第2話 資料は存在しない
帝都を発って三日目、馬車は中継の行政都市に入った。
石壁に囲まれた、やけに整った街だ。舗装された道、整列した倉庫、制服姿の役人たち。
グラストへ向かう途中で、最後に立ち寄れる「まともな場所」らしい。
馬車を降りると、待っていたのは一人の中年役人だった。
「臨時再建官殿ですね。私は地方行政局の書記官、ハロルドと申します」
丁寧だが、目は笑っていない。
形式だけ整えて、あとは関わらない――そういう距離感だ。
「こちらで、グラスト領に関する引き継ぎを行います」
案内されたのは、石造りの役所の一室だった。
机が一つ、椅子が二つ。壁際に書棚。
……嫌な予感がした。
「では、まず帳簿を」
俺が言うと、ハロルドは一瞬、言葉に詰まった。
「帳簿、ですか」
「税収、支出、過去数年分の収穫量、修繕履歴。最低限、それくらいは――」
「……その、グラスト領に関しては」
彼は視線を逸らし、咳払いをした。
「正式な帳簿は、提出されておりません」
頭の中で、何かが止まった。
「提出されていない?」
「はい。旧領主は、期日ごとの報告を怠っておりまして」
怠っていた。
その一言で済ませるのか。
「では、未提出分の催促や、是正命令は?」
「……出ておりません」
「理由は」
ハロルドは、困ったように眉を下げた。
「先代辺境伯は……その……発言力のある方でしたので」
ああ。
出たな。これ。
前世でも聞いた。
「相手が役員だから」「古参だから」「触ると面倒だから」。
結果、現場が死ぬやつだ。
「つまり」
俺は、言葉を選びながら続けた。
「中央は、何年もグラスト領を把握していなかった、と」
「……結果的には」
結果的じゃない。構造的だ。
「では、現地に残っている資料は?」
「それも……」
ハロルドは、机の上に薄い紙束を置いた。
数枚。信じられないほど、少ない。
「こちらが、現在残っている全てです」
手に取って、目を通す。
・徴税額(合計のみ)
・兵の人数(推定)
・魔物被害(未報告)
……未報告。
「詳細は?」
「不明です」
「内訳は?」
「不明です」
「現地職員の名簿は?」
「……最新のものは」
不明。
不明。
不明。
心の奥で、じわじわと苛立ちが溜まっていく。
これだ。
この感覚。
仕事を振られる。
期限を切られる。
でも、判断に必要な材料は与えられない。
「前任の再建官は?」
「三名、派遣されました」
「成果は」
「……報告書は、残っておりません」
つまり、消えた。
逃げたのか、追い出されたのか、壊れたのか。
どれでも、驚かない。
「現地の状況について、口頭でも構いません。何か――」
「詳しいことは、我々も」
ハロルドは、はっきりと言った。
「正直に申し上げますと、中央としては、グラスト領は“失敗が確定している案件”です」
……ですよね。
「最低限の形式だけ整え、あとは結果次第。そういう扱いです」
淡々とした声だった。
悪意はない。ただ、諦めが染みついている。
俺は、深く息を吸った。
怒鳴りたい気持ちは、正直あった。
でも、ここで怒鳴っても、何も変わらない。
前世で、散々学んだ。
「分かりました」
俺は、紙束を揃えて言った。
「では、ひとつだけ教えてください」
「何でしょう」
「現地で、直接話を聞いてはいけない相手はいますか」
ハロルドは、目を瞬いた。
「……いえ」
「圧力をかけてくる人物は」
「それは……可能性としては」
「構いません」
俺は、即答した。
彼が少し驚いた顔をしたのを見て、内心で苦笑する。
圧力なら、慣れている。
資料がなくても、慣れている。
無茶振りも、慣れている。
――ただし。
「記録が残っていないなら」
俺は、静かに言った。
「これから残します。それだけです」
ハロルドは、何も言わなかった。
役所を出ると、夕方の風が冷たかった。
帝都より、少し荒い空気だ。
馬車に戻り、座席に沈み込む。
……やっぱりな。
心のどこかで、予想していた通りだった。
資料がない。責任の所在がない。過去の失敗が検証されていない。
だから、同じことが繰り返される。
「ゼロから、か」
呟いて、窓の外を見る。
道は、グラスト方面へと続いている。
舗装は途切れ、馬車は揺れ始めた。
方針なんて、まだ決められない。
決める材料がない。
でも、やることは一つだけ、はっきりした。
――聞き取りだ。
書類がないなら、人から聞く。
公式が信用できないなら、現場を見る。
誰が何をして、何が壊れて、誰が困っているのか。
それを、一つずつ拾う。
馬車が大きく揺れた。
その拍子に、机上でしか存在しなかった「グラスト領」が、少しだけ現実味を帯びた気がした。
俺は、紙束を膝に置き、指で押さえる。
ここから先は、もう誰も助けてくれない。
だからこそ――
「……ちゃんと、見よう」
それだけを胸に、馬車は辺境へ向かって進んでいった。
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