締まらない話(仮)
懐かしい音色が聴こえてきた。
随分と懐かしい、柔らかなピアノの音色。
放課後の喧騒の中、ほんの僅かなはずの旋律が、不思議と克明に耳へと届く。
音に導かれるままに足を進めると、音楽室に辿り着いた。部屋の中に居るのは、一心にピアノを弾く少女。
それはきっと、出来心だったのだろう。気が付けば、僕は扉を開けてピアノの音色に聴き入っていた。
どれほどの時間そうしていただろうか。おそらくはそう長い時間では無かったはずだけれど、不意にピアノの音色が止まる。
「そんなところで何をしているのかな。この時間は、貸し切りにさせてもらっているのだけれど」
訝しむような、咎めるような、そんな声色。
どう答えたものかと逡巡したけれど、上手い言い訳が思いつくわけでも無く。
「……すみません、どうしてか懐かしさを感じてしまって。つい、聴き入っていました」
そう正直に答える他になかった。
「懐かしさ、とはまた妙な表現だね」
今度は純粋な疑問。先ほどよりも険の無い声になっているのは、一応は信じてくれたということだろうか。
「まあ、理由はなんであれ私のピアノを気に入ってくれた、と解釈するとしよう」
そして、彼女は何かが引っかかったかのように首を傾げた。
「ところで、以前どこかで会ったことがあるだろうか?」
まじまじと僕の顔を見つめるが、彼女とは初対面……のはず、だ。
「初めましてのはず、かな?」
何か記憶に引っかかりはあるものの、心当たりがあるわけでもなく。
「まあ、思い出せないのであれば、大した縁ではなかったのだろう」
答えが出ないと判断したのか、彼女は気にしないことにしたらしい。
「それで、どうするんだい?」
何を問われているのか分からず戸惑っていると、彼女はさらに言葉を続ける。
「このまま聞いているのであれば、その扉を閉めて適当なところに座ってもらいたいのだが」
そう告げられてようやく、自分が音楽室の扉を開け放ったままにしていることに気が付いた。
「えっと、その……迷惑では、ないんですか?」
「たまには聴衆が居るのも悪くないと思ってね。不審者ではあれど、私の音楽を気に入ってくれたというのであれば余計なこともしないだろう」
不審者。不審者か……。いや、否定出来る要素は無いのだけれど。
悩ましくはあるし、気まずくもある。それでも、何故か否と答える気にはならなかった。
「それじゃあ……拝聴させていただきます」
かしこまってそう言ってみると、彼女はどこか満足げに頷いた。
まもなく下校時刻となることを告げる放送が、演奏会の終わりを告げる。
「どうだったかな?」
感想を求める彼女だったが、気の利いた感想を言うことも出来ず。
「良かった、と……思います」
そう返すのが精一杯で、彼女には白けた眼を向けられてしまった。
「月並みな感想ですみません」
気まずげにそう言うと、彼女は一つため息を吐いた。
「まったくもってその通り。明日は、もう少し気の利いた感想を期待しているよ」
「明日もここで?」
そう確認してみれば、彼女は首肯した後、鍵を返却するからと言ってその場を去っていった。
少しばかり高揚した気持ちを抱えながら帰り着いた自宅で、父の帰りを待ちながら夕飯の用意をすること暫く。
父が帰ってきて、二人での夕食の時間となった。
「何かいいことでもあったのか?」
どこか上機嫌な様子の僕に気付いたらしく、父はそう問いかけてきた。
「実は……」
答えようとして、そのまま答えてはならないと気付き言いよどむ。
「新しくできた友達と、遊ぶ約束をしたから」
そう誤魔化したあとの会話は、あまりよく覚えていない。
気付けば僕は、自室でベッドに寝ころんでいた。
我が家にはいくつかのルールがある。
例えば、ぬいぐるみを持ち込まない。
例えば、紫色のものを持ち込まない。
例えば、ピアノの話をしてはいけない。
全て、かつての母が好んでいたものだ。
父は、母と離婚して以来、母を思い出させる物事に酷く不快感を示す。
ピアノはその最たるもので、ピアノ教室をしていた母の象徴でもあったのだろう。
練習用にと与えられていた電子ピアノもその時に手放すことになり、それ以来、ピアノを弾くことはなくなった。
捨てられたピアノを見る父がどこか忌々しげな眼をしていたのは、未だに記憶に焼き付いている。
幼い頃の自分には、ただ漠然と、母が何か悪い事をしたのだということしか分からなかったけれど。
今にして思えば、離婚の原因は母の浮気だったのだろう。
ピアノ教室の送迎に来ていた男の一人と、やけに親しくしていたのを覚えている。
そうして回想していた時、はたと思い出す。
「ああ、似ていたのか」
彼女を見た時の記憶の引っ掛かり。
似ていたのだ。あの男に送迎されていた少女に。
もちろん、あの時と今では年齢も違う。どこか似ているというだけで、同一人物である確証も無い。
ただ、あのピアノの音色に感じた懐かしさは、母の教え子だったからではないだろうか。
明日も、会う約束をしている。その時に確かめてしまおう。
そんなことを考えながらも、いつの間にか意識は微睡みに落ちていた。
翌日の放課後。昨日の音楽室の前に辿り着くと、それほど待つこともなく彼女が現れた。
「待たせてしまったようだね」
「いや、今来たところです」
「……それは狙ってやっているのかい?」
ただ事実を口にしただけではあったが、意図していなかっただけに妙に気恥しい。
昨日の終わり際のように白けた目を向けられると、どうにも居心地が悪かった。
「あーいや、その、すみません」
「狙ったわけではないようだから、もういいけれど」
それで、と彼女は続ける。
「来てくれたということは、今日も聴いていくんだろう?」
「良ければ、そのつもりです」
「こちらから誘ったんだ、断るようなことはしないさ」
そうして今日も、聴衆一人の演奏会が始まった。
結局その日も大した感想を言うことは出来ず、白い眼を向けられることになる。
「帰り、少し話をしてもいいかな」
「なんだい? あまり長くなるのは困るけれど、鍵を返す道すがらの会話くらいは構わないよ」
それ程長くなる予定もなく、それで構わないと返したものの。
「あー、その……」
話す内容は決まっていても、存外、話しの切り出し方に迷うものだということに気付かされる。
まさか、母の浮気相手の娘ですか、と聞くわけにも行かない。
ピアノ教室に通っていたか、と聞こうにも、ピアノをやっているのであればどこかには通っているだろう。
母の開いていたピアノ教室がなんという名前だったのか、考えてみれば記憶には残っていない。
経緯を語るにも、違った場合のことを考えると躊躇してしまう。
「どうしたんだい?」
「いや、聞きたいことはあったんですど、どう聞けばいいか考えていなかったなと」
「全くもって呆れた人だね。話したいことがあるなら、先に纏めておくべきだろうに」
「仰る通りです……」
「まあ、構わないけれどね。それは急ぐような話なのかい?」
どうだろう。急ぐかそうでないか、と聞かれれば……
「いや、急ぐ話では無い……はず?」
「それなら、考えがまとまった時にでも訊ねてくれればいいさ」
「すみません、そうさせてもらいます……」
自分の考えの無さに恥じ入っていると、今度は彼女の方から問いかけがあった。
「私からも一ついいかい?」
「えっと、なんでしょう」
「それだよ、それ」
「えーっと……?」
彼女の示すそれが、何を意味しているのかが分からない。
思案していると、焦れたように彼女は答えを口にした。
「多分、同学年だろう? もっと砕けた話し方でもいいだろうに」
「あー、それは……うん、そうだね」
初対面が初対面だったので、いつの間にか敬語気味に話す癖がついていたらしい。
言葉遣いを改めると、どこか楽しそうにほほ笑んだ。
「うん、その方が私も話しやすい」
同学年に敬語を使われる、というのは確かに話しにくいかもしれない。
そう考えていると、ふと気になることが一つ。
「話し方と言えば、君も少し変わった話し方だよね?」
「ああ、私の話し方かい? 今は再婚しているけれど、元々は父子家庭で――
放課後の演奏会がしばらく続いた、ある日のこと。
その日の彼女は、いつもとは随分と様子が違った。
「その、大丈……夫?」
その問いには答えず、ジェスチャーだけで音楽室へと入るよう彼女が促す。
普段はピアノへと向かう彼女は、今日は僕の隣に腰を下ろした。
「少し、話しを聞いてくれるかい」
「僕で良いなら」
ありがとう。そう小さく呟いて、彼女はぽつぽつと事情を話し始めた。
それは、どこかで聞いたような話だった。
母親が浮気をしていて、それで父親と険悪になった。
浮気相手は、開いているピアノ教室に通っている子供の父親。
それ以来、家での練習が出来ないために、学校でピアノを借りていたのだという。
「元々、父は音楽系の進路には否定的だったんだ。
それで、学校で練習していることを知られて大喧嘩というわけだ」
今まではあくまでも進路の話でしかなかったが、ピアノをやることそのものを否定されたことが決定的だったらしい。
「ピアノの道は、諦めたくない?」
そう確認するように問うと、小さく頷いた。
「多分、私は今人生の岐路に居るんだろう。
父の言うとおりに音楽の道を諦めたら、きっと、私はこれから先ピアノと縁のない生活を送ることになる。それは嫌なんだ」
嗚咽を漏らす彼女を抱きしめると、驚いた様子ではあれど拒絶されることは無かった。
「……ありがとう、少し落ち着いた」
「どういたしまして?」
疑問形で答えると、白けた目を向けられてしまった。
「まったくもって呆れたやつだね。そこはもう少し、気の利いたセリフを言うべきところだろうに」
気まずさを誤魔化すように目を逸らしていると、呆れたようにため息をついた。
ここ暫くのやり取りで出来た、これ以上は引き摺らないの合図だ。
「そ、それで、何か手伝えることはある?」
「いや、これはどこまで行っても私の問題だからね。
いつものように演奏会を聞いてくれて、私が落ち込んだ時には……その、なんだ。今日みたいに慰めてくれれば、それで十分だよ」
後半については気恥ずかしかったのだろうか。
こほん、と咳ばらいをして、誤魔化すように彼女は話を変えた。
「はあ……しかし、落ち着いたらあの女に腹が立ってきたよ。
あれでアメジストが好きなのよ、なんてのたまえるのはどういう神経をしているのだか」
「ああ、『高貴、誠実、真実の愛。とても素敵な言葉が詰まっているの』だったっけ」
「その通り。まるで真逆を行くような……なんでそれを?」
よく母が言っていた言葉だったが、今にして思えばあれほど滑稽なこともないように思える。
「えーっと……前に、質問しようとして質問できなかった話、覚えてる?」
「ああ、どう聞けばいいか考えてなかった、というやつかい?」
「その話なんだけど、僕の母親は音楽教室をやっていて、そこの生徒の保護者と浮気したことが原因で離婚したんだよね」
冗談だろう、と驚きと困惑がないまぜになった表情を浮かべる彼女に、決定的な言葉を伝える。
「多分、僕の母親は、今は君の母親をやってるみたい」
「それはその……なんというか……ああ、それで見覚えがあったのか。いやそうじゃなくて……」
何を言えばいいのかわからず、答えが出たけど今じゃない、とでも言いたげに。
先ほどの空気はどこへやら。いくつかの言葉を零した後に、形容し難い空気が二人の間に漂う。
「……どうするんだい、この空気。まさかこのまま話を終わらせる気かい?」
「……どうにもならないんじゃないかなぁ」
締まらない返事をする僕に、彼女はいつもの白い眼を向けるのだった。