没落令嬢の静かな日常
石畳を叩く革靴の音が、人気のない通りに乾いた響きを落とす。リーナ=エルバは、袖口の綻んだ外套を両手で引き寄せるようにして、静かに屋敷への帰路を歩いていた。
冬の終わりを告げる冷たい風が、通りの隙間を抜けて頬を撫でてゆく。吐いた息は白く、そしてすぐに消える。かつては繁栄した貴族の屋敷も、今は老朽化が進み、周囲の住民すら距離を置くようになった。
扉を開けると、幼い弟と妹が小さな暖炉の前で身を寄せ合っていた。「おかえり、リーナ」「お姉ちゃん寒かったでしょ」と心配そうに顔を向ける二人に、リーナは笑みを浮かべて頭を撫でた。
「ただいま。寒かったけど……あなたたちの顔を見たら、すぐにあったかくなったわ」
彼女は十七の若さにして、家を守り、家族を養っていた。両親を失い、親戚たちにも見放され、残されたのは子供たちと、かろうじて暮らせるだけの廃れた屋敷。
日雇いの仕事を終えて、今日もまたなんとか夕食のパンとスープを手に入れた。それだけで十分。贅沢を望んだことなど一度もない。
(強くならなきゃ……私が折れたら、この子たちはどうなるの)
そう思い続けてきた。心を奮い立たせ、感情を切り離し、誰かに頼ることなど考えもしなかった。
その夜。扉をノックする音が響いた。
「……こんな時間に?」
戸惑いながら扉を開けると、見知らぬ男が一人、無表情のまま立っていた。背が高く、漆黒の外套に金の刺繍。騎士でもない、兵でもない、だがただ者ではない気配。
「リーナ=エルバ嬢で間違いないか」
「……はい。そうですが」
男は小さな封筒を差し出した。その印章を見て、リーナの背に冷たいものが走る。
――ヴァルデン公爵家の封蝋。
「お前に用がある。公爵閣下が、直接ご所望だ」
その瞬間、リーナの平穏な日々が終わった。
すべては、この日を境に始まる――氷のように冷たい、けれど狂おしいほど熱い執着の物語が。