何故か、そうしなければならない気がした。

 誰の協力も、受け付けてはいけない気がした。



「あら、ツグミ、退院したんだ」


 家に入ろうとして、誰かに声をかけられた。

 強気な調子で、しかし幼さの残る高い声。

 ギャップ萌え、という言葉を思い出したのは、その瞬間である。


「ああ、そうなんだよ」

 言いながら振り返ると、そこに居たのは少女だった。

 夕日のようにオレンジがかかった、活発そうなショートヘアー。キリッと吊り上がった目はそれでも大きく、肌は自然な感じによく焼けていた。


 見舞いには来ていないが、優大達と同じ学校の制服だった。

 つまり高校生、という事になるはずだが、その小さな身の丈からは、中学生にしか見えない。


 ロリータ、という言葉を思い出した瞬間だった。


「ふぅん。よかったじゃない」

 彼女は何故か赤面しつつ、顔を逸らした。

「うん、よかったよ」

 そう言ってから、彼女が俺を心配していたのだと気付いた。


「心配かけてごめん」

 そう言うと、彼女はさらに赤面し、

「は、はぁ!? 何言ってんだよ! あんたの心配なんか、これっぽっちもしてねぇっつうの!」

 と、叫んだ。


 ……え?


 ちょっと待て、でもその態度は絶対に心配してくれてた感じの態度じゃないか。

「……そ、そうなんだ」

 しかし、俺は記憶をなくしている。

 彼女の名前さえ解らないんだし、あまり変に追求をしないほうがいい。


 だが、彼女は勝手にボロを出した。

「別に、部活があったせいであんたの見舞いに行けなかった事なんて、全くもって残念じゃないし? そもそも、あたしらはただの幼なじみなんだから、わざわざ見舞いに行くのが恥ずかしかった、なんて事も全っ然無かったから!」


 ボロ、というか、彼女の言いたい事が全く解らなかった。

 その日本語は合っているのだろうか。

 いや、記憶を無くしている俺だからこそ理解出来ないのかもしれない。


「いや、ちょっと待っ」

「だいたい!」

 そろそろ頭がパンクしかねない。なんてったって、全く解らない道のりを、医者から貰った地図ひとつで30分も歩いてきたのだ。俺だって疲れてる。


 そんな俺に気遣うそぶりは、彼女には皆無だった。


「何やってんのよあんた! 本当、下で倒れて血を流してるのを見つけた時は、息が出来なかったんだから!」

 どうやら救急車を呼んでくれたのは彼女らしい。


「病院でちゃんと生きてるってお医者さんから聞くまで、ずっと待機室で待ってたのよ!? こんなに心配させるとか、本っ当有り得ない!」


 ……あれ? 心配してなかったんじゃなかったのか?


 彼女はそんな疑問を聞かせてくれる間も無く、クレームをたたき付けてくる。


「生きてるって聞いても不安で不安で眠れないし、部活も集中出来ないし、目の下にクマ出来ちゃうし、試合で負けちゃうし、散々だったわよ!!」

「いや、お前どんだけ」

 ――心配してくれてたんだよ、とまでは、当然言わせてくれない。


「死ね! もういっそ死ねばいいっつうの!」

 ビシッと俺を指差し、彼女は言い切った。


 ああ、これがツンデレだったな、と思い出した瞬間であ――ちょっと待て、こいつは俺にとってなんなんだ。

 記憶を取り戻すという点において、あまり良い影響があるとは思えない。


「……ごめんなさい」


 思考と言動は、常に一致するとは限らない。

 俺が思った事を口にしたら、何をされるか解ったものじゃないから、とりあえず謝っておく事にした。

「解ったならよし!」

 腰に手を当て、無い胸を張る少女。

「そういえば」

 喜ぶのもつかの間、彼女は態度を一変させ、今までのやり取りが無かったかのように平静になった。


「ご飯、どうするの?」

 彼女は問う。

 何故そんな事を聞くのか、少しの間解らなかった。

 今は夕方だ。夕飯を食べるかどうか、という質問なのだろうが、何故、彼女がそんな事を気にするのだろう。


「? ……いや、食べるよ」

 お腹もすいてきたし、当然の事を答えると、

「そう……。解った」

 彼女は少し赤面し、ドアを開けて家の中に入っていく。


 医者から貰った住所の紙いわく、俺の家はこのマンションの404号室。彼女が入っていったのは、403号室。

 つまり隣だ。


「成る程、幼なじみね……」

 さっき彼女が言っていた言葉を思い出す。


 俺はさりげなく、表札を確認した。


『明日香』


 これが彼女の苗字らしい。

 だが、幼なじみでお隣りさんという事は、それなりに長い期間一緒に居るはずだ。


「下の名前が解らん……」

 下の名前で呼び合っていてもおかしくない。


 そもそも俺は、周りの人間をなんと呼んでいたのだろうか。

 下の名前か、苗字か、あだ名か、全く思い出せない。


「はぁ……、解らん」

 1人ぐらいは協力して貰うべきだろうか。

「いや……駄目だ」

 俺は、ドアの反対の手すりを見た。


 この手すりを越えたら、落下する。

 俺は、この高さから落ちたのだろうか。


「っ!?」

 下を覗くと、途端にめまいがした。

 その光景を拒絶するかのような、そんなめまい。


 結局、ちゃんと見る事は出来なかった。

 だが、それなりに高い。

 大した怪我じゃなかったのは、本当に奇跡なんじゃないだろうか。


 しかし、ショックで記憶喪失というのも頷ける。

 見下ろしただけでこんなに怖いのだ。当たり前にさえ思える。


 手すりのほうの高さは、高くは無いが低くも無い。

 相当運が悪くなければ、落ちるなど考えられない。


「最悪だな……」


 自分の運の悪さを呪いつつ、自分が汗だくになっている事に気付いた。


 蝉の声が聞こえる。

 太陽はさんさんと光と熱をばらまいて、風は殆ど無い。


「夏……か」


 四季については既に思い出していたが、今の季節は忘れていた。

 何故、今まで気付かなかったのだろう。

 ……おそらく、必死になりすぎたのだろう。

 まるでタイムスリップでもしたかのような、異世界に飛ばされたかのような感覚の中、両親や友人に記憶が無い事を悟られないように。


「……あちぃ」

 遅すぎる感情だ、とは思った。

「はは、あほらしい」

 だからこそ、自嘲しか出来なかった。


「よし」

 独り言を呟きながら、俺はドアノブに手をかける。

「何か情報を探すか」

 ここが俺の家。俺が16年間生きた空間。

 家族と共に過ごした空間ならば、絶対に、何かがあるはずだ。


 なんなら、母にそれとなく探りを入れるのも良いかもしれない。

 よし、じゃあ、幼い頃の写真とかがあったら、それを見せて貰おう。


 なんか懐かしみたい、とか理由をつければ、思い出の品が出てくるはずだ。

 よし、頑張ろう!



『退院おめでとう☆お母さんはお父さんと一緒に旅行に行っていきます! お金、テーブルの上に置いてあるから、適当に何か買って食べておいて下さい!』



 玄関には、そんな置き手紙がわかりやすい位置に置いてあった。


 ……………………。


 長いフリーズ。

 靴も脱がずに、ただ硬直。


「飯なんてどこで買えばいいんだぁぁぁあああっ!!」


 フリーズ後に、記憶喪失を隠す事の難しさを知った。

 ……母さん、あんた、恨むぜ。



 ――そして数分間ほど呪詛を呟いた後、俺は部屋を漁った。

 その結果、

「何も、無い……」

 家を探す事2時間。マンションは3人暮らしには調度いいぐらいの広さ……だと思う。

 正直、比較対象が無いから解らないが、なんとなく調度良いぐらいじゃないかな、と。


 あくまで広さだけの話しだ。

 生活スペース的には、1人がやっとだ。

 何故って、そりゃそうだ。


「散らかり過ぎだろこれはぁあ!!」


 物が散乱とし過ぎて、探し物が見つからないのだ。

 とりあえず片付けから入ってみようにも、どこをどう片付けたらいいのか、ちゃんとした時の家の状況を知らないから、全く解らない。


 俺なりに思い出そうと試行錯誤しながら作業をしていった結果、状況は悪化。さらに解らなくなり、今となれば足の踏み場も無い惨状だ。


 ぐぅぅぅ……。


 今の音はなんだろうか。

 いや、記憶が無いから解らない。

 空腹なんて全然知らないぞ。

 どこに行けば何を買えるかとか解らないから、飯も食えずに記憶探し、なんて、そんな事は決して無い。


 そう言い聞かせながら片付けを進め――

「……もう、駄目だ」

 ――暗示には失敗した。


 腹が減っては戦は出来ぬ、という言葉を思い出したが、いや違う。腹が減っても戦は出来る。――勝てないだけだ。


 片付けとの勝負に惨敗した俺は、散らかりきった部屋で倒れた。


「……暑い……」


 部屋の中はサウナ状態。

 窓を開けてはいるのだが、外の気温が高いから無意味だ。


 ちなみに、エアコンについては病院にもあったから思い出してる。

 ……リモコンが見つからないんだ。部屋が汚な過ぎて。


 母さん、俺を殺す気か。


「腹……減っ、た……」

 もう駄目だ。限界だ。俺はこのまま死ぬのか。暑さと空腹で、俺は死ぬのか。


 そうだ、手紙を書こう。

 死ぬ時の手紙ってなんて言うんだっけ。


 えっと、命が果てる時の手紙だから……。


「ああそうだ、果たし状だ」


 たまたますぐ隣に落ちていたメモ帳に手を伸ばす。


 なんでこんな所に落ちてるんだろう。そんなものなのかな。メモ帳って。

 しかし、

「ペンは…………? 書く、物は……?」

 見当たらない。

 書く物が無い。


「こうなったら、血文字で……」

 親指を噛んで、少しだけ血を流す。

 痛いとか言ってられない。これは、果たし状を書くためにどうしても必要な事なのだ。


 そういえば、なんで血文字なんて言葉を思い出してるんだろうか。

 もしかしたら、過去にそんな経験があったのかもしれない。


 よし、こんなもんだろう。俺はメモ帳に親指を当て、血文字を書く。

 宛先は、過去の自分だ。

 記憶が無いから、今の俺が過去の俺を見る事は出来ない。

 しかし、過去の俺は今の俺を見ているかもしれない。

 こんな所で死ぬ事に対する過去への謝罪と、労いの言葉を送ろう。



 ――拝啓、過去の自分へ。

 16年間、お疲れ様でした。

 今思えば、本当に――。


 記憶が無いのに、どうやって労えばいいのだろうか。


「……万事、休す……か……」

 俺はメモ帳をその場に落とした。


 ガチャ。

「つぐみ!! あんたいつまで待たせる気よ! ご飯冷めちゃ――って、いつもより酷い散らかりよう!? つうか暑っ!」

 玄関から声が聞こえた。

 2時間前、俺が最後に聞いた、明日香なんちゃらの声だ。


 そうか、いつもより、って言葉が入るということは、いつも散らかっているのか。


 ドタバタと慌ただしい足音が聞こえて、近付いてくる。この空腹をなんとかしてもらえたら、俺の命は助かるかもしれない。

「きゃぁぁあ! ツグミが倒れてる!? きゅ、救急車、いや警察!? そうだ、消防車だ!」

 彼女は何を消すつもりだろうか。

 飯を食べさせてくれるだけでいいんだ。これ以上時間を置いたら、俺の命が消えてしまう。


「す、すまない……消防車じゃなくて……」

 力を振り絞り、なんとか止める。

 明日香はハッとし、

「あ、生きてた! ……じゃあ消防車じゃなくて――霊柩車を呼べばいいのねっ!!」

 間違いなく俺をの命を消したいらしい。


「ち、ちが……」

 焦り過ぎた明日香を宥めるのに、いくらかの時間が掛かった。




「……で、片付けをしてて、自分の家で行き倒れたっつうのね」

 その後、明日香家でご馳走になって一命を取り留める事が出来た俺は、片付けに夢中になってしまった、という事にし、明日香に説明した。


「そんなとこ、かな」

 俺は目を泳がせながら答えた。


 明日香家は俺の家と違い、とても綺麗だった。

 ニスのテカりが残った床に、壁紙も張替えられ、俺の家とは違う、草原のような暖かさと優しい雰囲気に満ちていた。


 同じマンションとは思えない。

 管理ひとつでここまで変わるものなのか。

 なんとなく居心地の悪さを感じながら、俺は食器棚に目をつけた。


 ティーカップ、食器皿、グラス。綺麗に整頓されたそれらは、統一性のある花柄で全てが5つずつあった。


 5人家族? と思ったが、来客用なのかもしれない。

 5人で暮らしても、この広さなら窮屈では無いが、少し狭くないだろうか。


「……どうしたのよ、ソワソワして。16年間も馴染みの場所を、まるで初めて見るみたいに」

 少し機嫌が悪そうに、明日香が聞いてきた。

 あまりに的確に言い当てられ、俺は自分でも解る程に浮足立つ。


 明日香家にお邪魔してから、家族はまだ見ていない。

 接する相手が少ないのは助かるが、その分情報が無い。

 記憶喪失が無いように接するには、あまりに手薄な武装だ。


「いや、久しぶり、だからさ」

 俺は適当に誤魔化す事にした。

 そう。16年間馴染みのある、という事は、結構頻繁に来ていたのかもしれない。

 同年齢のお隣りさんなのだから、有り得くは無い。


 だが、入院していた約1ヶ月は来ていなかったはずだ。

 だから、久しぶり、というのは有効なはず。


「そうね。入院する前も、最近はあまり来てなかったし」

「そうなっ……」

「?」

 そうなのか? と言いかけ、なんとか止まれた。

 最近はここに来ていなかった、という自分の行動を聞いて「そうなのか?」なんて、私は記憶喪失です、と暴露したに等しい。


「ちょっと、色々あってさ」

 俺は言いながら立ち上がった。

 ――色々あって。

 デタラメだ。

 何ひとつ覚えちゃいない俺から、よくそんな言い訳が出たもんだ。


「ありがとう。……美味かった」

「はぁ……どういたしまして」

 俺が食器をまとめ始めると、明日香はため息をつき、その短い腕を伸ばして、俺のグラスにお茶を注いでくれた。


  台所に2人分の皿を持っていって、なんとなく、洗ったほうがいいと思って洗う。


 ……違和感を全く感じない。もしかしたら、こういうのは当たり前だったのかもしれない。


 幼なじみで、家に上がるのが普通。

 年頃の男女にしてはどうかと思う関係な気がするが、抵抗感は無い。


 明日香のほうも無防備に見えるから、本当に、仲が良かったのかもしれない。


 明日香はどこに隠していたのか、いつの間にか手に持っていた雑誌を読んでいた。


「…………」


 会話が見つからない。

 どんな話しを、どんな風にすればいいのだろう。

 あまり下手をすれば、記憶喪失がバレてしまう。


 いっそバラして、協力して貰うのも有りだろうか。

 いや、これ以上の心配はかけたくない。


 記憶喪失がバレずに、違和感を与えない話しの種は無いだろうか。


 ふと周りを見たら、いくつかのトロフィーや賞状が飾られているのに気付いた。


(陸上……そうか、陸上部なのか)

 そういえば、家の前で会った時も部活帰りと言っていた気がする。

 そして賞状やトロフィー。

 これが当人の物であれば、かなり実力がある、という事になる。


「部活は……どうだった?」

 洗い物を終え、俺は恐る恐る聞いた。

 そうだ、これなら違和感なく情報を聞き出せるかもしれない。


「どうもなにも、最悪だっつうの。今日なんて、いつもはしないのに、本当に有り得ない落ち方をしたんだから」

 雑誌から目を離さず、明日香は不機嫌そうに言った。


「変な落ち方……?」

「え、あ……ご、ごめん」

 俺は、変な落ち方とはどんな落ち方か、を聞いたつもりだったが、明日香はどうやら何かを勘違いしたようだ。

 あらかた、俺が落下事故で入院したから、落ちる、という言葉に反応した、と思ったのかもしれない。

 だが別に、記憶が無い俺にとってはたいして気になるワードじゃない。


「いや、そこは気にすんなよ」

 苦笑して答え、

「どんなふうに落ちたんだ?」

 と聞き直す。


「……脚を上げるタイミングが遅れて、引っ掛かったのよ」

「引っ掛かったって?」

「? ……バーに決まってるじゃない。他に何が引っ掛かるっていうのよ」

「いや、今のは失言だった」

「そう……ま、いっか。そんでさぁ……」

 明日香は感情に任せて喋り出した。

 聞いたのは失敗だった、と後悔したのは10分後だ。

 適当に流し聞きをしていたから、いつどうやってどんな流れによって、陸上の話しが雑誌アイドルのスタイルに対する愚痴に変わっていたのか解らない。


 なんだ、この手遅れ感は。


「背が高けりゃいいのかっつうの!! そりゃあさ、背が高くってスラっとしてて出るとこ出ててかわいいのは良い事だけどさ、こういうやつに限って猫かぶってて実は腹黒くって、さらに行くと本当は一途だったりするんだっつうの!」


 ――聞いてみたら、愚痴じゃなかった。

 何分褒め讃えれば気が済むのだろう。

「神様はどれだけ不公平なんだっつうの! 身長とか身長とか身長とか、どうしてあたしにはくれなかったの!? ……つうか、なんの話しからこうなったんだっけ?」

 落ち着くの速っ!

 てか身長気にし過ぎじゃないか!?


「……陸上の話し、じゃなかったか?」

 微笑んだつもりだが、どうも苦笑になってしまう。


「陸上、陸上……。そうそう陸上! 陸上の事からどうして雑誌アイドルの話になるのよ!」

 俺が聞きたい(本音)。

「雑誌を、手に持ってたからじゃないか?(建前)」

 本音を言ってしまったら、相手に不快感を与えかねないからな。不必要な本音は隠そう。


「そっか……。って、あたしが見てたのは旅行パンフレットよ! 雑誌アイドルなんて出てこないわ!」

「……そうか……。じゃあ、スタイルが良い女性でも写ってたんじゃないか?(建前)」

 俺に言われても困る。話しを逸らしたのはお前だ(本音)。


「…………確かに」

 明日香はため息をつき、深呼吸をした。

 小さい身体によくそんな空気が入るよな、と思ってしまう程の息を吸い込み――

「りふじっふぐ!!」

 ――何故か、反射で明日香の口元を押さえてしまった。


(な、何やってんだ、俺!?)

 女の子の口を押さえるとか、有り得ないだろ!


「ご、ごめん!」

 慌てて手を離すと、息が止められてたからか、明日香は涙目になりながら俺を睨んできた。


 小さい身体のくせに、かなり威圧感がある。

 俺は2、3歩後ずさり、

「す、すみませんでした……」

 と、もう1度謝っておいた。


 しかしこれは、本当に女の子から放たれる威圧感だろうか。

 どこかで経験した事がある、命の危機。その感覚に似ていた。


「あんた……」

 低い声。こんな小さい女の子が、どうやったら出せるんだ、その低音を。


(ま、まずいっ)

 怒らせてしまった。

 そりゃそうだ。年頃の男が年頃の女の子の口を押さえるなんて、俺が今自分の手にキスをしたら間接キスに俺は変態か馬鹿野郎!


「ち、ちょっと何自分に往復ビンタしてんのよ!」

「止めないでくれこの雑念を消さなきゃいけないんだぁあ!」

 やばいなんかドキドキしてきた。もしかしたら俺には自虐的な趣味が有ったのかもしれない。

 ……だとしたらこのまま死にたい。


「落ち着けっつうの! いいからあたしの質問に答えろ!」

「し、質問?」

 明日香に言われ、自分にビンタしている場合じゃない雰囲気に気付いた。


 明日香はジッと俺の目を覗き込んでいる。

 心でも読もうとしているのだろうか。そう思う程の距離で。


「あたしの名前は……?」

「っ……!?」

 気付かれた!?

 なんでだ!?

 まさか、さっきみたいに口を塞ぐ、なんていうのは、有り得ない行動だったのか!?


 いやでも、あれは本当に咄嗟だったんだ。身体が勝手に動いたのだ。


 考えたって仕方がない。

 ……賭けに出る他ないだろう。


 台所にあった賞状やトロフィー。あれに書いてあった名前が当人の名前とは限らない。

 親かもしれない。姉妹かもしれない。

 だが、何も答えなかったら、記憶喪失がばれるだろう。

 なら、念のため答えておいて、名前が違ったら年貢の納め時、当たったらラッキーだ。


「……あたしの名前は?」


 考え込んでしまっていた俺を、明日香は急かした。

 もう、どうこう考える時間は無い。


「明日香……望美、だろ?」


 明日香望美(あすかのぞみ)。賞状に書かれていた名前だ。


「……正確ね……」


 首を傾げながら、明日香は乗り出していた身を引いた。

 俺は心の中で胸を撫で下ろすが、至って平然を装う。


「そりゃそうだろ。ていうか、名前の確認なんて、いきなりどうしたんだ?」

「ううん、なんか、変な感じがしたんだ」

 首を横に振る明日香。しかし、その顔は釈然としていないように見える。


「……まぁ、久しぶりだからな」

 俺は微笑んで、そう返した。

「うん、そうかも……」

 明日香は納得したようで、雑誌に目を戻した。


「つうか」

 雑誌をパラパラとめくりながら、お茶のグラスを口に運ぶ明日香。

 俺も全く同じタイミングでグラスを掴んでいたため、少し驚いた。


「両親がまた旅行なら、ご飯、あたしんちで食べてくっしょ?」

 その言葉に、俺はさらに驚いた。

 俺はいったい、どれだけ明日香家に世話になっているんだ。

「め、面目ない……」

 自炊出来る気がしない上、食べ物を調達する場所もまだ解らないのだ。頼るしか手は無い。


「別に、食費は受け取ってるから問題は無いっつうの。……つうか作るのあたしじゃないし」

 ……そうなのか。俺はてっきりこいつが作ったのかと思ってた(本音)。

「まぁ、手料理が出来る程器用には見えないからな……(本音その2)」

「……あ?」

「……はい?」


 時間が凍った。

 絶対零度に突入しかねない寒気を察知。俺はその瞬間、生命の危機を感じた。


「……つーぐーみー」

 明日香はゆっくり立ち上がり、殺人鬼もゲタを履いたままで逃げるんじゃないかと思う程の黒いオーラを惜しみなく放出する。


 いや、待ってくれ、今のは口が滑ったというか、ジョークのつもりだったんだ!(建物)

「いや、待ってくれ! 実際手料理出来なそうな雰囲気だから、つい本音が出ちゃったんだ! だから仕方ないんだ!(本音)」


「……へぇ……」


 ……………………。


 絶対零度のオーラのせいで、身体より先に思考が凍結したらしい。

 10秒あったかないかの沈黙の後、俺が何を言ったのか、気付いた。


 いや……本当にちょっと待ってくれ!! 今のは、頭が混乱しちまって!(本音)

「ほ、ほら! でも、その体格だし、料理が出来ないっていうのも納得っていうか、キャラ的にピッタリじゃないか! 統一感のあるキャラ設定でよかったじゃないか!(本音)」


「……つまり、あたしが、ロリだ、と……」


 地雷だったぁぁあ!!


 ていうか、さっきから本音しか出て来ないのはなんでだ!? 動きやがれ俺の思考! 止まるな、進め!


 そうだ、この状況を打開する方法……。ロリでは無いと伝えるための手段を思い出しやがれ!

 ロリは、幼い少女、という意味だ。

 それを、違和感なく反転させるためには……!


「ち、違うんだ! ロリじゃなくて――ショタだ、と言いたかったんだ!」


 …………止まりやがれ俺の思考ぉお!!

 そこを逆にしてどうすんだよ、性別の壁を越えてどうすんだよ!

 確かに違和感はあまりなく反転は出来たかもしれない。

 だが、何も解決はしていない!


「……………………」


 ガチャ。

 明日香は何も言わず、居間から出ていってしまった。

 なんだろう。今の雰囲気は絶対に何かされる気配だったんだけど……。


 そして何故だろう。明日香は部屋から出ていったのに、今のうちに逃げろ、と叫ぶ俺と、逃げても意味は無い、と嘆息する俺が――いやだからちょっと待ちやがれ俺の思考。どうして俺が危機的状況にある事を否定しないんだ?


 ――違う。否定出来ないのだ、と、俺は悟った。


「つ、ぐ、み♪」


 逃げてはいけない。

 おそらく経験測で、本能が告げている。さっさと死ねと。


 だ、か、ら、おかしいだろうがぁぁあ!!


 なんだ、なんなんださっきから!

 俺の思考は、凍った際に死滅したのか!?


 流石に、平和な日本でそこまでの危機があるはずが――

「処刑の時間だっつうの」

 ――あるはずが無いという短絡的な考えは、明日香が手に持っていたロウソクと鞭によって掻き消された。


「な、な、な……!」

「あたしの女としての魅力を、たあっぷり教えてやるっつうの」

 クノイチとしての魔力の間違いでは無いだろうか。


「ぎ、ぎゃぁぁぁぁああ!!!!」


 自分の部屋で行き倒れていたほうが楽だったんじゃないか。

 そう思う程の刑が待ち構えていたのは、言うまでも無い。




「……どうしてこうなった……」

 身も心も、台風のど真ん中で差してしまった傘よろしくズタボロになった俺は、床に伏しながら呟いた。


「あんたがさっさと謝らないからだっつうの」

 俺の背中に座る明日香が、さっきまで俺を叩いていた鞭を鳴らす。

 背中に座られるのは屈辱ではあるが、明日香は小さいからその分軽い。肉体的には苦じゃない。


 そんな事より、鞭の使い方がすごく鮮やかだった。少なくとも初心者じゃない。


 というか、俺をシバく時の目が異常だった。

 まるでおもちゃを見つけた子供のように、楽しそうに鞭を振るうのだ。


 まともな人間とは思えない。こいつは、もしかしたら鬼の子かもしれない。


「もうしません、許して下さい」

「最初からそうしろっつうの」

 今更の謝罪だが、上機嫌になった明日香は快く立ち上がる。

 どうせならズタボロになる前に謝ればよかったと後悔し『謝罪ひとつで助かると思うか?』という本能の問いに、俺は自嘲する他なかった。


「……謝ったって許してくれないくせに」

「当然だっつうの」

 こいつは鬼かもしれない。


「くぅ」

 俺はあまりの精神的苦痛に、うめき声を上げた。

 今はもう背中に明日香は居ないはずなのに、鞭で打たれまくったせいで身体が重い。


 どういう神経をしてれば、人をここまで痛めつけられるんだ?

 確かに、身長や体型の事を気にしているらしいから、俺の無神経な発言が悪かったのは認める。

 だが、だからって仕返しにも限度がある。


 いったい何故、俺はここまで苦しまなければいけなかったのだろう。

 答えは、

「…………ふう、楽しかったぁ」

 こいつが鬼だからだ。


 ついに言ってはいけない事を言った明日香。

 サディスティック及びSMプレイという単語を思い出した瞬間だったってだからなんなんだよこいつは。絶対に俺の教育によろしくない。



「……あ、そっか」

 いつまでも床に伏したままの俺に気付いたらしく、明日香は、そういえば、と、鞭をテーブルに置いた。

「いつもよりは軽くしたはずなのになかなか立ち上がらないなと思ったら、退院したばかりだったっけ」

 こいつは俺によろしく無いと思う。


 いつもってなんだ!?

 この拷問は、日常茶飯事だったのか!?

 確かに、熟練された鞭捌きだった。

 成る程、俺で鍛えたのか。それなら納得だ、なんて出来るわけないだろ!!



「……さあてツグミ」

 叩き疲れたのか、明日香はドカッと椅子に座り、ロウソクと鞭をテーブルの上に置いた。

 そして、釈然としない顔つきで、呆れるような、怒っているような目で、しっかりと俺を見つめていた。


「……入院する前に何があったのか、白状する気になった?」


 記憶喪失がバレたわけではなさそうだ。

 俺は一瞬息を詰まらせ、考えた。


 ……入院する前に何があったのか。正直、俺が聞きたいぐらいだ。

 体調不良に不運が重なり、マンションから落ちた。

 雨の中で血を流している俺を見た明日香としては、確かに、気になる事かもしれない。


「転落事故、なんだ。風邪を曳いてて、倒れた拍子に、運悪く……」


 運悪く。本当にそう思う。だってそうだろ。普通は落ちないぜ?

 俺はどんだけ運が悪かったのだろう。

 多分、シェイクスピアの4大悲劇に出てくる主人公達並だろう。


 ……なんでこんな事を思い出してるんだろう。私生活についての記憶は全く戻らないというのに。

 …………記憶が、戻らない?



「運悪くっつうか、風邪曳いてるのに雨の中出掛けるからだっつうの。だいたいあんた――って、どうしたの、ツグミ? 顔色悪いし」

 明日香に言われ、ハッとした。

「あ、いや、ちょっと、落ちた時の事を思い出して……」

 誤魔化しつつ、不満を与えないためにはにかんで笑ってみせる。


 落ちた時の事なんて、当然思い出していない。デタラメを言っただけだ。


「あ……。その、ごめん」

「いや、もう怪我も治ったんだから、大丈夫だよ」

 言って、お茶を啜って、とりあえず今は、考えるのを止める事にした。


「……じゃあ、俺はもう帰るよ。ごちそうさま」

 早くここから出て、ボロが出る前に明日香から逃げなければ。


 クーラーの効いたこの空間に居れなくなるのは名残惜しいが、そこについてはリモコンを探すしか無い。


 ああ、またあの汚い部屋を探すのか。

 また行き倒れないだろうか。

 心配だが、仕方ない。

 過去の自分が全て悪い。自業自得だろう。


「お粗末。っと、そうだ、ちょっと待ってて」

 明日香は何かを思い出したように立ち上がり、鞭とロウソクを持って部屋に戻っていった。


 女子高生が持っていていい物では無い気がするが、いかんせん記憶が無い俺にははっきりとは言い切れない。

 ――なんて事は決して無い。

 断言してやる。華の女子高生が持っていていい物じゃ無い。


「幼なじみか……」

 大変な幼なじみをもったものだ。過去の俺の人生は過激だったに違いない。


 ……他人事じゃないのが辛い。


 そうこう考えていると、その大変な幼なじみは、鞭とロウソクの変わりに山のような参考書を持って現れた。


「はい、これ、持ってって」

「え、何、これ」

 テーブルにドカッと置かれた参考書。

 かなり分厚い物。薄い物の間に、時折ただのプリントも挟まっている。


「何って、課題だっつうの。夏休みなんだし、当たり前っしょ?」


 ……そういえば、俺は学生だった。


 しかし待て、なんだこの量は!!


「お、多過ぎないか!?」

「クラスの皆と同じ反応すんなっつうの。少しはリアクション変えろよな」

 小さい身体を反らせ、無い胸を張る明日香。


 俺は、恐る恐る参考書の1番上のページを開いた。どうやら数学のようだ。


「…………」


(よかった、この程度なら――)


 2ページ目を開いた。英語がびっしり詰まっていた。


(――解ら、ないっ……!!)


 その参考書には『中学校の復習問題』と書かれていたが、記憶喪失だから、と言う他無い。


「ま、これっくらいツグミならちょちょいのちょいっしょ? 終わったら答え教えて」

 さも当然のように言う明日香。

 俺が教えて欲しいぐらいだ。




 しかし、記憶喪失を打ち明けるわけにはいかず、俺はその後、参考書を自分の部屋に運んだ。

 自分の部屋は『ツグミの部屋※母さんは入るな』と書かれたプレートがドアノブにあったためすぐに解った。

 居間を片付けてる最中に気付かなかった俺はなんなんだろうか。


 ……あと、何故か、自分の部屋だけはそこまで散らかっていなかった。



 勉強用机の椅子に座って、扇風機のスイッチを入れてようやく一息つく。


 本当に、記憶喪失がバレなくてよかった。

 事故で入院して、ただでさえ心配をかけたのだ。これ以上心配をかけたくは無い。だから、バレるわけにはいかない。


「なんとか、なりそうか……?」

 俺は自分自身に確認するため、参考書を開いた。


 どうだろう。少し難しい気もするが、鉛筆を動かして解答を埋めていくたびに、簡単に思えてきた。


(そうだ、これは、こうで、こうなって)


 少しずつペースが上がる。


(aとbは錯角だから……)


 思い出してきた。

 いや、覚えていたのかもしれない。

 とにかく、確かに中学校復習問題なら高校生に解けるのは当然。

 基礎知識として、馴染んでいたらしい。



 これなら、なんとかなるかもしれない。



 勉強は得意なほうだったのだろうか。少し薄めではあったが、参考書の1冊はすぐに終わった。


(あと、は……)


 勉強をしていて思い出した。

 俺は勉強机の隣にある、小さなディスクを見る。


 パソコンだ。

 パソコンには、地図を出す機能があった気がする。

 これでコンビニとかの場所を調べれば、生活には困らないだろう。



 そう、生活には困らない。なんら問題は無い。


 大丈夫なのだ。

 未だ自分の過去の思い出はひとつも蘇らないが、何も問題は無い。


 例えずっと思い出せなくても、大丈夫なんだ。

 だって、俺が生きてるのは今であり、過去じゃないから。


 そう思ったらなんだか安心して、急に眠くなってきた。


 今日は疲れた。

 自分の家で行き倒れる程疲れた。


 時計は9時30分を回ったばかりだが、俺はベッドへと向かい、コンビニとかの場所は明日調べる事にして、電気を消した。




 大丈夫、大丈夫。

 眠りにつくまで、自分に言い聞かせよう。

 明日香が言う『いつも通り』を体験しても、俺の記憶は、思い出は戻って来なかった。

 医者いわく、似たような経験をすれば記憶が戻り易いらしいが、例外もあるのだろう。


 だから、焦らなくてもいい。

 焦る必要は無い。

 だって、思い出さなくても、大丈夫なのだから。


 ……そう……思い、出さなく……ても………………。

 はじめまして、根谷司です。


 遥か彼方のmemory's。略して「はるかな」を閲覧頂きましてありがとうございますm(__)m


 ダークファンタジー「HERO'S(仮)」と同時進行になりますが、「はるかな」は米D要素をたっぷりとすみません調子に乗りました。

 コメディー要素をたっぷりと注ぎ込みます。


 不肖ですが、ところかまわず吹き出してしまうよう尽力しますので、どうか、どうか、電車の中で読んで下さい(図書館でも可)。



 まぁ所詮プロローグのあとがきですから、あまりしゃしゃらず、ここまでとさせて頂きます。いえ、決して、早くお風呂に入りたいからではありません。



 では、読んで下さった皆様、全力でありがとうございますm(__)m

 これからも是非、「はるかな」をお楽しみ下さい。

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