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八時三十分のサイレン

作者: 抹茶坊
掲載日:2026/07/12

 朝の八時三十分。


 ウーーーーー

 ピーポーピーポー

 ピッピーーーーー

 カンカンカンカン


 けたたましいサイレンの音で、私は目覚めた。

 小さくあくびをしながらカーテンを開けると、窓の向こうには田植えを終えたばかりの水田と雑草の茂った空き地、そして奥には小さな消防署が見える。


 消防車や救急車が出動しているわけではない。そのサイレン音が鳴るのは毎朝八時三十分の日課だった。緊急車両のサイレンがちゃんと鳴るかどうかを毎朝欠かさず点検しているのだという。


 消防署の前には、今年の火災件数と救急出動件数が掲示されている。

 たしか——火災は一件、救急は十件だったはずだ。


 田舎町で火事なんて滅多に起きない。救急車は時々出動するみたいだが、せいぜい高齢者が病気で倒れたとかが理由だと思われる。

 それでも、律儀に毎朝の点検は欠かさないのだ。


「はあ……」


 消防署をぼんやりと眺めながら、私は無意識にため息をついていた。




 私は三ヶ月前にこののどかな田舎町に引っ越してきた。

 元々は大都会・東京でサラリーマンの夫と二人で暮らしていたが、二年前に夫を交通事故で亡くした。

 身辺の整理がついて、最近ようやく心の余裕も取り戻した私は、静かなスローライフに憧れて移住を決心した。


 幸いにも夫の死亡保険金のおかげで、引越し費用に困ることはなかった。


 独り身のため新居探しも難航するかと思われたが、ちょうど手頃な価格の貸し物件が運よく見つかった。仕事も、夜だけ営業の飲食店のパートに落ち着き、今後の生活基盤も無事に整った。

 ——こうして、田舎町でのスローライフは順調に滑り出したかに見えた。




 しかし、引っ越してきた翌朝、いきなり驚いたものだ。

 のんびり寝ていたら、八時三十分のサイレンに叩き起こされた。


(どこかで火事か事故でもあったのかしら???)


 慌てて窓の外を見ても、消防署の職員がのんびり車両に乗り降りしているだけだった。その後すぐに、消防署に問い合わせて、サイレンの意味を知った。


 八時三十分のサイレンは平日に限らず、土日も続いた。

 もはや目覚まし時計は不要だった。八時三十分になれば、あのサイレンが鳴り、否応にも起こされるのだ。


 都会で夜型生活をしていた私にとって、八時三十分に起こされるのは結構辛い。せめて九時までは静かに寝させてほしい。それに日曜日の朝くらいはゆっくり時間を気にせず寝ていたい、と願うのは贅沢すぎるだろうか?


「せめて日曜日はやめてもらえませんか?」


 私は思わず苦情の電話を入れたが、「すみませんが大事な点検なもんで……」と言われて電話を切られた。


 私は行き場のない不満を吐き出したくて、ネット掲示板に匿名で苦情を書き込んだ。八時三十分に必ず起こされる私に、ただ同情してもらいたかったのだ。

 しかし、返ってきたコメントは思いの外辛辣だった。


 ——八時三十分ならそんなに早くないだろ

 ——大事な点検なんだから、苦情を言う方がおかしい

 ——そもそも田舎は静かっていう発想自体が間違っている

 ——そのサイレンで毎朝ちゃんと起きられて、良いことじゃないか


 掲示板を眺めながら、スマホを握りしめる指の力は自然と強くなる。


(間違っているのは、この時代にそぐわない田舎の非常識のほうだ。私は間違ってなんかいない……!)



 ***



 梅雨が明け、夏がやって来た。


 朝、六時三十分。


 ウィーーーーーーーン


 甲高い金属音が聞こえて、私は目が覚めた。

 ぼんやり時計を見ると、まだ六時三十分。

 いつものサイレンより二時間も早い。


 カーテンをさっと開けて確認すると、鉢巻を巻いて白シャツ1枚だけを着たジジイが草刈機で空き地の雑草を刈っていた。よく目を凝らしてみると、あれは隣に住む町内会長だ。


「は??? 朝の六時半から草刈りかよ」


 不満は勝手に口から漏れた。

 眠気なんかすぐに吹っ飛んだ。ささっと着替えて、その足で、町内会長の元へと向かう。


「こんな朝早くから草刈りなんてやめてください。迷惑です」


 私が怒気を込めて大声で迫るが、町内会長は笑いながら鉢巻をほどき、呑気に汗を拭った。歯抜けの笑顔を見せながら、天を指差した。


「だって、昼間に草刈りなんて暑過ぎてできないよ」


 私は大きくため息をついた。


「いや……そうは言っても、六時半はみんなまだ寝ている時間なんです。非常識にも程があります。せめて八時三十分まで待ってください」


 すると、町内会長の顔が少し曇った。


「あんた、都会から来て知らねえかも知れねえけどさ。田舎のもんはだいたい六時には起きるもんさ。この時間に草刈りして苦情言われたことなんて一度もないよ」


(私が間違っているとでも? いや、そんなはずあるか!)


「そもそも、なんで空き地の雑草を急いで刈る必要があるんです? 放っておけばいいのに」


 私が辺りを見回しながら言うと、町内会長は再び笑顔になった。


「もうすぐ子どもたちの夏休みが始まるだろ。そうすると、この空き地に集まって、みんなでラジオ体操をやるんだ。だから草を刈っておかないと」


 私は空いた口が塞がらない。


(ラジオ体操だと……? そんなのいまだに続けているのか? そもそもやるなら、学校の校庭でやれよ。なんでこんな空き地で?)


 私の不満はおそらく露骨に表情に現れていたことだろう。

 町内会長が穏やかな口調で話を続けた。


「学校の校庭と、この空き地の二箇所でやるんだよ。学校、遠いからね。この地域の子達がわざわざ学校まで行かなくていいように、毎年ここも使うのさ」


 そして、一拍置いて、思い出したようにさらに一言付け加えた。


「……ああ、そういえば、さすがに知ってると思うけど、ラジオ体操の開始時間は六時半だからね。子どもだけじゃなくて大人も自由に参加していいから、あんたも六時半に起きて参加したらどうだい?」


 毎朝、六時半に起きるなんてまっぴらごめんだ。

 いったいこの時の私は、どんな顔をしていたことだろう。



 ***



 さて、七月下旬。子どもたちの一学期が終わり、明日から夏休みだ。


(六時半なんかに絶対起きるもんか!)


 そう決意して私は眠りについたが、その決意は翌朝、無に帰した。


 ターンタタ タタタタ♪

 ターンタタ タタタタ♪

 タラララララララ ラララララ♪


 ラジオ体操の音楽が窓越しに聞こえて、私は夢から現実に突然引き戻された。

 そして空き地に集まる子どもたちの賑やかな声、ジジババどもの談笑が聞こえてくる。


(ああ、よりにも寄って、こんなところに引っ越してこなければ……)


 私は過去の自分の選択を呪う。

 そしてため息をつきながら、カーテンを開けた。


 ——その時、子ども達の声が一斉に止む。

 空き地にいる全員が私の家のほうを見ていた。


「……え?」


 私が小さく呟いた時には、また子ども達の笑い声が戻り、視線は逸れていた。


 ……気のせいだろうか。


 私はその一瞬、違和感を覚えた。



 ***



 暑苦しい夏が過ぎ去った。

 ようやく六時三十分のラジオ体操の音楽は止んだが、相変わらず八時三十分には消防署のサイレンの音が鳴る。


 しかも八時三十分よりも早い時間に、草刈機の音で起こされることもしばしばあった。原因は町内会長だけとは限らなかった。近所に住むジジババどもは揃いも揃って、田畑の草刈りのために朝早くから働き始める習慣があった。


 彼らに「近所迷惑」などという概念はない。


 私はもう苦情を直接言うことはせず、ただ不満をネット掲示板に書き殴っていた。


『どうかしている、このド田舎は……』



 ***



 そんなある夜。

 家のチャイムが鳴り、ドアを開けると、そこには町内会長が立っていた。


「いや……、夜遅くにすまんね。ちょっと里芋がたくさん取れたんで、お裾分けだよ。煮物にしたから、このまま食べて」


 そう言って渡されたのは、半透明のタッパーに入った里芋の煮ころがしだった。

 ちっとも嬉しくなかったが、一応、笑顔を作ってお礼を言う。


「ありがとうございます。それじゃあ今夜いただきますね」


 私の言葉に、町内会長はにっこりと微笑んで小さく頷いた。


「明日の朝、タッパー取りに来るから」




 内心では文句を言っていた。


(なんで他人の味付けの煮物を食べなきゃいけないんだよ。余っているなら、そのまま里芋くれればいいのに……)


 捨ててやろうか、とも一瞬考えたが、食べ物を粗末にするのも良くないと思い、食すことにした。


 口につけて、思わず震えた。


「まずっ」


 なんだこの煮物は? 甘ったるくて、なんだか少し苦いような……。

 それでも私は我慢してそれを食し、タッパーを空にした。




 翌朝八時三十分。


 ——ああ、サイレンが鳴っている。

 だが今日の音は、なんだか変に感じた。

 音程が歪んで不協和音のように聞こえる。


 瞼は開かない。

 体は動かない。


 意識が次第に遠ざかっていく。

 サイレンの音は段々と小さくなり、とうとう聞こえなくなった。

 毎朝、私を叩き起こしてくれたサイレンの音は、その日、私を目覚めさせてはくれなかった。






 消防署の二階廊下。その窓際に町内会長と消防署長が並んで立っていた。

 八時三十一分。サイレンが鳴りやむ。


 町内会長は一件の家を見つめながら、呟く。


「……カーテン、開かなかったな」


 その言葉に、署長が黙って頷くと、町内会長は言葉を付け足した。


「じゃあ、手間取らせるが、あの家に救急車を出動してもらえるかい?」


「別に手間じゃないですよ。出動件数が一件増えるだけですから」




 一台の救急車がサイレンも鳴らさずに静かに出ていった。

 そして、消防署前に掲示された出動件数は十一件に書き換えられた。


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