10. 迫りくる追手
我馬たち一行は、日が暮れる前になんとか次の川に辿り着くことができた。妖獣がいないことを確認して、素早く綺麗な川の水で喉を潤す。
今夜は十七夜だ。日が暮れた後、少しだけ欠けた明るい月が昇るまで、二時間ほどかかる。その間は太陽も月も無い、星明りだけの暗闇になるのだ。
「あまり時間がないから、パッパと食事の用意をしないとね。」
夕日はもう西の山影にかかり始めている。ゆっくりしていたら、あっという間に真っ暗になってしまうだろう。
我馬は麻袋から、昼の残りの前足と、後ろ足を一本取り出して、手早く皮を剥いで肉を切り出していく。そうして肉を焼き終わる頃には、あたりはすっかり闇に包まれていた。
「ふう、なんとか間に合ったか。」
「ほとんど何も見えません……」
いくら暗くても、明かりを灯すのは自殺行為だ。手探りで食べるしかない。視覚が閉ざされた分だけ、聴覚が鋭くなっているのだろう。黒鉄と白銀が肉をモシャモシャと食べる音が、やけに響いて聞こえる。
食事を終えて寛いていると、遠く離れたところで小さな灯が揺れているのに気づいた。
「追手でしょうか?」
「まず間違いないね。数が多いな、それに二手に分かれているみたいだ。」
「月が出てからになりそうですね、兄貴。」
月が出る前の暗闇の中で、わざわざ明かりを灯してまで動き回らなければならない理由が、この周囲にはまったく無い。つまり追手以外にはあり得ないのだ。
例えば近くに町があって、なんとかそこまでたどり着きたいというなら話はわかる。しかし山頂の領主の館から、山を下りて近くに町までは、町らしい町はどこにも無いのだ。一番近くの町でも、山道を一日、山を下りてから三日はかかる。
こんな状態でどうやって必要な食料を運び上げているのか、山の麓に拠点を一つ作るべきではないのか、我馬にはそれが不思議で仕方がない。
「牙馬さまは、まるで爺のようなことを言いますね。」
「かなり年より臭かったか。」
あまりに暗すぎて相手の表情は見えないが、我馬には美紗緒の笑顔が見えた気がした。
それにしても追手の灯りが多い気がする。三十から四十人はいるのではなかろうか。今からでも川を渡ったほうが良いかも知れないが、美紗緒はすでに限界に近いし、幼い汐風にも睡眠が必要だろう。それにこちらを威嚇するために、灯りを増やしているだけとも考えられる。
まあ、いざとなったら奥の手を出すだけだ。美紗緒や汐風と簡単に打ち合わせをした後、我馬はその時が来るまで体を休めることを選んだ。
時は少しさかのぼる。
奥女中の渚を追う二十余名の天城侍たちは、犬どもの進むに従って、寂し野に急ぎ足で踏み込んでいた。城館と近くの町に一騎づつ伝令を送ったが、戦力はまだまだ十分だ。
第一陣の六名が妖獣に食い散らかされていた中には、女物の着物の跡はどこにも無かった。その凄惨な現場を見てしまうと、渚が無事だとは到底思えない。
しかし犬の鼻は確かだ。たった半日前の新しい匂いを間違うことはあり得ない。犬どもはなにも躊躇することなく、匂いをたどって山を下り、そのまま足踏みすることなく、寂し野に分け入っていった。
犬どもの様子を見ても、渚が無事に山を下りたのは明らかだ。屈強の男どもですら全滅の憂き目にあうような辺境で、小娘がたった一人で山を下り、さらに妖獣の巣窟とされる寂し野に足を運ぶ。そのあまりの不自然さに、追手の中には不安が広がりつつあった。
そんなことがあり得るのか? 渚は妖怪か妖魔に取りつかれているのではないのか?
犬に従うままに川端に辿り着いた追手は、川岸に群がっている妖獣ワニーを見て足を止めた。ここで何かがあった。それは見ればわかる。しかしいったい何があったと言うのか。犬の怯え方を見ても、尋常ではないことがあったことはわかるが、それ以上のことはわからない。
妖獣たちが群がる肉塊の中には、やはり女物の着物の跡は見当たらなかった。女物どころか男物すらどこにもない。あの肉塊は人の物ではなく、妖獣か何かの物なのだ。ならば大量の妖獣が群がるほどのものを、誰かが屠ったということだ。
「女一人でこれを殺ったというのか?」
「まさか第一陣も?」
「おい、馬鹿なことを言うのはやめろ。」
「しかり。そんなことはあり得ん。」
この群れは妖獣の死骸に集まってきた、それは間違いない。いったい何匹いるのだろうか、この辺りの妖獣が全部集まっている、そう言っても間違いないような状況だ。いったいどれだけの妖獣がここで殺されたというのだろう。渚で無ければ、誰がやったというのか。渚には屈強の護衛がついている、そう考えるしかない。
落ち着きを取り戻した犬たちは新しい匂いを見つけ、その凄惨な現場から北に、川の上流の方へと追手を導いていった。町を目指すなら下流だ。なぜ反対方向の上流に行くのか。
犬たちが足を止めたのは、川幅は狭いものの流れが急で、人が渡るには向かない場所だった。しかも対岸には数匹の妖獣ワニーの姿が見える。
「ここを渡っただと?」
「あの岩を跳んで渡ったとでもいうのか?」
「狒々でもあるまいし、そんなことが出来るわけがなかろう。」
確かにいくつかの岩が川から突き出しているが、これを跳び伝っていくのは人どころか犬でも難しい。もちろん馬にはとてもじゃないが無理だ。
泳いで渡ったのだろうが、なぜわざわざ深くて流れの速い場所を選んだのか。腰ほどの深さしかない他の場所を選べば、泳がなくても渡れるはずなのだ。まったくもって意味がわからない。
護衛がついていれば出来る? そんなはずはない。妖怪変化でないとすれば、いったいどんな化け物ならばやってのけられるというのか。
追手の一行は少し川下の、浅くて流れが緩やかなところを選んで、川を歩いて渡ることになった。川の水は氷のように冷たく、腰までしか浸かっていないというのに、追手の全身から容赦なく体温を奪っていく。
なんとか全員が無事に渡り切ったが、冷え切った体を焚火で温めたくても、薪になりそうなものがない。太陽も西に大きく傾いていて、まったく暖かみを感じられない。ただ荒野を冷たい風が吹き抜けるばかりだ。
沈んでいく太陽を背に、追手たちは寂し野の荒野をさらに奥へと入っていった。人を寄せ付けようとしない、辺境の荒野である。ここからは完全に妖獣たちの縄張りなのだ。自分たちの命が太陽とともに沈んでいくような、どうしようもない不安が追手たちの心に浸透していった。
陽が西の山々に沈み、あたりが暗闇に包まれていく。
「松明に火をつけろ。このまま追うぞ!」
「隊長殿、明かりを灯すと相手に気取られるのでは?」
「しかり、ここは月の出まで小休止すべきですぞ。」
「何だ、貴様ら、怯えているのか? それでも天城侍か!」
「いや、怯えているなど……。」
相手が人外だと思って怯える者が多かったのは確かだが、それとは逆に、人外ならば自分が叩き斬って名を上げてやろうと考える者も少なくなかった。この髭の隊長などは後者の代表のようなものだ。
「妖獣だろうが、妖怪だろうが、斬れば死ぬのだ。恐れることなど無い。」
その言葉はただの蛮勇だったかも知れないが、それでも追手の者たちを奮い立たせるだけの力はあった。それに松明に火を付けて見ると、その暖かさで気力がよみがえってくる。
「おい、無駄に松明を……」
「まあ、良いではないか。」
暖を取るためだけに松明を無駄遣いする追手の者たちを見て、それをたしなめようとする髭の隊長を、もう一人の隊長が止めた。
「士気が下がり切っている。松明でそれが戻るなら安い物だ。」
「むむむ、軟弱な……。」
おそらく今夜の内に戦いになるだろう。言われてみれば、ここは士気を上げるべき時だ。内心では意気地の無い者どもと思いながらも、髭の隊長はそれに同意した。
「貴公の第二部隊が右から、俺の第三部隊は左から、挟み込むようにしよう。」
「うむ、承知した。」
簡単な打ち合わせも済ませ、二十余名の追手は二手に別れて暗闇の中をさらに突き進んでいく。
寂し野の荒野を小走りで進んできた追手は、川の流れる音に気がつき足を止めた。もしも渚が川を渡っていたら、今夜はもうこれ以上は追えないだろう。もしも渡っていなければ、ここが戦いの場になる。追手たちの心に緊張が走る。
少しだけ欠けた丸い月が、南の空に高々と昇っている。松明の火はとうの昔に消えているが、眩しいほどの月明りが辺りを充分に照らしていた。
そろそろ草木も眠る丑三つ時になろうというのに、追手たちの目には睡魔の影も形もない。軽く走るようにして進んできたことで、体は充分に温まりきっており、冷たい川を渡った後遺症はもうどこにも残っていない。
追手たちは隊長の合図に合わせて覆面をかぶると、左右に分かれてゆっくりと川に近づいていく。
「おい、いるぞ!」
「見えた、あそこだ!」
こちら側の川岸に動く人影を見いだして、追手たちはそれを取り囲むように足早で動き出した。
我馬たち一行の中で、最初に追手の姿に気づいたのは白銀だった。黒鉄もすぐにそれに気づくと、我馬を起こしにかかる。
「ありがとう、来たみたいだね。」
牙馬はすぐに起き上がり気配を探ると、どうやら二十人ぐらいの集団らしい。
ぐっすり眠り込んでいた美紗緒と汐風を起こし、軽く体を動かして固まった体をほぐしておく。
「追手ですか?」
「ああ、二十人ぐらいだね。予想どおりだ。」
二十人の敵と聞けば、とても逃げ切れるものではないと思うのが普通だが、それを聞いても美紗緒には恐怖は浮かんでこなかった。
何度かの戦いを見て、牙馬が強いことは知っている。その牙馬が二十人と予想して、この場所で迎え撃つと決めていたことも良くわかっている。美紗緒には何も不安に思うことは無かった。ただ我馬と、その仲間たちを信頼するだけだ。




